第四話 サイバーデーモン
一二月初旬の、金曜の午後であった。相馬ひなは桜ヶ丘から最寄りの駅に向かう通学路を、一人、のんびりと歩いていた。図書館で少しだけ、翌週の予習をしてから下校したこともあり、帰宅部の生徒よりも遅く、かつ部活動のある生徒よりは早い、そんな時間帯になっていた。通りには、高校生らしい人間は、ひなの他には誰もいない。駅までの道はたいていが南に面した下り坂で、歩いて一〇分ほどの道のりだった。小春日和の穏やかな午後を、歩いてゆく。キンモクセイらしき香りが漂っている。立ち止まって、きょろきょろと、その芳香の元を探す。そんなことをしていても、執事森田との待ち合わせには、十分に間に合うはずだった。
ここ何週かは、センターからの依頼もなく、日程的にも、気分的にも、少し余裕があった。だから、駅前まで森田を呼びつけて、帰りに寄り道をしていこうと思っていた。ゴディバのショップに寄って、トリュフをまとめ買いしようと企んでいた。週末の午後は、時間があればはるみさんと二人でお茶をするのが内緒の習慣だったが、そのための買い物でもある。内緒なのはもちろん、はるみさんが他のメイド達に叱られないためだ。
道の両側に、この辺りでは大きな部類に入る邸宅が幾軒か続く辺り、駅まではあと五分というところまで来た。少し傾いてきた西日に、歩道脇に長く続く白い漆喰の塀が照らされて美しく輝いているのを、ほうとした眼差しで見遣った。ふと気が付くと、身長一二〇cmくらいの少女が四人、行く手に立ち塞がっている。どの少女も色素の欠けた赤い眼をしていたが、その瞳に光はなく、髪は白く、肌はさらに白かった。皆、同じ顔をしており、そして何故か桜ヶ丘の中等部の制服を着ていた。高等部の制服と比べて襟や裾のデザインに丸みがあり、かわいらしい印象の制服で、近隣の中学生の間でも人気が高かったが、背丈の関係で、少女達は小学生のようにも見えた。
特徴的だったのは、四人が揃って、ニット帽を目深に被っていることだった。桜ヶ丘では、制服にニット帽というスタイルは見かけず、現役桜ヶ丘生の相馬ひなにはかなりの違和感だったが、同じ顔、同じ背丈の少女達を識別するには、そのニット帽だけが頼りとも言えた。というのも、形は同じだが、それぞれ青、赤、白、黒の四色となっていたからだ。
ひなが歩みを止める。四人が同時に口を開く。
「見つけたよ。」
口元だけにだらしない笑みが浮かぶ。だが相変わらず、眼には表情らしきものはない。
相手が何者かすら、見当もつかない。だが、こいつらは危険だと、相馬ひなの感覚と教誨師としての経験とが告げていた。下校途中だったひなには、通学鞄の底を加工しておさめてある、刃渡り一五cmほどのナイフしかなかった。だが、今日の敵は、仮にサブマシンガンを持っていても、太刀打ちできる相手ではないのかもしれない。それほど、異質すぎる敵だと感じた。その上で、己の採り得る行動を絞り込む。こうした連中に対するときに一番重要なのは、心理的な動揺を起こさないことだと、ひなは実体験の中で学んでいた。
左手に鞄を持ち、そこからナイフを抜き取る。やや腰を落とし、近接戦の構えを取る。それを見た四人の少女が嘲う。
「ふふふ。お前、勝てないよ。」
ひなは、少しずつ間合いを詰める相手の動きには合わせず、己のリズムで応戦を開始する。ぽんと地面を蹴り、一番左の、白いニット帽を被った少女の顎関節に、左から正確に鞄を叩き込む。
「えっ!?」
あまりの手応えのなさに驚くと、少女は殴られた勢いで首から上がぐんにゃりと変形しただけで、そのまま突っ立っていた。肩よりも先まで飴のように伸びた首が、少しずつ縮んで元に戻っていく。
「だから、言ったの。お前、勝てない。」
残りの三人が声を揃えて言う。首が戻りつつあるもう一人も、歪んだ顔のまま凄まじい笑みを浮かべている。
ひなは、ほんとうは一人の少女を殴りつけたまま、そこを駆け抜けるべきだったのかもしれない。だが、あまりのことに、相手の様子を観察してしまった。そして結局、わずかな手の内を晒しただけで、鞄を揮う前の状態に戻されてしまった。
(脚を止めちゃだめ。戻るか進むか、もう一度考えなくちゃ……)
相変わらずにたにたとした笑みを浮かべる四人の少女を前に、ひなはやや下がり、距離を保とうとする。だが、
「囲むよー。」
そう、また四人が同時に言うと、猿のような動きで地面を飛び跳ね、一瞬にして相馬ひなを取り囲んだ。そしてゆっくり、反時計回りに回り始めた。相馬ひなが動揺した分だけ、隙を見せた分だけ踏み込まれ、やがて自滅に近い敗北に至る。これはそういう戦いだ。
センターでは、対オカルト戦の基本も訓練されてはいた。だがそれは、十分に準備ができる場合の対処法だ。街中で、いきなり襲撃された場合など、考慮されてはいない。護符もなければ銀の武器もない。味方となるシャーマンも仏法者も魔術師もいない。人類以外の存在を前に、だが、相馬ひなは何も諦めてはいなかった。
(ふふふ。あたしは何も、諦めないって決めたんだ。泣いて泣いて、笑っちゃうくらい泣いて、決めたんだ。だから、こんなところで、自分を投げ出したりしない。)
ふっと、両脚を肩幅に開き、足を止める。軽く腰を落とす。細く深く呼吸を整える。右手に握ったナイフを逆手に持ち替え、拳を固める。鞄を捨てた左手は肘を軽く曲げ、緩やかに体の前に位置させる。左拳は握らない。そして、血路を開くための心眼を宿すように、眉間に気を集める。一連の動作には、武術的な構えの意味もある。しかし、この呼吸法を伴う体術は、精神と心理の防御を高める、一種の自己暗示でもあった。
青いニット帽の少女が間合いを一瞬で詰め、背後からひなにつかみかかる。ひなの、細い首を絞めようとする。体を左に捻り、上体を仰け反らせて少女の腕を空振りさせた後、右脚を膝をポイントに回転させつつ、斜め上の角度から相手の側頭部にめり込ませる。体制は崩れているが、相手の身長が低いことが幸いしている。そのままの勢いで右脚を左前に着地させ、後足となった左脚を引きつけると、少女の胸の中央辺りを足の裏で蹴り抜いた。少女は首が完全に右へ倒れ、さらに仰け反りながら地面にぐにゃりと崩れ落ちた。だが、相変わらずうつろな目がぐるりと動いて地面からひなを見つめる。けひけひと、その顎が音のない笑い声を立てる。
(こいつの急所はどこ?そこを抉らなきゃ、ずっとこのままね。)
少女の腹部を右脚でしっかり踏みつけた後、ナイフを突き立てる。まずは、心臓。次に、肝臓。正確に抉ってみる。その間に、残る三人が相馬ひなの背後に回るが、解は抉ることでしか得られない。
(西欧の魔はその心臓を、東洋の魔はその肝臓を、っていうけれど……でもダメね。ナイフのせいか、奴らのタイプがどちらとも違うのか分からないけど、効いてない。でもこいつら、たぶん使役魔でしょ?使ってるやつがいるはずよね……)
とりあえず何らかのダメージを与えれば、しばらくは身体再生のタイムラグができるのはもう分かった。背後に回っていた三人にも同様にダメージを与えれば、こちらに作戦上の余裕ができる。一番近くにいた白いニット帽の少女の顔面に左手の裏拳を浴びせ、ぐにゃりと延びた首を右手のナイフで裂く。その勢いを殺さず、左回りにステップしながら、次の黒いニット帽の少女の頸部に右脚で横蹴りを入れ、動きが止まったところで肩口を押さえ込み、地面に引き倒す。肋骨の隙間を数カ所刺す。その背中に飛びついてきた最後の赤いニット帽の少女には、振り向きざまナイフごと右拳を腹部に突っ込んでから、戻す勢いでさらに脇腹を切り裂く。
「無駄。あたしたち、すぐ戻るから。」
それでもそう嘲うあちこちの壊れた少女達に背を向け、相馬ひなは一度手放した鞄を拾い上げた。中から銀色のスプレー缶を取り出す。
(臭気鑑定士のおばちゃん、あんたのこと、信じてるわよ……。)
そしてすぐさま、早くも再生が終わりかけた四人の顔面めがけて、そのスプレーを噴射した。少女達の様子が一気に変わる。
「どう?多少は滲みる?その制汗スプレー、Ag+だからね、あんたらには一応、目玉に生タマネギ貼ったくらいには効くんじゃない?目が開けられないでしょ?」
へへん、といった表情で相馬ひなが腰に手を当てると、そこへ、突如何者かの拍手の音が響いた。
「あなた、おもしろいコね。」
振り向くと、二〇代後半のように見える、一人の女が立っていた。別珍の黒いコートを羽織り、その下には踝丈の細いラインの黒いスカートとカットソー、そして黒いトーションレースのタイを身につけている。カットソーも黒主体だったが、コートで見えない袖口には、タイと同じレースがあしらわれていた。底の厚いブーツで身長はかなり嵩上げされている。前髪は眉下で真横に断ち切られているが、その他は腰に届くくらいの、たっぷりとした癖のない髪。
顔は白い少女達とよく似ていたが、髪は黒く艶やかだった。女の背後に、スプレーを浴びせられ涙や鼻水を垂れ流す少女達が慌てて隠れる。
「だれ?」
「……そうね、あなたのターゲットになった者の関係者、と言っておくわ。」
「なるほどね。……っていうかもう、あんたが誰かだいたい分かってるんだけど。」
「当たっているかしら?その推測。」
「あんた、チョコレート、好き?」
チョコレートと聞いて、女本人よりも周りの少女達の方が反応した。チョコ?チョコ?とでも言うように、お互いに顔を見合わせている。眼の痛みは、だいぶ収まってきたようだ。
「確定のようね。あなた、由佳さんでしょ?そして、そのコたちは元ドクターの使い魔ちゃんたち。桜ヶ丘中学の制服着せてるって辺りでばればれよう?」
「あの人、そんなことまでしゃべったの?」
「当たったー!完全当てずっぽうだったんだけど!男の一人暮らしにゴディバは似合わないなって思ってただけ。あと、あんた自身の使い魔だったら、いくら何でも顔を自分と同じにはしないわよねぇ。」
得意げに相馬ひながしゃべる。
「……あなた、ほんとおもしろいコね。だけど、こっちにはあなたと和めないだけの理由があるのよ。」
「でしょうね。でも、教誨師は己の仕事についてうだうだ語らないわ。言い訳はしない。だから、恨むなりその子達をまた寄こすなり、好きにすればいい。」
「ふふふ。確かにあなたは憎いわ。でも、私の標的はあなた自身ではないの。やがて、大きな仕事が済んだら、あなたの大事な者を奪い去りに、また戻ってくるわ。私がそうされたように、あなたからも奪ってあげる。せいぜい、用心なさい。」
「大事な者ねえ。あたしにそんな人がいるのかしら。」
「今はとぼけておくといいわ。」
「ふん。まあいいわ。勝手にすれば?」
不意に、相馬ひなが首を少しだけ傾けた。何かの音を聞いているような様子だ。
「……ねえ、あたしにはそろそろ援軍が到着するみたいよ。ま、援軍て言っても、うちの執事の一人なんだけどね。」
相馬ひなに「由佳さん」と呼ばれた女の表情が一瞬だけ曇る。少し離れたところから、ウェストゲートの抜ける音と共に、相馬ひなには聞き慣れた、Boxer4エンジンの排気音が聞こえてくる。
「うちのその執事はね、何があっても、あたしとの待ち合わせに遅れないのよ。」
自信ありげな相馬ひなの様子に、由佳が答える。
「森田ケイ、だったかしら?あなたの執事さん。こちらにもそれなりに情報はあるのよ。」
「ふん。そのくらいなら別にどうってことないわ。あんたんとこの組織だってそのくらいは知ってそうだし。……あ、そうそう、あんた、人払いくらいはできるみたいだけどさ。うちの森田にもそれに対応するくらいの知識はあるの。私のGPS上の座標のみを見て、あと数十秒でここへ突っ込んでくるわ。仮にそれが本人の意志に反することだとしても、それでも彼はここに来る。だから、……今日のところは、そのコ達を連れて、去りなさい。」
「余裕を見せてるつもり?」
「あんたを始末しろって依頼が来れば、そのときは教誨師という通り名の殺し屋として、正式にお相手するわ。でも今日は違う。あたしには、あんたを殺す理由がない。そして、あたしに危害を加えなければ、うちの執事があんたを殺す理由もない。……無駄な殺しは、ごめんなのよ。」
「ふっ……。気に入らないわねその言いぐさ。でもまあ、確かに今日はこの辺りが潮時かしら。ご挨拶は十分できたしね。」
「さっさと行きなさい。そしていつか……、そうねいつか、二人でお茶にでも行きましょう?」
由佳と呼ばれた女は、一瞬、怒りと当惑の混ざった表情を浮かべたが、すぐに踵を返し、人通りの少ない路地へ消えた。気が付けば、少女達の姿も、いつの間にか消えていた。
神契東天教の本部がある長野県松本市に、一二人の奇妙な少女の集団が現れたのは、一一月も終わろうとするある日の夕刻のことであった。少女達は皆、どこかの学校の制服らしきものを着ており、全員一致して白のハイソックスにローファーの革靴、チェックの柄のマフラーという姿であった。制服のブレザーの下に紺色のベストを着ているのも一二人同じだった。だが、制服姿であれば、外見が近似してくるのはある意味当然のことだ。少女達が異様だったのは、むしろその身体と容貌の同一性のためだった。
白い髪と、それよりもさらに白い肌。色素の欠けた赤い瞳。全員が全く同じ顔をしていた。一二〇cmくらいの背丈も、ほっそりした肉の付き方も、全員同じだった。まるで、クローン技術で産み落とされたかのような白い一二人の少女が、JR松本駅から真東に延びる目抜き通りを歩いていく。
不思議なことに、それだけ統一された外見を持つ少女達は、何故か皆、色違いのニット帽を目深に被っていた。黒、濃紺、インディゴ、青、深紫、バイオレット、赤、薔薇、ベージュ、白、明灰、グレー……。何かの意味や意図があるのか、それとも単に帽子で個体識別をするというだけの意味しかないのか。一二人の白い少女達が平然と表通りを歩き、ちょっとした騒ぎになった頃には、たまたま居合わせた教団信者の一人が、この様子を本部へと伝えていた。
「……そうなんです、アルビノの女の子が一二人、みな同じ顔をしています。背丈も同じです。はっきりとは分かりませんが、単なるクローンと言うよりも、僕の目には宗教事例に見えます。ひとまず画像を送ります……」
「あれ、届いたけど斉藤、お前の送ったファイル、地面と野次馬の足しか写ってないぞ?」
「……え?写っていない?いえそんなはずは、ってあれ、きちんと撮ったつもりだったのに……もう一度撮ってみますね、」
ふっと信者の若い男が目を上げ、再度少女達に携帯電話のカメラを向けようとすると、黒いニット帽をかぶった少女と目が合った。少女の口元が何か機械的に開き、そこにおよそ少女らしくない笑みが浮かぶ。
「あ、……」
それだけのことで、斉藤という信者の男は膝が折れ、地べたに手をつくことになった。斉藤は、「それ」がアルビノの少女達などという生易しい呼び名で呼べるものではないことを知らされた。まるで、己の信仰に繋がる回路を瞬時に遡上され、精神に悪意を直接浸入させられたかのような衝撃だった。禍々しさに震えが起こる。だが、通りすがりの中年男性が、にいちゃんどうした、と斉藤に声をかけてくれたときには、一二人の少女の姿は忽然と消えていた。騒ぎの中心が失われ、野次馬の集団は自然に解消された。
このことは、一般には単なる騒ぎでしかなかった。あれはなんだったのだろうか、と話をする野次馬はいても、それが確定された事実として人々の記憶に残ることはなかった。
だが、神契東天教という教団、厳密に言えばこの教団の下で暗躍する実働部隊――通称「組織」にとっては、このことは騒ぎで収まるものではなかった。一二人の少女は、組織にとっては「事件」以外の何者でもなかったのである。
斉藤という信者に似顔絵を書かせ、さらに少女達の起こした騒ぎの際に居合わせていた商店街の人間を一人確保し、テレビ局の取材だと偽ってこれにも似顔絵を書かせた。そうしてようやく、少女達の背後にいる者が何者であるのかを把握した。あるいはそれも、その者の予定したシナリオであったのかもしれない。
――九条由佳。
かつて組織に属し、また組織によってランズエンドに有償で「貸与」されていた女。陰陽道の家系に生まれながら、その神さびた質から、シャーマンとしての才能も遺憾なく発揮してきた女。そして、教誨師によって始末された、あのドクターが守護していた女。その女と同じ顔をした一二人の少女が、この松本に現れた。それは、組織および神契東天教本部に厳戒態勢を敷かせるに十分すぎる衝撃だった。
そして実のところ、これは、これから始まる哀しい争いごとへの、小さな小さな序曲に過ぎなかった。
小春日和だった昨日とは打ってかわって、どんよりと底冷えのする冬の日だった。午後になって、ようやくセンターの時田から連絡があった。
「少し待て。場所を変える。」
森田ケイは、先輩格の執事である西村に目配せして承認を得ると、執務室を出た。相馬ひな付きの執事には特別な役目があり、外部の組織と頻繁に連絡を取っている、そのことは当然、相馬家の執事の間では既定の事項だった。だが、その実際の内容を把握しているのは、森田ケイ自身と、今一番の年嵩の執事となっている西村の二人だけであった。
「遅かったじゃないか、センターらしくもない。」
「ああ。そのことに関しては理由が一応あるんだけどね。まあ、順を追って話すから。」
森田ケイは自らにあてがわれた部屋に入ると、壁を背にして置かれた椅子に腰掛けた。
「大丈夫だ。話してくれ。」
「そうだね、まず、結論から言って、事の起こりは、うちではなくて、やはり組織の方だった。一一月二七日から翌二八日の未明にかけて、組織のスタンドアロンの端末がハッキングされていた。」
「ハッキングだと?スタンドアロンなんだろ?」
「うん。この辺は伝聞だから正確なところは分からないけど、組織内の協力者が言うには、ハッキングとしか言いようがないってさ。何者かが、端末およびOSを起動せずにハードディスク内の情報を盗み出したらしい。」
「そんなことが可能なのか?」
「分からない。ただ、事実としてその時間帯に電源が投入されたログはなくて、かつ前日夕方までの作業が流出しているらしいんだ。」
「流出?」
「そう。ご丁寧に松本市立中央図書館の検索用端末にファイル交換ソフトを組み込んだ上で、盗み出したデータの一部をネットに公開したらしい。」
森田ケイは思わず笑ってしまった。それでは明らかに、組織に対する宣戦布告ではないか。そんなことをするバカが、この日本にいるのかと思うと、なぜだか愉快になってしまったのだ。
「笑い事じゃないんだけどね?」
「ああ、分かってる。そいつが、組織だけでなく、組織に繋がる俺たちまで含めた全員に挑戦しているってことくらいはな。だが、」
「だが?」
「小気味いいじゃないか。オレは仕事ができるやつは嫌いじゃない。」
「ふ、まあそれもそうかもね。オレたちだったら、組織を敵に回そうなんて、想像すらしないもんね。」
「ああ。で、問題はその後だな。」
「そうだね。その正体不明の超ハッカーだけど、協力者によると、女らしい。調べてみると、うちの警備システムにも、一二月一日の未明に、謎の女の姿が映ってた。」
「何?それじゃなぜ今まで対応してこなかった?」
「それが、警備の誰も、その映像を見た記憶がないというんだ。」
「機械には残るが、記憶には残らない、か。人払いの魔術の応用みたいなものか」
「詳細は不明だけど、そんなことかとはこっちでも話してる。というか、そんなことでもなければ、あんなことはできないんだ。うちには、その女と通路ですれ違ったやつまでいるんだけど、やっぱり記憶にないって言うんだ。映像には残ってるんだけどね。」
「すごいな……。オレでも対面したことのないレベルだ。」
「さすがにそうだろうね。で、おそらくその侵入の際に、うちのデータも持ってかれた。たぶん、組織の帳簿データからうちを特定し、うちに物理的に侵入。さらにうちのデータからお前と教誨師とにたどり着いたんだと思うよ。」
「その女の名前は分かってるのか?」
「それなんだけど……。教誨師ちゃんはなんて言ってる?」
「以前、センター経由での依頼で始末したドクターという男の女で、由佳という名前だと言っている。」
「やっぱりね。それで正解らしいよ。フルネームは、九条由佳。陰陽道の家の出だってさ。」
「九条由佳、か。そいつがお嬢様を恨むのは逆恨みに近いが、まあ、白昼堂々襲撃する理由くらいにはなるだろうな。だが、陰陽道でどうやってハッキングするんだ?」
「断片的な情報は出てきてるよ。まず、調べてみると、九条家は陰陽道の中でももっぱら占星術の家だったらしい。けれど、組織時代に重宝されてたのは、今話していた潜入能力らしいんだ。警備が厳重で誰も潜入できないような場所へも潜入することができたらしい。」
「でもそれだけではハッキングは無理だろ?」
「うん……。それはその通りなんだよね。ただ、九条は松本の際に式神を使った可能性があるらしい。元々九条家に式神使いはいなかったけど、あのドクターという男は式神使いだったそうだから。しかも、ドクターはオリジナルの式神を醸成・顕現させ、適宜カスタマイズできたらしい。」
「ちょっと待て。ふざけるなよ。お嬢様が仕事を受けたときには、式神の話など一つも聞かされちゃいない。」
「それはほんと申し訳ないと思うけど。でもそれは、うちも知らされてなかったことなんだよね。説明責任を果たしていないのは、組織ってことになる。まあ、それも言い訳なんだけどね。センターが外注する際は、センターが裏をとらなきゃいけない約束だから。」
「……。まあいい。今は抑えておく。それで?」
「ドクターの式神は、ドクターの死後も行方不明。使役主の死で活動停止したのかもしれないけど、ことによると、ランズエンドから逃亡した九条由佳をずっと、ドクターは式神に守護させていたのかもしれない。自分が死んだ後も、何らかの方法でね。そして、やがて九条が式神たちと折り合いをつけて、自身でそいつ等を使役できるようになれば、……」
「間違いなく、かなりやっかいな戦力が誕生する……。」
「そういうこと。でもそれでも、スタンドアロンの端末をどうやってハッキングするかは分からないんだけどね。」
森田は、そうか、と応えて、少し間を置いてから言った。
「……これは推測だが、電気を操る霊獣だっている。荒っぽい大きな電流じゃなくて、小さな電気や磁気を操れる式神を育てられたら。」
「なるほどね。それなら、式神に直接ディスクやメモリを読ませ、データを持ち出すことくらい可能になる、ってことになるね?」
「ああ。これが専門家でないオレの、オリエンタル・マジックに対する過大評価でなければな。」
そこまで話すと、二人は一瞬、押し黙った。推測される九条由佳のスキルへの驚嘆もあるが、それよりも、今後の情勢の展開が読めないことによる沈黙だった。
「センターはどう動く?」
「ん、当面は動かないよ。お前や教誨師ちゃんには情報漏洩を詫びなけりゃいけないけど、今回、うちは動く予定はない。九条のターゲットでもないしね。」
「なぜ分かる?」
「うちのデータは全部読めたはずだけど、どこにも流出させた形跡がないんだ。組織なんて、winnyで絶賛大公開中だってのに。」
「そうか。了解だ。それならこの件、うちは勝手にさせてもらう。もういくつか手も打ってあるしな。ただまあ、」
「うん?」
「お嬢様の話では、九条由佳が再びこっちに襲撃をかけるのは、「大きな仕事」が済んでから、と言っていたらしいんだ。つまりそれは、組織との決着をつけてから、ということになるんだろうが……。」
「……。」
「その日まで、やつがたどり着けるかな。」
時田からの返事はなかった。ただ時田は、何か分かったらまた連絡するとだけ言って、二人の通話は終わった。
警察庁の長官室に吾妻ルカが呼び出されたのは、一二月一〇日、冬の陰鬱な雨の中を登庁してすぐのことであった。
「うへえ、なんだろう?私また何かやらかしたっけ?」
「知るかよそんなこと。大方、iゲートの秘書でも食い散らかしたのがバレたんだろ?」
高橋という、吾妻より二つ年上の同僚が適当に応じる。
「いい加減なこと言わないでよ。別に食い散らかしちゃいないわよ。仲良くしたのは一人だけなんだからね。」
(結局食ったんか……)
パーティションの向こうにいるテロ専従班の連中の誰かが派手な音を立ててひっくり返ったのが聞こえた。吾妻を除いたサイバーテロ専従班のメンバーがため息をつく。
「ま、ともかく行ってくるわ。」
腰に手を当て、虚勢を張りつつ言う。
「何ならお前の机、片づけといてやるぞ。こう見えてもオレは整理上手なんだぜ。」
「ふん。」
そう鼻で笑うと、吾妻はエレベーターへと向かった。
長官室に入ると、そこには長官と警備局長、公安課長、そして対テロ専従調査班の班長がいたが、その他に、一人の若い女がいた。
「吾妻君、忙しいところ呼び出して済まない。」
「いえ。」
「時間がもったいないからさっそく進めるが、君も神契東天教のことは知っているな?」
吾妻はその瞬間、ひさびさに大きな案件が飛び込んできたと、不覚にも心が躍ってしまった。それほど、この教団の名前は重大だ。
「はい、一通りのことは知っているつもりですが。先日も、こちらのフィールドでの事件が起こったばかりですし。」
「そうだ。その事件の余波で、我々も警戒のレベルを上げなければいけないらしい。今日は、神社本庁の水原君にもご足労願って、教団を取り巻く状況を把握し、対策を考えたい。」
「承知しました。警備局公安課対サイバーテロ専従調査班班長の吾妻ルカです。」
初対面となる水原に向かって自己紹介する。
「神社本庁霊能局外事二課、水原環です。それでは、ご報告いたします」
全員がうなずく。長官が身振りで、皆に応接用のソファに腰を下ろすように促す。皆の準備が整うと、水原が静かだがよく通る声で話し始めた。
「周辺国には、我が国への侵入および浸透を図る霊的武装集団が複数あることはご存じだと思いますが、これまでは、我々のような公安的組織とともに、神契東天教の有するエージェント集団、通称「組織」によってその活動は抑止、または排除されてきました。組織が直接対応した、と確認されているケースはそれほど多くはありませんが、霊的国防の観点からは、民間組織ながら、これまでかなり強い抑止力となってきたことは事実です。ところが今回、組織が非常時用の警備体制を敷いていたにも関わらず、何者かが組織最深部に侵入し、データを盗み出し、ネットの公開網に流すという事件が起きました。このことが、組織の弱体化をすぐさま意味するものでないことは、周辺国の当該の集団も理解はしていると思われます。ただし、もし今後、組織に敵対するこの何者かが、組織を解体、もしくは弱体化させるということが起こった場合、」
「霊的国防に関するパワーバランスが崩れる可能性がある、ということですね。」
視線を振られた吾妻が模範解答を示す。水原環は眉間に力を集めてものを考えるような、堅い印象の女だったが、その瞳だけは吾妻を内心どぎまぎさせるほどの艶っぽさを持っている。
「はい。ですがそれは、我々にとってはむしろ好都合、という可能性もあります。組織の敗北は、我々が動く好機となり得るからです。」
皆がうなずく。第二次大戦後の復興プロセスのただ中にあった神契東天教は、ボランティアでこの国の霊的な防衛を買って出た、言ってみれば志の篤い集団であった。しかしそれも、戦後六〇年以上が経過した現在においては、内外の競合組織と暗闘を繰り広げる非合法の「組織」――教団内では「防人衆」と呼ばれている――を抱える、最重要注意集団の一つとなってしまっていた。水原が説明したように、その力の大きさゆえ公安警察も必要悪的な存在として黙認してきているが、この「組織」が弱体化してしまえば、国家の治安を預かる者としては、効率よく「厳粛な対応」を考えることができる。その機に乗じて侵入を図る海外勢力にはもちろん別途対応する必要があるが、それすら口実にして、この国の公安を現代化させるよいきっかけとなる。
「……したがって問題は、組織が敗北せず、かつ組織という集団の存在が世間一般に知れ渡るような状況になった場合です。」
長官室に集った者たちを、ひととき沈黙が支配した。だが、すぐに長官が口を開く。
「その場合も、我々が取り得る選択肢は、一つしかないのではないか?」
「組織の解体、解消、ですか?」
局長が問い返し、長官がさらに答える。
「ああ。ひとまず私の考えを聞いてくれ。今年九月に杉並で起きた大学准教授殺害事件では、一部週刊誌でも組織との関わりが取り沙汰された。その際、もみ消しにある議員たちが動いたことも把握はしているが、これ以上何かが起きれば、我々とてもただ座視しているわけにはいかない。さらに、吾妻君も綾川君も関わった、大手町データセンター・テロ事件、あれについては確証はないが、主犯格の女の人脈を辿ると、海外のある組織経由で神契東天教に繋がることが、同盟国の諜報機関からの情報提供で確認された。ただ、繋がるというだけで、実際の交流の中身はマスキングされているが。」
吾妻は、この情報には少し驚いた。だが、言われてみればこれほど分かりやすい話もない。通称「組織」はその勢力拡大のため、あるいはプレゼンスの顕示のためにも、宿命的に事件、混乱を欲している。自らの手で国外勢力によるテロをでっち上げ、国家を挙げて反テロ、反海外勢力への流れを演出しておくことで、より大きな事が起こった際には、その理念たる「護国の礎」としての使命を、遺憾なく発揮することができる。もし、大手町の事件が成功し、公安のデータを含む中央省庁の機密情報が流出・漏洩していた場合には、国の弱体ぶり、無能無策ぶりを訴える世論を巻き起こし、より堅牢な防衛システムを国家予算で築かせると共に、愛国主義を教条とする己が教団の影響力と求心力とを、より大きなものに高めることをもくろんでいたのだろう。
(またエラいものと喧嘩してたんだな。)
吾妻は、神契東天教の極端な教義を思い返し、心の中で苦笑した。
「長官のお考えについて、質問があります。」
公安課対テロ専従調査班の班長である綾川睦月が尋ねた。
「仮に、現状のままで組織を排除しようとした場合、戦力的にはかなり大がかりな準備が必要であるように思いますが。」
「ああ。もともと我々は直接的な戦力や制止力は持たないし、戦後一宗教法人に変わられた神社本庁もそれは変わらない。かと言って、警視庁や所轄では手に余り、自衛隊はテロリスト同然とは言え国民を害することはできない。手の打ちようがないように思うのも当然だ。実際これまでも、その判断から、神契東天教の組織は生き延びてきた。だが、それは、我々や我々の先達が、昭和以来の暗黙の了解を守ってきたからこそ成り立つ話だ。」
吾妻だけでなく、綾川も思わず長官の顔を凝視してしまう。長官は、その様子を見て、少しにやりとした笑みを浮かべて言った。
「そうだ。君たちが使っている民間組織があるだろう?」
「人材センターのことをおっしゃっているのですか?」
「ああ。そうだ。もし、これを機に人材センターを半官半民の公安組織とすることができるならば、神契東天教内の組織と抗するだけの戦力と戦術を、我々は手に入れられる。それも、警視庁や各所轄に遠慮せずに使える戦力を、隠密裡にな。その際には、人材センターのイリーガルな面は当然「切除」してもらうことになるが、その代わり、センターが関わる過去の未解決事件について、少なくも我々は何ら調査を行わない、そのくらいの提案は約束できるだろう。」
「それで、人材センターが納得するでしょうか。」
「そうだな。……納得、させなければならないな。」
長官がそこまで腹を括る気でいるとは、少なくとも綾川睦月や吾妻ルカは考えてはいなかった。二人よりは長官に近い局長や課長であれば話をあらかじめ聞いていたかもしれないが、それでも、それぞれの立場から、センターが納得する可能性や手順を考える、その間が自然と生まれた。ただ一人、神社本庁の水原環だけが、一同の考えが整理されるのを待っているような佇まいでそこにいる。
「長官、よろしいでしょうか。」
ややあって、吾妻が尋ねる。
「長官が把握されているように、私には人材センターとのパイプがあります。ただしそれは、現場の要員と個人的なつながりがある、というだけで、センターの全体像が見えているわけではありません。」
「その点については、自分もほぼ同様です。」
綾川が続ける。
「案ずるな。人材センターには、私と警備局長が直接交渉する。我々はどちらも、人材センター中枢とコネクションがあるんだ。それに、こう言ってはなんだが、」
長官は、吾妻、綾川、水原の三名の顔を見回しながら言った。
「事は公安警察対センターという組織間の問題だ。現場の君たちが出て行っても向こうは動くまい。こちらは可能な限り、上の方から手を回す。君たち三人にはこれから、神契東天教及び組織、人材センターの活動について、徹底的にマークしてもらう。現状把握と、こちらの動きへの対応状況の確認、そして、今回の組織に対する「挑戦者」の動向のチェックだ。」
挑戦者か、と吾妻は妙に納得した。
「三人、というのは?」
綾川が尋ねる。課長も入れれば公安警察の人員で三名になるが、長官の視線の先には課長はいない。いるのは、吾妻ルカ、綾川睦月、そして、神社本庁の水原環だ。
「そうだ。今日付けで綾川君は公安課対テロ専従調査班班長から異動、吾妻君も同様だ。そして、神社本庁にはすでに話をつけてあるが、こちらの水原君にも警察庁に一時出向してもらい、三名で、非公式に小班を組織する。今後人員は適宜補充するが、まずは君たち三人がコアだ。対象は、組織もセンターも、武力戦、霊能戦、そして情報戦のすべての用意がある集団だ。君たちの能力が遺憾なく発揮されても、出し抜かれることはあるかもしれない。それでも、君たちが我々の切り込み隊だ。階級については相応に遇させてもらう。よろしく頼む。」
有無を言わせぬ口調に、吾妻はこの件が相応の準備を伴う「作戦」であることを理解した。現場の人員に過ぎない自分にはすでにこの作戦への拒否権はなく、仮にそうすれば替えの人員が補充されるだけだ。
三人は揃って敬礼し、長官の提案に諾と答えた。
「君たちの通称は「対某組織専従調査班」、略称は「S班」としておくが、正式名称はない。書類上君たちは、長官の指示の下、半年間の研修を受けることになっている。つまりこれは、記録には残らない戦いだ。今から各自、現在の部署に戻り、本日一六時に、局長室に集まってほしい。そこで、これからの任務の詳細を伝える。」
三名が退席し、後には長官、警備局長と公安課長だけが残った。
「彼らはどこまで行けるでしょうか。」
「そうだな。我々の期待の最大値を超えられるかどうかだ。」
局長と長官が、期待も不安も見せないごく普通の口調で言葉を交わす。終始無言だった公安課長が初めて口を開いた。
「剣と鏡、そして珠からなる体制です。この日のために、育ててまいりました。必ず結果を残してくれるものと確信しています。」
「……そうだな。我が国の公安が、数十年も前の敗戦時の体制から脱却するためには、ぜひとも必要な挑戦だ。我々も、できることはやっておこう。」
「はい。私は早速、相馬公爵に協力依頼を」
「局長、さすがに公爵はまずかろう。会長にしておけ。」
長官が笑って言った。局長も柔和に笑い返し、課長を伴って退席した。
真冬の、深い森の夜である。焚き火を前にじっと座っている女の傍らに、ふととろりとした気配のようなものが凝り固まって、白い少女のかたちをした式神が現れた。焚き火に近づき、女――九条由佳に向かって、ぽつりと尋ねる。
「九条、ほんとにやるの?」
赤い焚き火の炎が、黒いニット帽を目深に被った式神の、紅い瞳に揺れている。
「ええ。あなたたちが許してくれるなら。」
「あたしたちに異論があるはずもないわ。あなたは、あたしたちの親の敵を討ってくれるのだから。」
「あなたたちに、犠牲が出るかもしれないのよ?」
「それは気にしないでいい。誰か一人が残れば、あたしたちは必ず再生する。仮に全員が倒れたとしても、九条、あなたがヤツを倒してくれれば、それでいい。」
「私がしくじったら?」
「……あなたはしくじらないわ。あなたには、賀茂秋善がついている。」
賀茂秋善、それは昨秋教誨師に討たれた「ドクター」の本名だった。おにいちゃん、と呼んだら露骨にたじろがれたので、賀茂くん、と呼んでいた。もちろん桜ヶ丘では、賀茂先生だったけれど。そんな、懐かしい思い出が一瞬、脳裏を占める。
「優しいのね。ありがとう。それじゃ、決まりね。」
「優しさなど、賀茂からは与えられてない。あたしは、事実を述べているだけ。」
ふ、と九条由佳の口元が綻ぶ。式神が訊く。
「確認だけど、あなたの狙いは?」
「組織の解体と、瀬田燎源の死、この二つのみ。」
「諒。」
そうひとこと言うと、式神はまた、とろりと闇に消えた。
明けて一月一四日。九条由佳が松本に現れたのは正午近くのことだった。どうやってここまでやってきたのか、一二人の白い少女の姿をした式神達を引き連れ、巨大な神社風の建造物が聳える神契東天教本部の正面ゲートに堂々と近づく。守衛や警備の目に留まるのもまるで恐れていないかのように、大型観光バスがゆったり一五台は並びそうな車入れから続く、正面エントランスまでの約八〇メートルの道を、敷き詰められた玉砂利を踏んで歩いていく。少女達は今日は黒い厚手の生地のパンツに明るいグレーのパーカー、その上に軽い素材の黒いジャケットを着込んでいた。頭にはいつものように色違いのニット帽を被っている。先頭の四人――濃紺、深紫、薔薇、明灰――は肩からサブマシンガンを下げ、続く四人――黒、青、赤、白――は見たところ手ぶらで、ジャケット前部のポケットに両手を突っ込んでいた。その四人の中央に、九条由佳がいる。さらに最後の四人――グレー、インディゴ、バイオレット、ベージュ――は頭部にヘッドフォンのようなものを装着していた。
本来の九条由佳の戦い方は、このような目立つ作戦行動はとらず、隠密行動を信条としていたはずだ。それがわざわざ、しかも銃器まで準備した上で、白昼堂々正面から本部に侵入を図るなど、昨年末襲撃されて以来それなりに対策を考えてきたはずの神契東天教、およびその組織でも予測できないふるまいだった。
最初の四人が、その白く端正な貌を喜悦に歪ませて、警棒やスタンガン程度しか持たない本部警備の人員達と一方的な銃撃戦を始めたのは、午前一一時五四分のことであった。正面突破という、お世辞にも誉められたものではない作戦ではあるが、射撃だけは十分に訓練を積んであるのか、四人の式神は教団側の通常警備の人員を、まるで指さしして人数でも数えるように、一人、また一人と倒していく。急所は外すがしっかり戦闘不能にはする、といった嫌らしい攻撃の仕方で、九条達の集団は何の問題もなく前進していく。
だがやがて、教団施設内からの応射が始まった。本部内に待機していた組織の要員がエントランス近辺にかけつけ、対応を開始したらしい。先ほどまでの通常警備の人員とは違う、明らかに実銃の扱いに慣れた集団との銃撃戦が始まる。あっさりと、先頭にいた薔薇色のニット帽を被った式神が撃たれる。エントランス前のちょっとした植え込み以外、特に遮蔽物もない本部前の広場に馬鹿正直に乗り込んできた九条達など、事もなく制圧できると、応戦した誰もが考えていたにちがいない。
だが、薔薇色の帽子の式神は何事もなかったように起き上がり、反撃を開始した。他の三人の式神達も同様だ。数発弾丸を食らっても銃を離さず、気が付けば再生している四人の少女達を相手に、応戦する人員達も多少は動揺したらしい。ほんの一二〇cmほどの四人の少女に、狂ったように銃弾を浴びせた。ところが、頭部に銃弾を集め、視力と思考力を奪ったつもりになっても、少女達の照準は狂わない。首から下、肩から先だけで銃を構え照準し、引き金を引いている。それだけではない。四人の内の一人、最初に一度倒された薔薇色の帽子の式神が、すでにエントランスに到達し、応戦のために開けられていた自動ドア付近を制圧してしまった。肩やわき腹に風穴が空き、顔も左半分は原形を留めていないが、それでも手際よくマガジンを交換しながら、エントランス内の応戦要員と交戦している。
第三者から見れば、なぜ教団側の人員は、銃を持った式神の少女四人だけを攻撃するのか、なぜ九条由佳を直接攻撃しないのか、と疑問に思ったに違いない。だが、エントランス内で応戦する数名の者たちには、最初からその選択肢はなかった。九条の姿は見えてはいるが、何故かそれを意識の上から除外してしまうような心理誘導が働いている。これが実のところ、九条由佳自身のスキルであり、これまでの日々長きに渡って、当の組織やランズエンドが重宝し続けてきた能力の一端だ。
だから人間達は式神の少女を撃つ。だが、ジャケットが破れ、脚が折れ、頭部が損壊して襤褸切れのように薙ぎ倒されても、少女達はまた立ち上がる。着衣ごと、飛び散った血肉も馬鹿丁寧に引き寄せながら、見る間に再生する。
頭数的には明らかに少数の敵を前に、教団側の要員は徐々に手詰まりとなり、精神的にも追いつめられていく。ここは神契東天教本部、自分はそこで訓練を受けた防人組織のメンバーだ、宗教や呪術による攻撃にも対応できる、そう自らに言い聞かせ続けでもしない限り、あっと言う間に正気を失うような光景が次々と視界を襲う。
やがて、秒単位では再生できない生身の人間達の方が不利になる。銃口が向けられただけで、己の信仰心までが敗北する。そして、過たず倒される。ここでも一人、また一人と、戦線から離脱する。その隙を突いて、ベージュの帽子の式神が、軽くジャンプして自動ドアのセンサーに手を触れた。何かが破裂するような鋭い音とともにセンサー部が破壊され、ベージュの式神は声を上げて笑った。そしてさらに周辺の電気系統にも過大な電流を与え、自動ドアおよびエントランス入り口付近の監視カメラの機能を停止させた。後は、銃を持った残り三人の式神がエントランス内に侵入し、本部施設入り口付近での大方の趨勢は決した。外傷だけでなく、信仰心まで折られた怪我人の山が築かれる。
如何に郊外の宗教施設とは言え、実弾での銃撃戦が始まれば、周囲に気づかれないはずもなく、誰が通報したのか、時計が一二時三〇分を回る頃には長野県警の車両が駆けつけ、周囲の包囲を開始した。そこへ、各メディアの取材班が到着する。ただ、メディアの方はこの銃撃戦を聞きつけて集まったわけではないらしく、警察によって包囲された教団本部の様子を見て異変に気づき、包囲網の外から慌てて取材をし始める。中継や撮影の用意があった放送局は、レポーターを立たせ、カメラテスト等を始める。やがて、時折散発的な発砲音が聞こえるくらいとなった施設内部から、怪我人の搬出・搬送が始まった。すでに到着していた救急車に向かって教団の人間が出てくる度、負傷者が運ばれてくる度に、わっとメディアの人間が群がり、それを警察官が制止する、という図が続いた。
その時刻、教団本部の最深部では、さらなる戦いが始まっていた。
火器を持った人間達は四人の式神に任せ、九条由佳と八人の少女達は神契東天教の本部施設の奥深くへと潜入していた。施設周辺の、蜂の巣をつついたような騒ぎとは別に、教団本部内は異様なほどの静けさだった。それが九条由佳には気に入らない。
(慌てなさい。もっと騒ぎなさい。そして、すべてをさらけ出すのよ。もう二度と、影の世界で活動できなくなるくらい、白日の下に晒されなさい。)
自らの古巣でもあり、また昨年末に一度潜入してある施設ということもあり、九条由佳は迷うことなく標的の元へと突き進む。標的は、教団のナンバー2にして組織――教団内では防人衆と呼び習わされてきたエージェント集団――を統べる男、瀬田燎源。
前回の侵入時に、教団のサーバーには九条と式神達が組んだウィルスを休眠状態で置いていった。それが先週までに活動を開始し、現在教団内の端末は、ほぼすべて、リアルタイムで九条の命令に応える状態になっていた。教団本部にはごく普通のLAN設備があり、サーバーにはユーザーの接続状況の監視機能を備えた、一般的なグループウェアが組み込まれていた。それによれば瀬田燎源は今も、教団本部内の端末にログオンしている。ヘッドフォンをした式神の少女たちはずっと、九条とともに移動しながらそのグループウェアの状況をモニターしていた。
「まだ、瀬田はログオンしてるのね?」
「うん。少なくとも、瀬田のIDはアクティブ。」
もちろんそれが、フェイクや罠の可能性もあることは、九条由佳にも分かっていた。だが今は、それを信じて進むしかない。
九条由佳は、一二柱の式神達の支援の下、遺憾なくそのスキルを発揮していた。九条の潜入能力は、原理としては方違えや遁甲の陣の理論と同様のものだった。己にとって災いとなるものから隠れ、逃れる技術、それを数秒単位、数十cm単位で更新しつつ移動する、それが、九条の潜入スキルの核心となっていた。通常は地形や呪物の配置を利用して形成する陣を、九条は己の霊力で強引に形成してしまう。九条由佳単体の霊力で陣を更新し続ければ、術を解いた後に強力な疲労が襲うことになるが、今はその陣の一部を、黒、青、赤、白という風水的な基本色の帽子を身につけた式神達が肩代わりしてくれていた。
通路を教団の人間が歩いてくる。九条由佳とも目が合うが、何故かぼんやりと眺めるだけで通り過ぎてゆく。術の発動中は、常にこのような状態が続く。
「九条、状況がよくない。確認したら、五分前から瀬田の端末に誰も触れてない。」
「五分だけね?」
そういうと、霊力の消耗が激増するのは覚悟の上で、九条由佳は教団本部施設の地下通路を駆けだした。
(あと少し、あと少しで瀬田を……)
九条由佳は、瀬田を端末前に縛り付ける策を準備していた。さらに、混乱を大きくし、瀬田が本部を離れられないよう、銃火器による正面突破という賭に出た。そうしていよいよ瀬田に肉薄したはずの今、瀬田の端末が放置されて五分が経過したという。
(ここで押さえられなければ、長期戦になってしまう……)
インディゴ・ブルーの帽子の式神が一瞬でオートロックを解除するが、それももどかしいというように、九条由佳は瀬田の端末がある防人衆作戦室のドアを、分厚いブーツの底で蹴り開けた。
九条由佳が神契東天教本部に現れる少し前、同日午前一〇時を回った頃から、ネットではちょっとしたマツリが現出していた。botと呼ばれるウィルスに感染したネット上の数千台の端末が何者かによって一時的に制圧され、神契東天教信者の、献金額を含めた個人情報のリスト、組織のエージェント達の実名、偽名、顔写真等のリスト、教団を支援する与野党の議員達のリスト等、教団にとってはありとあらゆる極秘情報を含むファイルが、spamメールに添付されて、あるいは直接ファイル交換ソフトによってばらまかれた。またそのことを告知する記述が、宗教情報や公安・警察情報、右翼・左翼を問わず思想活動を扱う匿名掲示板、あるいは大手ブログのコメント欄に、一斉に書き込まれるようになった。九条由佳が年末に入手していたすべての情報が、暗号化されていた部分もすべてデコードされた上で、ネット世界に晒されたのだ。当然、それに対応を開始するマスメディアも出てくる。
(水原さんの予知、いきなりビンゴだけど……。これじゃ暗殺されるよ挑戦者……)
その凄惨な模様を、S班のために誂えられた作戦室の端末でトレースしていた吾妻ルカは、そう、心の中でつぶやいた。そして、S班の綾川と水原、それから公安課長に最高度の警戒を要請し、ネット上の動向の追跡を再開した。
すると、吾妻が注視していた画面右下に小窓が開き、[akiがログインしました]という表示が現れた。
「お、お出ましだね亜紀ちゃん。まったく毎回どうやってここのセキュリティ突破してくるんだかね。」
そう言って吾妻は微笑むと、キーを素早くタイプした。
[神契東天教の終焉、見物する気?]
[いえ、吾妻さんの仕事ぶりを見学するだけです]
[じゃ、そのついでていいから、一つ頼まれてくれない?]
チャットの文字列の向こうでは、botのネットワークに隷属させられていた端末たちが一斉に解放された模様が表示されていた。
[いよいよ始まるみたいですね]
[ええ。始まるわね。]
[依頼、話だけはうかがいますよ]
[ありがと。よろしくね。]
水原環が得ていた霊的に確度の高い行動予測によると、挑戦者が動く可能性が高いのは、ここ数週間ではこの日を含め計三日であった。そのため、前日から準備を済ませていた公安課長と綾川睦月、水原環の三名は、吾妻の連絡を受けてすぐさま、協力を要請してあった陸上自衛隊のCH-47JA輸送ヘリの荷室に乗り込み、市ヶ谷駐屯地から長野方面へと向かった。一時間弱で松本市上空に至る。
「綾川、長距離狙撃の準備はあるか?」
「静止状態で八〇〇、条件がよければ一一〇〇程度まで行けます。」
「ヘリからだと?」
「三五〇が限界かと」
「十分だ。標的だが、教団内組織ナンバー2の、瀬田という男だ。顔写真を渡しておく。是が非でも今日処理しなければならないという訳ではないが、この男を排除できれば、今後の事態の展開は御しやすいものになる。」
「挑戦者の方は?」
「水原君にトレースしてもらい、可能であれば身柄を確保したい。」
「承知しました。先ほど、松本市の周辺部で中規模の術が発動した模様ですが、現状で詳細は不明。もう少し接近すればこちらからも捕捉・追跡可能になります。」
巫女装束に、レンズ部分に液体の入った特殊なゴーグルを着用した水原環が、額に細かな汗をうっすらと浮かべながら、ややぐったりとした様子で松本の方角に顔を向けている。
公安課長は、計算に入れていた駒がすべて、有効に機能していることを確認した。後は、計算できない駒の動き次第だ。
「で、今回の依頼は誰からなの?森田。」
「ですから先ほども申し上げましたように、公安的なとある組織から」
「主人の話はきちんと聞きなさい。あたしは「どこから」なんて訊いていないわ。「誰から」かと訊いています。」
溜め息混じりに、執事は答える。
「失礼いたしました。依頼は、警察庁警備局所属の吾妻ルカという人物からのものです。」
やっぱり、という顔で教誨師は執事の顔を見る。ルカってことは女なんでしょ?そういう目で執事を睨みつける。前々から、公安関係に森田ケイの知り合いがいるらしいことは分かっていた。今回これで、その名前と、推定段階だが性別まで判明したことになる。
「それで、センターのチェックも通さずに、あなたはそのルカさんの依頼を受けたわけね?」
「はい、ですが、」
「ですが何よ?」
執事が教誨師の目の前に、一枚の紙切れを示す。
「何よこれ……」
それは、教誨師相馬ひなの父親、相馬嶺一郎の署名の入った依頼書だった。文面には、近々警察庁から依頼が行くはずだが、きちんと協力するように、という内容が記されている。
「あ、あら……ずいぶん久しぶりにそのお名前を拝見したわね……。お父様がなぜ、ここで出てくるのよ?」
「現在センターの活動自体は事実上休止しています。特に、関係が深い組織の存在が、いくつかの事件で表沙汰になってきていることもあり、対組織、対公安という関係の中で、身動きがとれなくなっているというのが実状のようです。お父上・嶺一郎様は、センターを束ねるお一人として、そうした状況を鑑み、現状を変えるのに必要な行動を、お嬢様に依頼されたのだろうと思われます。」
「……。そ、それじゃ、仕方ないわね……。」
相馬ひなも、家の主には逆らえないらしい。しかも相馬嶺一郎と言えば、センターを代表する権限を有する数少ない人物の一人であり、現状センター経由で依頼を受けて動いている教誨師としても、その意向は重視せざるを得ない。
「もう一度、依頼の詳細を。」
「承知しました。……明日一月一四日に長野・松本に入り、神契東天教本部に攻撃を加える人物の「事後の護衛」を行い、隠密裏に公安課長に身柄を引き渡すこと、とのことです。」
「詳細って言ったのにそれだけなの?」
「はい。攻撃がない場合には夕刻までに撤収せよ、ともありますが。」
「ふん……。わかったわ。要は、あの組織相手に特攻するお馬鹿さんがいるんだけど、そいつを死なせるのは惜しいと考えてる馬鹿が公安にいるってことね?」
「おそらくは。」
「まあいいわ。不本意ながらその仕事、受けさせてもらうわ。二時間後に出発します。」
相馬ひなは猛烈に不機嫌だった。今回の件が、あの小春日和の日に、自分から大事な者を奪うと告げた九条由佳を中心としたものであることは、ほぼ、間違いのないことであった。しかしそのことが直接、相馬ひなを不機嫌にしたわけではない。
教誨師の棲む世界が、公安や組織の都合で揺り動かされたことが、気に入らなかった。
森田ケイが、自分以外の者の意向を受けて動くことが、気に入らなかった。
九条由佳が、自ら死地に赴こうとしていることが、気に入らなかった。
ともかくそうしたいろいろが、気に入らなかった。
(あんた、あたしとやり合うって約束してるんだからね。勝手にあたしの世界引っかき回しておいて、その前に死んだりしたら、承知しないんだから。)
教誨師は、相馬邸の地下室の一角で、必要な装備を選びつつ、傍らの森田に話しかける。
「森田、今回センターは使えないの?」
「はい、表向きは協力を得ることはできません。ですが、時田を個人的に使うことは可能です。話をつけておきました。」
「それはよかったわ。装備の準備が終わったら、時田さんにつないでちょうだい。依頼することがいくつかあるの。」
「かしこまりました。」
地下室を出ると、事情を知っているのか、青木はるみが控えており、着替えを含めた外泊用の一式をとりまとめた小ぶりのバックパックを渡してくれた。状況によってはそんな余裕などないかもしれないが、弾倉と違って背負って走るわけではない。車に放り込んでおくだけだ。邪魔にはならない。
「ありがとう。そうだ、平日の仕事だから、明日の朝はるみさんから学校の方に欠席の連絡を入れておいてね。理由は、こんな季節だから、風邪で十分かしら。」
「かしこまりました。お嬢様――」
はるみさんが、森田が先にガレージの方へ向かったのを見送りつつ、意味ありげな笑みを浮かべている。
「なに?」
「お二人で、夜のドライブですわね?」
「はるみさん?」
「もっと近場でしたら、今からお出になればゆっくりお二人で仮眠もできますのに?」
「は・る・み・さ・ん?」
こんな状況で何を、と思わず睨んでしまったが、はるみさんのことだ。自分の身を案じて、わざと軽口を叩いているのだろう、と思うことにした。
「どうかご無事で、お戻りください。」
案の定、青木はるみは少し心配そうな声を出した。
「大丈夫よ。仕事は成功させるし、怪我一つなく帰ってくるから。」
「はい。十分にお気をつけて。」
「うん。行ってきます。それと、」
「何でございましょうか?」
「――ソッチノ話ハマダナマキズナノデ触レナイデイタダケマスカ?」
感情を押し殺した、それでいて、それ以上触れたら殺すよ、という気迫がありありと込められた声で、相馬ひなは告げた。ひなに格闘技の基本を手ほどきした青木はるみですら、一瞬、身を竦め半歩下がってしまうほどの気迫だ。失礼いたしました、とはるみさんが応えるのを背中に聞きながら、ひなは森田を追ってガレージに向かった。
蹴り開けたドアの先は、照明が消されていた。咄嗟に身を引こうとしたが、右肩を撃たれた。落としそうになる拳銃を、こらえて左手に持ち替える。
「よく来たな。」
「その声、瀬田ね。逃げ出さなかったのは誉めてやるわ。」
「ふむ。撃たれた側の台詞ではない気がするが、まあよしとしよう。」
その直後、九条由佳は再び、サイレンサーで減衰された発射音を聞いた。ただし今度は、九条の足下からギャッという悲鳴が上がった。
「なぜ?」
「九条よ、暗闇に乗じて式神をオレの知覚からマスキングしたつもりだろうが、無駄だ。お前の能力に敬意を表して、烏玉を呑んでおいた。オレには見える。それに……」
「九条、ごめん。状況が悪いみたい……。」
九条と同時に室内に入ったインディゴ・ブルーの式神が見る間に力を失って床に崩れ落ちる。
「ずいぶん値が張ったよ、銀の弾丸は。」
「くっ……」
「お前の守護は、その四匹だな――」
その声を聞き終わらないうちに、九条は声の方向に左手で残弾をありったけ撃ち込んだ。撃ち込みつつ、指示を出す。
(黒、青、赤、白、下がりなさい。グレー、バイオレット、ベージュ、そばにいる?ありったけの電撃を、ヤツの方向に!今すぐ!)
暗かった室内が一瞬、ありありと照らし出されたが、すぐに肉眼では受け止めきれない光量となり、落雷したかのような音圧が辺りを襲った。
その瞬間舞い上がった粉塵が消えないうちに、黒が叫んだ。
「九条、ヤツが逃げる!」
九条の眼も耳も、今の閃光と轟音でろくに役に立たない。だが、陣形を組み直し、式神達の知覚を再接続すれば、認識世界は一気に広がる。
「見つけたわ。」
半ば鬼神の表情となった九条由佳が、一歩床を蹴る。人類の跳躍力を遙かに超えて、九条は瀬田の追跡を始めた。
瀬田は、教団本部裏手の沢へと抜ける非常時用の地下通路を移動していた。九条は、瀬田が施設の外へ出る前に決着を着けようと考え、一気に距離を詰めにかかった。
(追いつける。追いついてみせる)
時折折れ曲がる細く長い通路の先に一瞬瀬田の後ろ姿が見えた。これなら、瀬田が非常出口に達する前にヤツを殺れる――
そう思った九条は突如、ごく細いワイヤーを網状に張り巡らせたものにふわりと衝突した。身体を丸めて防御の態勢をとったものの、不十分なものでしかなかった。瞬時に体の自由を奪われ、かつ防御の遅れた部位には遠慮なくワイヤーが食い込んだ。額が割れ、かろうじて目を庇った二の腕がぱっくり裂けていた。両脚も確認できないが、酷い状態に違いない。激痛が頭蓋へと舞い上がる。体幹部分はかろうじてありったけの霊力を防御に回して守ったが、それが届かなかった部分は、無数の鎌鼬にでも遭ったような有様となった。通路の床に血液が流れ落ちていく。
「……浅はかなものだな。オレが本気で逃げているとでも思ったのか?九条、お前はランズエンドにいたときも、直接の戦闘はほとんど経験がないのだろう?こういうのは、まずは場数がものを言うものだ。そして、ここは文字通りオレのホームグラウンドだ。お前がこうしてやってきたときのための仕掛けなど、いくらでも準備できる。」
地下通路の暗い照明の下に、ようやく瀬田燎源の姿が浮かび上がる。見たところ五〇歳前後の、だが精悍な印象の男だ。それが、野卑な笑みを浮かべて、ゆっくりと、身動きのできない九条由佳に近づいてくる。
「こんなところでお終いなのかね?九条家のお嬢さま。冥府のご両親も、それからあの男、ドクターも、この有様ではさぞかし無念なことだろうと拝察するが。」
「……!」
薄暗い地下通路の中央で、九条由佳は銀の蜘蛛の糸に絡め捕られた羽虫のようであった。瀬田燎源を睨み据えるものの、この状況を打開するだけの材料はない。霊力を攻撃に回せば、かろうじて防御している部分にもワイヤーが食い込むことになる。
インディゴが欠けて七人になった式神達が、九条由佳の周りを囲む。瀬田が少しだけ優しく微笑む。
「お前等、それで何になる?お前等にはそのワイヤーは切れない。このオレが、そのワイヤーを錬成した。それは、鉱精の加護を受け、さらに満月の精にのみ百晩曝した、一級品の呪物だ。単なる金属ワイヤーではないのだ。獲物が動けばさらに食い込み、妖の者が触れれば焼け爛れる、そういう代物なのだ。」
式神達はただ、九条の周りを囲み、盾となることしかできない。そこへ、再び瀬田の銀の弾丸が撃ち込まれる。
「その外見、気分が悪いな。子どもに実弾を撃ち込む射的のようだ……。」
そう言いながらも、瀬田は一発、また一発と、白い少女の顔面に銀の弾丸を撃ち込む。四人目までが倒された。
そこへ、通路中央に縛り付けられた九条由佳の背後から、教団支給の迷彩服を着た二人の人間が駆け寄ってきた。瀬田もさすがに教団の人間のいる方向に向かっては発砲できず、ひとまず銃口を下に向けた。
「どうかしましたか?」
「今回の首謀者を拘束したところだ。」
「すると、こいつが九条由佳ですか?」
「ああ。」
二人も銃を構える。
「用心はいいが発砲するな。この距離では貫通するか跳弾が――」
小柄な方の人間が、無言のまま瀬田の右肩を撃ち抜いた。
「貴様等!?」
続けて大柄な方が瀬田の足許に向かって数発発砲する。状況が変わったことを悟った瀬田は、今度はほんとうに逃走を開始した。教団施設裏手の非常口から外に出て、沢伝いに逃げる。
(くそ……!あいつらは何者だ?ここに潜入を許すなど、九条のようなスキルでもない限り考えられないことだが……ひとまず日が落ちるまで潜伏し、体勢を……)
そのとき、音速を超えて弾丸が飛来し、瀬田の胸部を貫通した。
(くっ、どこから撃たれた?あの尾根からか?いずれにせよ、素人の技では、ない、な。韓国か?中国か?それとも、まさか……)
沢の冷たい流れの中に、瀬田の体が前のめりに崩れ落ちる。さらにもう一発、頸部に弾丸が撃ち込まれ、教団防人衆を束ねてきた瀬田燎源は、絶命した。
教団本部地下通路中央では、二人の人間が、出血が続く九条由佳を護って組織の人間と闘っていた。九条を銀の網から引き剥がすことができればよいが、想像以上にワイヤーが食い込み、また霊的な縛めでもあるのか、肌に触れているだけのワイヤーも、九条の体を少しでも動かせば食い込んでいく。九条由佳の白い肌に、ワイヤーに沿ってふつふつと朱い血の玉が浮かぶ。
「どうする?これ、ピンチじゃない?」
敵の攻撃が途絶えた隙に、打開策を検討する。
「そうですね……。九条さん、まだ聞こえていますか?」
その声に、九条由佳がうっすらと両眼を開く。
「だいじょうぶ……。聞こえているわ。……それにしても、妙な成り行きね。あなたたちに助け……られるなんて。」
「ほら、無駄口叩かない。まだ助かったかどうかなんて、分かんないわよ?……ってマジでキツそうね。あんた、あとどのくらい保ちそう?」
「くっ……、そうね、今は霊力でワイヤーを防いでるのよ……私の意識が飛べば、そこで終わりね……」
「そう、それじゃまあ、せいぜい頑張りなさいよ。ほら、みんな来てくれたし……ってあなたたち、いいもの持ってるじゃない?」
濃紺、深紫、薔薇、明灰の四人がようやく九条のもとへと辿り着いた。組織の連中と戦いながら九条の後を追ってきたらしい。敵の攻撃が一時止んでいるのも、彼女たちが交戦し、制圧したからだ。だが四人が持っていたサブマシンガンは、すでに弾切れとなっていた。しかし、小柄な人間の方――相馬ひなが「いいもの」と言ったのには、訳がある。
「それ、センターの武器庫から持ってきたんじゃない?MP5-A4でしょ?」
相馬ひなは、背中に背負っていたバッグをどさりと床に降ろした。中からマガジンを八本取り出す。
「いい?六〇発ずつ渡すから、無駄撃ちしないで大事に使うのよ。」
四人の式神は最初きょとんとしていたが、マガジンを見ると事情が理解できたようだ。初めてにっこりと、表情らしい表情を浮かべて手を伸ばす。
「……何よ、あんたたち……。そんな顔もできるんじゃない?」
さてと、とでも言うように、相馬ひなは自分のMP5にも未使用のマガジンを装着して立ち上がった。
「紺のコとアッシュのコは、非常口の方をお願いね。ローズピンクのコと紫のコは、あたしと一緒にこっちを護るわよ。それから森田、」
「はい、お嬢様。」
「あなたは、由佳さんを助ける方法を調べなさい。公安やセンターを頼ってもいいわ。ここじゃ電波は入らなそうだから、必要ならさっきの男が逃走した裏口から外に出てもいいわ。」
「かしこまりました。」
「気を付けなさい、まだあの男がいるかもしれないから。じゃ、行きなさい。」
後見人森田ケイが修正する必要の全くない指示が、相馬ひなから出される。相馬ひなを中心としたチームが、機能し始める。
組織側が体勢を立て直し、人数を揃えて地下通路へやってきたのは、それから二分後のことだった。通路に遮蔽物はないが、それは向こうもこちらも同じだ。純粋に、腕のいい方が生き残る。このとき、武器を持たず、活動できた式神は黒、青、白の三人。赤はすでに瀬田に銀の弾丸を撃ち込まれ、瀕死の状態で床に崩れ落ちている。敵勢力の認識から九条由佳をマスキングする余力は、今の式神達にはない。三人のうち、青は傷ついた九条由佳の前、非常口の方向に、白は背後、教団本部中心部の方向に向いて立ち、弾除けの壁となった。
黒が相馬ひなに語りかける。
「お前も、あたしを盾にするといい。あたしたちは、通常の弾丸では死なないから。弾除けくらいにはなる。ちょっとした術で、貫通も防げる。」
「あんたたちって……。わかったわ。護ってもらうってのは性に合わないけど、わがまま言える状況じゃないし。一緒にやりましょ。」
(でもね。悪いけど、あなたたちにそんなに当てさせる気はないわよ。相手が引き金引く前に、全部撃ち落としてやる気で行くから。)
「それじゃ、みんな、がんばって!」
その声をきっかけにでもしたように、地下通路は九条由佳を護る者たちの壮絶な戦場となった。
「ルカか?森田だ。現在教誨師が九条由佳を護衛中。ただし九条は銀のワイヤーに縛められていて、動かすことができない。負傷もしている。場所は教団施設裏手の、非常口近辺だ。指示をくれ。」
「了解。そっちにうちの実働班がいるから、すぐに向かわせる。切らずに待ちなさい。」
「分かった。」
数十秒で再び吾妻ルカの声が飛び込んできた。
「ケイ?そのまま非常口付近で待ち、うちの連中を案内しなさい。うちの課長とゴリラ、それから巫女さんが一人行くはずだから。」
「了解。変わったメンツだな。」
「最強よ。」
「だろうな。」
森田が携帯を切ってすぐ、背後に気配があった。
「森田ケイ君か。」
「警察庁公安課の課長ですか?」
「そうだ。吾妻に連絡を受けた。」
森田が拳銃をデコッキングしつつゆっくり振り返ると、大柄な迷彩服の男と、ゴーグルを首に掛けた巫女装束の女、そして五〇歳台と思われるスーツの男が立っていた。
「このまま突入し、九条由佳を救助する。案内を頼む。」
「こっちだ。」
非常口のロックは、森田が戸外に出た時点で破壊してあった。森田と大柄な男――綾川睦月を先頭に、タイミングを計って四人は地下通路に飛び込む。
そのとき、森田が視たものは、ある意味教誨師の後見人としての予測を少し超えたものだった。濃紺と明灰の二人が、非常口のすぐそばで、サブマシンガンを森田と綾川に突きつけた。
「味方だ、通せ。」
森田の言葉に、二人の式神が銃口を上へ向け、四人を通した。教誨師たちの方を見遣ると、薔薇と深紫とが通路の先の方まで進み、銃を構えて敵の侵入を防いでいる。教誨師は武器を持たない三人の式神とともに、九条由佳のそばで、銃を構え、辺りを警戒している。
つまり、地下通路のこの区画は、教誨師と式神の少女たちによって制圧され、支配されていた。九条由佳を巡る銃撃戦は、現状で教誨師たちの勝利であった。森田ケイは、ここまでの展開を予測してはいなかった。
「お嬢様!ご無事ですか?」
「見ての通りよ。それより森田、由佳さんの消耗が激しいわ。」
「水原君、任せられるか?」
公安課長が声をかける。ゴーグルを装着した水原環は、すでに九条由佳の状況の観察を開始している。
「これは、鉱精が宿らせてありますね……。でも、行けそうです。ただし、鉱精ワイヤーからの解放に数分、霊的な応急処置にも数分かかります。その後なら、彼女を動かせます。」
「分かった。頼んだぞ。綾川と森田君は、式神達と協力して、敵勢力の干渉を防いでくれ。」
「あたしはここでいいわね?」
「教誨師殿か。」
「ええ。」
「この度の作戦へのご協力、感謝します。水原君の術が妨げられないよう、引き続き護衛を頼みます。」
「分かってるって。クロ、アオ、シロ、あなたたちも少し下がりなさい。巻き込まれそうよ。」
「ええ、そうしていただいた方が安全です。今から行うのは応急の術、多少のブレはあるかもしれませんので。」
そう言うと、水原環は再びゴーグルを外し、その足元に置くと、袂から何かの液体を入れた小瓶を取り出した。
「九条様、これから魔を払います。霊力を持つあなたには激痛でしょうが、耐えていただけますか?」
「早くなさい……。何を…してくれるかくらいの知識はあるつ……つもりよ。」
「では、遠慮なく。」
水原環による祓いの儀式が始まった。小声で水原は禁忌の祝詞を唱えている。そして、小瓶のふたを開け、一振りすると、中の液体が細かな水滴となって辺りに漂った。それに合わせ、水原が腰に差していた幣を手にとり、さらに何事かを唱えると、水滴は緩やかな渦となって、九条由佳を縛めるワイヤーへとまとわりついた。辺りに、何かがジュッと蒸発するような音が響く。水滴がワイヤーに触れる度、その音が聞こえる。九条由佳の身体に食い込んだワイヤーへは、ワイヤー伝いに、傷口に液体を流し込むように、少しずつ水滴を送り込む。かなりの激痛だが、ここで失神しては霊力が途絶えてしまう。完全にワイヤーを無力化するまで、九条は耐えなければならない。水原が幣を振り、水滴の蒸発する音が聞こえ、九条が呻く。この繰り返しが続く。
「九条、……」
青と白が、心配そうに九条に声をかける。九条はその声を聞いて、激痛の中、気丈にもほほえみ返した。
「大丈夫よ、くっ……、大丈夫だから……。」
やがて、どさり、という音とともに、九条由佳は通路の上に崩れ落ちた。水原が肩で一度、息をつく。青と白が、九条に絡む残りのワイヤーを、そっと外していく。鉱精の呪が祓われたとは言え、素材は銀を含む特殊な合金だ。指先の痛みにぽろぽろ涙をこぼしながら、それでも青と白はワイヤーを取り除く。それを、水原環と相馬ひなは、じっと見ている。
「これで、鉱精の呪を祓うことはできました。引き続き、快復のための術を行います。お二人とも、また少し、下がっていてくださいね。」
青と白に声をかけてから、水原は袂から口の広い別の小瓶を取り出した。さらに、懐から懐紙に包まれた榊を取り出し、恭しく拝した後、瓶の中の液体に浸けた。それを優しく振ると、飛び散った水滴は燐光を放って拡散し、九条の傷ついた体を包んだ。傷口が徐々にふさがり、出血が抑えられていく。
最初、異変に気づいたのは、教誨師だった。自分のそばにいたアオ――青い帽子を被った式神の少女――が突如、くるくると踊りだしたかと思うと、かくんと膝を折り、通路の床にぺたんと座り込んだのだ。
「アオ、どうしたの?」
その声に合わせるように、水原環と九条由佳がびくりと反応する。床の上にあった水原のゴーグルが、一瞬ではじける。
「正体は分かりませんが、来ます!霊的に強大!クラス、特A!」
水原が叫び、課長が指示を飛ばす。
「綾川、森田君は現状維持、式神達を皆、九条の周りに集めろ!」
その声に教誨師が応える。
「みんな、今すぐここに戻って!」
それに合わせるように、九条由佳も小声で何事かを唱える。水原環は、床に寝かされている九条由佳に覆い被さるようにして、腰の小刀を抜き、防御の姿勢をとった。
青が、ゆらりと立ち上がる。その周りを、他の六人の式神が取り囲む。
「……おお、おお。皆様方、案ずることはありませぬ。我は、神契東天教の祖、るつ子じゃ。藤原、るつ子じゃ。」
青の口から、老婆のそれに似た、しわがれた声が響く。藤原るつ子と名のるそれは、
「ちと、この式神殿の体を借りますよ。」
そう言うと、青の体をそっと、九条由佳、水原環の二人の方へ向けた。
「る、るつ子様?」
九条由佳が、痛む身体を起こそうとする。
「おお、よいて。無理するでない、九条由佳殿。……あなたには、我が教団の者が、酷い仕打ちをしてきました。祖として、お詫びせねばなりませぬ。」
「いえ、るつ子様にそんなお言葉をかけていただく資格は、この由佳にはありません。私は、教団の人間を今日、ここでずいぶん傷つけました。死んだ者も、あるかもしれません。」
「本来であれば、何不自由なく、九条家のご令嬢として過ごされたものをのう……。元はと言えば、このるつ子が瀬田らの独走を防げなんだことがいけないのじゃ。その咎は、このるつ子が負わねばなりませぬ。九条殿のせいでは、ありませぬ。」
るつ子に憑依された青が、公安課長の方に向き直る。
「あなたは、警察のお方じゃな?」
「はい。杉田と申します。」
「瀬田燎源の始末では、お手を煩わせましたの。」
九条由佳がそれを聞いて、公安課長の方を見る。
「ご存じでしたか。」
「もちろん。この山のことで、分からないことはないのじゃ。」
九条由佳は、何も言わず、ただ下を向いた。
「ほんとうに、済まないことをした。」
るつ子を宿す青が、九条由佳の頭に手を伸ばす。水原環が一歩分、下がる。
「神社本庁の方、あなたには、お礼を申さねばなりませぬ。おかげで九条殿の命は、保たれました。まだお若いのに、よく修練なさっておられますね。」
青の掌から、教祖るつ子の力が溢れ、応急処置に過ぎなかった九条由佳の傷の状態が、一気に改善する。水原環が、その術の力に目を見張る。
「せめてもの、贈り物じゃ。」
光の中、九条由佳は緩やかに身を起こし、通路に正座をし、頭を垂れた。九条由佳の両眼から、ただ涙が溢れていた。
やがて、その場を支配していた磁力のようなものが、ふっと消えたのが、相馬ひなにも分かった。青が口を開く。
「さあ、皆様方。行くとよい。もうこの山に、あなた方に危害を加えるものはおりませぬ。さあ、早よう。」
そこまで言うと、青は解放された。一瞬気を失ったかのように、床に倒れ込む。黒と白が助け起こす。公安課長が指示を出す。
「よし、撤収開始だ。綾川は負傷者を搬出、一五分で尾根を超えてヘリとの合流地点に行くぞ。メディアに発見されぬよう、十分に注意すること」
「待って、まだ式神達が……。」
そう言う九条由佳に、黒が話しかける。
「心配いらない。瀬田にやられた五人も、回収済み。一緒に行ける。ただ、あの、……」
「どうしたの?口ごもるなんて、あなたたちらしくもない。」
「少し頼みにくいのだけれど。えーと、ヘリには乗せてもらえるの、かな?」
「かまわんよ。CH-47JAの荷室は広いからな。」
公安課長が横から、綾川や水原がぎょっとするほど優しい声で答えた。
「やったー!」
意外なほど大きな声で、そう、まるで人間の子どものように、式神達は声を上げた。教誨師はその有様を、目を細めて眺めていた。
(今日一番活躍したのは、あなたたちよ。そのくらいのご褒美は、当然よね。)
そう、心の中で思った。そのとき、クロが、教誨師の方を向いて、微笑んだ。教誨師は、右手を挙げ、軽く振って応えた。
「さあ、あたしたちも帰りましょう?林の中にインプほったらかしじゃかわいそうだもんね。」
「車は私一人が運転して帰れば済むことです。お嬢様はヘリでお帰りになってもかまいませんが?都内までは一時間もあれば着くでしょうし、課長に言えば、乗せてもらえると思いますよ。確かお父上ともお知り合いのはずです。」
ぐっ、と相馬ひなは一瞬、返事に詰まったようになった。
「べ、別にあたしは、あたしはヘリはいいわ。そんなに急いでもいないし、あたしはほら、公安関係者でもないんだから、ヘリじゃなくてインプで帰るわよ。公私混同はよくないわよ。いいからほら、行きましょう?っていうかもう!さっさと行きなさい!」
慌てて森田ケイを説得する教誨師相馬ひなと、挙動不審な主人の様子に真顔で首を傾げている森田ケイを、九条由佳と水原環がじっと見ていた。
「やっぱり。でもあの分じゃ、先は長そうね。」
「そのようですね。」
「ぐずぐずするな、脱出するぞ!」
課長の声がして、九条由佳の前には綾川睦月がぬっと立った。
「失礼します。」
そう愚直に言うと、綾川は九条由佳を抱きかかえ、課長に続いて移動を開始した。後から水原と式神達、森田ケイが続く。
(お姫様だっこだ……)
教誨師は、森田ケイの背中をちらりと見たが、ぶんぶんと頭を振って、それから非常口の方に駆けだした。
冬の日の戦いは、こうして終わった。
教誨師とその後見人の帰路は、最初は、気楽なものであった。松本の教団施設を撤収したのが午後二時近く、途中尾行の有無を一応は確認しつつ、国道沿いのファミリーレストランで食事を摂ったり、松本駅前でおみやげを買ったりしながら、長野自動車道経由で中央道上りに乗った頃には、辺りは夕景濃い時間帯となっていた。相馬ひなは、なぜか、さっきから黙りこくっている。ふだんなら、仕事が終わった後の移動は、どうでもいいような話題を次から次へと森田ケイに浴びせ、相づちに困らせつつのドライブになるはずだった。
「お嬢様、お疲れになりましたか?」
インプレッサが中央道の流れに乗った頃、無口な主人の様子に気づいていた森田ケイが尋ねる。器用に、窮屈なバケットシートの上で軽く膝を抱えながら、相馬ひなが応える。
「え?……ううん。そういうわけじゃないけど。」
「何か考え事をされているのであればお邪魔はいたしませんが、お加減でも悪いのではないかと……」
「それはないわよ。ただ……。」
(ううう、変なことばかり気になってしょうがないじゃないのよー……。はるみさんのばか。帰ったら絶対ただじゃおかないんだから。)
相馬ひなは、夕べ出がけに青木はるみにかけられたいくつかの言葉が気になって、森田ケイと二人だけの空間に落ち着けなくなっていた。仕事に集中する行きと違い、帰り道は余裕がある分だけ、余計なことが気になってしまう。だから、「ただ」と言いさしてから、慌てて話題を探す。
「ゆ、由佳さん、この後どうなるのかしらね……。」
「気になりますか?」
「……多少はね。」
内心、手頃な話題が見つかってほっとしたものの、今度は九条由佳に対して自分が行ったこと、九条由佳が自分に復讐しようとしている理由を思いだし、それはそれで、重い気分になってしまう。
教誨師は自分の仕事に言い訳はしない。でもそれが、その覚悟が、ふだんの相馬ひなにそのまま当てはまるわけでもない。相馬ひなはまだ、常に平常心で仕事ができるほど、熟練してもいなければスレてもいなかった。教誨師として行動するときは、表情も口調も変わっている。ふだんの自分では使えないような言葉、誰にも見せられないような表情で標的と渡り合う。両方をよく知っているのは、森田ケイただ一人だ……。
「我々がこういうことを心配するのもおかしいのかもしれませんが、」
と森田は断ってから、話し始めた。
「九条由佳は、今回、教団本部の一部の者にしか、顔を見られていない可能性があります。彼女の基本的な能力はまさに、相手の認識能力を抑制・攪乱するようなスキルですので。」
「それが?」
「県警が関係者から、今回の襲撃犯についてきちんと証言を得ようとすると、九条を見た、という人物もいるはずですが、見たはずだが記憶にない、というあやふやな証言をする者もかなり、出てきそうです。そうなると、裁判でどの程度、関係者の証言が信用されるか、分からなくなってきます。それと、今回は式神たちも合わせての突入だったわけですので、現場には複数犯による襲撃の痕跡が残ります。当然ですが、弾丸のライフルマークも、一つにはなりません。」
「そうね。」
「となると、九条由佳を目撃した一部の教団の人間が、九条の単独襲撃だと証言しても、現場の状況と一致しないことになります。一方で、同じ顔をした一二人の式神が共犯だと言えば、さらに被害者の証言の確かさが裁判では疑われる、ということになるでしょう。結果として、今回の事件、侵入者が誰であったのか、何人いたのか、県警も検察も、厳密に特定し立件するのは難しい、ということになります。」
「うん。そっか……。でもさ、実際は公安が連れてっちゃったじゃない?」
「九条由佳を本気で逮捕・起訴するつもりなら、水原という巫女の力でもって、式神達と分断してから拘束したはずです。ですが、あの撤収風景は、……」
「そうね。まるで、捕虜の奪還作戦を行った部隊の撤収風景のようだったわ。」
「はい。となると、九条由佳は、本人が望んでいるかは分かりませんが、公安にとっては利用価値のある重要人物、ということになります。瀬田という男のように始末されることはないでしょうし、事件の主犯として、世間に姿をさらすということもないでしょう。」
「そうね。そう、だといいわね。あたし、あいつとお茶しようと思ってるから。」
「それは、にわかには賛同できないお考えなのですが……。ともかく背後で何がどう、動いているのか、自分にも掴みきれないところがあります。時田辺りとも連携しながら、多少探ってみます。」
「無理はしないでね。今回の件、お父様が出てきた以上は、次の命あるまであたしも動けないだろうし。……そうそう、今回も時田さんにはお世話になったわね。」
「センターは組織を重要な顧客にしてきましたが、単に使われるだけでなく、協力者を内部に潜入させるなど、抜け目なく対処してきていますからね。潜入ルートの確保くらいは簡単です。」
「組織の方はどうなるの?あれじゃたぶん解体でしょうけど。」
「教祖がどうメッセージを出すかは見物ですが、神契東天教の武装解除的な局面は必ず通過する必要があるでしょう。九条の作戦でしょうが、あれだけマスコミも集まっていましたので。」
「ふーん。つられてセンターも崩壊しちゃったら、あたしの仕事は、どうなっちゃうのかなぁ。」
「それはありません。またそのための、今回の任務であった、と思います。お父上は、そうしたこともお考えのことと思います。」
「え?センターが動けないからあたしが出たんでしょう?今回の件とセンターは一応関係ないんじゃないの?」
「ということはつまり、センターを温存した、ともとれるわけです。」
「……実の娘を戦場に送り込んでまでして?」
「はい。公安課長の台詞、お嬢様も覚えておいででしょう?」
「そうね。お礼、言われたわね。」
「お父上は、公安にこれでまた、恩を売ったことになります。実の娘を戦力として差し出すかわりに、公安にもご自身の要求を通す、そうしたこともあろうかと思います。」
「……。」
「その先にあるのは、公安とセンターの、緊密な関係の構築、ということになるはずです。ただ吸収されるのではなく、センターとしての自由も残したい、そうしたぎりぎりの駆け引きの材料として、お父上は掌中の玉であるお嬢様をあえて危険に晒されたのだろうと……。」
「……。」
「……お嬢様、申し訳ありません。私の言葉がご気分を害したのであればお詫びいたします。」
「ばかね。違うのよ。あたし、ローティーンくらいからこの仕事してるじゃない?最初はもちろん、見習い以下だったけど。」
「はい。」
「でもね、それがいつの間にか、あの仕事バカのお父様というか薄情なバカおやじというかにとって、一応は役に立つ駒になってた、ってことがね、」
「……。」
「なんだかちょっと、嬉しいのよ。」
「お嬢様……」
森田ケイは、不覚にもそこから先の言葉を思い浮かべられなかった。しばらく、二人きりの車内を沈黙が流れる。
そのうちふっと、相馬ひなはつぶやくように言った。
「ともかくよかったわ。式神ちゃんたちが全滅したりしなくて。」
「そう言えば、私が地下通路を離れている間は、どうされていたのですか?」
「え?あのコたち、由佳さんとあたしかばって、大活躍だったのよ。武器持ってるコはけっこう上手に当ててたし、アオとシロは由佳さんの前と後ろで弾除けになってたのよ。それほど被弾はしていないはずだけど……。ただそれでも、一時的に相手が一〇人以上になっちゃったときがあって。あたしだけじゃ由佳さんもあたしも多少は危なかったかも。そしたら、止めるのも聞かないで、クロが敵に特攻かけちゃったのよ。何発も食らいながら、それでも敵さんの真ん中まで突入して。おかげで向こうが混乱したから、その隙に端からあたしがシュートしたけど、ね。でも、いくら鉛弾じゃ死なないからって言ってもね、あのコたち、ちゃんと痛みは感じるんだよ?全く痛くないわけじゃないんだよ……。あたし、前にあのコたちとやり合ってるから。分かるんだ。それなのに。あたしまで、護って……」
そこから先は、言葉にならなかった。人外のモノの心に触れて、教誨師・相馬ひなの心はとっくに限界だった。式神たちは、教誨師を護るためというより、今の主人であり、前の主人の忘れ形見でもある九条由佳を護るために、教誨師も護ろうとしたに過ぎないのかもしれない。でもそれは、その可能性はむしろなおさら、相馬ひなの心を激しく揺り動かした。人の都合で勝手に生み出された小さき者たちが、誰かを護ろうとする。あの地下通路の戦闘でその心に触れてから、今までこらえていたものがふっと、ほどけてしまった。
相馬ひなは、森田に見られないように、左方の窓の外を見て泣いた。嗚咽を聞かれるのは仕方ないが、せめて泣き顔だけは見せたくないと思ったのだ。そんな相馬ひなの様子に、森田ケイは、少しためらった後、やがて、左手を伸ばした。
(――!!)
相馬ひなは一瞬身を硬くした。だがすぐに、頭を撫でられる心地よさに、その手のひらの暖かさに、負けてしまった。負けてしまってもよいと、思ってしまった。窓の外を眺めたまま、涙で頬を濡らしたまま、ほほえみながら、目を閉じた。冬の夕暮れの凛とした空のもと、高速に上がったばかりの頃とは全く質の違う、安らいだ沈黙が、車内を満たした。
やがて――。
「ね、ねえ、森田?」
相馬ひなは、収まりかけた嗚咽を隠しもせずに言った。
「なんでしょう?」
いつの間にかステアリングに左手を戻していた森田ケイに、ハンカチで涙を拭きながら、相馬ひなは言った。
「あたしも、早く免許がほしいな。」
「どうしたんですか?唐突に。」
「あたしもいつか、あなたを助手席に乗せて走りたい。」
「……。」
「いつも、どんなに大変な仕事の後も、運転してもらってるもんね。」
「お嬢様……。」
「ごめんなさい。少し、仮眠させてもらうわ。」
「はい。寒くないようになさってください。」
「うん。ブランケット出すから大丈夫。あなたも、疲れたらちゃんと休憩するのよ。明日の学校も、休んだってかまわないんだし。」
自分の台詞が、遅くなってもいい、朝帰りでもいい、と告げてしまっているような気がして、相馬ひなはこっそり激しく赤面した。でも、自らの執事が、長野から都内くらいの距離のドライブで仮眠など要求しないくらいタフなのも、十分、承知していた。
その日から、教誨師を巡る世界は少し、変わってしまった。
ハッカーがいて、式神がいて、テロリストがいる。そんな世界を、殺し屋見習い中の少女が歩いて行く。ずぶりずぶりと足元が沈み込む、泥炭質の湿原を進むように。
彼女は物語の主役ですが、まだ、事件の主役にはなれません。よろしければ、彼女の急ぎ足の成長に、お付き合いください。なるべく頻繁に更新します。