第八話 戻らない季節
「ルカねえさん、耳寄り情報。」
品川事件の翌朝、早朝からの報道に世間が騒然とする中、結城と二人で天界人羽教、地の塩の教会の監視を続けていた吾妻の携帯に、時田から着信があった。作業の手を止め、電話の相手をする。
「何?もしかして?」
「そ、スナイパーに関する情報。」
「いくら?」
「これは無料。もう、教誨師ちゃんのパパや森田にも伝えてある情報だし、サービスしとくよ。」
「ありがと。で?」
「うん、かいつまんで言うと、実は夕べ、気になって品川まで行ってみたのね。それで、お宅の通信傍受しつつ、グランドコモンズの方で張ってたら、のこのこ出てきたヤツがいたから尾行してみたってわけ。まあ、けっこうな怪我してたみたいだったから周りにそれほど注意払えないみたいで、尾行は楽勝だったけどね。で、そのターゲットはとある開業医のとこに朝っぱらから寄った後、今から一時間くらい前に、地の塩の教会の麻布集会所に入ってったよ。」
「ってことは……」
「そ、地の塩が最近雇った元組織のスナイパーの一人でほぼ間違いなし。元々地の塩に荒事担当のスタッフはいないから。たぶんもう、森田が九条ファイルを元に、人物の特定済ませてるんじゃないかな。後でそっちにも画像送るから、気になったら確認してみなよ。」
「そうね。」
「あ、念のためだけど、ねえさんも公安も、手出しは無用だよ。この件は、森田と相馬家に任せてやって。」
「……そうね。今の話、聞かなかったことにするわ。」
「うん、それがいい。ま、そんなことだから、ねえさんあんまり気にしちゃだめだよ。」
「ありが、ん?うるさい。思わずお礼言いそうになっちゃったじゃない。」
「くっくっく。まあ、それじゃね。」
「ええ。どうもありがとう。」
通話を終えると、結城舞が怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。
「夕べのスナイパー、身元が割れたらしいわ。センターの方で突き止めたみたい。」
「そうなんですか。」
結城もほっとした笑みを浮かべる。
「まずはこれで一つ、片づきましたね。後は、人羽教の情報漏れに集中して作業できるってことですよね?」
「そうね、あとひとがんばりして、自動アラートの仕込みが一通り終わったら、交替でお昼休憩にしようか。」
「それもいいですけど、一緒にかつ花さんのカツ丼取りません?やたらおなか空いてるんですけどあたし。」
「舞ちゃん大好き。グッドアイデアよ~」
吾妻はそう言うと、いそいそと携帯電話を取り出した。
北嶋リヒトがほぼ一年中社内に留まるようになったのには、たいした理由はない。あえて言えば、最初はただ忙しかったから自宅に帰らなかっただけなのだが、それが、いつの間にかここに住み着くような形になって、もう何年か経っていた。昨夜も北嶋は、公安から聞いていたハヌルの攻撃予測時間帯の二時間前、午後一〇時には、週末出勤シフトの上に残業していた社員全員をあれこれ理由を付けて帰宅させ、しかし自身はその後もオフィスの社長用のパーティション内で一人、自社のサーバーに潜っていた。つまり、地上で銃撃戦が始まる前も、そして銃撃戦の最中も、北嶋はいつも通り、オーセンティック・グローブ社本部のオフィスに留まっていたのだ。
北嶋が潜っていたのは外向けのサービスを載せたサーバーではなく、主に社内LANやメールサーバーの機能を載せた、社内向けサーバーだ。自社のサーバーに社の社長がわざわざ潜るというのもおかしな話のようだが、当然ながら社長自身が全システムの管理者権限を持つ必要もなく、ユニットごとに複数の担当者が管理を行っている。だから、社内のサーバーとは言え、最低限のハッキングのスキルなくしては全領域を閲覧できないのだった。
(責任者にパスを教えてもらっておけばいいんだろうが、今夜のは裏切り者探しだからな。それに、最終管理者権限なんか作ったら、自分の仕事が増えてしまうし。)
そう、自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいて、なぜかほほえみを浮かべながら面倒な作業に臨んでいる。
(LANだけじゃなくて無線LANの接続時間帯のログも残してはいるが、携帯メールだと拾えないか……。そもそも電話されてたらどうにもならないわけだが。まあでも、うちはシステム屋揃いというわけでもないし、うっかり知らずに足の着く方法で……ん?これか……。一ヶ月近く前、こいつ堂々と社内LANの端末から地の塩のアカウントにメール出してる?)
画面上には社内からのメールの発信記録が表示されているが、その中で仕事上の取引のないアカウントに宛てたメール、つまりは私用メールの可能性が高いものを抜き出し、さらに競合宗教団体等のアカウント宛のものをはじき出す、そうした簡単な手順でもって、あっさり見つけたのがその記録だった。確認したが、それ以外に特に怪しいログはない。
(確定か。……最初から他教団のアカウントで検索すればよかったのかよ!)
北嶋リヒトは、思い切り机を蹴飛ばそうとして、止めた。その机に載っているパソコンたちにはなんの罪もないからだ。少し大きく、息を吐く。
(スパイは秘書課の竹田みゆき、か……。やはり田舎者はだめか?ほんとだったとしたら、地の塩の人間に染められたんだろうが。入社前か、後かは分からないけれども……。)
世間では美形教祖と言われたりイケメン社長と言われたりもする北嶋の顔が、悔しそうに歪む。何か自分の恋人でも奪われたような表情だ。
(ん?だが、なぜ地の塩?ハヌルじゃないのか?……いずれにしても、公安課長が最初に来たときに、案内したのも彼女だったな。彼女の立場なら、けっこうな情報に触れられるし。外部が狙いを付けるなら、やはりああいう人材だろう。)
北嶋が探していたのは、ここしばらく続いた外部からのハッキング――公安課長によればそれは韓国の教団ハヌルの工作だという――への対策の際に、社内から妨害工作を行った人間だ。セキュリティ班に対応させてもまた突破される、ということが二・三度あったため、北嶋自ら確認したところ、一度当てたはずのセキュリティ対策が、何者かにキャンセルされた形跡があった。外部からのハッキングやクラッキングではなく、単純に新しく当てたセキュリティ対策のアンインストールによるものだったため、内部からの妨害工作だと判断した。このことはまだ、社員たちには告げていない。
それで今夜、公安課長の依頼にも従わず、一人オフィスに残り、手間のかかる特定作業を行っていたということになる。
(部外者をここに入れるのは、現状問題がある。特に公安にはサイバーテロ班もあるというし、俺がいないときにうちのからくりとかを探られてもな。それに今週は、部屋の方にはねえさんも……。だから、餌になりますと突っぱねてはみたが、どうだろう……。ほんとに餌になるかもしれないなこれは……。)
世間に流布している北嶋リヒト像とは明らかにずれのある、しぶとく現実的な思考が次々と展開される。確かに、外から漏れ聞こえる銃撃戦の音を聞けば、たいていの日本人は平常心など保てないだろうが、その点はリーダーとしてはそこそこの落ち着きぶりと言えるかもしれない。だが、それにしても普通すぎる。宗教的なカリスマなどない。
時折週刊誌等で指摘されるように、天界人羽教が宗教法人として成立するためには、北嶋リヒトの実姉、北嶋ルーナのプロデュース力が不可欠だった。リヒト自身では身に纏いきれないカリスマや神秘性といったものを、この姉は、いとも簡単に具現させた。イベントでの信者たちの熱狂も、新規の信者の順調な獲得も、結局はルーナの力によるものだと、リヒトは思っている。リヒトの実力や熱意はむしろ、オーセンティック・グローブの経営に注がれていた。
やがて、銃撃の音もとうに止んだ明け方近く。その夜の作業を終えたリヒトは、ルーナの眠る自らのベッドに潜り込んだ。
目覚めたのは、いつものように午前八時を過ぎた頃だった。起き抜けに求めてくるルーナのせいで、短い眠りが破られたのだった。
「ねえさん、おはよう。」
そう言われたルーナは、うれしそうに一度、顔を上げて微笑みを浮かべ、そしてまた、すぐにいつもの動作に戻った。これもまたいつものように、リヒトが果てるまでは解放されないきまりなのだ。
リモコンに手を伸ばし、テレビをつける。当然ながらたいていの局は、このインターシティを舞台とした、未明の銃撃戦を臨時ニュースとして流している。早朝、自分が眠っているほんの数時間の間に行われた、警察庁と警視庁の合同記者会見の模様も繰り返し流される。
北嶋リヒトはザッピングしながら、ヘリからの空撮が中継されている局を探した。まさに今、全国ネットで中継されているそのビルの最上階で、自分はルーナに求められている。そんなことを考えていたら、迂闊にも昂ぶってしまった。
「ん、」
ルーナが小さな声を上げた。そしてその体勢のまま、今朝はどうしたの?という顔で視線を寄越すので、リヒトはテレビの画面を指さした。
「今ここ、全国ネットだよ、ねえさん。そう思ったら、少し興奮したらしい。」
ルーナはようやく納得したようにうなずき、リヒトから口を離すと、眼を閉じ、右手の指先を左右の鎖骨のあいだ辺りにそっと触れるようにしながら、こくりと喉を鳴らした。
(匿名のテロ情報で警戒していたところ、武装集団と遭遇、交戦状態に、か。公安、あくまで偶然を装うつもりね。確かにこれは、外交的な火種にも触れているし……。いずれにしても、やがてはハヌルの名と、人羽教の名は出さなければならないでしょうけれど、その時期を可能な限りディレイさせる、ということかしら。)
リヒトは、ルーナの視線に険しいものがあるのに気付いたが、それがテレビの画面に向けてのものだと思い、
「実はけっこう重大な局面ってやつだったのかな?夕べ。」
そう、あえて無邪気に笑って見せた。それを聞いてルーナが一言返す。
「社員さんたち、不安がっていると思うわ。今日は早くオフィスに出てあげなさい。」
こうして、オーセンティック・グローブのオフィスにも月曜の朝がやってきた。シャワーもそこそこに身支度を整えオフィスに出てみると、ルーナの言うとおり、事件を知って大半の社員が早くに出社していたようだ。
「社長、ご無事でしたか。」
そう、声をかけてくる者もあった。そこへ総務担当のスタッフが駆けより、このオフィスに勤める社員全員の無事を確認した、と告げた。北嶋リヒトは頷き、オフィスのスタッフ全員に向かって軽く手を挙げてから、静かに話しかける。
「この事件の詳細はまだ、はっきりしないが、幸いなことに夕べはあの時間、誰も残業していなかった。今もらった報告でも、みんな無事だそうだ。そして、残っていたオレも無事だ。これだけの状況の中、何が起こっても不思議はなかったわけだが、結局のところ、我々は何も失っていない。これを奇跡と呼ぶのは簡単だが、地上で戦ってくださった警察の方々の力も、忘れてはならない。感謝を、そしてまた、新しい週の始まりだ。みんな、今週も、よろしく頼む。」
「はい。」
揃った、淀みのない声が返る。そこには、教祖であり同時に一企業体を率いる男、北嶋リヒトがいた。
「秘書課と広報課のスタッフは五分後から合同で臨時ミーティング、オレのところに集まってくれ。」
そう告げると、北嶋は自分のパーティションに入り、いつものように執務を開始した。
私服姿で腕を組んで歩くと、二人はまるで恋人同士だった。麻布十番から六本木ヒルズ方面に向かう緩やかな上り坂を、二人は歩いていた。平日ではあるが、見回せば彼らのような二人連れもちらほら見られる。そんな、春の日であった。
「お前には、なんて言って謝ったらいいか、分からない。」
ぽつりと、男の方が言った。
「旦那様にはなんて?」
「申し訳ありませんでした、としか、言えなかった。」
「そしたら、どうだった?」
「これは、娘の判断ミスだ、と……。」
水曜の昼近い時間帯、二人は昼食を摂る場所を吟味する様子を演じながら歩いていた。だが、会話の内容は全くそれにそぐわないものだった。
「お前に落ち度はない、相馬家を継ぐ者にはそれなりの技量と覚悟が要る、それが娘にはまだ、足りなかったということだ、そう、おっしゃった。そして、だが一つだけ、頼みがあると。」
「そうか。なら、あたしに対しては謝る必要はないな。あたしは、旦那様の判断を信じる。」
「済まない。いや、自分のふがいなさにうんざりしているだけなのかもしれない。いくらデーモンビジョンを装着していたとは言え、戦場で照準されて気付かないようじゃ、な。」
「あいつは、視えるスナイパーだったんだろ?きっと殺気だってコントロールできるんだろうさ。」
女の方が、少し顎をしゃくるような感じで、そう言った。その視線のだいぶ先には、一人の男の姿がある。
「ああ。そうかもな。……さて、そろそろ行くか。」
「ええ。」
少し脚を引きずるようにして歩く前方の男が、この辺りでは最も人通りの少ない部類の路地に入ったことを確認して、男と女は初めて絡めた腕をほどいた。男の方が自然な感じで手を振る。傍目には、ちょっとした用事を思いついた男の方が女を置いて小走りに駆けだした、といった状況に映っただろう。しかし実際は、男は他の通行人の死角を計算しながらサングラスとキャップを身につけ、数十メートルの距離を音もなく、あっと言う間に詰めた。予測どおり、前を歩いていた男と追いついた男以外、辺りに彼ら二人以外の人影はない。間を置かず、そのまま背後から声をかける。
「あんた、倉田さんだろ?あんたには死んでもらうことになった。」
「く、口封じか?」
倉田と呼ばれた男は、振り返りざまそう問い、覚束ない足取りで後ずさろうとした。サングラスの男は片頬で笑った。
「答えると思うか?」
そう言われて、男の方も、さすがにふっと笑った。笑って銃を抜こうとしたが、サングラスの男に左の腿を思い切り蹴られた。あっさりと男は地面に倒れる。
「そこ、怪我してるんだろ?知ってるぜ。あと、脇腹もだったか?」
靴のつま先で、脇腹にも蹴りを入れる。
「ぐっ、……くそ、やっぱりお前、」
「死にな。」
サングラスの男がサイレンサー付きの拳銃を男の額に突きつけようとした瞬間、路地の角から女の悲鳴が聞こえた。男は銃を引いて駆け出すと、その場に立ちすくんでいた女を軽く突き飛ばして逃走した。よろめいて地面に手は着いたが、尻餅をつく寸前で踏ん張った女が、ゆさゆさと胸を揺らしながら駆け寄る。
「あ、あ、あの、あ、大丈夫ですか?ああ、出血もされてるじゃないですか、今すぐ救急車を。それとも警察でしょうか。」
「大丈夫だ。気にせず行ってくれ。」
そう、男は答えた。だが女の方はあわわわと言いながらおろおろしている。その女のせいで、自分を襲った男の行方は早々に見失ってしまった。
く、と少しだけ歯を食いしばって、倒れていた男は立ち上がった。
「お嬢さん、自分は警察とは相性が悪い。お気遣いはありがたいが、このまま立ち去らしてもらう。」
「ええ?ああ、はあ、……。あの、どうかお大事になさって……」
ふ、と微笑みのような表情を浮かべ、手負いの男はさらに脚を引きずりながら歩き去った。サングラスの男の蹴りで、傷口が開いてしまったらしい。
(やつら、話が違うではないか……。まあいい、そっちがその気なら、だ。)
怒りと憎悪の入り交じった形相で、男は元来た道を引き返す。元来た、麻布の方向へ。
「これで、ひとまず仕込みは完了だな。」
サングラスとキャップを外した森田ケイが、数十メートルの間隔を空けて倉田の様子を窺っていた青木はるみの隣に立ち、小声で声をかける。
「あいつ、期待通りに動いてくれるかね。」
「大丈夫だろ。それに、何も起こらなければ、次の手を考えるだけさ。」
「そうだね。……ところで、まじめにお昼食べてくかい?」
にっこりと微笑んで、青木が森田の腕に自分の右手を絡めてきた。
「そうだな……。でもお前、付き添いは?」
「二時に交替の予定。それまで今日は、親子水入らずってことになってるんだ。旦那様もさすがに今週くらいはなるべく病室に、とお考えらしい。」
「そうか。それじゃ、その辺で適当に、パスタでも食べていくか。」
「そうね。あと、帰りに浪花屋さんでたい焼きを。」
「おみやげ、だな。」
「ええ。病院にいる、甘党の親子へのね。」
二人はどこから見ても、ほんとうの恋人同士のようであった。
同じ水曜日の、朝。事件直後から監視を続けていた天界人羽教からの情報漏れの件で、吾妻と結城はようやく、調査結果をとりまとめ、課長に提出した。結局のところ、人羽教側のサーバーからはめぼしい情報は得られなかったが、ハヌルのハックツールを長谷川里香子に凶悪に改造してもらい、地の塩の教会のメール関連のサーバーを完全に掌握した後、事件前後の着信記録から、該当する発信元を特定した。真っ当なメールの着信履歴だけでなく膨大なスパムメールの履歴も残っている。それらの発信アカウントをデータベースと突き合わせて一気に捌いた上で、事件前後の決定的なタイミングで数回着信したアドレスを抽出した。このアドレスに返信したアドレスも、すでに把握している。
「自分はこれから、品川に行ってくる。ご苦労だった。今日は定時で上がれ。」
「はい。いってらっしゃいませ。」
丸の内から品川に移動する車内で、公安課長杉田は、綾川睦月からの連絡を受けた。東京湾で、イミョンヒの水死体があがったという。詳細はまだ不明だが、目立つ外傷はなし、死後一〇日前後、現在遺留品を警視庁が確認中、とのことだった。
(死後、一〇日前後、か。水原君の告げたとおり、我々もハヌルも、死人に踊らされたということだな。)
杉田はそう、心の内でつぶやいた。
(問題はこの件を、地の塩がどこまで掌握していたかということだ。イミョンヒが死んでいることを把握していなければ、そうそうハヌルを焚きつけることはできなかったはずだからな……。さてそれは、まずはオーセンティック・グローブの秘書に訊くことにしようか。)
事件解決が近づき、だが、杉田の心内にはずしりと重いものがわだかまった。
イミョンヒの水死体は、IDプレートとコインロッカーの鍵を通したチェーンを首にかけていた。腰回りにはおそらく重石を結び付けたであろうロープが絡んでいたが、波や潮流に揺られるうちに重石が抜け落ちて、ようやく死体が浮上したものらしい。
コインロッカーは秋葉原駅のもので、長期間放置された荷物の回収・処分期限ぎりぎりで、警視庁が押収した。出てきたのは、短い遺書が記された手帳と、家族の写真が一枚入った、小さなバッグ一つだった。
「お父様、お母様。
明姫は、不孝の娘です。明姫は、竹之内さんを本気で愛しておりました。竹之内さんも、日本人でありながら、ハヌルの活動に協力してくださっていたのですから、きっと、私のことを、愛してくださっていたのだと、思います。
その竹之内さんを、今日、明姫は殺します。殺して、明姫も死ぬつもりです。
お父様のお決めになった婚約者とではなく、明姫は、竹之内さんと結婚したかった。ハヌルのためではなく、自分の心に従って、愛する人と結婚したかった。でもそれはもう、できません。だから、死にます。二人で、死にます。
わがままな娘をお許しください。
さようなら。
三月七日
不孝の娘、明姫より。」
遺書にはそう、記されていた。写真は、イミョンヒが日本に留学する直前に、仁川国際空港で写された、家族三人の写真であった。
翌三月一九日の新聞各紙は、品川事件と関わりのある人物が東京湾にて水死体で発見されたこと、および推定される死亡時期から、武装集団の奪還対象であったこの人物が事件当夜、すでに死亡していたものと思われるという警視庁の公式の発表を伝えた。品川事件と呼ばれるこの大きな事件が、一組の父と娘の愛と信念に関わる個人的な事情をきっかけとしたことは、だが、基本的には公にされなかった。イミョンヒの親族、そしてハヌルの関係者には真実が告げられたが、それはその件を納得の上、適正な処分に従わせるためでもあった。
そうした記事の傍らに、地の塩の教会麻布集会所に何者かが押し入り銃を乱射、牧師他数名を射殺して逃亡したという事件も、伝えられていた。ふだんであれば大きな事件として報道されるはずのこの事件も、全国版で伝えられたのはこの日ばかりで、翌日以降は品川事件の陰に霞み、大きく報道されることはなかった。
「森田、昨日は手間をかけたな。」
「いえ、自分にはあれくらいのことしか、」
「そう、気にするな。あいつは確かに私のたった一人の愛娘だが、お前も私の重要な部下なのだ。二人とも、生きて帰ってくれた、それでいいんだ。スナイパーの件は、公安もセンターも確認できていなかった。その中でお前は、ベストを尽くしてくれた。そう、考えている。」
「は、ありがとうございます。ですが……」
「くどいぞ。それ以上は、言うな。……まあ、そんな話はさておきだ。今日は、娘を見舞ってやってくれるか?私は二時くらいに行くことになっているが、父娘二人というのも、いざとなると気詰まりでな。しかも何か話そうとすると、つい説教になってしまう。一緒に行ってもらえれば助かるんだが。」
意外なほど正直に、照れくさそうな表情を浮かべながら、相馬嶺一郎はそう言った。
「承知いたしました。ご一緒いたします。」
「そうか。ありがとう。久しぶりにお前の車で行くことにしよう。そう言えばあいつ、昨日は体を起こせたんだ。もちろんまだ、介助は要るがね。」
「そうですか。……正直、ほっといたしました。」
「うむ。それじゃ、時間になったら車を回してくれ。」
「かしこまりました。失礼いたします。」
今日は朝から、はるみさんが来てくれている。相馬ひなは、こんなに暇なのもずいぶん久しぶりの気がする、と思いながら、病院の個室のベッドの上で、ぼんやりと考え事をしていた。
(結局、スナイパーはどこの勢力だったんだろう。昨日お父様にうかがったら、あとで森田から説明させると言われたきりで……。あれがもうちょっと殺傷能力の高い弾丸を使う銃だったら、あたしの左肩、どうなってたのかしら。SG550シリーズくらいでよかったと言うべきなのはその通りなんだろうけど。それ以上のクラスだと、肩ごと持ってかれてたかもなあ……。)
すっかり手持ち無沙汰のようすで、わざわざ共用の水道まで花瓶の水を換えに行ったはるみさんが戻ってくるのを待って、訊いてみた。
「はるみさんは、今回のスナイパーの件、何か知ってるの?昨日は昼間、麻布に出かけてたって話だったけど。」
「はい……。詳しくは森田が説明するはずですが。あ、そうそう、これをどうぞ。」
そう言って渡されたのは、今朝の新聞だった。はるみさんが、なぜだか少しだけいたずらっ子のような笑みを浮かべて、とある記事を指さす。
「ま、まさかこれ、あなたたちが?」
教誨師の顔が青ざめる。
「あたしのせいで、あなたたちが手を汚すなんて……。」
「ああ、お嬢様、申し訳ございません。わたくしたちは誰も、手を下しておりません。ご安心ください。」
「もう、脅かさないでよ!……あたしこれ以上誰かに迷惑かけたくない……」
今にも泣き出しそうな表情で、教誨師は訴えた。事件後、相馬ひなはさすがに不安定になっている部分がある。しまった、と思い、青木はるみは深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。その事件は、あの事件で雇われたスナイパーが、逆上して関係者に報復した、というセッティングになっております。わたくしと森田とで少し細工をしただけで、我々は誰も手を汚してはおりません。詳しくは……」
唐突に病室の内線電話の呼び出し音が鳴り響いた。青木が立ち上がり、応対する。
「お嬢様、クラスのお友達がお一人、お見えになっているそうですが、お通ししても?」
「ええ、よろしくお願いします。」
振り返り、尋ねてみると、ひなの表情はもう、平静な様子に戻っており、いつもの様子で返事が返ってきた。少しだけほっとしつつ、青木は電話の相手にひなの意向を伝え、電話を切った。
「地の塩の件は、あとで森田から説明させます。それと、お嬢様のお怪我は……」
「大丈夫。えーと、たまたま知り合いのところにお呼ばれしたため家の者と品川に出かけていた、帰り際、桜がもう咲いていないかという話になり、少しだけ、深夜の散歩をしてから帰宅しようとしたら事件に巻き込まれた、ってことでいいのよね?」
「はい。」
やがて、ノックの音がした。青木は、相馬ひなが小学生の頃から仕えているが、ひなから自分の友達だという人物を紹介された記憶はない。このクラスメイトは、相馬ひなとはどういう関係なのだろうと、友達ということでいいのだろうかと、そんなことを考えつつ、ドアを開け、病室に招き入れようとした。だが、そのクラスメイトは、入り口のところで、少し緊張した面もちで突っ立っている。
「こんにちは。あ、あたし、吉田紗幸と申します。担任の井上先生に頼まれて……」
「あ、委員長、大丈夫、そのまま入ってきて。」
ベッドの上からひなが声をかける。
「あ、それじゃ、あの、」
「どうぞ。」
「はい。」
ようやく、吉田紗幸と名乗った少女はにっこりと微笑むと、病室の中に入ってきた。桜ヶ丘の制服に、腰のくびれ近くまであるロングヘア、校則の厳しい桜ヶ丘生だから、髪色はナチュラルな黒だ。前髪は眉下くらいだが、両サイドは耳の下あたりで切り揃えられている。身長は、相馬ひなよりも十センチ以上高そうだが、かなり細身だ。全体的に地味な印象の少女だが、顔の造り等は整っており、服装やメイクによっては人目を惹く美人に化けるかもしれない、そんなことを青木は思った。
「あれ?眼鏡は?」
そうひなが訊くと、なぜだか紗幸は真っ赤になり、小声で答えた。
「あの、日曜から、コンタクトにしたんだ……。変かな?」
「ううん、かわいいかも。眼鏡も似合ってたけど、なにげに睫毛も長いんだし、コンタクト、いいんじゃない?」
そのひなの言葉を聞いて、紗幸はさらに真っ赤になった。さすがにここまで露骨だと、青木はるみも感づかざるを得ない。
「お嬢様、少し必要なものを買い出しに行って参りたいと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「あ、ええ、よろしくね。」
一瞬、相馬ひなの眼が「助けて」と言っているようにも見えたが、それを無視して青木は病室を出ることにした。
「それでは吉田様、少しの間、お嬢様のお相手をよろしくお願いいたします。」
「は、はい……。」
院内の売店でも済む買い物だったが、少し歩いたところにあるコンビニエンスストアまで行くことにして、青木は機嫌よく、すたすたと歩いていった。
(女子校、だもんねぇ。)
思わず、頬が緩んでしまう。
(そういうことも、あるよねぇ。)
さて、二人はどんな空気で会話をしているのかしら、と少し期待して病室に戻ってみると、病室には相馬嶺一郎と森田ケイの二人がいて、吉田紗幸の姿はすでになかった。席を外したわずか一五分ほどの間に何があったのか。病室には何か、微妙な空気が漂っている。
「お嬢様、吉田様は?」
「え、ああ、お父様と森田が来たのと入れ違いみたいに、ついさっき帰ったわ。それまでしばらくおしゃべりしてたんだけどねっ」
言葉尻に少し、トゲがある。ベッドサイドに近づき、
「わたくし、気を遣って席を外したつもりだったのですが?」
と小声で言うと、
「全くもう!眼で合図送ったのに!」
とひなが答えた。
「はるみ君、その話なら小声でなくてもいいぞ。実はさっきな、森田が、」
そこまで言って、相馬嶺一郎は笑っている。隣で森田が珍しく決まり悪そうに頭をかきながら、続きの台詞を言った。
「ご挨拶したら、思いっきり睨みつけられたんだ……。事情が分からないので、どんなお嬢さんなのか、今お嬢様にお話を伺ったところだ。」
「はあ?」
「で、我が娘がしぶしぶ話したところによればだな。森田は、ライバル認定、されたんだろう、という話でな。」
「はあ……?ライバル?それは……」
「もういいでしょ?もう。この話はなし!おしまい!お友達が来てくれた、メイドが付いててくれてて、お父様も執事も来てくれた、あああたしはなんて幸せな怪我人なのでしょう……」
その場にいなかった青木はるみには想像するしかないのだが、あのおとなしそうな、少しおどおどしたところもある印象の吉田紗幸が、想い余って森田を睨みつけた、それはつまり、ちょっとした修羅場、だったのだろう。ぐったりとしてひとり窓辺に眼を遣るひなの様子からも、そんなことがうかがわれた。
「――お嬢様。お嬢様がどんな学校生活を送られているのかと、常々はるみはご心配申し上げておりましたが。」
また妙なことを言い出すに違いないと、ひなが仕方なく首を回し、精一杯引いた眼差しを送るが、はるみさんは止まらない。
「別れ話のもつれ等でお悩みでしたら、このはるみにお任せください。恋人役でも何でも引き受けますわよ。」
腕まくりでもしそうなはるみさんの勢いに、やっぱり、という様子で相馬ひなはさらにぐったりした表情になった。
自分を心配してくれる、大切な人たちの笑顔。多少決まりは悪いが、相馬ひなは、実は、吉田紗幸と青木はるみに、迷惑も感じたが少しだけ感謝してもいた。学校のことは自分の領域だからと、これまでほとんど、誰にも話してこなかった。何か問題があっても、自分だけで処理しなければならないと思っていた。成績も、友達づきあいについてもだ。それが、吉田紗幸のおかげで、強引にも、はるみさんや森田、そして自分の父親にも、その領域の一端を伝えることができたのだ。もちろん、積極的に伝えたかったわけでは当然ないが、それを受け取った近しい人たちの、明るくうれしそうな表情に、相馬ひなの心はそっと暖められていた。事件での失態を自覚し、またそのことで自ら痛めつけてしまった自分の心というものが、少しだけ、ふっと軽くなったのを、ひなは感じていた。
(それにしても、紗幸ちゃん、森田のこと、あんなに気にしてたんだな。一・二度、お迎えの時に顔を合わせたくらいなのに……。)
そう思うと、ちょっとくすぐったいような、不思議な気持ちになった。
松本での神契東天教の事件に続いて起こった品川事件は、日本国内に存在する宗教勢力が武装している可能性というものを、一般の人々にも知らしめた。ハヌルの日本支部は、コリアンコミュニティ内部の宗教結社としては今後も存続していくだろうが、本国の教団幹部らが期待した節のある、日本人向けの布教拡大については、ほぼ望みは絶たれたと言ってよい。事件に関わった人間の大半はテロリストとして日本国内で刑に服すことになるはずだし、微罪の者も国外退去という噂である。
地の塩の教会については、麻布集会所が一つのキーセクションだったようだが、何者かの襲撃によりこの集会所は壊滅、機能不全に陥っている。これにより、今後も変わらず武装化の道を進むとしても、数ヶ月から数年は遅れたと考えられる。特に元組織の人間を雇い入れるだけのコネクションを持つ人材は、麻布の事件で一掃されてしまった。
「麻布の件は、相馬家のセッティングでしょうか。」
警察庁の長官室で、警備局長が尋ねた。相手はもちろん、警察庁長官である。
「そこは、詮索しなくてよい。これで地の塩の急進化が抑止できれば、それでよいではないか。」
「は。ですが、そうすると、元組織のエージェントがまた行き場をなくします。」
「それはそうだな。さて、次はどこが動いてくれるだろうか。」
「事が起こるのを期待される発言に聞こえますが?」
「問題かね?」
「いえ。」
「要は、対処するだけの準備があればよいのだ。」
「はい。」
「杉田は確か、剣と鏡と珠と言ったが、それらはいずれも、磨かねばやがて曇ってしまうものだ。……」
長官のイメージする今後数年の世界は、おそらく自分の想像するものを超えている、そう、警備局長は理解した。戦争からもテロからもしばらく忘れ去られていたかのような、微睡む季節は終わりを告げ、やがて、この国は、全土で品川事件クラスの事象が多発するような状況になるかもしれない。少なくとも責任ある者は、そうした事態を見越した上で行動しなければならない、そういうメッセージであろうと、理解した。
「そうそう、相馬殿には頃合いを見計らってお見舞いを差し上げるようにしてくれたまえ。君と私の連名ということでよいと思う。整わぬ戦場にご令嬢をお連れしたのだ。先方は不愉快に感じるかもしれないが、気持ちは示しておく必要があろう。」
「承知致しました。」
品川事件はこうして、終わりを迎えた。拡大S班の精力的な活動と人材センターの協力によって、事件の全容はほぼ解明されていた。後は、この非常識な出来事の塊を、法と裁判という名のプロセスでもって、常識のレベルへと解体・解釈していく、その単調な作業が残っているだけだ。
だが、この春。教誨師・相馬ひなには、長いリハビリと、一つの別れとが待っていた。