第七話 品川事件
※途中でハングルの箇所が1カ所だけあります。文字化け等起きましたらご容赦ください(投稿者の環境では大丈夫のようですが)。
オーセンティック・グローブ社が入る品川インターシティと向き合って立つビル群の一つ、品川グランドセントラルタワーの、たまたま空きフロアだった五階が、臨時のS班作戦室となった。水原および神社本庁霊能局の未来読みたちが占った、ハヌルのイミョンヒ奪還作戦決行の日に日付が変わるまであと数時間という時間帯、だいぶ日が延びた春分間近とは言え、辺りはもうすっかり暗くなっている。
吾妻と結城がハヌルの作戦決行についてのメールを傍受した時点から、わずか二日しか経っていない。それでも、この数十時間という時間の中で、可能な手はすべて打たれてきている。
臨時作戦室には、公安課長杉田律雄、綾川睦月・塩谷仁・大村秀樹、吾妻ルカ・結城舞、水原環・九条由佳と式神の少女たち、そして、教誨師相馬ひなとその後見人森田ケイがいた。皆、この日の午後、ばらばらの時間帯に少しずつ集合した。まず吾妻が午後三時過ぎにこのフロアに入り、設営を始めた。特に、吾妻と結城が操作する端末をネットに接続するまでが手間だったが、これも想定内の時間で終えた。その上で、関係するいくつかのサーバー等の監視に問題がないことをチェックした後、庁舎内で設営の間も監視を続けていた結城を呼び寄せた。
その後も、特に問題なく夕刻まで順調に推移し、全メンバーが揃って現在に至っている。式神の少女たちはすでに、数名が状況監視のために配置されているが、彼女たちも入れれば、総勢で二〇名を超えるチームだ。
ハヌルの行動が予測されるのは、神社本庁での卜占の結果、一六日に日付が変わって夜明けまでの時間帯とされた。吾妻・結城の班で得た情報からも、一六日未明に品川を襲撃するという指示が流れたことが確認されていた。日中、あるいは人出の多い夕刻から夜半までの時間帯は、九条や式神たちのようなマスキングのスキルを持つ者以外、人目につきすぎるためチームとしては動けない。だがそれでも一応、ハヌル側が戦術変更しスケジュールを繰り上げた場合に備えて、臨時作戦室に全員が待機していた。
九条は先刻から、即席の陣の中央に座し、四方に配置した黒、青、赤、白の式神たちと、何事かことばを交わしている。九条は今日は全身黒ずくめ、詰め襟の道士服とでも言えばよいのか。明らかに戦闘態勢と分かる装束だ。式神たちも陣を形成する四人は九条と同じ装束だが、残る八名は頑丈そうなブーツに暗色の迷彩服、そしてニット帽だけはいつもの色違いという服装で、戦いに備えている。すでに自らの装備のチェックを終え、迷彩服の上にボディアーマーの装着も終えた相馬ひながその様子を見るとはなしに眺めていると、前髪を上げて額を出し、巫女装束を着た水原環が手にゴーグルを提げて近づいてきた。この巫女装束も、ふだん神社等で見かけるものとは色合いが異なり、袴は渋い鼠色であった。ところどころ、絹糸の刺繍で見慣れない文字状のものが縫い取られているのも、素人目ながら気になるところだった。
「教誨師さんと森田さん、今よろしいでしょうか。」
「はい。」
「今夜の作戦では、こちらも霊的な武装や戦術を用いますが、おそらくハヌル側も類似の手法を用いると思われます。通常のナイトビジョン等では見えない敵も相手にしなければならない、ということになると思います。それで……」
「これは、松本でお持ちだったものと同じですか?」
水原が差し出したゴーグルを見て、森田が訊く。
「はい、私たちはデーモンビジョンと呼んでいますが、あれと同種のものです。ただこれは、少し刺激が小さくなるように調整してはありますが。できれば、お二人のどちらかにこれを装着していただき、フロントラインから状況を伝えていただきたいのですが。東側担当のE1にも同様のものを渡しましたが、西側担当のお二人にも一機、お願いしたいのです。」
「確認ですが、これは、資質がない者にも「視える」ゴーグルですね?」
「ええ。ですから……」
「分かりました。私がお借りします。K1はまだ、その訓練は受けていませんので。」
「承知しました。よろしくお願いいたします。」
森田は水原からゴーグルを預かると、自らの装備の一つとして肩からのストラップに止めた。
「その訓練って、何?」
「霊視の訓練です。やり方は様々ですが、薬物投与等で一時的にシャーマンたちと同じ眼を持ち、その上で行動を組み立てる訓練が基本です。」
「ってことは、それを装着すると?」
「お勧めしませんよ。私の訓練は短期間で終わるものでしたけれど、それでも一時的に不眠症になりました。」
「森田でも……?」
「はい。訓練なしで装着したら、作戦どころではありませんよ。」
「分かった……」
教誨師と森田がこの作戦に招かれたのにはいくつかの理由がある。S班とそもそも面識があり、チーム内での情報隠蔽の必要がほとんどないことも大きかったが、公安課長と教誨師の父親である相馬嶺一郎とのコネクションによるところも大きかった。人材センターと言えど、一枚岩ではない。どこからか情報が漏れる畏れもある。また今回は、圧倒的に時間が不足してもいた。したがって嶺一郎が直ちに、かつ隠密理に依頼でき、公安との連携も問題のないスタッフとなると、実は教誨師とその後見人、後は時田くらいしかいなかった。時田は前線向きではなかったため最初から除外されたが、事前の情報のリークを限界まで警戒する必要がある今回の作戦にとって、教誨師たちは最適な人材だったのだ。
一月の松本での事件以降徐々に拡張されてきたS班も、具体的な武力を扱える人間は、綾川ら三名のみであった。そしてまた、インターシティB棟が大きな建築物であるため、綾川たちのほかにもう一つ、実効的な制圧力を備えた小班が必要だった。九条や九条配下の式神たちも銃器を扱えたが、あくまでそれは敵の霊的なセクションへの対応に用いるべき戦力であった。そうした諸要因の中で、教誨師とその後見人はこの作戦に招聘されていた。
天界人羽教は秘儀伝授のかたちで教義を伝え、反教典主義に近い布教方法を採っているため、その教えの全貌ははっきりしない。宗教関係者の中には、三大宗教では異端とされる神秘主義的な部分だけを適当にシャッフルしたでっち上げ宗教、と陰口を叩く者もいた。一方世間には、宗教団体としての顔よりも、若い美形の(ちょっと変わった宗教もやっている)男性社長が指揮を執るIT企業として知られていた。その企業体の名称が、オーセンティック・グローブとなる。
人羽教もオーセンティック・グローブも、この社長であり教祖もである男、北嶋リヒトが立ち上げた。北嶋がこのインターシティにオフィスを構えてから数年の間に、人羽教もオーセンティック・グローブも発展を遂げ、かつまた、それらが発展すればするほど、北嶋リヒトはオフィスと、オフィス最奥部に強引にこしらえた居住スペース以外の場所には滅多に出て行かなくなった。ここ数年は、年に一度、ドーム球場を借りて行う天界人羽教のイベントの際に、一般の信者たちもようやく生身の北嶋リヒトを確認する、というような状況である。
公安課としては、ハヌル側に知られない別の場所に北嶋を移したかったが、それを北嶋自身が拒絶した。イミョンヒなどという人間は知らないし、人羽教が何者かを拘束しているという事実もない、と明言し、本部オフィス内の簡単な確認にも応じたが、オフィスから離れることは認めなかった。その結果、拡大S班はここ品川で、ほぼ丸腰で社内に留まる北嶋リヒトの護衛を行うという形で、ハヌル側の襲撃を待つことになったのである。ハヌルも、人羽教教祖の北嶋がそうした行動様式を守っていることは調査済みのはずであり、結果、イミョンヒの消息を捕捉できぬまま、北嶋を餌としてハヌルの部隊を待つという判断が下された。
深夜が近づいてきて、まず綾川(E1)・塩谷(E2)・大村(E3)の班が、四人の式神に守護されるかたちで臨時作戦室を後にした。まだ人通りのある時間でもあり、またハヌル側に発見されるのを防ぐためもあり、九条や式神たちの潜入スキルを借りての移動だ。すれ違う人々に全く気付かれずに移動するという希有な状況を、このとき三人はまさに体験していた。臨時作戦室のあるビルから、品川セントラルガーデンと呼ばれるちょっとした公園のような空間を渡り、インターシティB棟東側へと回り込む。けっこうな距離だが、濃紺のつなぎに武器・弾薬類の入った大きな円筒型のケースを背負うという目立つ格好でも、誰にも見咎められることはない。
「実際これは凄えなあ。オレたちこんなガタイでこんな格好だろ?気付かれてたら人にじろじろ見られるはずだが。誰も気付かないっつーか完全無視っつーか。掃除のおじさんだってもっと注目されてるぜ。」
塩谷が心底感心したように言う。
「お前、オカルト苦手じゃなかったか?」
「いや、彼女たちはオカルトじゃないよ。」
「じゃあ何なんだ。」
「仲間さ。」
なぜか塩谷は、胸を張るようにして言った。
「おいお前、クサい台詞吐いてるって自覚はあるか?」
綾川が突っ込む。
「じゃ、何なんだよ?」
「彼女たちは、S班のアイドルさ。」
今度はなぜか綾川の方が自慢げな様子だ。どちらも自分の方が少女たちを理解していると言いたげな、そんな様子だ。
「お前もだいぶいかれてんなあ。」
どうにもならないそんな話題を小声で続ける先輩二人の後ろを、一人大村だけが微妙な表情のまま、無言で歩いていく。
(このおっさんたち、何であんなご機嫌なんだ?)
微妙な表情は、雄弁にそう語ってもいた。
「おい、大村はどう思う?」
「はあ?」
「この子たち、お前はどう思ってんだ?」
「え、まじめで働き者でいい子たちだな、とか、そんな感じですけど?」
「ちっ」
舌打ちが二重に聞こえた。慌てて、
「ボーナス出たら、服とか買ってあげたいですよね?」
そう続けたら、式神たちも含め全員の脚が止まった。
「……お前のボーナスってのはずいぶんと額が多いんだな?」
「一二人全員にオーダーメイドのドレスとかになっても知らねえぞ?」
慌てて大村が前後左右の式神を見ると、四人ともが「いいこと聞いたー」とでも言わんばかりに、にたーと笑っている。
「ユ、ユニクロとかじゃダメっすかね?」
「ちっ」
今度は舌打ちが四重に聞こえた。
インターシティ東側は、東京海洋大や食肉市場周辺から敵が上陸した場合にはその真正面となる、作戦上重要なポイントである。その東に向けて口を開けているB棟直下の地下駐車場の出口付近にベースを設営し、三人は身を潜めた。式神は次の班の移動のために二名が戻り、残りの二名はマスキングの維持のために、南北にやや離れて配置を完了した。
次は、教誨師(K1)とその後見人森田(K2)の移動だ。インターシティと品川グランドコモンズの間の、綾川たちはただ横切っただけの空間を、二人と四人は南に向かって歩いていた。ビル群とビル群の間の、この南北に細長いスペースの北側は、芝生や背丈の低い樹木等の植えられた開放的な作りだったが、南側の一帯は、桜等が植樹された庭園風の空間となっていた。その一角に、インターシティC棟と樹木、そして各ビルの二階部分を繋ぐ屋根付きの歩道が構成するわずかな死角があり、西側チームのベースはそこに作られることになっていた。木々の葉の生い茂る季節にはもっと大きな死角も生じようが、桜の開花もまだのこの時期では、ベースを設置できる箇所は限られていた。
品川グランドコモンズ、品川セントラルガーデン、そしてインターシティがある一帯の南側には、東京湾から回り込む運河があり、小さいながらも船着き場がある。そこが敵の上陸ポイントとなった場合、綾川たちのいるインターシティ東側ではなく、西側、つまりセントラルガーデン側に回り込まれる可能性が高い。そうなれば、西側の担当となる教誨師たちの役割も重くなる。
「あと何日でもないわね。」
「桜、ですか?」
「ええ。来週だったら夜桜見物できたかもね。」
「そうしたら、作戦どころじゃありませんよ、花見の酔っぱらい客ばかりで。」
「……それもそうね。」
何か不満そうな表情を相馬ひなは浮かべたが、隣にいる森田ケイは気付かない。
「しかし、9(ナイン)は大丈夫なんでしょうか?」
「え?」
この作戦に当たり、各員には適宜コードが割り振られていた。「9」は当然、九条由佳である。
「これだけの作戦空間に配下の式神を配し、かつ最終的には、全域の結界をコントロールするという話です。それ相応の霊力の消費があるはずです。」
その会話を四人の式神も聞いていたが、森田の近くにいたベージュが答えた。
「あのね、今夜はWのチカラも投入して回路化するから大丈夫、ってナインが言ってる。」
「そうか。よろしく頼む、と伝えてくれないか?」
ベージュがこくりと頷いた。
「ナインとWって、いいコンビみたいね。」
「どちらもその道のとんでもないプロですからね。一つの作戦で共闘すること自体、奇跡みたいなものですよ。」
森田の言葉にうん、と頷く教誨師に向かって、ベージュが言った。
「あとね、夜桜だったらいい場所教えてあげるから、来週辺りお二人で行ってきなさい、ってナインが……」
「ば、ばかっあんた何言い出すのよっ」
「だから、あたしじゃなくてナインが。」
そう答えたベージュも、ほかの三人の式神も、似たような笑みを浮かべている。ひなの慌てぶりが激しかったのは、二人で夜桜、という部分が確実に図星だったせいだが、森田の方は特に何の感想も持たないような、しれっとした表情のままだ。きっと作戦室では、ナインこと九条由佳が、やれやれという表情を浮かべていることだろう。
(全く、はるみさんと言い由佳さんと言い、何で大人ってこうなんだろう……)
そう肩を落としながら、相馬ひなは歩いていった。
ベース予定地に着くと、綾川の班と同様に設営を行った。必要な武器類を整理して設置し、式神二人にマスキングの保持のために張り付いてもらった。時刻は、日曜日の二三時を少し回った辺り、品川駅からは離れているため、ベース近辺の人通りは徐々になくなってきている。
「K1、K2、配置完了。」
「C2了解。指示あるまで待機してください。」
「了解。よろしく頼む。」
「よろしく。」
骨伝導を利用した通信機を介して、結城舞の声が返った。
これで、数十時間というリミットの中、ようやく戦いの準備は整ったはずだった。そして実際、それからさほど待たずして、ハヌルの「イミョンヒ奪還部隊」が品川に上陸したのである。ただしその実態は、天界人羽教強襲部隊と呼んだ方が相応しいものであった。
ハヌル侵攻予測日の二日前、公安課長が神社本庁と人材センターに協力要請に回った、その日の夕刻。
「時田君、今いいか?」
時田治樹の携帯に相馬嶺一郎から連絡があったとき、時田は人材センターの端末の前で、一人頭を抱えていた。
(結局公安内にS班てのがある、吾妻や綾川、神社本庁のスタッフが関わっている、頭は公安課長、ってくらいしか掴めてないうちに、当のS班に捕まってた九条さんがセンターにご入所、だもんな……。うーん、仕事が楽になっていいけれど、これじゃオレのポイント下がるよね。)
相馬嶺一郎の指示でS班の構成や成立時の事情を探っていたものの、たいした情報は得られなかった。ネット方面からのアクセスはあの吾妻ルカの防壁が相手では手繰りようもなく、公安課の入る合同庁舎にも何度か潜入したものの、情報源の糸口は得られなかった。二月下旬に九条が入所した後も、吾妻ルカの交際関係から数名、警察庁内の職員を古典的な手法でマークし続けていたが、入手できたのは情報通信局の職員と吾妻との濃厚な行為の音声ファイルくらいだった。
(要らねー、マジで要らねーそんなファイル……)
そうして、今日のところは気分を変えて、それ以外にも抱えている情報収集関連のデータでも整理しようか、と思ったときに、相馬からの着信があったのだった。
「は、何でしょうか?」
かなりどきりとするタイミングだったが、時田なりに平静を装って電話に出た。
「用件は二つだ。」
「はい。」
「公安内S班関連の調査については中止、九条由佳からすでに十分な情報が得られた。」
「はい、お役に立てず……」
「気にしないでくれたまえ。こっちも数ヶ月単位で見積もっていた案件だ。君には面倒をかけた。」
「いえ。それで、もう一つのご用件は?」
「ああ。教団ハヌルと天界人羽教との間で諍いが起きるよう、ハヌル側に情報を流し、唆した者があるらしい。それで、その背景、つまりハヌルと人羽教が衝突した場合に利益を得る集団を特定したい。できるか?」
「タイムリミットは?」
「ASAPだ。」
「承知しました。六時間おきに連絡しつつ特定していきます。センターの若いスタッフを使ってよろしいですか?」
「できれば避けてくれ。我々がその組み合わせでの利害関係を調べていること自体が極秘事項に当たっている。」
「承知しました。」
「参考情報だが、ハヌル側はここのところ、日本国内の三教団にハッキングをしかけていた。そのうちわけは、人羽教、秘仙会、地の塩の教会だそうだ。」
「了解しました。さっそく調査開始します。」
「おそらくだが、時間的余裕はあまりない。よろしく頼む。」
「承知しました。」
電話を切り、時田はまずは名前の挙がった四教団のサマリーを収めたファイルを開いた。それからふと思いついて、それらを印刷してみた。たいていの勢力・集団等については、時田自身がサマリーを作成してある。
(詳細は分からないけど、ハヌル側を焚きつけた奴を捜せってことだね。実際にハヌルと人羽教が衝突するなら、どっちにとってもかなり自滅的行為だろうけど……。普段なら、こういうケースは宗教団体にありがちな内部分裂やクーデターを疑うべきだけど、相馬さんのオーダーはその線には全く触れなかった。てことは、諍いの要因は外、として考えれば、結局は誰が漁夫の利をってことか……。待て、教唆にしても注油にしても、その情報をハヌルが信用して受け入れるってことは、何らかの協力関係か取引が成立してないとダメだね。情報提供するアドバイザー的な存在がいて、そこから状況を動かしてしまうような情報を出すイメージ……。)
時田のスキルはこういう状況で得体の知れない力を発揮する。細く切れそうな糸を手繰り寄せ、情報の流れるパイプにしてしまう。ネットに沈む吾妻らと比べ、時田のスキルは泥臭い。だがそれだけリアルな、言ってみれば手触りや匂いを伴うような、質感を伴うインテリジェンスを構築することができた。
(背後ではハヌルを裏切る情報提供者、しかもハヌルを動かし人羽教と直接対決させるだけの情報を提供し得る者……。そんなことができる奴は、同業他社か、後は公安くらいしかいないだろ……。)
久しぶりに、時田の頭の中の歯車が噛み合いだした。
深夜一時をいくらか過ぎた頃。インターシティB棟屋上で夕刻から周辺の監視に当たっていたバイオレットが、九条に敵勢力らしき集団の来襲を告げた。
「海洋大付近運河に上陸用のエンジン付きゴムボートサイズの影が数隻侵入。」
「正確な数は分かる?」
「待て。……五隻だ。巫堂がマスキングしているから、人数・編成までは不明。」
「了解よ。そのまま、引き続き全周囲観察を続行しなさい。やがて、あと三人もそこへ行くわ。」
「はい。」
念話を終えると、九条は杉田課長に状況を伝えた。
「来ました。予想通り海側から、現在海洋大付近です。規模は五個小隊程度、ムーダンを伴い向こうもマスキングしつつ移動している模様です。私はこれから式神たちとリンクを開始し、敵勢力の警戒に当たります。」
「うむ。よろしく頼む。C2、E班とK班双方に通達、敵来襲確認、レベル4からアクト1にシフト。」
「了解です。」
「進路の特定はまだできないか?」
「……現在、海洋大・食肉市場境界近辺を移動中。運河分岐ポイントまで行けば、特定できます。」
すでに半眼になった九条が応える。バイオレットの知覚に乗って、九条は今、インターシティの屋上からの視点を得ている。夜間でもあり、肉眼ではボートの姿すら見えないが、ムーダンがマスキングしているせいで、霊視能力者にはその姿が水面に映った影のように見える。もちろん、九条の霊力を用いれば、敵のマスキングも透過して視ることは可能だが、それだと敵ムーダンに「霊視能力者による霊視下にあること」を気取られるおそれがある。不要な警戒をされないためにも、現状は敵勢力の位置確認のみで十分だ。
(さあ、どちらから来るの?東?南?)
九条の問いに答えるように、五つの影が運河上を滑る。そのうち一隻が食肉市場の東側に回り込むルートをとり、残る四隻は南に回り込む運河へと進んでいく。
「状況判明。敵勢力は部隊を二つに分割、主力と思われる四隻は南に回り込むルート、残る一隻が東の予想上陸ポイントです。」
「……一隻の方は退路確保用の要員だろう。南からの主力がインターシティの東に回り込むか、それとも西に進むかが問題だが……。」
杉田課長が独り言のようにつぶやき、指示を出した。
「E班、K班、聞こえるか。対象は部隊を分割、主力は南の運河へ移動中、別働隊は東側上陸予想ポイントだ。現状で編成の変更はなし。そのまま待機。」
「E班了解。」
「K班、了解。」
「対象がこちらの第一次防衛ライン内に入り次第、デーモンビジョン装備の者には敵勢力の詳細が確認できるようになるはずだ。現状のマスキングを維持したまま、周囲の警戒を怠るな。」
「了解。」
「了解。」
状況が伝わり始めて、教誨師は森田に確認をとる。
「そのデーモンビジョンて、ノクトビジョンと同じ機能はあるの?」
「いえ、赤外線等の非可視域の光線等は見えません。反対に、ノクトビジョンでは見えないその辺の粗霊たちの姿は見えますが。」
「そうすると、こっちに見えるものでそっちに視えないものもあるってことでいいのね?」
「はい。霊力を持つ存在は視認できますが、無人設置された銃器等は見落とす可能性が高いと思います。まあ、殺意等が残っていなければの話ですが。」
「了解。状況によってはサポートするわ。」
「はい。それから、ナインの結界キャンセラが発動すれば、式神級の霊体なら、お嬢様にも視えますよ。」
「あ、そっか。式神ちゃんたち、あたしにも見えてるもんね。」
「はい。」
「ところで、生きてる人を視るとどうなるの?それ……」
「……。」
なぜか森田が答えない。
「まさか、はだか、とか?」
「……さすがにそれはありません。ただ、過去生の因縁が強かったりすると、別の人物のように見えたり、あるいは人間ではないものに見えることもあるそうです。」
「あたしは、森田からどう見えるのかな?」
「興味本位で視るものでもないと思いますが。」
「せっかくだし、ちょっと興味あって。だから視て。」
この戦場で何を、と思わないわけでもなかったが、主人の頼みでもあり、森田ケイは相馬ひなを視てみることにした。小さな嘘をひとつ、ついていることも、ひなの頼みを聞く理由になった。この種の装備では、まれにだが、ひなの危惧通りのことも起きる。
「仕方ありませんね。少しだけですよ。」
森田が、水原から預かったデーモンビジョンを装着して教誨師を視ると、そこには、相馬ひなではない、だが、美しい女がいた。森田の記憶の深層をくすぐる、美しく、だが意志の強そうな眉、理知的な性格をうかがわせるような、白い額。そして、乳房の上を流れ落ちる黒髪と、その流れの下から、自ら青く淡く光を放つような胸元。つぼみの先端が染まった桜の枝がざわめく。その女が、わずかな身じろぎとともに、伏せていた眼を森田の方に向けようとした、まさにそのとき、作戦室からの通信が飛び込んだ。
「対象はさらに部隊を分割、主力三個小隊相当はインターシティ西側へ、第一防衛ラインへの推定到達時間、一分二〇秒。K班対処よろしく。」
我に返った森田が応える。
「K班了解、デーモンビジョンで視認次第、状況をレポートする。」
「C2了解。E班側には一個小隊相当が接近中、東側第一防衛ライン推定到達時間、二分五〇秒。なお、別動一個小隊についてはバイオレットが監視続行、異変あれば伝える。」
「E班了解。」
戦闘開始が近づく。教誨師はいつでもベースを出られる態勢をとっていた。不思議なことに、我に返った今視る教誨師の姿は、相馬ひな当人の姿に戻っている。
「お嬢様、先ほどの件は……」
「分かってる。また後で聞かせて。」
K班の二人はベースを出て、式神たちが構成する結界――最終防衛ライン――ぎりぎりまで、低い姿勢で前進した。相馬ひなは、樹木の隙間から、品川インターシティ南端を巡る道路沿いに設置された街灯の下を見やった。夜陰の中に、なにやら動くものがあるような気もしたが、ノクトビジョン越しでも確認することはできない。だが、森田には視えているようだ。
「K2よりC、敵が視界に入り始めた。レポートする。まず、巫堂計六、各小隊の前後に配置、その使役魔も計六、各小隊左右に配置。小隊のうち、人間は六名×三、計一八、といったところだ。デーモンビジョンでは通常の銃器類は見えないため、装備はまだ不明。南側道路を渡り、インターシティ敷地内に侵入を開始した模様。」
「C2了解。指示を伝える。K班、E班ともに第二防衛ライン内まで敵勢力を引きつけ、敵勢力全体がラインを通過する瞬間に結界キャンセラを起動する。タイミングは、K、Hのうち早い方に合わせる。敵進行の遅い側はカウントダウンに注意。」
「K班了解。」
「E班了解。」
臨時作戦室では、四人の式神が構成する陣の中央に、九条と水原が座していた。水原は九条の後ろ、黒の前だ。今はただ座しているだけだが、結界キャンセラー起動時には、水原は鬼門方向にわずかにずれた位置に座り直す。これにより膨大な霊力が陣を回路化して流れ、辺りの結界をキャンセルするだけの力を発生させる。その上で改めて、各ベース付近に配置した四人の式神の力で、自陣のK班とE班にマスキングをかけることになっていた。
「準備はどうだ?」
課長が尋ねる。
「問題ありません。いつでも行けます。」
水原が応える。九条はすでに、手元に残していた七名の式神のうち三名を、インターシティB棟屋上に送っていた。さらに、知覚のかなりを式神たちに同調させているため、直接刺激に対する反応は低下している。
E班は、東側の別動部隊への警戒のため、ベースに塩谷を温存し、綾川・大村のコンビで南側から移動してくる敵一個小隊に対応することになった。最終防衛ラインぎりぎりまで前進し、植え込みの陰に身を潜める。
「大村ぁ、お前のターゲットは人間だ。面倒だが、戦闘不能にするだけに留めなけりゃならない。ただ、どうしてもヤバいときは、迷うなよ。誰も、一人も死なない戦争なんてものはないんだ。」
「はい。」
「お前が霊視訓練受けてりゃ、こっちの銀玉射的任せたんだけどな。」
「いえ、対魔戦の経験もありませんので。隣で勉強させていた……」
「やめとけ。」
綾川が少しだけ厳しい声で言った。
「勉強ってのはな、余裕がある奴がするもんだ。オレたちは、式神ちゃんたちに護ってもらってとんとん、ってくらいの条件で戦うんだぜ。余裕なんかあるもんか。……お、視えた視えた、E1よりC、こちらは人間六、式神二、シャーマン二、やっぱりきっちり一個小隊サイズだ。第二防衛ラインまで推定数十秒。」
「C2了解。K班、状況は?」
「第2防衛ラインを通過中、ただし最後尾通過まで一分以上かかりそうだ。」
「C2了解。E班、カウントダウンを任せる。」
「E1了解。手順確認、結界キャンセル後、敵の銃器等を確認し次第威嚇射撃、状況によりそのまま戦闘に突入、よろしいか」
臨時作戦室で、杉田課長が頷く。
「手順承認。」
「E1了解、ではカウント行くぞ。」
臨時作戦室、E班、そしてK班全体に、一瞬の静寂が訪れる。
「一〇秒前……五、四、三、二、一、NOW!」
……イイイイイイイイイイイイイイイイイイイアガアアアアアアアアァァァァ……
どこか遠くで、そんな叫び声のような音が聞こえた気がした。聞こえない音に、鼓膜が圧迫される。陣主の九条と、陣上の不正な位置に座した水原とが放出した、荒れ狂うだけで霊力とも呼べないような根源的なちからを、陣の守護者たる四人の式神が強引に回路化し束ねた。その霊力が、瞬時にインターシティB棟屋上で出力用の陣を構成していたインディゴ、バイオレット、ベージュ、グレーの四人を射出機として放出され、辺り一帯の霊的な防護を根こそぎキャンセルしてしまった。
ひなにもそれが分かった。なぜなら、頬の皮膚にわずかな、チリチリとした刺激を感じた直後、自分たちの数十メートル先まで敵勢力が接近していたのが、いきなり見えたからである。すぐそばで、サブマシンガンが三発ずつ二セット発射される音が響いた。森田がマニュアルどおり威嚇射撃を行った音だ。式神を併せて三〇名からなる敵部隊が一瞬足を止め、直後物陰という物陰へ回り込みつつ、銃口を自分たちの方に向けてきた。
「再マスキング!」
そう森田は叫び、敵と同様にベースに近い樹木の陰に伏せた。森田のいた辺りに敵勢力の銃弾が多数撃ち込まれる。揃いの赤銅色の装束に長髪を高く結わえた六人のムーダンが口々に、森田の現在位置を兵隊たちに告げているが、兵隊たちには森田の姿は見えないらしい。
「K班、敵の発砲を確認、迎撃を開始する。」
式神たちの構成する最終防衛ラインの中から、教誨師と後見人の銃撃が始まった。
そろそろ四回目の報告の刻限が近づいていた。相馬嶺一郎から依頼があってから、二四時間が経過しようとしていた。時田は今、センターの元スタッフからの連絡を待っている。教団ハヌルは日本国内にいくつかの支部を持つが、それは日本国内で暮らす韓国籍のコミュニティの存在と直結している。つまり、非韓国籍の、一般の日本人に対して布教するような行動は、もともとハヌルは行ってこなかったのだ。
したがってハヌルはこれまで、日本国内の宗教団体と、布教や信者勧誘を巡って衝突することはほとんどなく、それゆえ直接の利害関係が生じるということもなかった。それは、今回の調査でも改めて確認されたことだ。現在の日本国内での活動に限っていえば、ハヌル周辺には取り立てて述べるほどの摩擦や軋轢等は見いだせなかったのである。
(それじゃ、いったいどこがハヌルを焚きつけた……。ハヌルが人羽教と対立して、得するのは誰なんだ……)
今一度、今回の依頼以後、調べがついた情報を整理してみる。
(松本の事件以後、ハヌルの行動は確かに若干変化していた。今はハヌル内部の路線変更を確かめる時間はないが、何かがあったに違いない。日本国内で勢力を増すべき理由が。そこに、「協力者」が現れた。血の気は多いが純朴なハヌルに警戒を解かせるだけの立ち位置に立つ協力者だ……)
ハヌルがハッキングしていた日本国内三教団のサマリーを、再び手に取る。
(天界人羽教、独立系教義の新興宗教。今一番金を持ってるのはここだろうな。実際、宗教と言うより企業の税金対策みたいな法人だもんね。……だがハヌルは別に資金難ではない。国内の諸教団と比べても、潤沢な方だ……。次、聖衆秘仙会、これは道教系、全国に道場を展開。実際に使える者がどれだけいるかは分からないが、導師クラスを部隊化しているという話はよく聞こえてくる。教義的にはハヌルに近い……実際にハヌルが日本人向けの布教を考えるなら、ここは提携するか対立するかの二つに一つだろう……。最後は地の塩の教会、……。極東最終教会の異名が何となく頷けるくらい、キリスト教系で最近勢力を伸ばしてきた、新しくて勢いのある教派。従来のキリスト教系との対立もいくつか生じてるし、武装準備しているというきな臭い噂もある……。まあそれは、人羽教の巨額脱税疑惑、秘仙会の導師部隊編成と似たようなレベルか。
結局、宗教的な理由でハヌルの活動と衝突しそうなのは秘仙会くらいで、人羽教と地の塩の教会は教義的には対立の要因は薄い。まあ、人羽教の資金源は、宗教団体以外からみても魅力的ではあるんだろうが……。)
携帯電話の呼び出し音が流れた。ずっと待っていた、元スタッフからの電話だった。
「時田くん?吉井だけど、電話もらったみたいで。」
「吉井ちゃん、待ってたよお電話~。ありがとう。急の連絡でごめんね。」
「いいけど、それより用件は?時田くんの仕事絡み?」
「仕事絡みっていうかちょっと人生かかってるっていうか」
「あらあら、それはたいへん。」
「それで済まないけど、教えてほしいことがあるんだ。」
「うん。」
「吉井ちゃん、今、秘仙会の事務局にいるんだよね?センター抜けてから。」
「守秘義務部分は話せないわよ?」
「うん。わかってるさ。で、最近、外部からのハッキングとかで困ったりしてなかったかなと思って。」
「ああ、その話か。うん、正直困ってた。あでも、そう言えばここ一週間くらいは攻撃されてないな。」
「そっか。」
「ちょうどサーバ管理できるような人が別の支部に移っちゃった後で。で、あたしとかがOSのアップデートとかして素人対策してるだけだからねえ。覗かれ放題だったみたい。実害はまだ発生してないからいいけど、一応地元の警察にも被害届出すか相談したよ。」
「そっか。助かった。どうもありがと。」
「え、こんな話でいいの?」
「うん。かなり参考になった。今度都内に来ることあったら、何かおごらせてよ。」
「えー、気持ちだけで。時田くんすぐ口説いてくるから信用できない。」
「あはは。それはその通りだけど、まあ、気が向いたら連絡して。それじゃね。ほんと助かった。」
「うん、それじゃね。またね。」
(ふうう、吉井ちゃんが素直な子でよかったよ。何であんな子がセンターにいたのか不思議なくらいだけど、あれでも秘仙会幹部の娘だからなあ。)
時田は通話中もてあそんでいた赤ペンをきちんと握り直すと、聖衆秘仙会のサマリーに×印を付けた。
(ここはただの被害者だ。切り捨てよう。そうすると、振り出しに戻るようだけど、一番怪しいのはここだ。)
時田がばさりとデスクの上に投げ出したのは、地の塩の教会のサマリーだった。
(地の塩は、腐ってもキリスト教系だ。同じ宗教内での信者の奪い合いはもう、表だってはできない。これ以上摩擦を起こせば、キリスト教内での粛清が待っているからな。そうすると、潜在的な競合相手の最大手は、同じ新興宗教の人羽教だ。ハヌルを咬ませ犬とし、人羽教にスキャンダルをもたらせば、神を求めるさ迷える子羊も、うまい話を欲しがる飢えた狼もみな、自分のところにやってくる。何てったってここは日本だ。自分を救ってくれるなら、その神様が誰でも全然気にしないすばらしい国、日本。)
時田は相馬嶺一郎へのレポートを取りまとめ、送信した。数分で返信があり、このレポートがこの件に関する時田の最終見解となった。
「ルカさん、ルカさん?」
結城が声をかけてもすぐには気付かないほど、吾妻は作業に没頭していた。
「え、あ、ごめん。何?」
「作戦、始まりましたよ?」
「そっか……。」
吾妻の表情が曇る。
昨日の夜、課長から、センター提供のインテリジェンスとして伝えられた情報は、吾妻にはショッキングなものであった。教団ハヌルの活動には国内勢力の協力者があり、それがハヌルのハッキングの対象であった地の塩の教会である可能性が高いというのだ。
言われてみれば、当人が知っていたかどうかは別にして、竹之内が実行していたハックツールは、わざわざ不正にアクセスしていることを喧伝するような挙動を示していた。二分ごとにわざとらしく中継ポイントを切り替える特徴も、公衆端末や無線LANを利用していたのも、そうした意図があったとすれば納得できる。それらのことを、吾妻も結城も「プロから視たら意味不明の素人臭さ」だと判断していたが、もし地の塩の教会がハヌルに作戦協力していたのなら、その目立つ挙動自体が仕組まれたもの、つまりフェイクだった可能性がある。
地の塩の教会とハヌルとの間に見せかけの敵対関係を演出し、警察等に両者が敵対関係にあると誤認させる、そのために共同で採用した作戦だったとすると、今回の作戦に対する対応も変わってしまう。S班を中心とした迎撃部隊は、ハヌルだけでなく地の塩の教会への対応も計算に入れて行動しなければならなくなるのだ。
センターからの情報では、地の塩の教会が背後でハヌルを裏切っている可能性も指摘されていたが、いずれにしても、今の問題は、今回のハヌルの作戦に、地の塩の教会がどう関わってくるかであった。課長と結城、水原、そして綾川とでこの問題を検討したが、昨夜遅く行われた水原の占術でも地の塩の教会の動きは検出できなかった。何も糸口の見つからないまま戦闘が開始され、吾妻は夕べ、時田に電話をした際の会話を思い出していた。
「あれ、ルカねえさんどうしたの?週末の夜に電話なんて珍しい。」
「ごめん、支払いは後回しで、情報がほしい。地の塩の教会についての。」
「ん?ああ、僕のレポートがそっちに伝わったんだね?支払いなんてまあ、どうでもいいけど、けっこうそっち緊迫してるんでしょ?」
「ええ。」
「わかった。まず背景だけど、地の塩の教会は、ハヌルと人羽教が事件を起こした場合、一切損はせずむしろ利益だけを得る。カルトに靡きやすい素人も、その道のプロも、簡単に集められるようになる。たとえば元組織の工作員の奪い合いでも、かなり有利になる。それを見越して、現在は表向き、かりそめの協力関係を構築している可能性が高い。」
「うん。それは分かった。」
「で、ルカさんが知りたいのは、今後の地の塩の活動の展開?いや違うね、今回のイベントへの関与の方か?」
「ええ。あたしが知りたいのは、今日・明日に関わるインテリジェンスよ。」
「そうだね、……最近地の塩は、分かっている範囲だけでも元組織のエージェントと数名、契約を結んだらしい。これは、元組織の動向を張ってたうちの連中のレポート、それからお宅のテロ対策班の調査結果も内緒で参照してるから、そう外れてないと思う。」
「そのエージェント、どんなスキルの連中か分かる?」
「それはまだ。スナイパー中心だって話だけれど。むしろお宅のテロ班に訊いた方が早いかも。」
「ありがと。それから、参考意見のことだけど。」
「ああ、裏切る可能性、って方ね。確証はないけど、協力を続けるよりは、ハヌルと人羽教にまとめて転けてもらった方がおいしいってのは間違いないからねえ。」
「裏切りのタイミングは事後?」
「だろうね、自ら動いて転けさせるっていうのは考えにくい。完全に転けるまでは、表向きは協力関係を維持するんじゃないかな。こんな陰謀を思いつく奴らなら。」
「そうか。ありがとう。請求は適当に見積もっておいて。それじゃ。」
「うん。それじゃ。」
昨日の会話では結局、時田本人の情報でも、地の塩の教会がこのイベントにどう関わってくるのか、その詳細までは判明しなかった。工作員の誰々が都内に侵入、というような分かりやすい事象でもつかまえない限り、成り行きを予測することはできなかった。だから吾妻は、地の塩の教会の動きがこの迎撃戦に決定的な影響を与えないよう、祈るしかなかった。
戦局は比較的、教誨師たち迎撃側に有利だった。式神たちの再マスキング領域にいる限り、自分たちの姿を視認できるのは、敵ムーダンとその使い魔のみであった。インターシティの西側に一八名、東側に六名いる人間の兵隊たちには、迎撃してくる人間の姿を捉えることはできなかったのである。
一方、自分たちの結界によるマスキングが無効であることを悟ったムーダンたちは戦術を変更し、六匹の使い魔を迎撃者たちの元へ走らせ、直接攻撃させる作戦に出た。森田はデーモンビジョン越しに戦局を眺め、時を置かずまずは敵使い魔たちに銀を多量に含有する弾丸を撃ち込み始めた。使い魔は基本的にヒト型の身体構造をしており、その点では九条配下の式神たちと同様であったが、重要なのは使い魔たちの急所のレイアウトと、銀の弾丸で打ち倒せるかどうか、という二点であった。
使い魔の身体能力はかなり高く、近距離で跳ね回る野生の獣をシュートするような状況になったが、森田は前に出てくる個体を狙って押し返し、一定の距離以上には近づけさせなかった。やがて頭部ではなく頸部に弾丸を集める必要があることが判明するまで、少し手間取りもし、また銃弾も大量に消費していったが、一度急所のレイアウトを把握してからは、森田の仕事は速かった。
(あたしの相手は兵隊さん一八人+巫女さん六人か……。森田が陽動してくれてる間に、仕事進めなきゃ……。)
森田が派手に弾丸をバラマく状況を横目に、その意図を十分理解している教誨師は、腹這いの姿勢で丁寧に射撃を開始した。今回の作戦では、対人間の場合には頭部、及び体幹中央部への射撃は可能な限り避けることになっていた。その結果、教誨師や、インターシティ東側の大村が狙えるポイントは、四肢およびその付け根付近に限定されていた。
(まずは、脚。それでも起きてくれば、右肩。まあ、当然起きてくるんでしょうけれど……)
面倒だったのは、二人、三人と倒していくと、自分の位置を相手に気づかれ、いい加減な照準ながら敵の弾丸が飛んでくることだった。森田に攻撃が集中するのを回避するためにはいいことだったが、赤銅色の服を着たムーダンと呼ばれる女たちが何事かを叫ぶと、さらに狙いが正確になったりもした。教誨師は転げ回るように不規則に射撃地点を変えながら、少しずつ敵勢力の動きを減速させていった。
(ったくもー、贅沢言えないのは分かってるけど、もうちょっとエレガントな仕事がよかったなあ……)
心の中では思いっきりぼやきながら、教誨師は敵の兵隊を半数近くまで戦闘不能にしていった。武装していないムーダンたちについては、処理は先送りだ。使い魔を封じるためにも本来は最優先で処理したいが、武装していない以上は攻撃できない。その点を除けば、すべては順調に推移していた。
臨時作戦室の置かれた品川グランドセントラルタワーの南隣、インターシティB棟のほぼ真西には、三菱重工業の本社ビルがあった。残業する者もほぼ帰宅したこの時間帯に、ビル七階の明かりの落ちたフロア内を、静かに移動する人影がある。その人影がちらりと、数十メートルの距離があるインターシティB棟の屋上付近を見やる。角度的には死角のはずだが、その人物には何かが視えているらしい。
「今日の相手は人羽教ではなくて公安だという話だが。公安が使い魔を実戦投入するとはな。神社本庁辺りを借り出したか?地の塩の奴ら、どこまで知っててのオーダーだ。」
そう、その人影は不満げに独りごちると、ある会議室の窓際で、手に提げていたボックスの中から、長さと重量のある物体――一挺のアサルトライフル――を取り出した。西に面した窓越しの明かりが差し込む薄暗闇の中で、レーザーサイトを手早く装着する。
「そろそろ、始まるらしいな。」
そう、またつぶやくと、男は首から下げた小型の暗視スコープを頭部に装着し、ハヌル側主力三個小隊と教誨師たちの戦闘を眺め始めた。
(ふん、ハヌルの兵隊は視えていないのか。これでは確かに戦局は一方的だな。未来読みでもいるのか?地の塩内部には。……まあいい、仕事の時間だ。公安は小編成だから、主力を一本間引くだけでガタガタだろ。)
男は、アサルトライフルの銃床を展開してから、非常時脱出用の、本来は災害時に脱出用スロープを降ろすべき窓を少しだけ開けた。ひゅごっという気流音に続いて、地上の銃撃音が大きく耳に飛び込んでくる。
(ほら兄ちゃん、背中、がら空きだぜ……)
滑らかな金属の機構が動く音がして、男は射撃体勢に入った。
(覚えとけよ、公安。巷のスナイパーにも、視える奴がいるってことをさ……)
ハヌルの主力部隊から、戦意というものが失われつつあった。残存している兵隊たちは物陰に潜み、負傷した仲間の救出も満足にできない状況だ。戦場となったインターシティC棟前で戦闘開始時と同様活発に活動しているのは、あと二匹にまで減らされた、使い魔のみである。森田ケイは桜の幹の陰から、膝撃ちの姿勢でそのうちの一匹の頸部を撃ち抜いた。その隙に最後の一匹が最終防衛ライン近くまで走り、森田めがけて数メートルの距離を跳躍した。その様子に一瞬、教誨師は気を取られた。そして、使い魔と森田の方へちらと目を奪われたその瞬間に、ノクトビジョン越しの視界の隅に、見えてはいけない淡い光を見た。
自分のサブマシンガンからのものではない、非可視域のレーザー照準がもたらす輝点が、立て膝の姿勢で迎撃に当たっている森田の背中に落ちている。それが、ゆっくりと頭部の方に移動していく。だが、森田は跳躍した使い魔を撃ち落とす体勢をとったまま動かない。
(スナイプ!どこからなの?)
教誨師はノクトビジョン越しに辺りを見回すが、狙撃者の姿は見えない。逡巡する暇はなかった。
(相手が見えないなら、見える場所に立てばいい。)
即座に飛び出し、ほんの数歩先の、森田のすぐ背後まで走る。ブーツの底を地面に咬ませて急停止する。そして期待通り、自らの胸にレーザーが落ちる。
(来た!)
その位置と森田の位置からレーザーの照射元を瞬時に逆算する。
西側の、ビルの、低層部、防災用の脱出窓?――見えた。歯を食いしばり、腰を落とし、距離にして四〇メートル先の狙撃者に向けて、引き金を引いた。
(そうだ、使い魔たちよ、いい仕事だ。人間の兵隊は当てにならないな。そう、公安のそいつがこの戦場の中心だ。……そいつの気を引いとけよ。)
男は暗視スコープの輝点を中心とした世界に集中し、己の呼吸と鼓動を制御下に置く。男の指が引き金に触れる。今まさに引き金を絞り込もうとした刹那、一瞬だけ指先の動きに躊躇いが生じた。
(!……バカが!)
男はガラスの砕け散る激しい音の中で、動じずに発砲し、そして後方に転倒した。
(分からんな。今のやつ、何で飛び込んできたんだ……。少なくとも、公安の動きではない……。)
教誨師にはしっかりと照準している暇はなかった。狙撃者のいる階の下の階から上方へ向かって、薙ぎ払うようにMP5の銃弾を撃ち込んだ。ガラス窓がその着弾点どおりに砕け散り、狙撃者の人影も大きく後ろに転倒したのを確認した。だが、最後の数発は対象の上方に大きく外れた。
(あーあ、このボディアーマー、拳銃弾までだったわね……)
教誨師の体は、銃弾をボディアーマーに受けた衝撃で後方に跳ね飛ばされ、直近での発砲音に振り向きかけた森田ケイの体に衝突した。教誨師のノクトビジョンが、さらにその数メートル先を転がる。
「ごめん、向かいのビル低層に、スナイパー。たぶん、当てたと思」
森田ケイに抱えられてそこまで言うと、教誨師は極度にむせた。肺が明らかに、損傷している。敵スナイパーの放った弾丸は、拳銃弾までを防ぐグレードだった教誨師のボディアーマーを貫通し、左肩胛骨に当たって止まっていた。最初に銃弾の運動エネルギーを受け止めたアーマーがまず変形し、教誨師の左胸を圧迫、それだけで肋骨が三本折れた。その後アーマーを貫通した弾丸は、減速はしていたため体内で止まったが、それを受け止めた肩胛骨を骨折させている。
もちろん森田ケイにはそこまでのことはわからない。ただ、弾丸がボディアーマーを貫通したらしいことは把握している。
「しゃべるな。落ち着いて、ゆっくり深く呼吸するんだ。」
それだけ指示すると、森田はインカム越しに叫んでいた。
「こちらK2、三菱ビルより狙撃された!敵正体不明!K1負傷、戦闘不能だ。K1の回収を依頼する。」
「S了解、使い魔は制圧したか?」
「制圧済み、残存は敵兵隊一〇名程度と非武装ムーダンのみ。」
「了解。回収班を送るが、増援はない。持ちこたえろ。」
「K2了解。問題ない。」
「SよりE1、E2。状況を報告せよ。」
「E1、敵一個小隊、ほぼ活動停止。」
「E2、敵別働隊を射程内に入れ監視中。」
「S了解……。全班、これより一時、再マスキング領域を解除する。ただし結界キャンセラは維持だ。各員敵に発見される可能性に注意しつつ作戦続行。9とWは地上配置の式神たちを使いK1を回収。」
杉田は、すでに戦局がほぼ決していることを確認した上で、再マスキング領域を形成していた四人の武装式神たち――濃紺、深紫、薔薇、明灰――を教誨師の回収に当たらせることにした。問題は、これまで最終防衛ライン内でマスキングされていた森田や綾川・塩谷・大村の姿が敵の人間からも見えてしまうことだが、それは各人の技量で対応可能と判断、最も厳しい状況の森田にのみ、持ちこたえろと指示をしている。
教誨師をベースまで運び込むと、再マスキング解除の指令が出た薔薇と明灰が駆け寄ってきた。
「お嬢様を頼む。」
二人の式神がこくりと頷く。森田は教誨師が握りしめていたMP5を受け取ると、マガジンを交換し、レーザーサイトを取り外した。先ほどまで銀の弾丸を使用していた自分のサブマシンガンも通常弾に切り替えると、二つの銃を手にゆらりと立ち上がり、ベースから離れた。ハヌル側の兵隊たちは、攻撃が止まったことで遮蔽物の陰から顔を出していたが、敵が一人で姿を見せたことに反応して銃を構える。対する森田は、一瞬、一〇名前後の敵兵が銃を構えるその前に立ち止まるようにして、笑った。笑って、告げた。
「お前等、頭と心臓は撃たれないようにしろよ。……通じないか?머리와 심장을 쏘아지지 않도록 해라って言ったんだぜ?」
その台詞が途切れる瞬間に重なるように、敵の銃撃が始まる。だがそのときにはもう、森田ケイは元の場所には立っていなかった。マスキングではなく森田自身の身体能力で、一瞬敵の目から消えた。そして、それから一分も経たないうちに、インターシティ西側の戦闘は完全に終了した。攻撃対象ではないムーダンまでもが茫然自失となり、抵抗する意欲すら根こそぎにするような、圧倒的な戦力差だった。
(それが、答えなの?それが、あなたのやり方なの?教誨師。安っぽいわね。)
結界キャンセラー起動中も、式神たちの知覚は九条に流れ込んでいた。だから九条も、K1が撃たれる直前からの様子を「目撃」していた。教誨師と近距離にいた、薔薇と明灰の見た状況だ。
「九条さん、心配要らないわ。あのコの星は、明日以降も回っているから。」
水原が告げる。
「それをあいつは知らずに闘ってるのよ?安く投げ出すなって叱ってやらなきゃ。」
九条が熱くなっているのを、水原は少し、不思議に思った。
各小班から現況を告げる通信が入る。
「E1・E3よりC、東側、作戦終了。敵兵およびムーダンの処理について指示を待つ。」
「Sだ。二分以内に警察車両を回す。負傷者を拘束後収容。逃亡する者は放っておけ。」
「E1了解。ただし全員が投降の構え。」
「了解。E2はどうか。」
「ボートに全員が乗り込み戦線離脱の模様。追いますか?」
「捨て置け。」
「了解。敵の離脱を確認後帰投します。」
「K2、報告を。」
「作戦終了、敵負傷者多数。早めに車を回してください。」
「了解。南側道路より通常装備の機動隊員を五名送る。引継後臨時作戦室に戻れ。」
「K2了解。K1は?」
「今到着した。Wがサポートに入る。」
「K2了解。」
臨時作戦室に式神四人がかつぎ込んできたK1、相馬ひなを見て、吾妻は思わず唇を噛んだ。情報通信局から海外での研修を経て公安課サイバーテロ班へと移り、キャリアを重ねスキルを磨いてきたが、吾妻の戦場は当然ながら、常にネットの中であった。実際の戦場に立ったことは、ほとんどなかった。だがそれは、情報戦、電子戦での勝利により、味方の損害を最小限に食い止めたいという思いで貫かれた行動であり、心情的には常に、戦場と直結してきたつもりだった。狙撃者がどのような存在なのかはまだ分からないが、もしそれが地の塩の教会の関係者であったとすれば、それは自分の失点だ。
(森田、済まない……)
吾妻はそう、心の中でつぶやいてから、撤収の準備作業を開始した。
「吾妻、結城。少し相談がある。」
マイクを介さず、課長が吾妻と結城に直接話しかけた。
「君たちには悪いが、これから数日、人羽教の外部とのやりとりについて監視を行ってくれないか。スナイパーのスキルがこの状況に合致し過ぎているのが気になる。」
一瞬疑問の表情を吾妻は浮かべたが、すぐに、あ、と気付いた顔になった。
「スナイパーは再マスキングエリア内のK1やK2が視える人材だった、ということですね。」
「そうだ。霊視のできるスナイパーなどというレアな人材をあらかじめ準備できるのは、自ら作戦を立案・遂行したハヌル自身か、あるいは我々の配備状況を知っていた人羽教のどちらかだ。人羽教の自作自演の線はないだろうが、人羽教自体か、あるいは人羽教内部のスパイ等が、今回の情報を外部に流した可能性を警戒しておきたい。」
「承知しました。では撤収作業をややアレンジして、監視が途切れないようにします。余裕があれば地の塩の方も監視しますが。」
「そうだな、よろしく頼む。」
「舞ちゃん、じゃあとりあえずばらせる範囲はあたしがばらすから、あなた監視作業入ってくれる?お疲れのとこ悪いけど。」
そう、まだできること、やらねばならないことは山ほどあるのだ、吾妻はそう思い、いつもの軽い調子で指示を出す。
「いえ。……あんなの見せられたら、頑張らないわけいかないですよ。ばっちり監視しますから、撤収準備お願いします。」
結城舞が、水原が応急処置を施している教誨師の方に、ちらと視線を振る。ふだんの結城からはあまり予測できない、力の入った言葉に、吾妻も思わず、力が入る。これは、再戦のチャンスなんだと思う。
「あたしが言うのも何だけど、ありがとう。よろしくね。」
「はい。よろしくお願いします。」
二人は微笑みあって、彼女たちの戦いを再開した。
ふと気が付くと、九条由佳と水原環が自分の顔を覗き込んでいた。
(あ、あたし、……)
しゃべろうとして、水原に制止された。
「教誨師さん、肺が損傷しています。声を出してはいけません。」
黒が、ひょっこりという感じで、ひなの視界の中に顔を出した。
「言いたいことがあるなら、それを頭の中で言ってみろ。聞こえるかもしれない。」
そう言って、ひなの手を握った。
(みんなに、迷惑かけてごめんなさいって。)
そう、頭の中で言ってみた。
「みんなに迷惑かけてごめんなさい、で合ってるな?」
ひなが視線だけで頷く。九条が少し厳しい表情で、だが静かに言った。
「あなたが真っ先に倒れてどうするの?あなたが倒れた後、あなたの大事なものを、誰が護るのよ。」
そう言われて、すぐには何も、言い返せなかった。はじめて、教誨師の眼に溢れるものがあった。
「とっさのことだったから、何も考えてなかった。ただ、ケイくんを、護りたかった。」
黒が、一言ずつ確認するように、ひなの言葉を伝える。その言葉にあきれたようなジェスチャーで九条が何かを言おうとしたが、それを水原が制した。
「九条さん、もう、そのくらいで。教誨師さんの体力もそろそろ限界です。」
「……ふん、分かったわ。最後に一言だけ言っておくわ。あなたはまだ、本当の意味で大事なものを、手に入れていない。それが何のことか十分に分かった頃、また、会いましょう?」
教誨師はただ、視線だけで頷いた。水原が話しかける。
「眠かったら、眠ってしまっても大丈夫ですよ。命の方は私が保証します。病院にも同行します。それから、森田さんもご無事です。すぐお戻りになります。安心してください。」
教誨師相馬ひなの記憶は、そこで途切れた。
教団ハヌルが決行した品川・天界人羽教本部襲撃作戦は、こうして終結を向かえていった。S班は、公式には存在しない班だ。夜陰の中で速やかに撤収し、結城が庁舎内で関連団体の監視作業を再開するまで残っていた吾妻が、コンピューターの電源を落とし、ネット接続関連の機器や部品を持ってその場を去ると、臨時作戦室と、S班の存在の痕跡はともに、跡形もなく消え去った。
だが、三〇名を超える拘束者を出し、周辺の建築物等への被害も発生したこの事件は、夜明けとともに、一国の首都で起きた大規模なテロ事件として報道されていくことになる。そして結局のところ、この武力衝突の原因となったイミョンヒの行方はまだ、不明のままだ。
すべてはこれからだと言ってもよい状況だな、そう、杉田はつぶやき、携帯電話を取り出した。
「局長、迎撃作戦、終了です。会見のセッティングを願います。一〇分で戻ります。」
それだけを告げると、通話を終えた。移動する車両の後部座席で腕組みをし、一つふっと、息を吐いた。
※ハングル部分、文字化けしてしまったが確認したいという方は、宣伝のようになり恐縮ですが、この小説のpdf版(以下のURL)の294ページで確認できます。
http://pseudomnesia.web.fc2.com/chaplain_01_07.pdf