あいのうた
縁側で洗濯物を畳んでいると、知らないうちに蒼生さんも少し離れたところで本を読んでいた。
いつ見てもなんだか涼しそうだな。
もう夏も終わりとはいえ、まだ涼しいとは言えない。今は夕方近くなっているから幾分か涼しさは感じられるが。
訳あってこの家でシェアハウスを始めて一年。
私のここでの役割はお母さん。
パートをしながら掃除、洗濯、食事の準備。
長く働くことのできない私に、この家も、この町もとても優しい。
「瑞妃、この後の予定は?」
読書を止めて、乾いたタオルを一枚手にする。
粗野な雰囲気なのに意外にも丁寧に衣類を畳む姿は微笑ましい。
「この後は少し休憩してから夕飯の準備です。」
蒼生さんはそう、と小さく呟くと次の衣類に手を伸ばした。
初めの頃は無愛想な蒼生さんを恐いと思っていた。
でも、いつでも静かに私と向き合ってくれた。
不安しかなかったこの無言の時間も、ふとした瞬間に二人きりになるこの時間も、今はとても好ましかった。
冗談なのか本気なのかわからない彼の言葉に、行動に、心乱されたのは一度や二度ではない。
そう思う理由は既にわかっているが、まだ一歩踏み出すのは戸惑われた。
私は今もまだ臆病者のままだ。
最後の一枚を畳み終え、洗濯物の山に重ねたところで膝に重みを感じた。
え……
「ちょ、あ、蒼生さん!」
私の膝の上には蒼生さんの頭がちょこんと乗せられていた。
焦って腰を浮かそうとすると、頭を乗せたまま腰に腕を回されてそれを制された。
頬に熱が上るのを感じる。
「少し、このままで。」
有無を言わさぬ静かな声。
「で、でも…」
「いいの?了承しないとずっとこのままの体勢だよ。ま、俺はいいんだけど。」
それは困る。
服とエプロン越しとは言え、蒼生さんの顔がなんとも危うい位置にある。
「わ、わかりました。だから、あの、腰に手を回さないでください!」
「そう、残念。」
そう言って腰の拘束を解き、そっと目を瞑り膝の上で仰向けになる。
それきり蒼生さんは黙ってしまった。
夕暮れの風が軒下の風鈴を鳴らす。
蚊取り線香の細い煙が静かにくゆる。
橙から薄紫に染まる空にはもう赤蜻蛉が舞い始めた。
私は体の力を抜いて、蒼生さんの顔をそっと覗く。
眠っているのか、規則正しい呼吸が聞こえる。
そっと瞼にかかった前髪を手櫛でなおした。
前に一度だけ触れた蒼生さんの髪。
さらさらと、けれど女性のそれとは異なる質感。
もう一度触れたくて、そっと手を伸ばした。
「そんなことしてると襲うよ。」
涼やかな、けれど射るような目が私を捕らえる。
私の右手は空中に縫い止められた。
右手だけではなく、身体が動かない。
蒼生さんの視線から目を逸らせない。
ふわりとした感触を指先に感じた。
体温が一気に上昇する。
「あ、」
考える間もなく、次に手のひら。
手首。
唇の暖かく柔らかな感触が徐々に上へ上っていく。
指先から熱が広がっていく。
私は急に恐くなって、ぎゅっと目を閉じた。
ふいにそのあたたかな感触が消えた。
同時に少し強引に手を引かれた。
膝の重みもなくなった。
「本当に襲うよ。」
驚くほど近い位置で蒼生さんの声が響いた。
瞼に柔らかな感触。
驚いて目を開ける。
目の前には、あの涼やかな瞳。
意地悪に私を覗き込む。
今、私はどんな顔をしているんだろう。
きっと目元も頬も真っ赤に染まっているに違いない。
「ここにいればいい。」
もう、いいのかもしれない。
許されていいのかもしれない。
また、背中を押してくれたのは蒼生さんだった。
逃げるのはやめよう。
私は私の幸せを夢見ていいんだ。
だって、私は今、こんなにも幸せだ。
「私、ここにいたい。」
夏が終わる。
季節が巡る。