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第五話 転がる世界

 事件から、一ヶ月が経とうとしていた。

 教誨師とその後見人とには、これといった依頼もない、たまさかの平穏な日々が訪れていた。後見人である森田ケイは、人材センターの時田治樹とも連絡を取りつつ、情報収集を継続していたが、めぼしい情報は得られていない。相馬家の人間には、人材センター中枢にいる当主、相馬嶺一郎から情報を得るというルートも、あるにはあった。しかし、これまで重要な情報は、それが必要なときには嶺一郎側からもたらされており、現状何も情報提供がないということは、そのこと自体が嶺一郎の判断によるものだと考えるのが、この家らしいやり方だった。そうしたことを踏み越えて、あえて情報提供を受けられるよう取りはからうべきほどの切迫した状況ではないと、森田ケイは考えていた。

 あの日、九条由佳は、杉田という公安課長らとともに、都内へ向けてヘリで移動したはずだが、マスメディアへの露出も一切なく、その後の消息は知れなかった。一二人いた式神たちも、行方知れずのままだった。つまり、九条の行方は現状、公安警察のみが知っている。

 その公安警察もまた、事件の後、一般社会のレベルでは、特段の動きはなかった。神契東天教の事件について、警察庁OBと名のる人物が数人、数日間ワイドショーやニュースに顔を見せただけで、早々にこの事件は、旧聞の類と化していった。九条由佳の作戦もあって、当初はマスコミも騒ぎ立て、実弾が用いられた凶悪なテロ事件として連日報道されていたが、一般人の死傷者が出なかったということもあり、数日のうちに、宗教・思想系団体間のもめ事、というようなありきたりの分析が流布されて、それで人心を満足させたようだった。攻撃を受けたという点では被害者となる教団本部が、早々に「世間を騒がせたこと」に対する謝罪と遺憾の意を表明し、また警察の捜査に全面的に協力することを発表したことも、事件を迅速に収拾させるのに貢献した。

 あのとき、九条由佳の式神の一人に宿るかたちで顕現した神契東天教の教祖、藤原るつ子は、神契東天教がただの東天教だった明治の頃から数えて四代目の教祖だという。森田もその動向を注視していたが、結局重大な局面で、藤原るつ子の直接の発言が伝えられることはなかった。

 もっともセンター経由の情報だと、自らの手に余る、力を持ちすぎた教団の危機に、一時るつ子は自身がマスメディアの前に立ち、今回の事件について謝罪した上で、教団を解散しようと考えていたらしい。しかし何故か、地元の県警からも、また世間や市民の名を借りた平和ボケのマスメディアからも、教団はさほど厳しく糾弾されなかった。非合法な活動をしていたとされる一部の信者集団の指導的立場にあった瀬田燎原が、被疑者死亡のまま銃刀法違反等で送検され、また武器類も問題なく押収されたことで、ひとまずの落着を見たと世間的には判断されたらしい。結果、藤原るつ子が表舞台に引きずり出されることも、なかったのだ。

 破防法の「は」の字も出ないのはあからさますぎると、森田は苦笑を禁じ得なかった。そして、国家の意思のような、何らかの力が、藤原るつ子の教団を温存しているのであろうという、漠然とした推測を持った。

 教誨師に降りる「依頼」には、この事件で終焉を迎えた神契東天教防人衆、通称「組織」からのものも含まれていたが、それらの依頼も、別ルートからの依頼も、現状ではすべて人材センター経由で受けている。

 人材センターは、松本での事件の前から、警察庁長官の工作に応じ、公安に擦り寄るかたちで延命を図るべきだとする者と、公安警察とは一線を画したままとし、過去のなにがしかの活動が立件されるようであれば即座に解散すべきだとする者とに、幹部の意見は割れていた。そこへ、事件直後、相馬嶺一郎を中心とする条件付き延命派が登場し、幹部等の意見を瞬く間に、ほぼ一つに束ねてしまった。公安警察が、非合法な活動を行い得る集団に対し、実効的な重みを持った作戦を選択することは、松本の事件で明確になった。瀬田を殺害したのは教団に攻撃を仕掛けた複数犯の一人と考えられる、それが長野県警の発表だったが、事件の事情を知る人材センターには、そのようなごまかしは通用しなかった。そして、そのことがむしろ、公安警察のメッセージを、センター幹部等に明瞭に伝えることにもなった。

 公安は本気らしい、センターにも同様の作戦が行われるのではないか、と浮き足立つ者も出る中で、相馬嶺一郎らが示した「条件」とは、公安の下請け仕事中心となることを望まない者は、無条件でセンターを脱退できること、脱退しても、公安警察には過去の仕事について詮索・追及させないこと、その点はセンター執行部が全力で主張し、公安警察が受け入れない場合には、人材センター解散もやむなし、というものであった。

 明らかに、人材センターに都合のよい、つまりは公安警察が呑みそうにもない条件にも思えたが、公安警察と通じる複数のルートから、この条件が承認されたことが伝わると、センター幹部らの意志決定も安定した。古いエージェントの中にも脱退する者は出たが、残る者も脱退する者も、納得の上でのことであった。相馬嶺一郎らのネゴシエーションに対する賞賛を口にしつつ、円満に辞めていった者もいたという。

 森田が時田から聞き出した、ここ数週間のセンターの動きは、おおむねそのようなことであった。近々、嶺一郎様からもお話があるだろうが、とは思いつつ、それまでにできる最善を尽くしておかねばと森田は考え、教誨師の活動のための情報収集を続けている。

 その森田、そして人材センターの時田の二人が目下注目しているのは、警察庁警備局公安課の動きだった。数日前にも、森田は時田から、公安本丸の動きがまるで見えなくなっている、という、愚痴にも似た電話を受けていた。時田は人材センターのインテリジェンス部門に身を置いていた。センターの体制が変質し、今後時田がどうふるまっていくつもりなのか、森田は直接には訊いていないが、現在はまだ現役の、センターの一要員として活動しているはずだ。その時田ですら見えない何かが、公安警察の中心部で動き出しているらしい。吾妻ルカとの個人的なパイプがあるとは言え、松本の事件でわずかに公安警察と直接の関わりを持っただけの森田には、判断材料の乏しい、難しい時期が訪れていた。



 実のところ、この時期公安警察の動きは激しいものとなっていた。

 警察庁長官の指示で立ち上げられたS班――対某組織専従調査班は、むしろ、松本の事件が終息したその瞬間から、本来の役割が開始されたと言ってもよい状況だった。組織がほぼ自壊に近いかたちで崩壊し、霊的国防のパワーバランスが崩れた一月一四日を境に、周辺国の宗教関係者や宗教を背景に持つ活動家が相次いで入国してくるようになった。その動向に、各国の工作員やスパイたちも追従する。一時は、サミット開催時に近いレベルで、国内各地の重要な施設に厳重な警備体制が敷かれた時期もあった。セクションの成り立ちの違いもあり、同じ警備局の中に位置づけられながら、ふだんはほとんど協力関係にない外事情報部との連携も実施される状況となっていた。

 吾妻ルカが「ゴリラ」と呼んでいた男、綾川睦月は、合同庁舎の作戦室にはあまり姿を見せなくなった。事件後急増した要注意人物に対する追跡任務で、日本のどこかを駆けめぐっているらしい。きっと、オレはガタイがデカいから尾行にゃ向かないんだがとぼやきながら。

 水原環は、事件後二週間ほどは、公安課長らとともに、入院中の九条由佳の警備および聴取を行っていたが、九条の快復とともに、神社本庁の職務に復帰した。神社本庁内での彼女のポジションは、霊能局外事二課、つまり霊能局の中でも東アジアや東南アジアの霊的な勢力の動向を探る、国外活動が中心のスパイであった。それが、事件前から数えれば二ヶ月以上も国内に留まり、事件後も神契東天教を始め、いくつかの宗教組織の動向を徹底監視しているという現状は、本庁としても異例の事態ではあった。水原環の日取り事の理論を応用した予知スキルは、ネットの情報を傍受・解析し続けることで発せられる吾妻ルカの「テロ警報」よりも、半日から数日早い段階での事件の把握を可能とすることもあった。

 それにしても、と吾妻ルカはため息混じりに心の中でつぶやいた。公安課と人材センターは秘密裏ながらも全面的な連携を開始し、また、S班という小組織を仲立ちに、神社本庁と公安警察も接続された。あれほどこの世界で存在感を誇っていた「組織」も瓦解した。変わらないと思っていたものも、変わるときは意外とあっさり行くものね、そう思い、思い切り背もたれに体重を預け、殺風景な天井を見上げた。

 吾妻は、S班の初期メンバー三人のうちではただ一人、ずっと合同庁舎に缶詰状態だった。今朝もS班作戦室で夜を明かし、そのまま午前中の作業に入っていた。

「まったく、週に二回しかうちに帰れないってどういうこと?」

 そう言いつつ、あまり品のない笑い声を立てながら、吾妻ルカは数台のモニタを前に、大きく伸びをした。悲惨な状況の割にはみすぼらしくなっていないのは、きちんと長期間の泊まり込みに対応するだけの準備と設備とが整えられているからだが、それにも増して、こうした状況を吾妻ルカが楽しんでいるためでもあった。それでも今はさすがに、腰や背筋、視力が休憩を欲していた。サイバーテロ専従班からS班に引き抜いた結城という後輩に声をかけ、休憩すると伝えると、合同庁舎内の休憩室にコーヒーでも買いに行くことにした。

(一二月の初旬からだから、もうS班もぼちぼち二ヶ月か。さすがにいくらか休みたくなってきたかも……)

 そんなことをぼんやり考えながら、自動販売機の前で熱い紙コップを片手に一息ついていると、背後から

「ルカ!」

 と声をかけられた。声の方を見ると、吾妻ルカが公安課配属になる前、情報通信局にいた時代の同僚が駆け寄ってくるところだった。

「おー里香子じゃん生身じゃ久しぶりー。何慌ててんの?」

「暢気に久しぶりとか言ってんじゃないわよあんた。今までどこで何してたの?」

「へ?いや徹夜で仕事だけど……?」

「もう、そうじゃなくて。」

 吾妻ルカに声をかけてきた女――長谷川里香子は、相談したいことがあって年明けにサイバーテロ専従班を覗いてみたら、男性の新しい班長に、吾妻ルカは現在研修中で、どこにいるかは分からないと言われた、と告げた。身長一七〇cm近い吾妻ルカを、フレームレスの眼鏡のレンズ越しに見上げる。小柄だが、身体の各所が女らしさを主張するタイプだ。

「あーごめんごめん。そう言えばだいぶ前にプライベートアドレスの方にメールとかもらってたよね……。あんたには別件でちょいちょい業務連絡入れてたから、そっちはすっかりレスするの忘れてた。えっとね、ちょっと職務上の理由でさ、しばらく研修で出向中って建前なんだよ。でも実際はずっとこの辺をうろうろ。」

「もしかして、ずっと缶詰?」

「ずっとじゃないけどさ。週に二回くらいは帰れてるし……。でもそう言や今の作戦始まってからあんまり出歩かないし、食事とかは後輩に買ってきてもらったりもしてたから、庁舎内にいたのにほとんど誰にも会わなかった気がする。ほんとごめん。すっかり公安の人みたいになっちゃったね。」

「そうだったんだ……。まあそれなら個人メールの放置くらい赦してやるけど。連絡したのに仕事のメールしか返って来ないし、どうしたんだろってちょっと心配してたよ。」

「ごめんごめん。あたしにしては珍しく、余裕なかったんだよ。」

「へええ。……あ、そうだ、あんたのことだから、その状況だと洗濯とか溜め込んでんじゃないの?」

「何よそれ、人を甘ったれの一人暮らし初心者みたいに言わないでよ。」

「じゃあ、最後に洗濯したの、いつ?言ってごらん?」

「ええーと、この前うちに帰ったときだから、月曜日かな?」

「今日何曜だと思ってる?」

「す、水曜くらい?」

「金曜だよ!ほら、ロッカーに突っ込んでる洗濯物持ってきなさい!あたしが洗ってきてあげるから!」

「え?いいよう、悪いし恥ずかしいし。」

「あんた、あたしに向かって恥ずかしいとか言うわけ?同棲してたときにはさんざ……」

「ちょ、ちょっと里香子!」

 慌てて吾妻ルカは元同僚の口をふさぐ。休憩室にいた数人が、気まずそうな、でも笑いをこらえたような表情で目を逸らす。さすがに小声になった長谷川里香子だが、もう手遅れの部類であった。

「い、いいから、さっさと持ってきなさい!」

「分かったよ、怒らなくてもいいじゃんそんなことで。」

「あたしは怒ってなんかないーーー!」

 二人が小声になった意味はほとんどなかった。

(全くなあ、里香子は作るツールは極端に尖ったものが多いのに、性格はお節介のお姉ちゃんタイプなんだよなぁ。)

 そんなことをこっそり考えながら、吾妻ルカは長谷川里香子に付き添われるような感じでいったん自らの今の持ち場に戻り、洗濯物を丸めてビニール袋に押し込んだものを一応紙袋に入れてから、手渡した。

「……じゃ、お言葉に甘えるけど、」

「うん。乾いたら適当に持ってくるからね。」

「ありがとう。よろしくね。」

 この様子は、何だかあの吾妻ルカが妙に塩らしい感じなんですけど、という後輩結城の証言によって軽く伝説化された上、即座にメッセンジャー経由でサイバーテロ専従班に伝達されていた。

「そうそう、里香子、botネットを横から制圧できるツールって作れる?」

 二人は作戦室前の通路で足を止めて、立ち話を始めた。

「横から制圧って、つまりbotウィルス開発者じゃないのにネットワークを横取りできるかってこと?」

「そう。」

「やれないことはないだろうけど、単純なツールじゃなくて、そのウィルスごとにケースバイケースでチューンしないと無理ね。」

「やっぱりそうなるよねえ。……でもそれをさ、やってのけたヤツがいるんだよ、しかも複数のbotネットを同時制圧。」

「あーそれ、あたしも見てたかも。先月中旬くらいでしょ?てっきりどっかのバカが金に糸目を付けずにレンタルしてたのかと思った。スパムはバラまくわブログに端からコメント送りつけるわ、やりたい放題だったよねぇ。」

「あれ、お金動いてないみたい。実際一部のbotじゃネットを横取りされたスポンサーが金返せって騒いだら、提供者の方がうちも被害者だって弁明してたし。」

「ううむ。どうやったんだろうなぁ。」

「ま、当人に直接聞くのが一番早いんだろうけどね、いや、正確には当人たち、かな。」

「なんだ、身柄押さえてんの?複数犯?」

「単独って言うか複数って言うか。まあそのうち、またあたしが聴取する順番が来たら聞いてみるよ。前に聴取したときには、自分がやったという証言はとれたけど、その具体的な方法までは確認する時間がなかったから。」

「へええ。あんたやっぱり警備局の方が向いてるのかね。何だか前より生き生きしてる感じするよ。」

「うーん、あたしは里香子みたいな職人タイプじゃないからね。こういうがさつな仕事の方が向いてるのよきっと。」

「そう、なのかもねぇ。そうそう、どうでもいいけど、最近大手町データセンタ経由で叩いてくるのがいるんだけど。」

「うん?ああそれ、たぶん私の知り合い。そうだ、今度三人でお茶でもしない?」

「女の子?」

「うん。あ、別にそのコとはややこしいことないから。」

「あんた、今更あたしに気を遣ってもしかたないでしょ?」

「うーん、それはその通りだけどさ。うん。」

「バカね、相変わらず……。」

「うん。」

 この会話は、作戦室内にいた結城にも引き続き丸聞こえだった。吾妻ルカが頭が上がらない人物が、この合同庁舎内に一人いる。情報通信局でも古株のメンバーであれば既知の事実だが、サイバーテロ専従班にとっては、それは少々大きなニュースだった。当然関係者のメッセンジャー上のやりとりも忙しくなっている。

「さて、それじゃあたしは通信局に帰ろかな。」

「そうね、休憩時間使ってもらっちゃってありがとね。」

「ううん。それじゃね。」

「うん。また。お茶のセッティング決まったら一応連絡するから。よかったら、ね。」

 うん、と頷いて、長谷川里香子は片手に紙袋を提げて、元来た方向へ歩き始めた。吾妻ルカがS班作戦室内に戻ると、留守を任せていた後輩結城がにやにやしながら待っていた。

「どうしたの変な顔して。何か変化はあった?」

「公安課で長期内偵中の三教団のサーバを、東南アジアの複数サーバ経由で同時に攻撃し始めた連中がいます。最終発信源は日本国内のようです。」

「了解。スキルのあるネット左翼とかかな。」

「サーバの管理者のルートから、犯人を特定中です。」

「新しい違法アクセス検出ツール、有効?」

「はい。これ、吾妻さんが組んだんですか?」

「違うよ。情報通信局のコよ。さっきあたしと一緒にここに来た人。」

「……あの人、吾妻さんの彼女さんですか?」

「あ、それでにやにやしてたんだね……。まあ、もうだいぶ昔の話だけどね。」

「はあ。……って正直過ぎませんか?」

「隠すようなことでもないし聞いてきたのはそっちでしょ?さて、仕事戻るよ。あなたも休憩行くなら行ってくれば?」

「あ、私はもう昼休みまで休憩無しの予定なんで大丈夫です。」

「そう、じゃ、ネットの不正規アクセスの監視はしばらくコンピュータ任せにして、botネットの横取り方法考えてくれない?」

「実戦に使うためですか?」

「それもあるけど、まずは被疑者のスキルを解析したいのよ。次の聴取の前にね。」

「了解です。私も気になってました。」

「あたしの方は、ちょっと定置網を上げてみるわ。」

「定置網って、ダミーの公安サーバですよね?」

「そう。アクセスログ解析用のダミーね。松本のテロ実行犯がいつまで経っても公表されない、この事情を何となく推測してうちに探りを入れてくるような集団を、片っ端からマークしておくためのものよ。」

「ダミーもさっきの情報通信局の人が作ったんですか?」

「ううん。これは一般企業で秘書やってる超ハッカーに頼んで設置してもらったの。あらかじめ言っておくけど、そのコとは個人的な関係はないわよ。」

「聞いてませんよそんなこと。」

「あれ、そう?さてと。それじゃ、始めるわよ」

 吾妻ルカはそういうと、マグカップに並々とコーヒーを注いでから、自分の端末に向かった。



 汐留の、高層マンションの一室。

 教誨師や森田ケイと繋がる人材センターのエージェント、時田治樹は、今後も人材センターに残ることにしていた。時田は一匹狼の情報屋ではなく、センターの活動のためのインテリジェンスを構築する役目を担っていたが、そうした自分の役割を気に入ってもいた。ネットワークやハッキングに関するスキルとセンスでは、さすがに吾妻ルカには勝てないが、吾妻と違って小さな組織の中で、しかもインテリジェンスを扱う部門にいるなら、自分のようにヌルく広いスキル遣いの方が長生きできる、そう、自負してもいた。扱う情報の半分はネット経由の情報だが、残りの半分は、センターのエージェントが持ち帰る、現場で拾った生の情報だ。むしろ、そうした生の情報の背後関係を洗うために、ネットの情報を利用していると言ってもよい。時折は、実際に現地に入って情報の裏をとることもある。

 今日は、センターの幹部に呼び出され、汐留のとあるマンションの一室までやってきていた。ソファに腰を下ろし、特に緊張するでもなく、自然体で座っている。この部屋に、表向きは住人として常駐しているスタッフが入れてくれたコーヒーを飲みつつ待っていると、やがて、幹部ともう一人、明らかに上級幹部であり上流の香りのする男とがやってきた。

(この人は、確か……)

 すっと、ソファから立ち上がる。

「待たせたようだな。申し訳ない。相馬です。」

「時田です。」

「君には、うちの娘と執事がお世話になっているようだね。」

「はい。こちらこそ、お嬢様にはお世話になっております。」

「ふん、まあ、自分から話題を振っておいて何なんだが、そんな儀礼的な挨拶は抜きでいい。今日は、君を見込んで頼みたいことがあって、時間をとってもらったのだ。」

「なんでしょうか。」

「まあ、かけてくれ。少し、落ち着いて話そう。……公安警察とうちとの関係が変わったのは、当然君も承知しているな?」

「はい。」

「相手はこれまで実効的な力を持てなかったとは言え、いやしくもお国の組織だ。多少顔を立てねば、ということで、今は専属契約に近いようなかたちで、うちが公安を支援するような関係を構築するように進めている。だがそうすると、うちで扱う仕事の件数が、かなり減ってしまうことになる。」

「はい。」

「公安以外の汚れ仕事は受けられない、大口顧客の一つだった組織も壊滅した、となると、我々の事業は大きく縮小せざるを得ない。もちろん、一時的には、そうならざるを得ないのだが、それがあまり長期にわたるようだと、いかにサロン的な、いや、そうだな、余裕のある兼業者が多い我々センターとは言え、状況は厳しくなってしまうだろう。公安にはおそらく、予算的な制限もしっかり生じるだろうしね。」

「はい。」

「そこでだ。まず君には、マーケティングについての助言をお願いしたい。今後、うちの顧客に育ちそうな集団を、今、挙げられるか?」

 この問いに、時田は間を置かず答えた。

「まずは神社本庁でしょうね。連中は少数精鋭のシャーマンやサイキックを要していますが、一般的な戦力・人材についてはほとんど持ち合わせていません。基本的な調査・偵察だけの任務に、予知能力を持つ希有なシャーマンを動員するような状況のようです。まずはそうした仕事をうちが担うことが可能でしょう。」

「うむ。」

「それから、うちがインテリジェンスを売るというビジネスに本腰を入れるなら、国内の宗教団体、政治・思想結社、どこでも顧客になり得ます。右と左に、適度に濃度を調整した情報を流して、日本の治安を左右することもできる。これはあからさまな非合法活動ではないので、公安含む警察サイドからは、睨まれることはあるでしょうが、立件される可能性は少ない。政治に食い込みすぎれば検察庁も動くでしょうが、もはや公安は、我々抜きでのプランは選択しにくいでしょうから、無茶さえしなければ、恒常的な資金源となると思います。」

「うちで、探偵業を開業する、ということだな?」

「ええまあ、そうなりますね。実際の仕事だけでなく、仕事の発生する状況を制御する、というか。」

「なるほど。他にはあるか?」

「まだいくつか。暴力団や海外のテロリストには一応ご遠慮いただくとしても、警視庁、各道府県警、自衛隊、海上保安庁、それから警察庁の外事情報部方面、そして、」

「内調か。」

「はい。今はどこも人材難に資金難ですから、「アウトソーシング」をお勧めすれば、エージェントの教育等は全部うちが自前でやるわけですし、相手さんにはコスト削減にもなりますので。細かい仕事でも適宜こなしていけば、やがては面倒な仕事は全部うちに降りるようになるかもしれません。」

「そう、うまく行くかね。」

「分かりません。ですが、今申し上げた集団やセクションが、常に我々のような力を欲していることは間違いのないことです。後は、交渉の進め方次第かと。」

「分かった。君に相談して、今のところは正解だったようだ。さてもう一つ、むしろここからが本題だが。」

 来たぞ、と時田治樹は思った。今の回答はとりあえずの模範解答のようなものだ。その気になれば誰でも、それこそ質問をした相馬嶺一郎自身でも答えられる部類の。わざわざ相馬嶺一郎のような大物が、幹部を介して自分のような者の前に出てくるからには、それなりの理由があろう。次が、本題だ。

「そう構えなくともよい。」

 心の内を見透かされて、内心時田はどきりとした。しかし、ふと相馬嶺一郎の顔を見ると、柔和に笑っている。釣られて時田も、微笑んでしまった。それと同時に、静かに覚悟を決めた。

「君が繋がっている公安の吾妻ルカは、公安内でも特殊な班に今、属しているらしい。幸運なことに、この班に召集された自衛隊出向組の綾川という男には、うちの別のエージェントがたまたまルート構築していたが、この班の基幹メンバーは少なくとも三人、あと一人とは直接のパイプがない。」

 二人の会話には、この班、つまり吾妻・綾川・水原の三人が所属するS班の公安警察内のポジションなどは上がっていない。ただ、ここで話題とする以上、S班を相馬嶺一郎が重視しているのは自明のことだ。

「三人目の所属はご存じですか?」

「それは森田を通じて聞いている。神社本庁のエージェントらしいとのことだったが。」

「ええ。僕も雑談で森田氏から聞いて知りました。スキルの正体はよく知らないが、正統派のシャーマンらしかったといいます。」

「そのようだな。それで、君に頼みたいのは、この三人目も含めた、班の動向のトレースだ。できれば、班が編成されるきっかけも含め、この班の動きを押さえておいてほしいのだ。」

「確認ですが、問題の班は事件が終息したあとも解散されず、恒常的な組織となる、とお考えなのですね?」

「ああ。班の基本メンバーの一人、綾川という男を知るうちのエージェントが言うには、綾川は元々華々しい実績を持っており、しかも事件の一ヶ月前までは対テロ班の班長として責任ある立場にあったという。それをわざわざ引き抜いて、S班のメンバーとしたというのだ。吾妻も、同様ではないのか?」

「そうですね。情報通信局から公安課に引き抜かれ、対サイバーテロ専従調査班創設時から班長に抜擢され、以来重要なメンバーとして活動しています。」

「やはりな。……おそらく、この班は、単なる兵隊を寄せ集めた臨時の部隊ではないのだ。公安警察の上層部がこっそり育ててきた、隠し玉のようなものかもしれないのだ。」

「そうすると、三人目もかなり怪しいですね……。ともかく彼らの行動をトレースしていれば、公安警察の意図もある程度把握できる、」

「それだけでなく、この班をコントローラとして、うちと繋ぐ、という展開を考えているかもしれない。」

「なるほど。公安警察としても、うちと契約、いえ、連携を開始したことは大っぴらにはできないわけですから、うちとの繋ぎを正体のよく分からない班のメンバーにやらせ、情報の隠蔽と統制を図る、ということもあるかもしれません。この班自体、どうやらこっちにいてもおかしくない、現場向きの人材を揃えているようですから、場合によってはうちとの共同作戦というケースも出てきそうですね。」

「そうだ。公安の上層部には、私も直接の知り合いがいるが、この件になると、情報は全く得られない。もちろんお互いに面と向かって聞くわけではないが、何かを動かすときには、互いに情報のリーク、というと聞こえは悪いが、まあ、リップサービスのようなものはしてきたつもりだ。だが今回は全くそれがない。君のように個人的な繋がりを持つメンバーがたまたまいたから我々も一応察知できたが、それがなければ、この班は我々にも知り得ないセクションだったはずだ。そこがむしろ怪しいと、私は考えている。」

「分かりました。班の動向のチェック、最優先で当たってみます。」

「よろしく頼む。」

 相馬嶺一郎と、時田を呼びだした幹部が立ち上がる。時田も合わせて立ち上がり、軽く頭を下げた。相馬嶺一郎は片手を上げて、気さくな様子で軽く振ると、マンションを出ていった。

 玄関のドアが閉まる音とともに、時田治樹は、どさりとソファに座り直した。そして、苦笑いを一人、浮かべてみた。

「まずいなぁ。公安本丸の動向観察しろだってよ。うっかり引き受けちゃったよあはは。ねえ裕子さん、どこから手を着けたらいいと思う?」

 玄関まで、相馬ともう一人の幹部とを見送りに出た、このマンションの一室を預かるスタッフに、時田は声をかける。

「それを考えるのが時田君の仕事じゃないの?それに、私はここの管理人であってエージェントではありませんから。直接聞いてみればいかがかしら?とかいうような、間の抜けたお返事しかできないわよ。」

「そうだねぇ、さすがに直接聞くったって……。ん?そうか。聞いてみればいいんだ。裕子さんありがとね。ちょっとやってみるよ。」

「まさか、バカ正直にお話を聞いてみようっていうの?」

「さすがにそれほど頭腐っちゃいないよ。ちょっとした素朴な作戦を思いついただけ。」

「ならいいけれども。あら、もうお帰りなの?またそのうち遊びにいらっしゃい。」

「うん、そうするよ。」

 なんだかこの人と話してると調子が狂うんだよなあと思いつつ、時田は汐留のマンションを後にした。



 桜ヶ丘の三学期は、三年生の入試対応を理由に、一・二学年の定期試験も二月上旬というやや変則的な日程となっていた。それを特に問題もなく終えた相馬ひなは、とある週末の午後、自室で、執事・森田ケイがやってくるのをぼんやり待っていた。先ほど、青木はるみに、森田を連れてくることと、お茶の用意を頼んでおいた。

 長野・松本での事件から、もう一ヶ月が経つが、センターからも、また、自分の父親からも、表だっての依頼や指示は来なかった。もちろんこの期間も、教誨師としてのスキルが弛んだものにならないよう、森田ケイや青木はるみをトレーニングパートナーとしての「レッスン」は、いつも通り行っていた。相馬ひなは中学・高校と部活動に入ったことはない。相馬ひなにとってはこの日々のレッスンが、部活動のようなものであった。ただ、今日は、そうした予定を入れていない。学校の課題も特にない、めずらしくのんびりした週末だった。

 やがて、ノックの音があって、森田を連れてきたという青木はるみの声が聞こえた。

「どうぞ。」

 そう答えると、青木はるみが森田ケイを伴って部屋に入ってきた。

「お嬢様、お呼びとのことですが。」

「ええ。お願いしたことがあるのよ。」

「なんでしょうか。」

「少し待ってね。準備が必要だから。」

 青木はるみがいったん下がり、やがてお茶の一式を乗せたワゴンを押してきた。お茶と言っても、相馬ひなも森田ケイも、いつも濃いめのコーヒーを飲む。今日も、くっきりとした芳香を放つ大きめのカップが運ばれてきた。サーバーにお代わりも用意されている。

「ありがとうはるみさん。あとは、あたしが。あ、森田もいいから。そこに座ってなさい。」

 森田ケイに対して、青木はるみが何か言いたげな顔をしつつ、部屋を下がった。相馬ひなが、ワゴンからカップやチョコレートの乗せられた皿を降ろし、テーブルに並べる。

「それで、ご用件は?」

「そうね、それじゃ、始めましょうか。お願いというか相談でもあるのだけど、今の時点で分かっている、松本の事件の背景を全部、今一度確認したいの。だから、あなたの掴んでいる情報をもう一度聞かせてほしいのね。そして、その上で、教誨師として今後どうすべきか、考える材料にしようと思って。今後のことの相談にも、もちろん乗ってほしいのだけど。……」

「承知しました。」

「ま、少し時間もかかるだろうから、お茶しながらね。」

 教誨師と、その後見人の議論は、一時間近くに渡って行われた。結果としてではあるが、神契東天教防人衆を打ち倒した九条由佳のスキルの評価、およびそれを救出した公安警察の実力の評価や、推測される今後の動きへの可能な対処、人材センターと公安警察の今後の関係等、把握しておきたいことはかなりあった。だが結局のところ、教誨師の問題は、フリーのエージェントとして登録している人材センターがどう変わるかがはっきりしないことには、明確な答えは出せない。この点は、教誨師も、後見人である森田ケイも、同意見だった。

「センターがどうなるかについては、お父上に直接うかがってもよろしいのですが。」

「うーん、それは今はやめとく。自分で考えろ、とかは言われないだろうけど、なんとなく、ね。うちの父も、センターの中では一人の幹部でしょ?幹部クラスって、自分の思惑持って動くから、一人だけから意見聞いてもね。それより、時田さんみたいなふつうのメンバーの現状認識を聞いてみたい気がする。」

「承知しました。時田がふつうかどうかは怪しいところですが、それなら早速、今電話してみましょう。」

「そうね。」

 静まった室内に、携帯電話の呼び出し音がかすかに漏れる。

「森田だが、今、少し話せるか?」

「ん、かまわないよ。今はちょっとした時間つぶしで散歩中だし。」

「周囲は?」

「大丈夫だ。盗聴は分かんないけど、立ち聞きされる恐れはない。」

「そうか。ちょっと聞きたいことがある。センターの今後のことだ。」

「その件なら、一昨日、教誨師ちゃんのお父様に会ってきたよ。センターは、しばらくは活動も控えめになるけど、やがては、これまで以上に重要な組織になるはずだ。」

「重要?」

「これまで以上に、国家に食い込む。……今回、センターの意見を束ねたのは相馬さんだし、その相馬さんがそっちの方向だからね。」

「そうか。そういう方向か。了解した。……で、お前は?辞めないのか?」

「オレか?オレは今まで通り、忙しく働かせてもらおうと思ってるよ。今もそれで、人を待って散歩中。」

「そうか。」

 ここで、相馬ひなが森田ケイの肩をつついた。

「お嬢様と代わる。」

「ああ。」

「時田さん、相馬です。」

「教誨師ちゃん、元気?お父さんと会ったよ一昨日。」

「いつも父がお世話になっています、とかそんな世間話じゃなくて。聞きたいことがあります。」

「何でもどうぞ。」

「これから先のセンターに、暗殺専門のエージェントは必要ですか?」

「おお、いきなりずばっと来たねえ。オレの個人的な意見でいい?」

「かまいません。ていうか時田さんご自身のお考えがうかがいたいんです。」

「了解。そうだね、仕事の件数は減るだろうね。ただ、これは、まあそっちもだいたい情報は掴んでると思うけど、センターは国の意向に左右されるようになる。となると、そこが要求するスナイプは、今までよりも正確さと隠密性を高度に要求される、重たい仕事になるはずだ。だから、センターは相変わらず、高品質のスナイパーを欲すると思ってる。そこに食い込めれば、今後も教誨師に仕事は行くだろうし、そこで振るわれて、落っこちてしまえば、うちからの仕事はなくなる、という感じだと思う。」

「ありがとう。よく分かりました。もう一つ。これは別件なのですが。」

「なんだい?」

「九条由佳のその後、って何か情報をお持ちですか?」

「いや、何も。この件ばかりはうちは関与できないのでね。」

「分かりました。ありがとう。」

「どうしても知りたければ、森田経由で公安の人に聞いてみれば?」

「吾妻さんですね?」

「そうそう、って、教誨師ちゃんもあのお姉さんともう知り合い?」

「いえ。……とにかく、ありがとうございました。」

「ん、ああ。いいって。ちょうどこっちもそろそろ、待ち人来たるって感じ。それじゃね。」

「はい。失礼します。」

「ばいばーい。」

 時田は、教誨師が「いえ。」と答えた直後、携帯のスピーカー越しに何かが軋む音を聞いた気がしたが、ひとまず通話を終え、標的の尾行を開始した。標的は、少し小柄の、フレームレスの眼鏡をかけた女性だった。

 一方、教誨師は、表向きは平静を装って、携帯電話を森田に返した。そして、こう切り出した。

「あたし、一度は教誨師を廃業しようかとも思ったのね。」

 森田ケイの眉がきゅっとつり上がる。

「そう驚かないでよ。教誨師なんて、これ以上ないってくらい、やくざなお仕事でしょう?いくら家のしきたり、家の務めだからって、ねえ。状況が、世界の方が変わっちゃうなら、あたしの立ち位置も変わるわけでしょ?だったら、辞めてみようかなって。……お目付役のあなたにも、はるみさんにも迷惑かけちゃうけどね。」

 森田ケイは、何も答えない。ただ、じっと、教誨師の顔を見つめている。その重みを、少しいなすように、教誨師は視線を窓の方へ向け、今座っている位置からは空しか見えない、その空を見遣った。

「でも、それも何か、違うかなって。松本で仕事をして、一応はお父様のコマとして動けた、それも一つ、材料としてはあるんだけれど。このまま廃業するのは、何か持ち場放棄っていうかね、逃げ出すような気持ちがして。」

「……お嬢様、教誨師の仕事に、何かを期待されていますか?」

「ううん、そうじゃないと思う。たぶんね。成長とか、出会いとか、運命とか、自分自身とか、そんなのは、別の仕事でも得られるでしょう?」

「では、敢えてうかがいますが、なぜ、残られるのですか?」

「うーん、なんて言えばいいかな。自分の性格がこうだから、って言えば一番近いかも。だって、教誨師辞めちゃったら、護りたいものも護れなくなっちゃうでしょ?あたしは、やっぱり自分でこの世界をどうにかしたいみたい。ふつうの高校生が、あたしには世捨て人に見えるのよ。戦場はいくらでもあるのに、護るべきものだってあるはずなのに、まるで闘おうとしない。全部誰か任せ。そういう人たちに埋もれて生きるのは、ちょっと耐えられないなって。」

「お嬢様は、正義の味方におなりになりたいのですか?」

「違うわ。悪役でもいいから、自分が護りたいものは自分で護る、ってこと。」

「意に添わない仕事が来たら?」

「それが、教誨師が護る世界を護るものであれば、選り好みはしないわ。」

「……承知しました。わたくしは、今後も安心して、教誨師の後見人を務められそうです。」

 そう言うと、森田ケイは珍しく、優しげな表情を浮かべた。もちろん、闘う理由など、この世界で生き抜くためには、少ない方がいい。金なら金、未来なら未来、そうした何か、純粋な一つの事柄に殉じるように闘う方が、強く、しぶとく生き抜くことができる。教誨師の想いのように、世界を丸ごと引き受けようとするような者は、不純な世界の些細なことに足下を掬われ、早死にする。

 だがそれで、いいだろうと森田は思った。教誨師・相馬ひなには、代わりに命を差し出す自分がいる。相馬ひなが危なくなれば、自分が身代わりになれば済むことだ。

 世界の行方は、教誨師が決める。たとえそれが、どんなに小さな世界だとしても。

 そう、自分の主人は、心に決めたようだ。ならばそれを、自分は支えていこう、そう思った。

「苦労を、かけるわね。」

 そう、相馬ひなに言われ、森田ケイは驚いた。この人の聡明さは、一つ一つの仕事を乗り越える度に、表に現れてくるようだ。だが、それについてあれこれ言う必要は、もはやこの主従にはない。

「いえ、ご安心ください。それが、私の仕事ですので。」

「よろしく、頼むわね。――コーヒーのお代わり、いる?」

「いえ、そろそろ戻ります。ごちそうさまでした。そう言えば、今日のチョコレート、いつものゴディバじゃなかったんですね?」

「おいしくなかった?」

「いえ、優しい味で、おいしかったです。」

「そう、……ならよかった。時間とらせて悪かったわ。話を聞いてくれてありがとう。」

「こちらこそ、お考えを聞かせていただけて感謝しております。それでは。」

 森田ケイは、そのまま、いつもの足取りで執務室へと戻っていった。入れ替わりに、青木はるみが入室してきた。何故か、満面の笑みだ。

「お嬢様、こっそり手作りチョコ作戦、成功ですわね?」

「ちょっと、人がせっかく余韻に浸ってるのに!」

「まったくもー!お嬢様ったらけなげすぎ!ハグしてさしあげましょう!」

「やだやだやだ!や~め~て~!」

 先ほどまでとは打って変わってのどたばた騒ぎ。

 松本の事件からちょうど一ヶ月。この日は二月一四日であった。

 教誨師が九条由佳と再会するには、あと少し、時間が必要だった。

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