第六話 終わる春の始まり
※途中、ほんの少しR15らしいシーンがあります。苦手な方はご注意ください。
二月中旬のある日、久しぶりに、綾川睦月が公安課テロ対策班のオフィスに顔を見せていた。現班長の塩谷仁と、オフィスの隅で、パイプ椅子に腰掛けて話し込んでいる。二人とも一九〇cm近い巨漢であり、隅にいても、室内がずいぶん狭く見える。
「それで、最低でも一人、できれば二人、人員を補充したい。今のままじゃ、ちょっと裁ききれないのでな。」
「用件は分かったが、すぐに現場に出せる人間となると、うちでも貴重な人材ということになる。ほいほいとは出せないぞ。」
「分かってる。だから、出向は来週以降でいいんだ。」
「おいおい、一週待ったら状況が変わるってわけはないんだぜ?」
「ああ。もちろん分かってる。」
「まあいい。ちょっとメンバーの意見も聞いてから返事する。」
「無理を言って済まない。」
「それにしても、組織さんもあっけなくばらけたもんだな。」
「まあな。ただ、ばらけ方が問題でな。組織の規模からすれば、あそこで戦闘に加わっていたのはごく一部、大半は事件後、潜伏を続けている。テロリストがネット上にばらまいた情報のせいで、本名に仮名、顔の画像まで流出してる状況だ。表だっては動けないからな。」
「だったら多少は楽なのか?」
「そうでもない。潜伏するメンバーを束ねようとする連中が現れた。」
「目的は、組織再興か?」
「そうかもしれない。だが、別の目的かもしれない。組織の連中は、十分に訓練された特殊なスキルを持っているからな。これはまあオフレコだが、松本のテロリストも、元は組織の一員だったんだ。それと同等の、つまりあの組織を単独で瓦解させるだけのスキルを持った人間が、組織にはまだいるかもしれない。だから、組織のメンバーには価値がある。潜伏中のプロを探し出すという法外な手間とコストを払ってでも、傭兵として雇いたいというやつも出てくるかもしれない。」
塩谷は、傭兵化の話題よりも、松本の事件の方に食いついてきた。
「いつまで経っても出てこない、松本事件の首謀者か。どんなやつだ。」
「ん?まあ、そうだな。あまり喋れるわけじゃないが、案外近くをうろついてるかもしれないぜ。」
「おいおい、そういう台詞は、たいてい実際にそいつがその辺にいる場合に言う台詞だろ?映画とかじゃ。」
「まあ、そうだな。」
二人は何となく辺りを見回したが、そこにはいつものテロ対策班のメンバーしかいなかった。
「少なくとも、ここにはいな……」
ガチャリとドアが開けられる音がして、ベージュ系のワンピースを着て、やはりベージュ系の大きめのリボンをつけた、身長一二〇cmほどの少女がなぜか、室内に入ってきた。どう見てもこの庁舎で働く人間には見えない。
「むつき、ここにいた。S班のミーティング、始まる。」
「わかった。すぐ行く。」
そう言いつつ、綾川睦月は立ち上がった。少女はにこりともせず、そのまま出て行った。
「お、おい、今のは?」
「ちょっとS班で預かっているお子さまさ。大っぴらには言えないが、調査にも参加してもらってる。」
「親というか、保護者は認めてるのか?」
「そうだな、保護者か。」
ふっと、綾川は笑みを浮かべた。
「父親は昨年九月末に死亡、母親は現在警察庁が非公式に拘留中、ってとこだ。」
「何がおかしい?ん?まさかあれが例の事件の主犯格か?」
「いい線だが、共犯者止まりだ。日本の法律では、裁けないがね。」
「外交官免責特権か?」
「そんな年齢に見えたか?そうじゃない。あれは、人類ではないんだ。」
「……なるほどな。オレは、S班は遠慮しといた方が良さそうだ。」
どうも塩谷は、オカルト的なものが苦手らしい。
「忙しいところ済まなかったな。次に来るときは、おまえの名前が入った異動指令書を持ってこよう。」
「できればご遠慮願いたいね。これでも信心深い方だ。」
「神社本庁の巫女さんともお近づきになれるぞ。いや、近づけるだけだけどな。」
「あいにくそういう趣味もないんだ。」
「それは残念だな。邪魔をした。」
「マフユ、マフユ、私のこと好きなんですねぇ?」
「ん?好きだよ。」
「私もマフユのこと、好きなんですねぇ。」
「そっか、よかった。」
「大学卒業したら、結婚するんですねぇ?」
「えっ?ちょ、ちょっとそれはさあ。まだ、考えてないけど。」
「マフユ、私のこと好きなんですねぇ?」
「それはそうだけどさー。」
「んふふー。じゃー結婚するんですねー」
「ちょっと待てってー」
そんな会話を交わしたあの部屋は、あのアパートは、まだ、残っているのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、竹ノ内真冬は、久しぶりに母校のキャンパス内を歩いていた。卒業してからほんの二、三年しか経っていないはずなのに、街路樹の梢は高くなり、自販機が増え、そして、喫煙所はあらかたなくなっていた。うっかり火を点けてしまったマルボロを、まあいいかとくわえ直すと、すれ違いざま、教員とおぼしき初老の神経質そうな男に、「キャンパス内は歩行禁煙です」と注意されてしまった。都内の人の多い地区なら分かるが、ここはだだっ広い国立大学のキャンパスだ。何だか行儀のいい世界になっちまったもんだと思いながら、少しだけ肩を落として、竹ノ内は歩いていった。
今日竹ノ内は、かつての指導教員に、後輩たちに向けて就職説明会で少し喋ってくれないか、と頼まれて母校に来ていた。竹ノ内が就職した数年前と今では景気の動向も、就職の状況もだいぶ違うが、あれこれ理由を付けて何回か断ったものの、結局は引き受けざるを得なかった。この大学では、竹ノ内のように学部卒でいわゆるキャリア組の公務員になった者は、案外稀少なのかもしれない。あるいは単に、指導教員が頼みやすい人材が他にいなかっただけかもしれないが。
就職説明会の前に教授と会い、軽く打ち合わせることになっていた。だが、その時間まではまだ、少し余裕があった。それで、竹ノ内は、大学附属図書館で時間を潰すことにした。学外者でも、簡単な申請だけで入館できるはずだ。
驚いたことに、エントランス前のロビーの一角、新聞の閲覧所だったはずのところにスターバックスができていた。そこそこ繁盛しているようだが、利用者の半数は学生には見えない。教員や職員の利用客が多そうだった。
(無理もないか……)
竹ノ内はそう、思った。いくらこの二年でキャンパスの雰囲気が変わったとしても、北関東の国立大学に入学する学生の懐事情が、急激に改善するはずはないのだ。
図書館には、至るところに検索用、電子化された資料の閲覧用の端末が設置されていた。
(それじゃ、三〇分だけ遊ばせてもらおうかな。)
近くに監視カメラがないのを確認し、さらに、壁を背にした人目に付きにくい端末の前に座ると、竹ノ内はごく自然な様子でキーを叩き始めた。だが、やっていることと言えば、共有端末のアクセス制限を勝手に解除して、レンタルサーバーに預けてあるハックツールをダウンロードし、実行する、ということだ。この操作だけで、後は勝手に、標的への攻撃が開始される。もちろん、レンタルサーバーを契約しているのも、ツールをアップロードしたのも、それぞれ顔も知らない別のメンバーだ。竹ノ内の役目は、ツールを適宜実行することのみだった。
一応、攻撃対象がどこかは知っていた。だがそれは、依頼主からの情報に含まれていたわけではなく、ツールの表示等から判ったことだ。
(ミョンヒ、お前、いったい何を考えているんだ?)
そう、いつもの疑問を感じつつも、約束の時間が近づくまで、竹ノ内はツールを走らせたまま、表向きはただのネットサーフィンを楽しんでいた。本来はネットサーフィンすらできないはずの端末だが、背後から画面を覗かれなければ、問題にはならないだろう。
竹ノ内は、やがて時間が近づいたことを知ると、使用していた端末のセキュリティを使用前の状態に戻した。各種一時ファイルやログの始末に、もちろんダウンロードしたプログラムのアンインストールも行った。これだけの作業をしても、何かしらの痕跡は残るだろう。だが、そこからこの端末自体が不正アクセスの積極的な証拠となることは難しいはずであり、かつ、不正アクセスの時間帯に端末を触っていたものが誰か、というところまでは、どうやっても辿り着けないはずだ。
作業終了、と心の内でつぶやいて、全く当たり前に、それこそ蔵書の検索が終わってこれから書籍を借りだしにでも行くように、竹ノ内は席を立った。
「ルカさん、また始まったみたいです。これ、どう思います?」
「そうね、三教団同時攻撃ってのは変わらないけど、これは最初の回と同じ感じね?」
「そうですよね。経由してる海外のサーバが九割方同じですよね。」
「少し、懲らしめてあげないといけない時期かもね。」
「カウンターですか?」
「ううん、うちの治安維持部隊にご出座願おうかなって。」
「うわ、かわいそう。でも、犯罪者ですもんね。」
「じゃ。最終発信サーバの地理情報の特定からね。」
「了解です。ん?これ、最後は大学のサーバですよ。北関東の某大学の」
「なんで某付ける必要あるの?まあいいけど。これ、附属の図書館か何かの共有端末のセキュリティを不正に解除してる感じかな?」
「一〇日のは、品川のロッテリアの無線LANでしたよねぇ。最終の接続ポイント。」
「公共回線とか共有端末からアタックするのが趣味なのかしらね。場所が大学だと、治安部隊をこっそり配置ってのも難しいかな。ひとまず、もう少し様子を見ましょ。」
長谷川里香子特製の不正アクセス検出ツールの画面上では、明滅する点線が地球上の数地点を結んでいた。それが、きっかり二分ごとに切り替わる。点線のスタートと最終地点は変わらないが、途中経由するサーバーが自動的に切り替わるのだ。
「経由サーバですけど、これ、自動で変えてきてますね。」
「なんでそんな面倒なことするのかしら。」
「逆探知の警戒、とか?」
思わず吾妻ルカとその後輩――結城舞は顔を見合わせて笑ってしまった。
「ここはネット世界なんだよ?昭和の刑事ドラマじゃねえっての。」
「ルカさん喩えが古くて微妙です~」
「ん、でもそっか。よし。」
「どうしたんですか?」
「今からこの大学まで出張してくるから、後よろしくね」
「えええ?いきなりですね。」
「ええ。昭和の刑事ドラマよろしく、足で追跡してみることにするわ。」
「慣れないことして怪我しないでくださいね。」
「大丈夫。ずっと籠もってたから、ちょっと小旅行してみたいだけかも。」
「税金の無駄遣いだって怒られますよ?」
「まあそうしたら、年休取って後は自腹にするから。電車から出張届けと休暇願両方送るから、課長の顔色見てどっちか出しておいてね。」
「この結城舞にそんな対人スキルがあるとお考えですか?」
「じゃあいいよ、両方出しといて。ほんと困った人です吾妻さんは、とか言えば通じるから。」
「はあ。じゃあそう言えと言われたと伝えておきます。」
「大変よろしい。」
相手は、そこそこのスキルはあるが詰めが甘いタイプだと踏んで、吾妻ルカは行動を起こした。まずは電車に乗り込み、ほんの数分の待ち時間で二種類の届けを作成し結城舞宛に送信した。移動中も、結城舞から情報が入る。他の乗客の視線を一応かわしつつ、その情報を確認する。ただ、車内で端末のモニターを見つめているのは吾妻一人ではなく、そう不自然な作業をしているわけではない。
(一三時二五分、アタック停止、か。今回も三〇分弱で終了、と。……こっちが現場に着くまであと一時間てとこか。何かおみやげ残してくれてるといいんだけど。)
都内から北上する電車の中で、結城舞から届けの件の返信が届いた。
(ん?課長は出張届けの方を受理、と。物わかりいいなぁ。それじゃ、ひとがんばりしますか。でもその前に……)
そうして吾妻は、昼日中の単独客の何人かと同様に、車内で仮眠することにした。ここしばらく、激務続きでろくに休養していない。現場での行動のためにも、多少は脳を休めておくべきだった。
ふと気がつくと、電車は後数分で終点のつくば駅というところまで来ていた。PDAを使って、駅から先のルートを検索するが、やはりバス以外はタクシーしかないらしい。数年前、まだ情報通信局にいた時代に、これから向かう大学の学内ベンチャーの代表に会いに来たことがあったが、その頃と市内の交通の事情は特に変わらないらしかった。
駅の改札を抜け、地上に駆け上がると、まっすぐにタクシー乗り場を目指した。筑波大学附属図書館までと告げると、初老のドライバーは全く無愛想に、無言のまま車を発進させた。
(本人はもう、ハッキングの現場にはいない。問題は、何が残っているかね。まずは図書館を一巡りかしら。それとも、ヒントを探す?そう言えば今日はなぜ、わざわざ筑波大からなんだろう。)
タクシーを降り、図書館のエントランスまでのわずかな距離で、様々な可能性を考えながら、ひとまず結城舞に電話を入れた。
「舞ちゃん、今大丈夫?」
「個人電話やめてくださいよ、びっくりするじゃないですか。」
「びっくりって、あなた友達いないの?」
「いますけど、みんなメールですよ。」
「あー。まあ、ごめん。ちょっと頼みたいんだけど、三教団攻撃犯の推定アクセスポイントから、アタックしているのが単独か複数か、割り出せる?」
「えーと、そうですねえ。単独犯の可能性は否定できないですねえ。同時に二カ所からとか、明らかに移動できない距離を飛び越えてアタック、みたいなケースはないですよ。」
「ありがと。それと、アタックの曜日と時間帯の一覧もらえる?」
「持ってませんでしたっけ?ファイル自体。」
「ごめん、持ってきた端末に入ってなかった。」
「はいはい。サーバに上げてないのが災いしましたね。」
「まあ、上げとくといろいろ問題あるしね。勘弁して。」
「エクセル開けます?パスワード付きで送りますけど。」
「うん、大丈夫。で、パスはいつものあれですか結城様?」
「はい、いつものあれでお願いします。」
「ううむ。おねえさんちょっと勘違いしそう。」
「ふふふ、」
(え、結城さん、ちょっと本気だったり?)
「あたしは同性に興味ないですから。」
「はいすみません大変失礼しました。ちょっと残念だけど、どうもありがとね。それじゃ。」
「はい。それじゃ。」
そんな会話の後、送信されたメールを確認し、添付ファイルを開く。パスワードはいつも通りの、[lovelyMaitan]だった。苦笑しつつ、図書館前のベンチに腰を下ろし、送られたファイルを確認する。
(これ、明らかに都内の人の行動パターンよね。たぶん外回り中の昼食の時間とか、夕食後のちょっとした時間とか、深夜とか、そんな時間帯が多いもの。バラケてるし、わざわざ都内まで出かけてやるなら、もっと昼間なら昼間に集中しそう。初回だけはなんか変な時間だけどなぁ。お休みだったかな。あ、一一日は祝日か……)
これまでのアタックのログを確認し終えた吾妻は、ベンチを後にした。図書館には入らず、学内を探索するらしい。捜し物は、意外とすぐに、手に入った。吾妻が見つけたのは、図書館の隣の建物の前に立てられた、就職説明会の開催を告げる立て看板だった。移動用端末に搭載のカメラで、看板を撮影する。
(説明会の終了まであと二〇分か。こりゃ、運が良けりゃ、ご尊顔ぐらいは拝見できるかしら。ね?厚労省にお勤めの、竹ノ内真冬さん。ん?男性女性、どちらかしら……)
看板に示されたOB・OGとおぼしきゲストスピーカーたちのうち、就職先の名称から都内で生活していると推定できる人物には、竹ノ内の他には女性の名前が一人あった。吾妻はしかし、その女性の方は最初からハッキング犯の第一候補としなかった。女性の就職先はソフトウェア関連の企業の開発部門であり、ハッキング犯の活動記録から読みとれる、ある程度規則正しい生活リズムのようなものを期待しにくいからだ。それに、開発部門の人間の仕業としては、一連のハッキングは芸がなさすぎる。メッセージ性も読みとれない。
(手口と意図があいまいなのよね。こだわりがあるのかもしれないけど、やっぱり素人くささがある。)
そう、吾妻は判断し、ターゲットの第一候補として、竹ノ内真冬を選んだ。
吾妻は、その二〇分間で、図書館で一仕事しようかとも考えたが、まずは就職説明会の会場の方を確認することにした。図書館の方は、ターゲットを確認した後でも遅くないはずだ。構内図を確認し、就職説明会の会場となっている建物に向かって歩き出すと、視界の隅になぜか見知った人影を見た気がした。無視しようかとも思ったが、改めて確認すると、いつも通りのダークスーツの課長と、私服姿(といってもジーンズにTシャツにジャケットという素っ気ないものだが)の綾川睦月がこちらに近づいてくるところであった。
(あちゃー、何この展開……。気分転換にならないじゃない。)
当惑しつつ吾妻も二人の方に近づいていくと、課長が声をかけた。
「出張ご苦労。捜し物は見つかったか?」
「はい。これからそれを確認に行くところです。」
「おまえの捜し物はこいつか?」
綾川が写真を見せる。
「まだ人相性別未確認だけど、こいつは?」
「とある厚労省の職員で……」
「ああ、竹ノ内ね。当たりでしょ?男の子だったのか。」
「合格だ。脱走するように出張しておいてターゲットの把握もできないようだったら、ペナルティものだったんだが。」
課長がにやりと笑う。
「うわ。勘弁してくださいよ。こっちは全部データと推測だけで割り出してるんですから。ここへ来て就職説明会の看板を見つけて、ようやく見当つけたばかりですよ。」
「それだけ、S班のメンバーの行動は重要視されているということだ。」
「それはおっしゃるとおりですが……。で、課長たちはどのルートから?」
「女の線だ。」
「なるほど。こちらは、三教団同時アタックの実行犯の行動パターンを追って。この大学の図書館から、最新のアタックがありましたので。」
頷く課長の代わりに綾川が説明する。
「結城さんにその話を聞いて、こっちもヘリで移動することになった。韓国のある教団とつながりがある厚労省の役人がいるというので、しばらく教団の女の方を張っていたら、竹ノ内が浮上してきたんだ。今日は母校での用事という名目で休みを取っていることまではつかんでいたから、結城さんの話で実行犯が竹ノ内である可能性が濃くなった。で、まあお前さんが暴走したりしないうちに、合流しておこうということになってな。」
「そんなのメールで済むじゃない?」
「そう言うな。人間の追跡は、S班じゃオレの管轄だろ。」
「それに、もし成果なしでぶらぶらしてたら、お前を連れ帰る必要もある。」
「そんなに私は信用できないですか?」
吾妻は笑顔で課長に抗議してみた。
「いや、半分は冗談だが。さて、すまんが雑談はここまでだ。吾妻は念のため、図書館でアタックに使用した端末を特定してきてくれ。事件として立件するかどうかはともかく、証拠は押さえておきたい。こっちは、竹ノ内の尾行だ。」
「了解しました。念のためですが、端末自体は押さえられませんが?」
「かまわない。確認は裏付け的なもので十分だ。」
「了解しました。特定できれば、端末の状態である程度はスキルと手口の解明もできると思います。」
「こちらは、竹ノ内にしばらく張り付く。帰りはこちらも、電車になるだろうな。」
そうして三人は、知人同士が立ち話後に分かれるように、笑顔で、手を振って行動を開始した。当然それは、カモフラージュ目的だ。
図書館の受付まで来ると、吾妻はごく当たり前に入館手続きをした。氏名と電話番号を書くだけの簡単な申請で、臨時入館証が発行される。申請書は残念ながら一名ごとのカードになっており、竹ノ内の入館は確認できなかった。そのまま、ぐるりと館内を見回し、端末の配置を確認する。
(こんなの令状持ってりゃすぐなんだろうけどねぇ。にしても、どうしたらいいんだろ。確かにあたしは捜査や尾行には向いてないんだよねえ。)
そう思いつつも、ひとまずは竹ノ内の行動と心理を推測しつつ、条件に合う端末を探し始めた。
(人目に付かず、カメラもなく、ってなると、このフロアにはなさそうね。ん?新館てのもあるのか。)
手早く状況を確認しつつ、表向きは館内を探索するありきたりの来訪者に見えるように振る舞う。場に溶け込むことは、吾妻のような職業には必須のスキルだ。ただしここは、のんびりとした雰囲気の大学附属の図書館でもあり、特に意識しないでも不審の目を向けられることはなさそうだった。
新館の奥に、移動式の雑誌書架があった。その背後にひっそりと、検索用、電子化資料閲覧用の端末が一台ずつある。ひとまず壁を背後とした端末の前に座る。
(まあひとまず、ここからかな……。一発で当たりってことはないけど、端末の名称はええと、あれ、一番違いね。上出来上出来。なるほど、この名前は、電子化資料用のシリーズか……)
辺りを見回すと、やはり壁を背後とした位置にもう1台、電子化資料閲覧用の端末があった。
(さてと、当たりかな?……ふん、ビンゴじゃないの。よくできましたあたし。さて、真冬くんのオイタの痕跡はないかしら。)
吾妻は一気にシステムのログを画面上に展開させると、めぼしい情報をさっさとファイル化し、持ってきたフラッシュメモリに移した。後は、結城舞がまとめてくれたハッキングのデータとつきあわせて、帰りの電車でじっくり解析だ。
(にしても、今見えた範囲だけでも、ふつうのwindowsユーザのやり方よねえこれ。自分じゃシステム組めないんだろうなあ、竹ノ内くん。つまんないな。もっと強力なキャラが出てこないかしら。)
そう思いつつ、長谷川里香子や押野亜紀、そして九条由佳と彼女の使い魔たちのことを思った。
(まああのクラスは、特殊すぎだわね。)
その後ルカは、わざわざ学外から入館してすぐに退出するのもまずいだろうという判断から、こっそり副業としている機械翻訳関連の書架で一五分ほど時間を潰すことにした。
(久しぶりにお勉強しますかね。)
副業と言っても半分は趣味、半分は出身大学の研究室のお手伝いで、大した金にはならない。そのかわり、納期不問のパズルのような課題をもらって、手の空いたとき、気の向いたときに解析プログラムを組んで、研究室に送るだけだ。たまに、少額の謝金が振り込まれるが、吾妻の名前がプログラム開発者のリストに載ることはない。仕事との兼ね合いで、それは遠慮していた。
(さてと、……。スタバでコーヒーでも買って帰ろっかな。)
思ったより時間が経っていた。一つ伸びをしてから、吾妻は退出の準備を始めた。
忙しい神社本庁での職務の合間を縫って、水原環が警察庁にやってきていた。水原は公安課長の依頼により、二月に入ってからも、週に一度くらいのペースで九条由佳との面談を続けている。九条はヨーロッパ、水原は東アジアというフィールドの違いはあったが、霊的なスキルを持つものどうし、海外経験の豊富な者どうし、話も合う。神社本庁としても、九条の持っている情報は貴重だ。表向きは、とある事件の被疑者とその事件に関わりを持つ一市民という間柄ではあったが、二人の間には、すでにある種の信頼関係とでも言うべきものが成立していた。
この日は、面談に公安課長も立ち会うことになっていた。その用件はもう、九条も、水原も知っている。
「それで、どうなさるのですか?これから。」
「もう、決めたわ。」
「決めた、というのは、すると……」
「ええ。長いものに巻かれてみることにするわ。」
「そうですか……。窮屈にお感じになるかもしれませんけれど。」
「大丈夫。組織の中で働くのは慣れてるわ。それに、」
九条はふと、足下を駆け回ったりパイプ椅子に座って足をぶらぶらさせたりしている、一〇人を超える少女たちを眺めた。
「仕事があれば、この子たちの退屈しのぎくらいにはなるでしょう?」
それを聞いて、水原はふっと笑みを浮かべた。
がちゃりと二人がいる小さめの会議室のドアが開いて、課長がやってきた。
「水原君、いつもご足労をかけます。」
「いえ。」
水原が静まりかえった印象の微笑みを浮かべて返事をする。
「それで、九条君。考えは決めていただけましたかな?」
「はい。決まりました。センターへの登録の件、よろしくお願いいたします。」
「そうですか。承知していただけて何よりです。このまま公安にいていただくことができればよいが、さすがにそれは、松本の事件のことがあり、できません。センターでの今後のことについては、センターの中枢にいる人物に、話を通しておきます。」
承知しました、と言うかわりに、九条はこくりと肯いた。
「ところで水原君。本庁も人手不足と聞くが、どうかな。」
「はい。おっしゃるとおりですが、」
彼女らしくない、少しきょとんとしたような表情を浮かべて、水原は答えた。
「これからは、神社本庁の扱う領域にも明るい、腕っこきのエージェントがセンターにいます。せいぜい、使ってやってください。」
まるで身内を気遣うような気の配りようだ。センターで九条が仕事にあぶれることがないように、同時に水原たち神社本庁のスタッフの負担が少しでも軽減されるように、杉田課長なりに取りはからったものらしい。
松本の事件のような比較的大きな事件の首謀者を隠蔽し通し、それだけでなくセンターやS班の戦力に組み込むという豪腕ぶりは、普段の実務的で物静かな課長には似合わないとも思えた。だが、S班結成以降、たとえば松本での瀬田燎源暗殺の際にも、常にこの男が現場の指揮を執っている。それだけ、警察庁内での発言力、影響力は強いのだろう、そんなことを、九条も水原も思った。そして、
「ご助言、ありがとうございます。九条さん、これからよろしくお願いいたします。」
「こちらこそ、お手柔らかにお願いしますね。」
そんな、少し他人行儀な挨拶をして、微笑みあった。
これで、主に教団側に多くの死傷者を出した神契東天教の事件の詳細は、一切闇に葬られることが確定した。警察権力には不名誉な未解決事件となったが、そのかわり、あのような事件で失うには余りに惜しい戦力を公安課長は確保し、気脈の通じたセンターに預けることができたということになる。
(これでもまだ、足りんだろう。次の嵐は、小さくはなかろうからな。)
心の中でそう独りごちると、なぜか自分の顔をじっと見上げていた黒いワンピースの少女の頭を撫で、
「水原君、あとはいつも通り頼みます。」
と一声かけてから、その部屋を後にした。
「ばいば~い」
と、少女たちの誰かがその背中に声をかけた。
相馬邸は、日一日と春めいてくる朝の気配の中に佇んでいた。朝の早い使用人達よりはやや遅く、この館の主の娘、相馬ひなも、自らのベッドの上で目覚めていた。ひなにとっては特段に早い時間というわけではなかったが、枕元の時計はまだ、午前六時前後の時間帯を表示している。
「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
ひなが起き出した気配を察したのか、寝室の扉越しに声が響く。
「ええ。どうぞ」
「失礼いたします。」
ドアの開く音がして、相馬ひな付きのメイド、青木はるみがワゴンを押して寝室に入ってくる。目覚めのお茶だ。もちろん、お茶と言っても、コーヒーだったが。
「おはよう。」
「おはようございますお嬢様。」
いつも通りの朝、いつも通りの光景だ。ただ、今朝は少しばかりいつもと違うことがあった。青木はるみが、「武装」している。いつも忍ばせているダガーナイフの他に、拳銃を携行している。もちろん銃自体は見えないが、エプロンの下に隠された拳銃の体積と重量が、わずかながら、そのエプロンの表に響いている。
「はるみさん、その装備……」
「はい。お嬢様がお待ちになっている方が、今日いらっしゃるかもしれないとのことですので。」
「大叔母様が?」
「はい。」
「そう……。」
相馬ひなの大叔母とは、嶺一郎の叔父の元に嫁いだ女だった。島根の山あいの小さな社の出身で、今は秩父のこれも山あいに、実家と似た景色の土地を見つけ、隠居している。伴侶であった大叔父はすでに他界しており、大叔母自身もかなりの高齢だったが、相馬の家に変事がある度に、適切な助言を行ってきた。実際、この大叔母こそが、相馬の家の家業を存続させる最重要人物でもあった。だから、ひなと九条由佳との間に因縁が生じてすぐ、森田ケイはこの大叔母に対して、執事長、そして主である相馬嶺一郎を通じて助力を乞うていた。それ以降、特に音沙汰もなかったのだが、昨日の午後、嶺一郎のところに直接、電話があったのだという。
「私たちが旦那様からそのことを伺ったのは、昨夜遅くのことでしたので、お嬢様にはお伝えいたしませんでした。」
「かまわないわ。それより、一三人分のお茶の用意をお願いね。先方が許せば、あなたや森田も同席してもらうけれど。」
「かしこまりました。ですが、」
「分かってる。向こうがその気なら、相手するしかないわ。そちらの準備もよろしくね。」
「承知しました。それと、学校の方はいかが致しましょうか。」
「あなた達が許してくれるなら、いつも通り登校したいのだけれど。もちろん、授業が終わればすぐに帰るようにするわ。」
「わかりました。その件は執事達とも相談いたします。」
「そうね。確認してちょうだい。まあ、向こうは分別ある大人だから、学校でどんぱちって選択肢はないはずよ。曲がりなりにも、一度は一緒に闘った間柄、だしね。」
「承知しました。九条様が、午後のお茶の時間に、穏便にいらしてくださるとよいですね。」
「そうね。」
この日、桜ヶ丘女子高等学校から最寄りの駅に下る坂道で相馬ひなを待っていたのは、森田ケイではなかった。黒いシンプルなデザインのワンピースの上に、別珍の黒いジャケットを着て、髪にも黒い別珍の大きなリボンを着けた、一人の少女だった。リボンの下の髪は白く、肌はさらに白かった。ひなは、その少女の姿を認めるとほほえみを浮かべ、小走りに近づいた。
「なんとなく、そんな気がしてたんだ。会えるとしたら、ここじゃないかなって。元気だった?」
そう問われた少女が答える。
「ええ。お前も、元気そうね。」
「うん。今日は、うちに来てくれるの?」
「お前が許すなら。九条が、それを確認してこいと。」
「由佳さん、今は?」
「後の一一人と一緒に、お前の屋敷の近くにいるはず。仮にお前が来訪を断っても、」
「その場合はどうせ、強行突破してくるんでしょ?」
なぜだかうれしそうに、ひなは訪ねる。
「ええ。」
「了解。じゃ、とりあえずあなたはあたしと一緒に、うちまで移動するってことで大丈夫ね?」
「それでいい。」
ちょうどそこへ、森田ケイのインプレッサが到着した。二人は森田に後席のドアを開けさせると、さも当然のように並んで乗り込んだ。
「ちょっとサスペンションが硬めだけど勘弁してね。」
それを聞いてケイの眉が軽く吊り上がる。
「ふわふわ揺れるよりは、硬い方がいい。」
「あれ、乗り物に弱いとか?」
「いや。機能性の高いものの方が、快適さを売りにするものより好きなだけ。」
森田ケイの表情に、少しだけ笑みに近いものが混ざるが、後席の二人は気づかない。
「式神なのに、こだわりがあるのね。」
じろりと、白くて黒い少女がひなを睨む。
「悪い?」
「いえ?」
「道具の善し悪しについては、これでも多少、ドクターと議論したことがある。」
「そう……、ドクターと。」
「……ドクターのことは、九条から聞け。」
「そう、するわ。」
「今は、気にしなくていい。」
「あんた、意外と気を遣う質なのね。」
「おかしい?」
「いえ、ありがとう。」
素直に、教誨師が礼を言う。少し車内に間ができて、またひなが口を開く。
「……そうそう、式神ちゃん達の中では、クロ、あなたがリーダーなの?」
「そうね、……我々にとって個性というのは、役回りそのもののことかもしれない。黒い色でしるしづけられたものが、リーダーとして機能する。しばらくは、あたしが黒で、リーダーを続けているけれど、他のコだって、黒が割り当てられれば、リーダーとして機能するはず。」
そう言いながら、何か少し考え込むような表情を見せる。それがひなには少し意外だった。
「色にはやっぱり、それなりに意味があったのね。」
「ええ。黒、青、赤、白の四色が基本色で、どんな作戦の際にも集団の基本機能を担ってる。あとは、まあ、……いろいろ。」
「いきなり適当になったわね?」
「……まづ黄の位にて四方の聖獣の座を一月ずつ東西に展回せしめ此岸世界を十と二の座に分かつべし。而して後、おのおのの座に聖なる名と役目とを与え、玉を護るべき防禦の砦と為せ、みたいな話が聞きたいのか?」
急に低く、威圧感のある口調になって、少女が訊く。
「うーん、そうね、ご遠慮しておくわ。」
「そう、それが賢明。」
なぜだか古くからの知り合いのように、二人は笑い合った。少女の声も、元に戻っていた。だが、もしかすると、今、黒が語っていたのは、ドクターその人の口調なのかもしれないと、ひなは思った。あの、飄々とした語り口とは違う、術の行使の際の、プロとしての口調……。
インプレッサはやがて、都内でも緑の多い一角に差し掛かった。相馬の屋敷までは後少しだ。
「いた。」
黒がつぶやくように言う。だが、ひなには見えない。
「車、止めた方がいい?」
「その必要はない。みんなも、遠足気分なんだろう。楽しそうだった。しばらく、自由に外出もできなかったからな。それに、すでに九条にはお前と屋敷に向かう旨、伝えてある。」
「どうやって、って聞くのはきっと野暮なのね。」
「まあ、電波ってことでかまわない。実際我々は、電気も磁気も操る。」
「電波ねえ……。こっちも多少勉強したけど、凄いのねあなたたち。」
式神の少女は特に何も答えなかった。ただ、じろりとひなを見ただけだ。にっこりとひなは笑って、それから前席の森田に声をかけた。
「森田、表門のところで私たちを降ろして。九条さん達本隊と合流するから。あと、あなたも、用事がなければ同席しなさい。もちろん、お茶って雰囲気になったらだけどね。」
「承知しました。」
やがて、相馬家の門扉の前で、彼女たちは再会した。小春日和の日、松本の事件の日、これが、二人が会う三度目の午後であった。耳を澄ませば、都心では珍しい鶯の聞こえる、そんな午後だった。
「しばらくね。」
なぜか少し照れくさそうな表情を浮かべて、九条由佳がひなに声をかける。今日の九条は、グレーのシンプルなパンツスーツに春物のコートを羽織っていた。初めて出会った日、九条は黒主体の服装だったが、そのときに感じた威圧感のようなものが、今日は感じられない。制服姿のひなと向かい合うと、教師と生徒のようにも見えた。ただし、二人の間には、まだ数メートルの距離がある。
「そうね、久しぶり。その分じゃもう、身体の方は……」
「ええ、もう何ともないわ。るつ子様と水原さんの力を分けてもらったのよ。あのくらいの傷、治らなければおかしいわ。」
「よかったわ。……それで、今日のこの後の予定なんだけれど。」
「ええ、そのことなんだけれどね。」
「やっぱり、あたしたち、闘わなければいけないのかしら?」
相馬ひなの背後には、いつの間にか森田ケイと、それから青木はるみが立っていた。きっともう屋敷の者たちも、そこここの物陰や植え込みの葉陰に潜み、事に備えているはずだ。対する九条の背後には、思い思いの格好をした、一二人の少女が並んでいる。
シンプルな黒のワンピースに別珍のジャケットを羽織った黒、その黒と色違いで同じデザインの、暗い紫のワンピースとジャケットを着た深紫。深紫は黒と腕を組んで嬉しそうな表情だが、黒は少し迷惑そうな顔だ。濃紺とインディゴは、色味の違うデニム地の上下を着て、手をつないで立っている。青は明るい青いシャツに紺のタイ、いくらか青みの入った黒のジャケットにカーキ色のハーフパンツ。バイオレットは、茶のブーツにデニムのホットパンツ、バイオレットのキャミソールに、フードにファーが付いたダークグリーンのジャンパー。ヘッドフォンを首にかけている。一見したところ担当色が分からないくらいの服装だ。その傍らにそっと寄り添って立つ赤は、白い毛糸のキャップに手編みらしい赤のセーターを着て、薄茶色のパンツを履いていた。一二人の中ではただ一人、大人が安心して想像できる子供らしい格好であるとも言えた。ベージュと薔薇とグレーは、めいめい割り当ての色に同系色の小花模様の生地のワンピースを着ている。三人とも、パニエがそのスカートを膨らませ、襟回りや袖口にはフリルとレースの装飾が施された、いわゆるヴィクトリアン調のドレスだ。白は、白地に薄いグレーのレースが施されたロリータ趣味のワンピース、明灰はその反対に薄いグレーに白いレースが施されたワンピース。彼女たちの装いは、色彩だけでなく、服装自体も多彩になり、一気に賑やかな様子になった。
その一人一人を、教誨師は見た。誰からも敵意は感じられなかった。さらに、もう一度、九条の顔を見た。まるで、子供たちを引率する教師のような、九条由佳を見た。
そしてふっと、九条が笑った。
「あたしにその気があるなら、あなたの留守にこの屋敷を襲うか、学校であなたを襲うわ。あなたにはきっと、家も学校も、大事なものに違いないだろうから。」
「そうね、その通りだわ。じゃ、そうすると……」
「あなた、言ったでしょ?初めて会った日に。お茶に行きましょうって。」
「ええ。」
「そのお誘いに、乗ってみようと思うの。ただ、この子たちもあなたに会いたがっていたから、二人でどこかへ、っていうわけにはいかないのよね。全員連れていると、目立ってしまうし。だから、」
「うちで、お茶を?」
「ええ。お呼ばれ、してもよろしいかしら?」
どこにも翳りがない、朗らかな笑顔を浮かべて、この屋敷の娘は告げた。
「もちろんよ。あなたが来てくれるの、待っていたの。それから、式神ちゃんたちもね。あたし……」
「お嬢様、お話はお茶を召し上がりながら、ということでいかがでしょう?」
青木が、何かを言いかけて止めたひなの様子を見て、そう言った。
「そうね。じゃ、みんな、あたしの部屋に行くわよ。この人数では少し狭いけれど、うちの応接室は使うとなるとだだっ広くて面倒なのよね。」
ひなは、誰にも訊かれていないことを口にしつつ、集団に先立って歩き始めた。正直、ほっとしていたのかもしれない。うれしかったのかもしれない。
服の系統も色彩もバラバラの、だが、同じ顔をした一二人の白い少女たち。そして、それとやはり同じ顔の、黒髪の女性、九条由佳。青木はるみと森田ケイ。そうした者たちを引き連れて、相馬ひなは自らの屋敷を歩き始めた。
正面玄関から、屋敷の表向きの機能が集まる南棟を抜けて、東側の回廊へ。そして、北棟の奥の階段を上がり、二階にある自分の部屋まで案内する。ひなの部屋は居室と寝室を備え、かつその隣には、専属メイドのための部屋までが用意されている。寝室は、廊下には直接の出入り口を持たず、かつこぢんまりとして使い勝手のいいバスルームが備えられていた。居室の方は執務室として使われ、普段はゆったりとした応接用のソファとひなの執務用の机(とは言ってもまだ高校生の身分であるひなは、ふだんここで学校の宿題をするくらいで、特にそれらしい使い方はしていない)が置かれていたが、今日はひなが学校に行っている間に、お茶のためのテーブルや椅子が運び込まれ、すっかり様子が変わっていた。
その様子を確認すると、ひなは青木はるみに礼を言った。
「ありがとう。すっかり別のお部屋みたいね。大変だったでしょ?」
「いえ、机を動かしてテーブルを入れたくらいでございますから。」
それからひなは、部屋のドアの横に立つと、廊下の九条達に声をかけた。
「由佳さん、それから式神ちゃんたち、お入りくださいな。あんまりちゃんとしたおもてなしはできないけど、お茶とコーヒーとお菓子は買い込んでおいたから。もちろん、チョコレートもね。」
「あなたの中では、わたしたちは食いしんぼキャラになってるみたいね?」
「ええ。あたしと同じくらいにはね。さ、どうぞ。」
青木は、一二人の式神たちを見たとき、いったいどんな事態になるのかと、正直なところ困惑と不安を感じた。実弾が飛び交うような事態にならなかったのはまずはよかったが、それでも、この特殊な客人たちにどう接すればよいのか、一人のメイドとして戸惑いを感じていた。
この屋敷唯一の子どもであったかつての相馬ひなは、どこか友達付き合いというものを最初から諦めたようなところのある子どもだった。桜ヶ丘の中等部に上がってからも、誰か友達がひなを訪ねてきた、という記憶はない。
それが、いきなり一二人の、しかもヒトではない少女たちの来訪だ。森田ケイともう一人、屋敷のメイドに張り付いてもらっているとは言え、行儀がいいかも分からない、もっと言えば、どんなスキルを持っているかも分からない、そんな一二人の相手をすることは、メイドとしては心配なことの多い状況であった。
「そう、心配することもないさ。彼女たちは、九条由佳の言うことは必ず聞くはずだ。」
珍しく不安そうな青木の様子に気づいたのか、森田ケイがそう小声で声をかけてきた。九条由佳が、その会話を聞きつけたのか、そっと少女たちに向かって言った。
「ほら、あなたたち、席を決めてお座りなさい。」
少女たちは少しだけなにやら相談すると、めいめい、好きな席を決めたようだ。青木ともう一人のメイドと森田、そしてひなが椅子を引いてやると、物怖じしない物腰で、少女たちはすまして席に着いた。
最後に九条由佳がひなの隣の席に座り、ひなも、自分の席に着いた。
「それじゃ、改めて。ようこそ、相馬家へ。由佳さんだけじゃなくて、みんなも来てくれて、嬉しいです。」
ひなはそこまで言うと、うつむいた。それからまた顔を上げて、言った。
「由佳さん、ありがとう。あたしのこと、許せないと思ってるでしょうね。それは、それでいい。いつか、闘えと言われれば、それに従ってもいい。でも今日は、そうした話も、そうでない話も、いろいろ話して、昔のこと、これからのこと、教えてください。」
森田も、青木も、自らの主の言葉の最後の部分に、ぴくりと反応した。自分たちの主人は、ふだん口には出さないが、先の読めない状況、そして自らの未来への不安を抱えていると、改めて知らされたからだ。式神達は、ただ、行儀よく、ひなの話を聞いていた。ただ一人黒だけは、ひなに微笑んで見せたが。
そして、九条は、ふっと息を吐いてから、やはりほほえみを浮かべて、こう答えた。
「こんなに準備していただいて、ありがとう。ほら、そんなに硬くならないでよ。お招きくださった主がそんなじゃ、客はくつろげないわ。それより今は、わたしたちとあなた方、皆が揃っている、ある意味奇跡みたいな時間なのよ?しっかり、楽しんで、味わっておかなきゃ。」
ひなは、ぱあっと、明るい表情を浮かべた。
「そうね、そうしないと、もったいないわ。はるみさん、皆さんにお茶を。」
「はい。コーヒーと紅茶のご用意がありますが?コーヒーの……」
「コーヒー!」
式神一一人が声を揃えた。リーダーの黒も、声は出さなかったが、少し遠慮がちに、万歳している皆と一緒に片手を挙げていた。
「由佳さんは?」
「あたしだけ、紅茶でもよろしいかしら?」
「ええ、もちろん。」
「あのコ達、コーヒーとゴディバにものすごく執着があってね。」
「それは、ドクターの?」
「たぶんね。」
「由佳さんが紅茶なのは?」
「そうね、強いて言えば、ランズエンド時代の名残かしら。でも、その前から、紅茶が多かった気もするわ。賀茂くんにもよく、淹れさせてた……それはそうと、あなた、着替えていらっしゃったら?制服のままが流儀、というのでなかったら。」
「あ、忘れてた。それじゃ、少し失礼させていただいて。はるみさん、ちょっと着替えてくるわね。」
「かしこまりました。その間に、お茶の方整えておきます。お嬢様は?」
「いつも通りよ。」
そう言うと、ひなは隣の寝室に数分消えた。
黒のシンプルなワンピースに着替えたひなが寝室から戻ってくると、ケーキとチョコレートとコーヒーを前に、式神たちがフォークを握りしめ、目をきらきらさせて待っていた。
「もしかして、待たせちゃった?ごめんね?」
「大丈夫。ちょうどぴったりくらい。」
黒が答えた。青木が、まるで二人は昔からの友達みたいだなと思っていると、
「あなたたち、ずいぶん仲がいいみたいね?」
と九条も笑った。
「そりゃ、ね。クロはあたし護って特攻してくれたものね。あのときあなた、何発くらったっけ?」
ひなの言葉を聞いて、青木はるみが目を丸くする。
「覚えていない。それと、勘違いしないで。あれは、九条を護るため。」
「わかってるわよ。でも、かっこよかったわよ?」
心なしか、黒の白い頬が赤く染まっている。何か答えようとして、黒の唇が動く。だがその瞬間、黒の隣に座っていた深紫が叫んだ。
「おなかへったー!」
皆が一斉に笑った。
「ふかむらさき、やきもち。」
そう、ベージュがぽつりとつぶやくと、また皆が笑った。
「ごめんごめん、それじゃ、始めましょ?式神ちゃんたち、どうぞ召し上がれ」
「いただきま~す!」
一〇〇年を超えるこの相馬の屋敷の歴史でも滅多にない、奇妙で楽しいお茶会が始まった。
三月始めのとある週末、少し肌寒い薄曇りの午後だった。傍目にはどうということのない、地味な二人連れが歩いていた。女の方は、一見して半島系かと思わせるような顔立ちだが、そのようなことは、この街では特段珍しいことではない。二人に変わった点があるとすれば、それは、交わされる会話の内容だけだ。
「警察がオレを追ってるって?」
「正確には公安なんですね。」
「似たようなものだろ?」
「たちが悪いという点では警察より上なんですね。」
二人の前方から歩いてきた数名の集団とすれ違うために、二人の会話は一時途絶えた。
竹ノ内真冬とイミョンヒが歩いていたのは、秋葉原の中央通りだった。しかしすぐに、路地に折れ、表通りからは二本ほど裏の通りとなる殺伐とした界隈の、とある雑居ビルの中に消えていった。どちらも慣れた足取りであるところから見ると、二人はしばしばこのビルに来ているらしい。
数分後、二人はそのビル五階の、がらんとした空き部屋のような部屋にいた。軋む窓を開け放ち、春の昼の明るさを取り込もうとする。しかしすぐ目の前も別の雑居ビルだったことに気が付き、竹ノ内はうんざりした表情で一度室内を見回し、窓を閉めた。それから、ようやく二人は会話を再開した。だが、その会話は、すぐに途絶する――。
「それで、どうすればいいんだ?」
「あなたの役目は、終わりなんですね。」
「ん?何だって?」
「あなたは、ここで、さよならなんですね。」
そう言われて、竹ノ内は二の句が継げなかった。鳩尾から深々と、イミョンヒの得物が竹ノ内を貫いていた。
「さよならなんですね。」
そう繰り返したイミョンヒの目には光るものがあったようだが、もはやそれも定かではなかった。埃の積もった床に崩れ落ちた竹ノ内真冬を、イミョンヒは振り返らずに姿を消した。得物に付いた指紋も拭わず、返り血を受けたコートもそのままそこに脱ぎ捨てていった。
いかにも屈強で敏捷そうな男が一人、ビルから出てきたイミョンヒの後を追ったが、何気ない様子で小さなパーツショップに入ったイミョンヒを店外で待つうちに、イミョンヒは裏口から消えた。
その連絡を受けたもう一人の男が足音を忍ばせて雑居ビルの五階に上がったときには、竹ノ内真冬はすでに出血性ショックで絶命していた。
「逃げられた?」
「ああ。オレと一緒に転属になった後輩の大村に任せていたが、パーツショップの裏口から消えたらしい。」
「男の方は?」
「刃渡り二〇センチ級を鳩尾から。」
「抵抗した様子は?」
「ないさ。まさか、って顔して血の海に沈んでたよ。」
「了解。もう着く。」
そう言って携帯電話を閉じ、無造作にポケットに放り込むと、綾川睦月は五階までの階段を駆け上がった。エレベータには使用禁止の張り紙があった。
「竹ノ内、……手を出した女がまずかったか……」
「こいつに何か思い入れでもあるのか?」
S班のメンバーとなった塩谷仁が綾川に聞く。
「いや全く。ただなあ、どうも切なくてな。」
「ま、そうだな。」
肉体派だが一応は竹之内と同じ公務員の端くれでもある巨漢二人が揃ってしんみりしていると、課長がやってきた。
「ハヌルは動くかもしれんな。」
「何か兆候でも?」
「根拠はない。だが、竹ノ内のような末端からハッキングの情報が漏れるのを嫌うだけの理由はあるはずだ。吾妻と水原君の出番ということだな。」
綾川と塩谷が黙っていると、
「後は警視庁の方にお任せして、引き継ぎが済み次第お前等はおとなしく引き上げろ。次の任務は情勢分析の上、二時間後に作戦室で伝える。吾妻も呼び出せ。」
そう言って、課長は現場を離れた。
金曜の夜、久々に自宅に戻った吾妻ルカは、長谷川里香子の襲撃を受けていた。どうせあんたのことだから家事全般滞ってるんでしょ、今日うちに帰れるなら、ついてってあげる、そう言われて、強引に乗り込まれた。強引だったが、拒む理由はルカにはなかった。
「あの、」
ルカのエプロンを借りて、散らかってはいないがあまり使っていなかったキッチンを磨きながら夕食の準備をしている里香子に向かって、ルカが背後から声をかける。
「何?」
「ごはんもうれしいんだけどさ。ちょっとお願いしたいことが。」
「そのお願い、断ったら、どうする?」
ルカに背を向けたまま、調理に使った小さめのフライパンを洗いながら、里香子は答えた。
「断られても、我慢できないと思うけど。」
里香子は、仕方ないなとでも言うように、ふっと笑った。
「いいわよ、あたしもそういうつもりで来てるし。ご飯食べたら、あ……」
ルカが里香子を背後から抱きしめ、鼻を里香子の頭部に押しつけるようにして、髪の匂いを嗅いだ。ルカは女性の中ではそこそこ大柄な方、そして里香子は小柄だったから、頭一つ分程度の身長差がある。
「里香子って、相変わらずやらしい匂いよね。」
「そんなこと言ってくれるのは、あなただけよ。」
部屋のどこかに熟れたフルーツを置いてあるような、それでいて、生々しいヒトの汗や血の匂いもするような、そんな匂いを肺一杯まで吸い込んで、堪えきれなくなったように、ルカが、エプロンの脇から手を入れて、ブラウス越しに里香子のたっぷりとした胸をまさぐる。小柄だが、里香子はルカよりはるかに女性的な体つきをしている。
「ああ……」
声を上げたのはルカの方だ。切ないほどの欲情に襲われたらしい。里香子の胸を背後から触りながら、少し焦点の定まらなくなった眼で里香子のつむじを見つめた。そしてそこに、つと、赤い舌先を這わせた。
「ん……」
今度は里香子が小さく声を上げた。眼を閉じ、ルカの舌先の動きに連動するようにして、身を捩る。がらんと音を立ててフライパンがシンクを転げても、二人の耳には入らないかのようだった。
里香子が片手を挙げ、自らのつむじを味わっているルカの髪に触れる。ルカのつむじを探り当て、そっと触れる。
「そこは、まだ、触っちゃ、だめ」
ルカが、甘えた声で言う。
「じゃ、ここは?」
見当をつけて、うなじの方に指先を滑らす。それを、首を振るようにして交わしながら、ルカは里香子のブラウスのボタンを外し始めた。もう少しでボタンごと引きちぎってしまいそうな勢いだ。
「がっつかないの。」
エプロン越しにルカの手の甲をぴしりと叩く。
「だって、里香子とだとあたしおかしくなるの、知ってるでしょ?」
「そりゃ、ね。」
「里香子のつむじ、ぬれぬれだよ?」
「あんたが舐めたからでしょ?」
「うん。あたしが濡れさせたの。」
「もう……。ごはん、遅くなっちゃうよ?」
「ごめん。我慢できない。」
里香子がルカの腕の中で振り返り、ルカの顔を上目遣いに見上げながら、言った。
「いいわ。そのかわり、たっぷりお仕置きしてあげるから。」
「お仕置き」ということばに、一瞬びくんとルカが反応した。羞恥と欲情の入り交じった表情で、ルカはこくりと頷いた。
普段は滅多に鳴らない部屋の電話が鳴ったのは、翌日の昼過ぎのことだった。朦朧とした意識のままで電話に出ると、
「ケータイ切ってるのか?」
と綾川の声が響いた。
「う、ああ?何?」
「なんだ、寝てたのか。酷い声だな。S班、非常召集だ。可及的速やかに作戦室に集合。」
「うへ、了解だけど……。何があったの?」
「竹ノ内が殺された。」
「……了解。なるべく早く行くわ。」
電話を切り、部屋を見回すと、二人の寝乱れた跡の他は、食事の後かたづけも全部してあった。だが、里香子の姿がない。耳を澄ますと、シャワーの音が聞こえた。元から何も着ていなかったルカは、そのままバスルームへ突入した。
「里香子ごめん、うちの班非常召集かかっちゃった。」
シャワーの中にルカも入りながら、里香子を抱きしめた。里香子は首を捩り、ルカにキスをしてから答えた。
「残念。でも、いってらっしゃい。」
「部屋の鍵、いる?」
ルカの問いに、里香子は微笑んだ。
「あなたの浮気性が治るなら、預かってあげてもいいわ。」
う、と硬直したルカに、里香子はぷっと吹き出した。
「冗談よ。とりあえず戸締まりしてから帰るから、鍵貸しといてね。来週、職場で返すから。」
「うん。ごめん。ありがとね。」
ルカはそう言って、シャワーの中でもう一度里香子にキスをしてから、
「またゆっくり、お仕置きしてね。」
そう、恥ずかしそうに言った。
吾妻ルカが作戦室に慌てて駆け込むと、対テロ班出身の綾川睦月、塩谷仁、大村秀樹の三名、対サイバーテロ班の後輩である結城舞、そして神社本庁の水原環というメンバーの他に、意外な顔があった。九条由佳だ。九条自身も、少し居心地悪そうにしているように見える。ただ、水原が九条の隣にいて、いつも通りの、何もかも分かっているような微笑みを浮かべているため、誰も、何も言わずに課長を待っている。
やがて、公安課長の杉田がやってきて、ミーティングが始まった。
「週末にも関わらず、集まってもらったのは他でもない。諸君S班の扱う事案に影響を与える事件が起こったためだ。まずは、事件の背景について、水原君から説明願いたい。」
「はい。我々はこれまで、国内三教団へのハッキングを行っていた竹ノ内真冬という人物の動向を追跡しながら、それぞれのセクションでこの件、および関連事案への対応等を進めてきたわけですが、その竹ノ内が今から二時間ほど前、秋葉原のとある雑居ビルで殺害されました。竹ノ内を殺害後逃走したと目される女、イミョンヒは、韓国の宗教結社、教団ハヌルのエリート工作員です。彼女を含む数名のグループは、主に日本国内の宗教結社の動向を探る目的で活動していたようです。」
水原がよどみなく説明していく。
「イミョンヒの担当は、品川に本部のある天界人羽教、別称オーセンティック・グローブ社の内偵だと推測されます。また、殺害された竹之内のハッキング対象は、この天界人羽教と、聖衆秘仙会、地の塩の教会極東支部といういずれも問題の多い宗教団体でした。この点については、吾妻さんに補足願いたいと思いますが。」
課長が肯き、吾妻が竹之内のハッキングの概要を説明した。
「竹之内自身のスキルは、大したことはありません。彼の役目は、他のメンバーが用意したハックツールを実行するのみだったと思われます。そしてそのツールのアタック先が、水原さんの話にあった人羽教、秘仙会、地の塩の教会の三カ所でした。二月の一〇日頃から、昨日、つまり殺害される前日までということになりますが、十数回の攻撃を行っています。プログラム自体は、三教団のサーバーのセキュリティの穴を突いてディスク内の情報を回収する動きをします。」
「ありがとうございます。続いて、人羽教の動きについてですが、これは、センターの九条さんが先日まで張り付いてくださいましたので、九条さんにお願いしたいと思います。」
再び課長が頷く。
「人材センターの九条です。よろしく。水原さんからの依頼で、品川の人羽教本部への人の出入りや、人羽教を探る人物・集団の監視を先週一週間行いました。また、今日の事件以降、先ほどから、部下に教団の監視を再開させています。ただし、結論だけ言えば、人羽教およびその企業体オーセンティック・グローブはともに丸腰です。私や部下が潜入調査した範囲では、火器による武装だけでなく、霊的な防護等もなく、我々のような人種から見れば、ということになるのかもしれませんが、むしろ何らかの意図を持って、丸腰のままトラブルの到来を待っているかのような有様です。もちろん、これから何か、それらしい動きはあるかもしれませんが。」
水原は頷き、自らが説明を引き継いだ。
「最後に、教団ハヌル側の動きですが、一月の神契東天教の事件以降、特に日本国内の宗教結社、教団等についての内偵や干渉行動等が少しずつ増えてきています。竹之内のハッキングやイミョンヒの行動もこれに該当します。問題は、現時点でイミョンヒの動向を、我々だけでなくハヌル側でもロストしているらしい、ということです。」
S班のメンバーに、一瞬、戸惑いの空気が広がる。水原は説明を続ける。
「イミョンヒはまだ、警視庁の非常線にはかかっていませんが、大塚にあるハヌル側の拠点にも連絡を入れず、どこかに潜伏しているようなのです。秋葉原の現場はハヌル日本支部の一人の名義で借りていますので、通常対応として警視庁から借り主には連絡が行っているはずです。したがって、事件発生についてはもう、ハヌル側は知り得ているはずなのですが、大塚の方は動きがありません。動くに動けないという状況であるのかもしれません。
この状況を問題と申し上げたのは、イミョンヒが、教団ハヌルの上級幹部の娘で、ハヌル青年部内での重要人物でもあるということに関わります。このままイミョンヒの行方が分からない場合には、ハヌル側がイミョンヒに何らかの「事故」があったものと判断し、武力等を伴う実力行使に踏み切る可能性が高まることが予測されます。」
「それは、どのくらいの確度と考えればよいか?」
課長が尋ねる。
「現在のところは不明です。霊的な予見は、行動が起こされると確定されてからでないと信頼性は高まりません。ハヌルのサーバ周辺の監視については、先ほど結城さんにお願いしましたし、また九条さんがおっしゃったように、人羽教側の監視も再開していますが、どちらもまだこれからという状況です。」
吾妻は結城と目を合わせ、軽く首を縦に振った。ハヌルの監視の件、打ち合わせよろしく、といった意味なのだろう。結城も頷いた。
「了解した。となると、現状を不確定化させる最大の要因は、イミョンヒの動向ということになる。まもなく、警視庁が事件について記者発表するが、それにより、警察が被疑者の身柄を確保していないことが明らかになる。それを知ったハヌルがどう動くかで、今後がある程度推測できる。」
綾川睦月が手を挙げた。
「ということは、早期に我々が被疑者の身柄を確保し、それを公表すれば、ハヌルが直接行動に出ることはなくなるかもしれない、ということですね?」
「ハヌルに日本の警察機構と正面から対決する意志があるというのであれば別だが、そこまでの意志がないとすれば、イの身柄を押さえれば、ハヌルの実力行使の可能性はなくなるだろう。もちろん、実力行使の回避というだけなら、ハヌル側がイを回収してくれてもよいのだが。」
「はい。私の考えでは、これからの数日は、ハヌル側がイミョンヒを保護するのが先か、我々や警視庁がイミョンヒの身柄を確保するのが先か、というような状況になります。」
そう言った水原に、綾川がさらに尋ねる。
「もし、その状況に決着がつかず長引いた場合には……」
「イミョンヒが我々、あるいは調査の対象だった人羽教等の競合相手により拉致・監禁等されているとハヌルが判断する可能性が高まります。そうすれば、直接の武力衝突等もあり得ます。」
「教団ハヌルとは、そういう集団なのか?」
「はい。韓国内では温厚な宗教集団として振る舞っていますが、国外に出ると攻撃的な方向に行動をシフトします。神社本庁としても、古くは五〇年代の対馬防衛戦で対応していますし、今世紀に入ってからも、ハヌルは中国や台湾、タイ等で各地の旧来の宗教勢力と小競り合いを続けています。」
課長が水原の説明を聞いて、ゆっくり頷いた。そして、拡大S班全員に告げた。
「現状において、我々の役目の第一は、被疑者イミョンヒの身柄の確保、そして第二はハヌルに実力行使のきっかけを与えないことだ。その点を念頭に置いて行動してほしい。では各自に指示を出す。まず、綾川、塩谷、大村は、警視庁と連携をとりつつ、もう一度、現場周辺でイミョンヒの探索だ。現場の指揮は飯島だったな?」
「はい。」
「飯島にはこちらから連絡を入れておく。非常線に引っかからないことからすれば、やはり現場近くでの潜伏が疑われる。チャンスは一度あるかないかだと思え。」
「了解しました。」
「吾妻と結城は、ハヌルと人羽教を中心に、関連諸団体の監視作業だ。徹底的に潜れ。」
「了解。」
「水原君、九条君には、引き続き大塚のハヌルのアジトと人羽教の監視作業をお願いしたい。各地の支部については、各県警等にこちらから監視を依頼します。」
「承知しました。」
水原が返事をし、九条は頷いた。
「全員、定時連絡を入れるのを忘れるな。解散。」
「塩谷さん、すいませんでした。オレが失尾したせいで……。」
再び秋葉原に向かう車内で、運転していた大村が言った。
「ん?気にしてるのか?まあ、そうだな、多少は気にしろ。オレたちは咬みつくことを禁じられた猟犬なんだ。失尾は最大のミス、だ。」
助手席の塩谷が答えた。
「はい、すいませんでした。」
「だけどお前、そんなことをいつまでも気にしていたら、目の前の獲物にも逃げられるぞ。まずは失尾ポイントまで行くが、そこから先は、また新しい作戦だ。切り替えていけ。」
「はい。」
後部座席でそのやりとりを聞いていた綾川が、にやりと笑った。
「大村、塩谷は頼りになるか?」
「はい。」
「だからダメなんだよ。そんな奴、踏み越えていけ。」
「は?」
「塩谷を超える気でやれってことさ。」
「何適当なこと言ってるんだ。オレなんか目標にしたって、大して成長できないぜ?」
「いいんじゃないか?最初の一歩としちゃ手頃な方が」
「ひっでーな。」
そう言って、綾川と塩谷は笑い合った。大村は恐縮するばかりだった。
こうして、それぞれが着くべき持ち場に着いて、拡大S班の総力を挙げての探索が始まった。しかし、一週間近く経っても、イミョンヒの行動の痕跡すら掴めなかった。これは、綾川らや警視庁の探索でも、吾妻・結城の探索でも、そして水原・九条の探索でも変わりはなかった。やがて、水原環が様々な占術のスキルを駆使して一つの可能性に行き当たった頃、日本国内数カ所の教団ハヌルの活動拠点で一斉に不穏な動きが起こったことが、警視庁や各県警から伝えられた。普段出入りしている工作員とおぼしき連中が数名ずつ、ふっと姿を見せなくなったというのだ。
(これは明らかに、規模の大きい作戦の前兆だ。だが、ハヌルの攻撃対象はどこなのだ?我々ですら特定できないイミョンヒの行方を探り当てたというのか?)
杉田にも判断できない何かが動いているらしいことだけは、はっきりしていた。
「課長、見ていただきたい情報があります。」
竹ノ内が殺されてから、日中の作戦室には、吾妻と結城、そして杉田課長が張り付いていた。
「何だ?」
「ハヌルの本国本部とのメールなのですが、イミョンヒを奪還する作戦を数日中に敢行するという内容です。」
「見せてみろ。」
「こちらです。」
ここ数日ですっかりノーメイクに大きめの髪留め、黒いフレームの眼鏡姿が定着した結城の前の端末に、問題のメールが表示される。確認のため、まずはハングル文字の原文を表示したが、すぐに結城の操作で日本語に直訳される。思わず顔をしかめたくなるような酷い日本語だが、辞書を引く手間は省ける。吾妻の副業でも韓国語はまだ扱ったことがなく、一般向けの翻訳ツールしか使えない。
「済まないが、原文の方を。」
「課長、韓国語大丈夫なのですか?」
「ああ。……やはりそうか。」
「何か?」
「これだけ情報がない中でハヌルが行動を起こす、その理由が知りたかったのだが。どうやら誰かが情報を流したらしい。人羽教がイミョンヒを拉致していると。」
「ガセなのでは?」
自分たちの調査能力に自信のある結城が問う。
「事の真偽は今は重要ではない。重要なのは、ハヌルが人羽教と戦うようにし向けた者がおり、そのセッティングにハヌルが乗った、ということだ。……品川の人羽教本部周辺の地図は出るか?」
「はい、……衛星からの空撮映像でよろしいですか?」
「ああ。オーセンティック・グローブ社は、このビルの最上階か?」
課長が画面上のとある建物を指さす。
「確認します……間違いないようです。この品川インターシティB棟の最上階が、オーセンティック・グローブの本部ですね。」
課長はしばらく、その画面を見つめた。
「少しずつ引いてみてくれ。」
その言葉に、結城が空撮映像の縮尺を操作すると、やがてインターシティの南側に回り込む運河が見え、それが海につながっていた。
「品川上陸作戦、か。」
「?」
結城だけでなく吾妻もその意味が分からずにきょとんとしていると、課長が言った。
「最優先で、作戦決行日と攻撃対象を特定してくれ。自分はこれから、神社本庁とセンターに出かけてくる。用件は、協力要請だ。」
「承知しました。」
「各員の定時連絡は、君らで受け付けてから転送を頼む。」
「はい。行ってらっしゃいませ。」
結城がそう言って、杉田を見送った。状況は深刻だ。課長の後ろ姿にも、ぴりぴりした空気のようなものが漂う。
(「行ってらっしゃいませ」、か……。舞ちゃん、育ちがいいのかしら。それとも、メイド願望?)
そんな余計なことを考えながら、吾妻はハヌルが設置したサーバーの徹底監視に入った。結城舞も、作業に戻ろうとしたところで、水原環からの連絡が入った。
「水原です。至急課長にお伝えしたいことがあるのですが。」
「課長は現在、そちらの神社本庁、および人材センターに向かって移動中ですが、ご連絡があったことはすぐ伝えます。」
「助かります。よろしくお願いいたします。」
それだけの会話だが、緊迫感はより高まった。結城は思わず、吾妻ルカの方を見た。
「大丈夫よ舞ちゃん。ここで今から緊張しててもしょうがないわ。それじゃいざって時に頑張れない~。」
吾妻は画面を凝視したまま、キーボードを叩きながら、そんなことを言った。
(この人は、いつも変わらない。いつもバカっぽくてだらしなくて。ほんと変わらない。)
そう思ったら少し気分が軽くなった。
「はい、緊張するのやめます。あたしも元からそんなキャラじゃないし。」
「そうそう。やっぱり舞ちゃんは、そういう感じじゃないとね。じゃ、ひとがんばりしますか。」
「はい。」
拡大S班の戦いは、こうして始まった。
第一部は全部で9話あります。これが第六話なので、残りはあと三話。なるべく早くアップします(自分のブログに縦書きpdfで公開中のものの転載なのですが、一応検品というか、目を通してからアップしますので、一度にたくさんはアップできません。すいません。