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第三話 絶望と痛みの果てに

 真正面から、砂の飛礫が飛んでくる。教誨師相馬ひなは今、真冬の烈風が吹き付ける、赤茶けた広大な砂丘のほとりにいた。センターからの依頼で標的の追跡を始めて、もうどれくらい経ったのだろう。いつもは自分に付き従っている執事も、今日はいない。

 標的は、先日の大手町データセンター・テロの主犯格の女で、板井祐子と言った。サイバーテロの専門家だが、作戦が失敗した今は組織からも見捨てられ、一人で逃亡中だという。この標的は、銃器その他の武力テロ行為については素人同然だと分析されていた。だからこそ、自分のところに依頼がきたのだと思う。

(分かってるわよ、あたしがこの仕事じゃまだまだひ弱な使えないコマだってことくらい……。でもそれが何?これまできちんと、言われた仕事はこなしてきてるじゃない。もっと経験を積めば、きっと……。)

 意を決した教誨師は、向かい風の中、砂丘地帯の奥へと歩みを進める。

 標的の足跡は、この風ですぐにかき消されてしまう。桜ヶ丘女子高等学校の制服の上に着込んだボア付きのダッフル・コートのフードの中に、砂が重く堆積してゆく。それでも教誨師には確信があった。

(この先に、この砂丘の管理施設があるはず……)

 教誨師はこのとき、そんな情報を自分がなぜ知っているのか、検証するべきだったのかもしれない。

 だだっ広い砂丘のただ中に、目指す施設が見えてきた。相変わらず向かい風が強く、時折両目を閉じなければならないほどの砂塵が舞うが、それでも進むべき方角を誤るほどではない。

(あの建物、こちら側には窓がないわね……。これなら接敵は楽勝…

 その瞬間教誨師は、自分の左肩に焼けるような痛みを感じた。一瞬の後、目指す施設の方角から、サブマシンガンらしい銃器がフルオートで発射された音が響いた。その中の一発が肩の皮膚を掠めていったのだ。その弾みで後ろに倒れていきながらも、教誨師は施設めがけて応射する。MP5-A5を三点バーストで五セット発砲してから地面に背中が着いた。体を丸めて後転し、すぐさま匍匐姿勢から建物に向かって発砲を再開する。遮蔽物のない砂地にいるのだ。銃撃を止めれば敵に狙い撃ちにされる。

 コッキングする間を惜しんで、残弾があるうちにマガジンを交換する。だがそのとき、教誨師は、聞こえてはならない音を聞いた。あらかじめ、考えておくべきだったかもしれない。砂塵舞う強風の中、精緻な機構を備えたMP5シリーズで闘うことの意味を。

 精巧すぎてシビア・コンディションでは使えず、したがって通常の軍隊ではなく特殊部隊にのみ支給されると、まことしやかに語られるMP5シリーズ。最大で四〇発入る弾倉を、三秒ほどで撃ち尽くす機構を備え、かつ照準精度も高いとされるそのMP5シリーズを、この環境下に携行し、マガジンを交換したのだ。ざり、とも、がり、ともつかない音が生じれば、思わず全身を怖じ気が走っても何の不思議もない。

(多少砂が入ったって、ジャムらなければいいのよ。考える暇なんかあたしにはない……)

 何事もなかったように銃撃を再開する。だが、三回目に引き金を引いたとき、すべてが終わった。

 教誨師の状況を悟ったのか、建物の陰から、ゆらりと人影が現れた。風に髪をいいように吹かせながら、長いグレーのコートを纏った女が、一歩一歩、近づいてくる。まだ数十メートルは離れているのに、女が、狂ったような、ひきつったような笑みを浮かべているのが見える。

(うそ……。あたし、こんなことで、こんなとこで終わりなの?ねえ、もう一発、あと一発でいいのよ。今があいつを殺すチャンスなのよ。お願いだから動いてよ。ねえ――)

 板井に照準されるのもかまわず膝立ちになり、マガジンを交換しようとするが、パニックになった手はなかなか言うことを聞いてくれない。無理矢理装填しようとすると、また砂を噛む音。

 板井は笑ったまま、近づいてくる。ゆらりとM11/9を握った右手を持ち上げ、一五メートルの距離から、ひなの右太股を撃ち抜いた。

(く、あんな大ざっぱな銃で、素人にこの距離で当てられるなんて。森田、森田、ねえ、どこ、どこにいるの?今までわがままばかり言って悪かったわ。謝るわ。謝るから、ねえ、助けて。あたしを助けに来てよ。)

 次は、左太股。ほんの五メートルの距離。相馬ひなはもう、二本の足で走って逃げることもできない。恐怖と絶望で、自分の顔が歪んでいるのが分かる。自分が激痛に絶叫しているのが分かる。必死で、腕だけで地面を這いずり、板井から逃れようとする。

(ねえ、森田、助けに来てよ、お願いよ。でないとあたし、あなたのもとへ、帰れない。あなたは、いつものように、あたしを待っていてくれるのでしょう?煙草をくわえて、不機嫌そうに、待っていてくれるのでしょう?。だからあたしも、あなたのもとへ帰りたいの……)

 左の脇腹を蹴り上げられた。砂の上に、仰向けに転がされる。もう板井は、教誨師の右肩に直接銃口を押しつけ、引き金を引く。

(帰りたいよう……帰してよう……あたしを、)

 次は、左肩。堪えきれずに、涙が両の目尻から流れ落ち、その痕に沿って砂が黒く付着する。

(くっ……ああ、だ、誰でもいいから、あたしを森田の、ううん、ケイくんの、おにいちゃんのそばに帰してよう!)

 ごり、とM11/9の銃口が、ひなの額にめり込む。そのまま、後頭部が砂に埋もれるほどの力で押しつけられる。板井の笑みが、いっそう凶悪なものになる。ぎゅっと、教誨師は堅く目を閉じる。

(ごめんなさい、おにいちゃん。もう、あたし、おにいちゃんの助手席に座れない……。ごめんなさい……。さ・よ・な・……)

 その瞬間、ふいに額に押しつけられた銃口の圧力が消えた。遠くから、一発の発砲音が聞こえてくる。

 もはや教誨師ではなく、ただの相馬ひなとなってしまった瀕死の少女は、閉ざしていた両目をおそるおそる開けた。先ほどまでの風がもう、嘘のように静まっている。数メートル先に、頭部を吹き飛ばされた板井の死体が転がっている。砂丘を越えて、自らの執事が走ってくる。

(あ、お、おにいちゃんが、ケイくんが助けに来てくれたよ。うれしいよう。どうしよう、うれしくて涙が止まらないよ……。あたしもう、たぶんダメだけど、最期くらい素直に甘えてみたいな。お願いしたら、あたしのこと、子供の頃みたいに、ぎゅってしてくれるかな……)

 無様に砂の上に転がる動けない教誨師を、森田は無言で見下ろす。震える手で、もうこときれている板井に、マガジンの残弾数十発をすべて撃ち込む。板井の体が踊り、肉片が千切れ飛ぶ。

「ケイくん……ごめんね、あ、あたし……こんなになっちゃった。いつもいつも護ってくれてたのに……。」

 森田は、相馬ひなをそっと抱き上げた。ひなは残された力すべてを振り絞って、森田の首に腕を回し、しがみつく。激痛が走り、血が溢れ、涙で視界が曇っても、しがみつく。

「ねえ、ぎゅってして。ケイくん、お願いだから。」

「お嬢様……。」

「最期くらい、名前で呼んでよ。」

「ひ・な……。」

「ケイくん……うれしいよう、ケイくん、ケイくん、」

「あの、お嬢様?」

「ケイくんって、甘い匂いがするね……。」

「お嬢様?寝ぼけるのもいい加減にって、きゃあ!」

「ケイくんて、こんな、こんなに柔らかだったんだね……。」

「もうお嬢様、どこ触ってるんですかぁ!」

 今年で二四歳になる相馬家メイド、青木はるみが、それまで自分に抱きついていたお嬢様を乱暴に突き飛ばす。無理矢理メイドの豊満な身体から引きはがされ、ベッドの上に放り出された相馬ひなは、自分の身に起きた出来事を、すぐには理解することができなかった。ぺたんと、ベッドの上で女の子座りの姿勢になる。自分の両脚、両肩を確認する。辺りをきょろきょろと見回す。

 何ということもない、夜明け間近の、いつもの自分の寝室だ。両手を腰にあてて仁王立ちのはるみさんがベッドサイドにいることを除けば。

「全くもう……。お嬢様がひどくうなされてらっしゃったので、ご様子を伺いに参りましたのですが。」

「え?」

「覚えてらっしゃらないのですか?わたくしの部屋まで聞こえるくらい、ほんとにひどくおつらそうな声でしたよ。それで、わたくしも一度起こして差し上げた方がよいかと思いまして、こう、お嬢様の両肩を揺すって。」

「も、もしかしてあたし、あの、何か寝言とか?」

 メイドの顔に、邪な印象の笑顔が浮かぶ。誰かに対して、自分が圧倒的な優位に立っている、そうした場合に浮かべられるような、とびきり邪な笑顔だ。

「はい、そりゃあもう。うふ、うふふふふ。教えてさしあげましょうか?」

「嫌。やめて。絶対やめて。」

「でも。お知りになりたいのではないのですか?うふふふふふ。」

「いやあやめてえ」

 そう叫んで耳を塞ぐお嬢様の両腕をむんずとつかんで、はるみさんは自分の首の後ろに腕を回させた。ひなの体が引き寄せられ、再び二人の体が密着する。ひなは何とか両腕を振りほどき、力の限りじたばたと抵抗するが、はるみさんにがっちりと抱きしめられてしまった。

 耳元で、邪悪な笑みを浮かべたメイドが囁く。

「お嬢様は、それはもう情熱的に、わたくしを抱きしめてくださいまして、ケイくん、ケイくんって……そう、連呼、されてましたよ?」

 教誨師という通り名を持つ一七歳の少女は、羞恥から精神が一時的に退行し、自らのメイドの豊満な胸に抱かれて失神するという失態を演じることになった。

(お嬢様が、どんなに大変なお仕事をされているか、この家の古くからの使用人は皆、存じております。どれだけの想いを抱え込まれていらっしゃるかと、ご心配申し上げない者はおりません。今はただ、そのまま、しばしお休みください。ここに、はるみがおりますので……)

 相馬ひなの起床時間にはまだ、少し間があった。メイドは部屋の明かりを暗くし、自らもその薄明かりの中で静かに座っていた。



 その朝、相馬ひなが目覚めたのは、結局、いつも通りの時刻であった。お目覚めになりましたか?という表情で、ベッドサイドでやさしく微笑むはるみさんを見て、ひなは、圧倒的な気恥ずかしさに、そのままベッドに潜り込みたくなった。自分の記憶が、どれも欠落せず、はるみさんとの未明の会話も、その前に見た夢の顛末も、そしてそこに乱流のごとく溢れていた自らの絶望と純情も、みな、等しく記憶の中にあった。そのことがただ、恨めしかった。

 しばし、天井を見上げ、きゅ、と唇をかんで、それからメイドに告げた。

「今朝方は、迷惑をかけてしまってごめんなさい。もしかして、あれからずっと、付いていてくれたの?」

「はい。」

「ありがとう。」

「いえ、どういたしまして。メイドとしてお仕えし始めたばかりの頃、お風邪を召されたお嬢様の看病をさせていただいたことなど、思い出しておりました。」

「そんなこともあったわね。あれは、小学校の五年生くらいだったかな。」

「はい。わたくしが一八でしたから、そうなります。」

 ひなは、落ち着いた様子で、ベッドの上に半身を起こした。

「今朝のあれのことなんだけど。」

「もちろんどなたにも申しませんよ?わたくし一人の胸に納めておきます。」

「いや、そこは信じているわ。そうじゃなくて。あの、えっとね。はるみさんでよかったなって……。他のメイドさんだったら、あたし舌噛んで自訣してるわ。」

 そう言って、はにかみつつ、精一杯の笑顔を作った。根が感動しやすい質の青木はるみは、それを悟られまいと、きゅっと両手の指を胸の前で組むと、

「わたくしでよろしければ、またいつでも「ぎゅってして」差し上げますわ?」

 とおどけて見せた。ぎく、という音が聞こえたような気がするくらいにひなの動きが止まる。

「まさかあたし、」

「ええ。それはもうはっきりと、そうおっしゃいました」

 ひなは、深々と頭を抱え込んだ。

「さてお嬢様。今日は何の日だか、お忘れではないでしょうね?」

 邪な笑顔のメイドが追い打ちをかける。あ、という表情になったお嬢様は、おそるおそる、デジタル表示の目覚まし時計で日付を確認し、そして深くうなだれる。

「よりによって、こんな日にあんな夢……」

「こんな日だからこそ、かもしれませんわよお嬢様。」

「だって……どんな顔してあいつに話しかければいいってのよ」

「お逃げになってはいけませんお嬢様。わたくしもすでにお手伝いさせていただいておりますし、ぜひ、当初のお気持ちのまま、きちんとやり遂げていただかなければ。」

「……そうね、はるみさんには、あいつの服の寸法とかこっそり教えてもらったもんね……」

 教誨師の虚ろな表情と比べ、メイドの表情は生気に満ち溢れている。

「ええ、しかも、他のメイドやご家族には一切秘密、という条件付きで。」

 この家では、使用人の着る仕事着は、基本的にメイドたちの手仕事で仕立てるのが習わしであった。もちろん、大手町の事件の日にひなが着ていた黒いワンピースのように、主人一家が、自らの好みの服をメイドたちにオーダーすることもあったが、執事たちの執務服、メイド服の類については必ず、邸内で仕立てられていた。そんなこともあって、執事の一人の服のサイズなど、はるみさんに頼めば簡単に入手できた。

 問題はむしろ、他の家族やメイドたちに知られずに、事を遂行し、そして無事に、不機嫌で優しくない態度の執事に押しつけることであった。そのために、自分の、できれば誰にも触れられたくない想いについても、一番なじみのメイドである青木はるみにだけは打ち明け、正直に助力を乞うたのだ。

 はるみさんは、反対はしなかった。お嬢様と執事の一人とが、互いの分を超えて親密になってしまうかもしれないことを応援することは、立場上できない、けれども、お嬢様が必要とされるものを揃え、環境を整えることまでは、わたくしども使用人の務めと考える、そのようなことを、真剣な顔をして、答えてくれた。そしてさらに、ご自分のお小遣いで用意しなければプレゼントの意味がないこと、銀座の懇意の店で仕立てさせれば、邸内で準備するよりも秘密が露見しにくいけれど、その注文も、お嬢様お一人でなさらなければ、お嬢様がプレゼントすることにならないこと、といったことまで助言してくれた。

 相馬ひなはその助言に真摯に従い、銀座のデパートに入っている専門店で、男物のスーツを注文したのだ。お世話になっている方に、ちょっとまじめなお礼をして驚かせたいの、とお嬢様の気まぐれを装いつつの注文は、相馬ひな自身に、その感情が恋と呼ばれるものにふさわしいものであることを、よりはっきりと認識させた。そして、テロ事件に巻き込まれたあの日が、その「プレゼント」を受け取りに行く日だったのだ。もちろん、運転手として同行する執事に対しては、他の用事と一緒に済ませるという最低限のカモフラージュもしつつ。

 ベッドの上のお嬢様は、覚悟を決めた。

「分かったわ。渡すことは渡すから、安心なさい。一度手を着けた事業は最後までやり抜かないとね。それがうちの家訓だし。」

「はい、お嬢様。よいご覚悟です。何かお手伝いできることがあったら何でもお申し付けください。」

 ベッドサイドの青木はるみは、出来のよい生徒を誉める教師のような笑顔になった。



 その日、相馬家執事である森田ケイは、前日夕刻から正午までの、短い休暇を取っていた。大手町データセンター・テロ事件で所轄が押さえられなかった板井祐子の身柄を、警察庁の吾妻ルカ、センターの時田治樹らとともに確保するという仕事が入ったためだ。今はその役目も無事に終わり、相馬家の屋敷へと戻る途中だった。

(全く、時田のやつ。あれほど二度と受けないと言っておいたのに、ほんの数日でルカの仕事持ってきやがって。)

 警察庁警備局公安課内に設置されたサイバーテロ専従班は、調査・情報収集を主目的とした、警察権を持たない小組織だ。関連する事件が生じた場合も、証拠物件の押収や容疑者の身柄の拘束等を直接行うことはできない。今回のような事件では、板井祐子の身柄やテロで使用された機器等の押収は、すべて所轄する警視庁の仕事となる。

 その警視庁がなすべき捜査について、吾妻ルカは、あくまで善意の一市民として協力するために、人材センターの時田、および教誨師というエージェント当人ではなく、その後見人である森田に声をかけた、ということになる。板井の仕掛けていたアラートに気づかず、板井の逃亡を防げなかったという負い目もあるのかもしれないが、時田や森田には、そうした事情は話していない。二人に借りを作りたくない、ということのようだ。結果として、二人は吾妻ルカのミスの尻ぬぐいを、そうとは知らずにさせられるような格好になった。

 もともと、吾妻、時田、森田の三人には、海外の諜報機関の研修組織で訓練を受けた頃からの腐れ縁がある。半年ほど先行して長期研修を受けていた森田に、同じ日本人だからと二人の短期研修生のチューター役があてがわれた。その一人が、国費で研修を受けにきた吾妻ルカであり、もう一人が、人材センターに「就職」が決まっていた時田だった。特に吾妻は、研修が終わった後も、このコネクションを重視し、時には仕事以外の用件でも時田や森田を呼び出すなどしてきた。法を護る側から、法に守られない領域で活動する者たちに手を差し伸べる、その真意は分からない。だが、いくつかのサイバーテロ絡みの事件では、彼らの連携でテロを収束させてきている。

 森田ケイは、当初、公安警察や、そこと微妙な距離感を保ちつつ前世紀中頃から存在し続けている「人材センター」と個人的なコネクションができることは、自分の将来の職業、つまり相馬家お嬢様付きの執事としての任務からして、歓迎すべきことだと考えた。相馬家の執事とは、代々そうした役割を担ってきたわけであるし、表向きはしっかり、その短期研修生のチューター役を務め、今後の仕事のためのコネクションを得たいと思った。だが、その二人はかなりの曲者で、帰国した後も、時折こうして振り回されている。当初の森田の期待はそこそこ実現しているわけだが、さすがに時々面倒に感じることもある。それはもちろん、そう感じることが許されるくらい、二人が森田ケイには気の置けない、距離の近い知人である、ということも同時に意味してはいる。

 車窓に紅葉した樹木が多くなった。相馬家の屋敷近くまで、森田ケイの車は戻ってきていた。あと五分もすれば、屋敷の通用門に着く。短い休暇もおしまいだ。今は主にセンターから依頼される仕事を中心に、まるでセンターの見習いエージェントのようにして経験を積んでいる最中の教誨師・相馬ひなも、やがてはこの世界で、独立して依頼を受け、活動するようになっていくはずだ。その日のために、父親から執事職を受け継ぐことになっていた森田ケイは、吾妻や時田が帰国した後も研修を続け、結果、一年半もの長期に渡って自身のスキルを磨くことになった。それだけではない。幼少期からの森田家の教育のすべてが、相馬の家の楯となって主人を護るためにあった。

 そこに不満はない。疑問もない。彼が覚える唯一の違和感は、彼が仕え命をかけて護るべき主人が、六つ年下の女の子だ、という一点にあった。

 互いに幼い頃は、共に遊んだこともある。かよわい女の子には、無理な職業ではないかと思うこともある。だが、今の相馬家には、ひな以外に跡を継ぐ子どもはいなかった。そしてひな自身も、その役目を、自ら進んで背負っていた。

 森田ケイは、自分の違和感の原因を、無理には特定しないでいた。教誨師としての相馬ひなに相対するときに感じる微妙ないらつきがどこからやってくるのか、それを特定することは、何となくではあるが、二人の関係にとって得策ではないことのように思われたからだ。

(いずれにせよ、当面は、これまで通りだ……。)

 通用門まで来た森田は一度車を降り、門扉を開けた。都心近くだというのに森閑とした静寂に囲まれて、相馬の屋敷はたたずんでいた。



 その日の午後遅く、森田は相馬ひなの居室に呼びつけられた。どうぞ、という声を確認していつものように入室すると、相馬ひなは、右手の指先をそっと窓ガラスに触れるようにして、秋の夕暮れの中庭をぼんやりと見下ろしていた。それから、首だけを左に捻るようにして、森田の方を見ると、

「仕事はどうだったの?」

 と尋ねた。

「特に問題なく終わりました。これで大手町データセンターの一件も、ひとまずは片が付くと思います」

「そう。じゃあ、あの板井って人、確保できたのね。」

 また、窓の外を見下ろす。

「はい。……ところでお嬢様?お加減がお悪いのですか?」

「ううん。ちょっと考え事をしていただけ。呼びつけたのは、お願いしたいことがあったからなんだけど……。」

「何なりと。」

 ひながようやく、執事の方を振り向く。

「……あたしの願いを聞くか聞かないかは、森田の判断に任せるわ。このお願いは、ひょっとすると、あなたの立場に影響するかもしれない。」

「どうしたんですか?ほんとに、元気がないようにお見受けしますが」

「……。」

 何かを言おうとして止めたような、妙に後味の悪い間ができて、それから、

「少し待ちなさい。」

 そう言って、ひなは部屋続きの寝室に一度入ると、きちんと包装された平たい箱を手にして戻ってきた。

「これを、受け取ってほしいのよ。」

「何でしょうか。」

「プレゼント。」

 森田の動きが止まる。

「今日、誕生日でしょ?」

「それはそうですが、なぜお嬢様がこのようなものを……。」

「別にいいじゃない理由なんか。誕生日なんだから、ありがとうとでも言ってもらっておけばいいのよ。」

「そういうわけには参りません。私はこの家の一使用人です。他の者たちと比べて、自分だけが特別扱いされるわけには参りません。」

「えーと、それじゃこういうのはどう?教誨師ってフリーの殺し屋が、仕事仲間に贈り物したってことにすれば、おかしくはないでしょう?」

「それも事情は変わりません。私が相馬のお家からいただいているお手当には、教誨師としてなさるお仕事の後見人としての報酬も含まれていますので。」

 ひなは、そこまで聞くと、少ししゅんとした表情になった。だが、今日のお嬢様はどうも、最初からどこか気落ちされたようなところがある、と執事は思ってもいた。

「やっぱり、そうよね。そうなっちゃうわよね。……。それは、あたしにも分かってたんだ。あんたがこれを受け取ってくれないのは。」

「私にお気遣いくださるのはうれしいのですが、他の使用人と同じように扱っていただかなければなりません。」

「分かったわ、と言いたいところだけど、……違うの。違うのよ。」

 ひなは、プレゼントの入った箱を手にしたまま、すっかり俯いてしまった。だが、少しして、もう一度正面を向いて森田の眼を見つめてから、告げた。

「これは、あなたが仕える相馬家のお嬢様でも、教誨師と呼ばれる殺し屋でもない、ただの相馬ひなが、あなたにもらってほしいと思って、あなたの誕生日を自分もお祝いしたいと思って、準備したものです。」

 森田ケイは、何も答えない。いや、答えることができない。

「どうかこれを受け取ってください。」

 そこまで言うと、ひなはまた、プレゼントを手にしたまま俯いてしまった。その手が、肩が、少し、震えているようにも見えた。ずっと、何と言ってプレゼントを渡そうか、考えていたに違いない。断られたときに何と言えばよいかまで、考えていたに違いない。そして、考え倦ねて、結局自分の素直な気持ちを伝えるしかなくなったに違いない。

 相馬ひなは、自分の気持ちをよく理解していた。一言、好きだと告げようかとさえ、一度は思った。だが、相馬の家を継ぐ娘がその執事の一人に想いを寄せている、そんなことが家の者に知られたら、森田はこの屋敷にはいられなくなってしまうかもしれない。だからこの想いは、本来は誰にも、伝えるべきではないのだ。黙って、ただ、忘れ諦めるべきものなのだ。

 ひなはしかし、それができなかった。直接想いを打ち明けるのではなく、表向きはまだ言い訳も誤魔化しもできる範囲で、という制限付きながらも行動を起こした。メイドの青木はるみにはすべてを打ち明けざるを得なかったとしても、執事当人には、自分の好意を伝えることはしないつもりだった。その代わり、ひなは、執事の誕生日にプレゼントを渡すことに決めたのだ。

 銀座で、お嬢様の気まぐれを装いつつも事細かに注文をした、その帰り道は、自分が舞い上がっているのがはっきり分かるほど、幸福だった。森田にあの服を着させたら、自分はどんな服を着てその隣を歩こうかと、そんな空想に想いを馳せた。

 受け取りの日は、森田当人にばれないように少し気を使った。そのどきどきした気分が楽しかったのに、いきなり事件に巻き込まれ、森田の前で泣くという醜態まで晒してしまった。自分の感情が、自分のものでないかのように揺れ動き、そんなことも、何か自分の、森田への想いを証明しているようだと思ったりもした。

 だが今日、実際にプレゼントを渡そうと考えたとき、それがほぼ不可能に近いことに、ひなは気づいてしまった。執事としての森田はいつも、自分のわがままに付き合ってくれていたし、教誨師に付き従う森田も、後見人として、教育係として、教誨師の考えに最大限の配慮をしてくれる。しかしそれは、森田ケイという人間が忠実にその任務を果たしていることを意味しており、その忠実さ故に、森田は自分が特別扱いされることを認めるはずがなかった。

(これなら、あの酷い夢の中の方がマシね。最後はあたし、ただのあたしだったもの。あたしは、あたしの役目を知っているし、納得もしているけど。でも、たまには、ただのあたしに戻りたいんだって、分かっちゃったんだよ……。ねえ、森田。いつか、あたしをこの世界から救い出してくれる?助けてくれる?ただの、ただのひなに戻してくれる?そしてそのとき、あなたはただのケイくんに戻っていてくれる?)

 ひなは、森田の顔を見ようとして、そっと顔を上げた。だが、自らも知らぬ間に、両目から涙がこぼれていた。

「あ……、あ、ごめんなさい」

 慌てて寝室に逃げ込もうとした。

「失礼します、」

 そう言う森田の声が聞こえ、右手を掴まれた。そしてそのまま、森田の腕の中に、後ろ向きで抱き留められた。

「……!」

 森田へのプレゼントが、絨毯の上に落ちる。

「ばか、何してるのよ、あんた、こんなことして、誰かに、誰かに見られでもしたら……」

 必死でひなは訴える。

「私一人など、ここを追い出されても、どうとでも生きていけます。それより、あなたが泣くのを見ている方が私は辛い。」

「あ、憐れみなんか、要らないんだからっ!いいからこの手を離しなさいっ」

 森田の腕が緩む。だが、まだひなを離さない。何とかそこから、その状況から脱出しようともがいているうちに、ひなは自分が、森田の腕の中で、森田と向かい合ってしまったことに気が付いた。泣きながら、気が付いた。そして、そのまま、抵抗するのをやめてしまった。

 すると、ふっと、森田は笑ったようだった。笑って、こう囁いた。

「憐れみなんかじゃない。後先考えなけりゃ、今はこうするのが一番自然だろ?」

 相馬ひなは半分気絶しそうだった。全身から力が抜けて、倒れてしまいそう、と思ったときには、森田に抱きかかえられ、居室の窓辺に近いソファの上に運ばれていた。

(ずるいんだよなぁケイくんは。いきなりケイくんに戻るんだもの。)

 しばらく呆然として、クッションを抱えながらぼんやりとそんなことを考えていると、やがて森田が、コップに冷えたミネラルウォーターを注いで運んできた。それをテーブルの上に置きつつ、話しかける。

「さて、お嬢様?」

「は、はいっ」

 慌てて返事をしたのは、森田ケイがいつもの執事森田に戻っていたためだ。自分はもう少し、このふわふわした気分を楽しんでいたかったのに。

「問題が二つあります。」

「はい。」

 妙にしおらしい返事をした自分が恥ずかしかった。

「まず小さい方の問題なのですが、せっかくお嬢様が私のような者のために用意してくださったプレゼントですので、私も考えを改めたいと思います。」

「え?いいの?もらってくれるの?」

「はい。ただ、このままでは箱や包装が立派すぎて、お屋敷の誰に見咎められるか分かりません。箱ごと何か別の袋に入れるか、中身を別の入れ物に移すかした方がよいと思います。」

「分かったわ。それならええと、紙袋がクローゼットにいくつかあるから、それに移し替えるといいわ。」

「承知しました。その作業は後回しにして、次に大きい方の問題なのですが。」

「何?」

「今回のようなことは、もうこれきり、とお考えいただけますか?」

「今回の、ようなこと?」

「はい。私のような者に対して、特別なお気遣いをいただくことは、もうこれきり、ということを、ご納得いただきたいのです。」

 ふだんとは違う、優しい、しかし改まった森田の口調に、どう答えてよいか分からず、ひなはただ、再び泣き出しそうな表情になって、黙っている。

「私は、相馬家を継がれる方の執事となるよう、教育されてきました。もちろん、精神的にも、その方をお支えしたいとは存じますが、それは、相馬の家のお仕事への貢献を考えてのことです。」

 ひなはただ、こっくりと頷く。

「それ以上のことは、望んではいませんし、望める立場にもありません。」

 また、ひなが頷く。

「正直に申し上げて、お嬢様の今回のお心遣いは、うれしゅうございました。でもだからこそ、今回限りとしていただきたいのです。」

 ひなは今度は頷かない。

「なぜ?理由を教えてよ。」

 執事森田は、静かに告げた。

「……森田ケイは、お嬢様の執事であり教誨師の後見人であって、騎士ではありません。もちろんお嬢様のお友達でもありません。相馬家のお嬢様でも、教誨師でもない、ただの相馬ひな様のお側にいることは、許されておりません。……私も一瞬、我を忘れました。ですが、それは本来、許されないことなのです。それでも……、それでも、お嬢様が、これからもただの相馬ひな様として私と接されようとなさるのであれば、私は、お屋敷を下がらなければなりません……。ですから、……」

「分かった、分かったから。もう、何も、言わなくていいから。……心配なんか要らない、今日のことは、すっかり忘れちゃうから。もう、ちゃんと、元のあたしに戻るから。」

 堪えきれずうつむくと、ぽたぽたと音を立てて涙がテーブルに落ちる。涙の音を聞いたのは生まれて初めてかも、そんなことを思いながら、それでもひなは顔を上げて言った。

「だからあなたも、いつも通り、今まで通りの森田でいて。」

「……かしこまりました。」

「ほら、紙袋はクローゼットの中よ。そんな箱、ばりばり破いて開けちゃっていいから、中身詰め替えたらさっさと戻りなさい。」

 よろよろと立ち上がりながらそれだけを何とか言うと、相馬ひなは自分の寝室に駆け込んだ。



 森田ケイは相馬ひなの居室を出て、常駐する執務室がある南棟に戻ろうと、北棟から南棟に向かう西側の回廊を歩いていた。ちょうど邸内でも人気の少ない一角に差し掛かったとき、突如何者かに、後ろから羽交い締めにされた。背後の者が右手に握った両刃のダガーナイフが、森田の首の左側に当てられている。

「盗み聞きでもしてたかい?」

「仕事だからね。」

「見逃してはくれないか?」

「あんたの答え次第だよ。」

「何を答えればいい?」

「あんたの気持ちさ。」

「気持ち、か。そんなもの聞いて、どうするんだ。」

「言ったろ?答え次第だって。」

「お前も死ぬぞ。」

「分かってる。」

 森田の右腕は、左の脇から後ろに延びている。おそらくその先には撃鉄の起きた拳銃が握られている。銃口は、背後の者の脇腹に押し当てられているはずだ。

「そうだな、……ちょうどいい。オレも、自分の気持ちを整理したかったところだ。お前がそれで納得するかは分からない。だが、答えておくよ。」

「ああ。」

「……お前がどこまで聞いててくれたかは知らないが、あんな風に泣かれるお嬢様を見て、オレは正直、無条件でお嬢様を護りたいと思った。助け出したいと思った。でも、オレは騎士ではなく、執事であり教誨師の後見人に過ぎない。あえてお嬢様を危険に晒すようなマネも、し続けなけりゃならない。このクソったれな世界に引き留め、傷つけ、殺させ続けなければならない。」

「……。」

「オレはたぶん、今までも、そんな自分にずっと、いらついてきたんだと思う。自分じゃはっきり確かめてこなかったが、オレの違和感は、いらつきは、わがままでけなげな、あのお嬢様のせいじゃなかったんだってことさ。……考えてみれば簡単なことで、オレがいらついてるのは、オレの役目とオレの本心とがずれてるからだ。オレの本心にとって、お嬢様は教誨師じゃない。相馬の家の跡継ぎでもない。そのことに、お嬢様をあんな風に追いつめてしまうまで、気づかなかったなんてな……。だから、……もういいか?それとも、全部言わなきゃ許してくれないか?」

 森田を羽交い締めにしている力が、ぐっと強くなる。言え、と促す。

「ちっ。分かったよ。……お嬢様は、オレの本心、いや、オレ自身にとって大事な、大切な」

「ふん、もういい。合格だ。その先は、いつか、お嬢様本人に、直接言ってやってくれ。」

「ふ……。そんな日が、来るかは分からないがな。」

「あたしたちが、その日が来ると信じてやらなかったら、誰がお嬢様の希望を護るんだ?」

「……そうだな。その通りだ。」

 ふっと、森田ケイが体を回転させて、背後の者と向き合った。互いに、ナイフと拳銃とを喉元に突き付けあって、二人は、優しい笑顔を浮かべていた。

「ところで、今回の件、あんたのセッティングだろ?」

「それが、違うんだよ。発案も注文したのもそれを購入されたのも、全部お嬢様ご自身だ。あたしがお手伝いしたのは、あんたの服の寸法をこっそり教えたくらいさ。正直ちょっと、嫉妬した。」

「……そうか。まあいい。いつか、こんな気持ちにさせてくれた礼くらいはしてやる。今日のところは背中に思い切り押し当ててくれてたものに免じて」

 その瞬間、青木はるみの重い蹴りが跳ね上がった。執事はそれを避けるために踏んだバックステップをきっかけに、片手を挙げてもう一度笑顔を浮かべると、背を向けた。そして、

「すまないが、お嬢様のお相手を頼む。」

 そう言ってから、執務室のある南棟に向かって歩き始めた。あんたに言われなくても、そう心の中でつぶやいた青木はるみは、小走りに主の部屋のある北棟へと戻った。

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