第二話 大手町データセンター
「部長、社内システム全部落ちたみたいです。」
「てえことはサーバーが死んだの?」
「そうですね。まあうちの実体サーバは大手町のデータセンタなんですけど、そこと社内ネットとのゲート、それから社内仮想サーバのいずれかで大トラブルみたいですね……。公共ネット自体は生きてるので、うちのどっかのトラブルってことでほぼ確定です。」
「うちのゲートってあれだろ?秘書室の特殊部隊って言われてるおっかないおねえ……」
「ダメですよそんなこと言っちゃ。システム復旧の数分後には部長のハードディスクの中身が社内LANに流れちゃいますよ。」
「うひゃ、それはヤバい。念のため全部スタンドアロンにしとこ。」
部長は机上の端末から水色のケーブルを引っこ抜く。
同時刻、本社ビル一九階。秘書室フロア最奥、第七会議室。
「ではこれから、本社地下サーバーの再起動作業を開始する。作業工程はふだんの訓練時と変わらないが、一点だけ違うのは、」
「プール。水抜いてないです……。」
「そうだ。訓練時はあらかじめ冷却用貯水タンクの水を抜き、点検用通路を確保するが、今回はその余裕はない。また、ほぼフル稼働してきたところでいきなり冷却を停止するわけにもいかない。」
「承知しています。では、行って参ります。」
水着に白衣、片手に水中用ゴーグルとタオルとを持ち、さらに背中には小型のボンベという格好で、秘書二人が地下へ降りるリフトへと乗り込んだ。首には二人とも、銀色のチェーンをかけている。
「こんな姿、誰にもみせられないね。」
「そうですよ押野先輩~。マジで勘弁してくださいって感じですよぅ。」
「でも、それが私たちの仕事だし。それで給料もらってるんだから。」
「先輩、こんなときでもふだん通りのまじめさんなんですね。」
「そう?でも正直、この水着はないんじゃないかとは思ってるけど。」
ふう、とため息をつきながら、押野という秘書が答える。二人が白衣の下に着込んでいる(正確には緊急用と言われ秘書室長に着させられた)のは、いわゆるスクール水着のような、何の色気もない紺色の、ワンピース型の水着だった。
地下のサーバー管理室まで降りると、がらんとした部屋に常時サーバーの監視を行っている三〇歳くらいの男性技師が待っていた。
「お待ちしていました。先ほど一九階からご連絡がありこちらでも再起動を試みましたが、ダメでした。後は、秘書の方に直接リセットしていただくしか……。私には、直接本体に触れる権限がございませんので……。」
「承知しています。上でも再起動できなかったわけですから、こちらでできなくてもしかたありません。これから冷却水タンク経由でサーバ室へと向かいます。現在水温は何度くらいですか?」
「四〇・七度プラスマイナス一度でこの一五分間安定しています。」
「分かりました。すみませんが、これをお預かりいただけないでしょうか。」
押野が、技師に羽織ってきた白衣とタオルとを預ける。後輩の秘書もそれに倣ったが、技師の視線が気になるのか、やや俯きがちだ。
「承知しました。いってらっしゃいませ。」
軽く会釈をして、技師が非常時用の封印を破って床のハッチを開く。二人はマニュアル通り、背中のボンベを一度確認した後、直径九〇cmほどの入り口から冷却水タンクへと潜水する。タンク内は封印の破棄とともに照明が点灯され、ゴーグル越しに見た水中は十分に明るい。この冷却水は、各サーバーの冷却ユニット内を環流する特殊な冷却液を放熱させるためのものであり、一般の水道水が用いられている。ここで生じる温排水は本社地下フロア等の空調用に一部流用されているが、これも表向きは、屋上に備えられた太陽熱温水器によるものということになっている。
本社地下にこのような設備があることは、秘書室の人間の他は、重役たちでも一部の人間しか知らない。ましてや一般の社員等は知らなくてよい情報に含まれている。大手町のデータセンターに預けたサーバーが実は代理サーバーであり、本社ビル地下に設置されたこのサーバー・システムこそがこの企業のシステムの本体だ、ということは、テロおよびサイバーテロの可能性を考え、基本的に伏されてきた。
そのサーバー群を束ねる最上位の基幹コンピューターに異常が生じ、再起動等の操作を一切受け付けないことが分かったのが二二分前。この時点で情報漏洩等の安全対策のため、社外ネットとの間にあるゲートが封鎖された。さらに、実質スタンドアロンとなった本社サーバーシステム全体を手動で再起動することが決まったのが一〇分前だった。
この間も、この企業がネット上に展開する数々のサービスは、大手町データセンター内の代理サーバー群を拠点として、順調に稼働していた。大手町のサーバーと本社サーバーとがデータの同期を取れない場合も、代理サーバーのみで数時間は問題なく稼働する設計だ。そのタイムリミットまでに、本社サーバーの再起動が完了していればよい。彼女たち二人の任務はだから、重要度は高いが時間的にはそれほど差し迫ったものではないと、秘書室長からは伝えられていた。
二人は物理的な防壁を兼ねた冷却水タンクを、水没している点検用通路に沿って泳ぎ渡り、タンク上部にあるハッチから、細長い廊下のような小部屋に入った。サーバー室内部はクリーンルームであり、この小部屋内部には水分やほこり等を持ち込まないためのクリーニングシステムが備えられている。
「初めて入っちゃいましたね当社特製の秘湯電子温泉。でも、何でこんな面倒なシステム作ったんでしょうねえ押野先輩。大げさすぎる気がしません?」
壁面から噴出されるエアを浴びながら、気流音に負けない大きめの声で話しかける。先輩と呼ばれた方の秘書は、エアの噴出が終わってから答えた。
「板井さんはこのサーバの意味と価値を知らないから、そんなことが言えるのよ。」
「えー、だってこれって、うちの本体サーバってだけですよねぇ?」
「どうかな。」
二人は、不織布を薄い樹脂でコーティングした作業用白衣を水着の上に纏うと、サーバー室への最後の扉を開いた。サーバー室内の冷気が、廃熱の温水で暖まった二人の身体にまとわりつく。長時間ここで過ごせば、風邪を引いてしまいそうな室温だ。
「あたしの知らない情報があるって言うんですか?」
「そうね。いつか教えてあげる。でもあなたもその前に、うちの社史くらいから勉強し直してみたら?」
「はぁい。」
「それと、このサーバへ繋がる全回線のトラフィック三六時間監視。」
「ええええ、そんなことしたらお肌に悪」
「始めるわよ。」
サーバー室は、ちょっとした図書室を思わせる造りだった。書架のかわりに数多くのサーバー・ユニットを納めたラックが立ち並び、その片隅に、これもまるで司書が座るべきカウンターのようなパーティションがあった。その無人のカウンターのコンソール前の椅子に、二人は白衣の腰を落ち着けた。最上位コンピューター、および全サーバーシステムを再起動させるには、二系統あるコンソールから、同一の操作を同時に行う必要がある。秘書が二人必要なのはそのためだ。めいめいが独立したキーを入力し、まずは同時にログオンする。
「手順1から始めます。まずCPU稼働状況モニタオープン。」
「モニタオープン。……モニタに現況表示されません。」
「確認しました。手順2、緊急コマンドによる再起動を試みます。3秒前、」
「2、1、入力。……反応しません。」
「これで今から六〇秒待つことになるけど、基本的にダメみたいね。」
「そうですねぇ。完全に操作を受け付けませんね。」
「発生熱量から推測される稼働率は八〇%くらいだから、熱暴走ではあり得ないし。それほど特殊な状態ではないと思うんだけど……。」
「やっぱり外部からロックされてる?」
「どうかしら……。さて、そろそろ時間ね。結局一番原始的な再起動をすることになったわ。」
「それじゃいきますか。」
二人は胸元に下げていたチェーンを首から外し、そこに通されていたカギを、各コンソール右端の鍵穴に差し込んで、幅一〇cm、縦一五cmくらいのカバーを開く。地味な、黒く丸いボタンが露出する。
「こんなとこまで大げさなんですよねえ。」
「データのバックアップが機能するといいんだけれど。」
「大手町ごとやられることはないですよ。」
「そうね……。それじゃ、リセットします。3秒前、」
「2、1、リセット開始。」
これで、本社サーバーはシステム的にではなく、電気的な手順での再起動ルーティンに入った。データの最低限の保護のために、各サーバーが一定の間隔でシャットダウンされていき、最後に最上位コンピューターが停止後再起動を開始するまで、三分強かかる。また、全システムの再起動が完了するのは、特段のトラブルがなければ、さらに約一〇分後の予定だった。二人の今回の任務は、その再起動を見届ければ終了するはずだった。
「ところで板井さん。」
「なんですかぁ?」
「ここまでボンベを持ち込むのは手順違反よ。」
「あ、すいません先輩。だってこれ、」
「何?」
ゴッという鈍い音とともに、押野がコンソール台すぐ下の床に崩れ落ちる。
「だってこれ、先輩を殴り倒すのに必要だったんですもの。」
そう言いながら、足先で乱暴に蹴りつけ、押野が意識を失っているのを確認する。
「さて、と。おみやげセットしたらとっとと退散するわよぅ。」
後輩秘書、板井祐子はそう言って、作業用白衣の前をはだけ、水着の胸の脇当たりから小さなビニールのパックを取り出し、開封した。そして、パックの中から小型のメモリーを二つ取りだし、二系統のコンソール上にあるソケットにそれぞれ挿し込み、サーバー室を後にした。
およそ二分後、予定通り最上位コンピュータが再起動を開始し、板井祐子の残したプログラムを読み込んだ。
その日教誨師と森田はともに銀座にいた。「センターの仕事」ではなく、相馬家の令嬢とその執事として、銀座に出かけていた。
「ここは注文してたものを受け取ってくるだけだから、森田はここで待っていなさい」
「それはかまいませんが、ポーターが必要になればいつでもお呼びください」
「うん。でもたぶん要らないわ。それじゃ、すぐ戻るから。」
「お気をつけて。」
教誨師はこっくりと頷いてから、黒い生地に黒の刺繍がふんだんに施されたワンピースの裾を快活に揺らして、エレベーターホールへと向かった。教誨師が身に纏っているのはいわゆるゴシック・ロリータ風の装いだったが、巷でよく見かけるようなある種の過剰さは抑制され、むしろコンサバティブな、落ち着いた印象を与えるものとなっていた。またそのことが、相馬家のメイドたちの技量とセンスを示してもいる。
森田が助手席のドアを閉めて運転席側に回ると、携帯電話に着信があった。センターの番号からだ。運転席に座り、辺りを確認してから電話に出る。
「今月はもう、仕事の依頼は受けないと伝えておいたはずだが。」
「いきなり不機嫌そうな声だね森田。心配いらないよ、今日の依頼は教誨師宛じゃない。」
「なに?」
「この依頼は、お前宛になってるんだ。」
「なんだと?オレはセンターには登録してない。」
「でも、それが依頼主の意向でね。名指しでの指名ではないけど、国内外で対テロ戦の経験がある者で、銃火器を常に非合法に携行しており、現在たまたま現場となっている大手町近くにいて女子校生の下僕なんかやって悦んでる黒ずくめのロリコン野郎を一名よろしく頼むわ時田ちゃ~んとのことだったんだよね。」
ぎしり、と音を立てて森田の手の中で携帯が軋む。時田という男の口真似は不快だが、それ以上に、依頼者に対する不快感が沸き起こる。
「あの女か……。くそ、どうやって現在位置を。」
「お前の愛車でもバラしてみるんだね。発信器ぐらいいつでも仕掛けられるでしょ?Nとか、ひょっとしたら衛星で視てるかもしれないし。だいたい、車一台で行動してるのがそもそもの間違いなんだ。」
「ふん……。執事ごときが何台も車を持っている方がおかしいだろ?」
「それが執事が名家のお嬢様を乗せる車かい?ってこんな無駄話をしてる場合じゃないんだった。依頼内容を伝えるよ。」
「仕方ない。あの年増女に伝えておけ。次はもう受けないとな。」
年増って言ってもルカはお前より五歳上なだけ、まだ二〇代のはずだよ、と言おうとして、止めた。時田にはルカの小さな名誉を守ってやる特段の必要もない。苦笑しながら適当に混ぜっ返す。
「さあ、それであのルカねえさんが納得するかねえ。むしろ寂しいわケイく~んとか言って嘘泣きの一つでも」
「ルカもムカつくが時田、お前の口真似もかなりムカつくぞ。いいから依頼内容を。」
「すまない。それじゃいくよ。まずはアウトライン、詳細は移動開始後に伝える。」
センター時田が伝えてきたアウトラインは、確かに、森田の経歴に相応しいものだった。
数十分前に、大手町にあるデータセンターの一つに対して、集中的なサイバーテロが開始された。それと前後して、数名の不審な集団がそのデータセンターの入るビル敷地内に侵入し、データセンターの私設警備部隊と銃撃戦を開始したという。森田への依頼内容は、この侵入者を制圧した上で今回の件の背後関係について情報収集を行えというシンプルなものだった。
状況を把握した森田は、一つの疑問を時田に投げかける。
「だが、なぜ公安が直接動かない?」
「所轄の方は当然動いているさ。皇居の目の前で武力テロだからね。機動隊と特殊部隊がすでにデータセンタの入るビルを取り囲んでいるよ。」
「じゃあそいつらに制圧させればいいじゃないか。」
「お前も警察のやり方は知っているでしょ?あれじゃ突入許可が出るまで数時間かかるよ。それよりお前が「データセンタの私設警備部隊」の一員として侵入、制圧した方が速くて確実なんだよ。もちろん、データセンタには事後にお前に対する委嘱状を提出させるけどね。」
「またその手か。まあいい。ところで、連中の目的は分かっているのか?」
「それについては、ルカも推測程度だと言っていたけど、一応見当はついてる。」
「もったいぶるなよ、時間がないんだろ?」
「そうだね。今回のテロリストのターゲットは、公安のデータベース・サーバらしい。」
「……なるほどな。だが、公安のサーバは大手町なんかにはないはずだ。」
「いや、あるんだよ。大手町には「窓口」が。」
「窓口?」
「うん。窓口だ。詳細は言えないしうちでも分からない点もあるけど、大手町が陥落すれば、公安のサーバ、いや厳密にはデータは丸裸も同然だろうと言われてる。」
「分かった。事情はだいたい把握したと思う。オレの担当範囲に必要な情報があれば、転送しておいてくれ。ところで、」
「なんだ?」
「うちのお嬢様なんだが、今お買い物中なんだ。そっちで回収してもらいたい。」
「はぁ?教誨師を回収だってぇ?事件に巻き込まれた哀れな一般人じゃないんだよお宅のお嬢様は。こんな状況で銀座に回せる要員がいたら、全部大手町に送り込んでるよ。それよりお前が兵隊として使えばいいんじゃないの?いい腕なんだしさ。」
「うちの大事なお嬢様をなんだと思ってる。」
「そう怒るなよ。ひょっとしてお前、ほんとにロリコ……」
「時田、いつかお前の最期の懺悔をお嬢様と一緒に聞いてやるからな。」
教誨師という通り名を持つ女子校生、相馬ひなは、ちょっとした買い物に出かけても、そのデパートの支配人が挨拶に来るような家柄のお嬢様でもある。直接自宅に届けさせることも多いが、今回の品は銀座本店で受け取ることになっていた。ここのところ、学業とセンターの依頼とがともに立て込んでいたこともあって、自分のスケジュールが空き次第取りに行く、ということにしておいたのだが、実はこの品は、家人には知られたくない、また詮索されたくない品でもあった。
今日は受け取りだけだからと、ひな自身は高を括っていたのだが、結局応接室に通され、支配人がやってきてあれこれと話し始めた。いつものことではあるのだが、そのせいで思ったより時間がかかってしまった。ようやく支配人から解放された後、すぐに森田へと電話を入れた。今から戻ると告げようとしたのだが、森田の携帯は通話中であった。
ひなは少しかちんと来て、そのまま地下駐車場に戻ると、森田に気づかれないように車に接近し、森田からも、他の人間からも死角になる場所に潜り込んで、携帯用音楽プレーヤーを車のボディに押し当てた。ただしこれは、見た目は流行の音楽プレーヤーに偽装してあるが、センター特製の多機能端末であり、中身は全くの別物だ。コンクリート・マイクとしての機能も搭載している。
(いったい誰としゃべってるのよ森田。執事のくせにいい根性してるわね?自分でポーターが要るならいつでも呼べと言っていたでしょう?最近センターで習った盗聴スキルであなたの話全部聞いてやるんだから。)
「うちの大事なお嬢様をなんだと思ってる。」
しかし、イヤホンを通していきなり耳に飛び込んできたのは、ふだんは不機嫌そうな、かつ自分に対しては皮肉っぽいセリフしか言わない執事の、意外なセリフであった。それを聞いて、一七歳の教誨師は固まってしまった。
(い、いま、大事なお嬢様って言ったわよね?あんな、あんな真剣な声で……。も、森田があたしを大事だって?いえ、ちょっと待ちなさいあたし。待ちなさいってば。あいつは執事よ。だからきっと、仕事の上で大事ってことよ。うん。そうに決まってるわ。あたしったら何舞い上がってるのよほんと。中学生じゃないんだから、ってもう全然あたしは舞い上がったりなんかしてないんだから……でも、)
でも、の先のことを考えるだけで、顔が熱く火照ってきてしまう。何とか「時田」という人名などが聞き取れたため、センターとの通話だということは把握できたが、会話の内容自体は頭に入ってこない。ともかく一度、車から離れ、何気ない様子で、そう、今戻ったという様子で助手席の窓をノックしなければ、そう思った瞬間、がちゃりと運転席のドアが開いた。
自分の体がおもしろいほどびくっとしたのが分かった。慌てて多機能すぎる音楽プレーヤーを隠し、ちょうど今来たような様子で笑顔を作る。
「お、遅くなったわ。」
(誤魔化せた?)
「話はどのくらいまでお聞きになっていましたか?」
そう執事は事も無げに言うと、お嬢様を絶望の底へと突き落とした。さらにリアのハッチを開けながらもう一言。
「もう今日はお一人でお屋敷に戻っていただけないでしょうか。」
それを聞いて、執事にバカにされた上に拒絶されたと思ったお嬢様はその場ではらはらと大粒の涙をこぼした。ラゲッジスペース下部に巧妙に隠蔽してある銃器と弾薬類を取り出そうとしていただけの森田は、その涙の理由が分からず困惑した。
数分後。
森田から今回の依頼についてさらに泣いてだだをこねて聞き出したお嬢様は、一般道を大手町に向かって移動するインプレッサCBA-GRBのナビシートで、ぐすぐすと鼻をすすりながらMP5-KA4のチェックを行っていた。グローブボックス内部を加工して収められているもので、非常時のひなのための装備だ。一方、訳も分からず主人に泣いて絡まれた執事森田は、こっそりため息をつきながらステアリングを握っていた。
「時田さん、最新情報をください。」
ひなが、ハンズフリー通話用のマイクに向かって、また泣き出しそうな鼻声で話しかけた。
「お、結局教誨師ちゃんも参戦するんだ。よろしくね。あれ?風邪でも引いた?」
「うるさいです。情報寄越しなさい。」
「あ、ああ。じゃあ二人とも聞いて。最新情報だよ。画像と侵入経路はカーナビ用のアドレスに転送しておいたから、適宜確認して。」
「了解。ファイル展開しました。情報をどうぞ」
「侵入者は七名。使用火器はアウトラインの情報と変更なし。現在もデータセンタ警備部隊と第六・第七フロアで交戦中。ただしここ二〇分ほどはほぼ膠着状態。警備部隊に負傷者数名。うちのアナリストによると、使用火器の特徴から、米国の民兵組織の出身者の可能性が七二%。また作戦行動のパターンはほぼ八割の確率で陽動目的と推定可能。なお、補足情報だけど、警備部隊の方はピストル等のみの軽装備。侵入者側は一気に制圧することも可能なはずなんだけど、何かそれをしないだけの理由がありそうだね。以上。」
「それだけ?」
「うん、今のところは。」
「十分だ。その予測が大きく変わる情報が出たらすぐに連絡してくれ。」
「了解。」
時田との通話が終わると、執事森田は助手席のひなに話しかけた。
「お嬢様、今日の仕事は私が受けた仕事です。お嬢様は車から降りないでください。」
「絶対嫌。あたしも参戦する。」
「では、防弾ジャケットだけでもつけてください。」
「それも嫌。」
「お嬢様……。」
思わず執事の語気が荒くなる。
「教誨師宛ではないこの仕事でお嬢様がお怪我なさったら、私の責任問題になります。言うことをお聞きください。」
「だって。この服、下に防弾装備つける余裕ないんだもの。」
(ほら見なさい、やっぱりこいつはあたしの安全より自分の保身を優先するヤツなのよ。さっきのは何かの聞き間違いねきっと……。)
そう考えて、ひなの眼からはまた涙がこぼれた。執事は、服の上にジャケットを装着する選択肢はないんだな、と呆れつつ、今度はお嬢様にも聞こえるような溜め息をついた。
「分かりました。……もう勝手にすればいい。ただし、」
「何よ?」
「無様に撃たれでもしたら、笑ってやる。」
相馬家のお嬢様であり、教誨師と呼ばれる通り名さえ持つ相馬ひなは、このとき抱いた森田に対する殺意をすべて、克明に記憶の底に焼き込んだ。
「こちら吾妻。新宿iゲート社に到着したわ。これより現場担当者およびiゲートの責任者と接触予定。」
「了解。逃亡したと見られる秘書のデータを送る。」
「……確認した。板井祐子二三歳、金沢工大卒、専門は電子工学と……。この情報がフェイクの可能性は?」
「まだ分からない。iゲート社の人事部から引き出した情報だ。」
「了解。それと、襲われた方の秘書の情報は?」
「それも今送る。こっちは阪大の大学院工学研究科のご出身だそうだ」
「押野亜紀、二六歳か。この会社の秘書ってのはこんなコばかりなの?社長か会長が理系女好きだったり?」
「その下世話な疑問への答えは準備していないが、この会社のコンピュータ・システムの保守・管理及び防衛の最終権限は秘書室にあるそうだ。」
「なるほど。秘書って言葉通りの職掌ってわけだ。押野って秘書はどうしてる?」
「意識回復後、現場に残り板井による不正プログラムの「中和」を図っているそうだが、旗色は悪そうだ。」
「了解。状況が変わり次第連絡して。」
「了解。」
iゲート社からの通報の内容が警察庁警備局公安課サイバーテロ専従班に伝えられたのが午後一時三二分。初動は所轄の一般警察に任せ、吾妻ルカはまず、類似の、あるいは関連するテロ情報の照合を開始し、大手町で現在進行中の武力テロに関する第一報と出くわした。それとほぼ同時に、新宿の事件で攻撃先となっているサーバーが大手町のデータセンター内にあるという第二報が入った。事件のタイミングと攻撃対象、および大手町という地理上の共通性から、吾妻は三つの行動をとった。一つ目は、職責によりサイバーテロ対策として、警察庁内にある公安情報を格納したサーバーの即時スタンドアロン化を行うこと、二つ目は、大手町の武力テロに対応を開始した公安課内の対テロ専従調査班に、内規に従い儀礼的に情報を流すこと、そして三つ目は、「人材センター」あるいは単に「センター」と呼ばれる、民間の組織に依頼の電話をかけることだった。
(あのデータセンターだけは死守しなければ。)
その判断から吾妻は、法を護るものとしては禁じ手となる三つ目の策を迷わず遂行した。
吾妻がiゲート社ロビーに歩み入ると、受付で秘書室長が待っていた。
「警察庁の吾妻です。」
「ご足労、恐れ入ります。この度は私の部下がこのような……」
「いえ、この事件はあなたの責任がどうのというような規模の問題ではないでしょう。もちろん今は断言できませんが、もっと大規模で背景のある事件のはずです。ともかく、まずは現場への案内をお願いします。」
秘書室長は強ばった表情のまま頷き、吾妻をまずは一九階の秘書室フロアへといざなった。
「サーバ管理室は地下にあるのですが、そこに降りるためにはいったん一八階以上の重役階を経由し、専用のリフトに乗り換えなければなりません。」
「なるほど。」
「さらに、サーバ管理室からサーバ室に入るには、通常時は地下の冷却水タンクを泳いで通過しなければなりません。ですから、マシン・トラブル以外、外的要因でのトラブルは現実問題としては起こらないだろうと……」
吾妻は、さっそく言い訳をし始めた秘書室長にやや辟易としつつも、iゲート社のサーバー保全体勢の過剰さには多少なりとも驚かざるを得なかった。いくらプロバイダー事業を核として発展し、さらに他社に先駆けてネット内に複合サービス・娯楽施設を構築したiゲートとは言え、そんな保全体制が敷かれているのは奇妙だと言わざるを得ない。これではまるで、はじめから攻撃されるのを予期していたかのようだ。
(でも、今回攻撃されているのはここじゃない。ここは攻撃のための砲台の一つ、攻撃目標ではない)
そのことに微妙な引っかかりを覚えつつ、吾妻はサーバー管理室へと降りるリフトへ乗り込んだ。
「サーバ室内部はサーバ管理室から確認できますか?」
吾妻が室長に確認する。
「はい、映像は四つある監視カメラから五秒切り替えでモニタしていますし、音声についてはコンソールにマイクがあって通話できるようになっています。」
「犯行時の模様は?」
「その瞬間が映っておらず、またカメラの死角に押野が倒れたということもあって、気づくのが遅れました。」
「計算ずくだったのかもしれないですね……。板井という秘書が逃走する際の様子は?」
「何事もなかったようにサーバ管理室へと戻ってきて、押野はもう少し作業があるため残るそうだ、と技師に伝えた上で行方を眩ましました。リフトの運行記録からすると、堂々と重役フロアまで戻った上で、秘書室には戻らずに消えたようです。」
吾妻は黙ってうなずいた。
リフトはサーバー管理室のある地下二階に到着した。吾妻と室長がドアを開けると、中には技師、吾妻への引き継ぎで残っていた所轄の刑事、そして秘書が二名いた。自己紹介もそこそこに、状況の確認に入る。
「一番ここのシステムに詳しい秘書は?」
「それは押野さんだと思います。」
「そうすると、板井の置きみやげの中和作業に参加できそうなのは?」
「……システム自体に触ることができるのは、スキル・権限ともに押野と板井の二人だけで、私を含め他の秘書は、OSよりも深い階層のことは分かりません。」
秘書の一人が答える。本来回答すべき秘書室長が答えないのは、室長でありながら秘書と同等か、それ未満のスキルしか持ち合わせていないからだろうか。いずれにしても、押野は負傷したまま、孤立無援の状況で一人、サーバー室内で戦っていることになる――。
「そうか。」
そう、先ほどまでとはやや違った口調で言うと、吾妻ルカは着ていたグレーのスーツを脱ぎ始めた。タイを解き、ブラウスのボタンをはずしていく。
「潜水区間は何メートルだ?」
「に、二〇メートルほどです。」
「サーバ室には押野が着ているような作業服の予備はあるか?」
時折押野の様子が映るモニターを片手で指さしながら尋ねる。
「あります。常時四セット備え付けてありますので、未使用のものがまだ二組は。」
「開けてくれ。」
「は?」
「ハッチを開けてくれと言っている。」
「は、はいただいま。」
この場の責任者となる秘書室長がうなずくのを確認した技師が、慌ててハッチを開く。
「水没した状態の点検用通路がありますので、それに沿って泳いでください。」
「分かった。それから、押野に私が行くことを伝えておいてくれ。驚かすと悪い。」
全裸となった吾妻は、きちんと畳んではあるもののまだ体温のたっぷり残る衣類を秘書の一人に預け、少しだけ微笑みかけた。そして、踵を返すと、呆気にとられた一同と、吾妻の衣服を胸に抱えたまま何故か激しく赤面している秘書一人とを残して、冷却水タンク内に消えた。
もっとまともな潜入経路はないの森田?と、いつもなら相馬ひなは同行する執事に文句を言っていたに違いない。だが、この依頼へは自ら志願しての参加だ。足元が平らで頭上も高く立って移動できるほどなのだから、真っ暗闇で多少空気が澱んで埃と黴の臭いが酷く入り混じっていても文句は言えない。そんなことを言えば、今すぐここから一人でお帰りくださいと言われるのが落ちだ。柄の長い頑丈な懐中電灯を片手に、サブマシンガンと合計で四百発の弾薬を納めた弾倉を身につけて、教誨師は走る。
(あーあ、またはるみさんに叱られちゃうな。この服卸したてだったのに……)
二人は、敵テロリストはもちろん、警視庁の機動隊および特殊部隊にも気づかれずに潜入しなければならかった。そのため、東京駅地下街から延びる、建設作業時に作られたきり放置されていたと思われる地下通路を抜けて、データセンターのあるビルへと向かっていた。自分の意地っぱりな性格を少し反省しつつも、森田の前では対等以上を保たなければならない、そう自分に言い聞かせて、相馬ひなは数歩先行して走っていた。
やがて、目的の地点に到達し、二人でビル内への入り口となる部分を捜し当てた。こうした仮の通路はしばしば、出入り口を厳重に塗り固められてしまうこともあるが、センターの情報によれば、このビルでは薄い樹脂製の板で塞ぎ、周囲と同じ壁紙を張り付けてカモフラージュしているだけだという。森田が制止する前に、ひなはその樹脂の板を蹴り破っていた。
「ここに敵が配置されていたら、今頃お嬢様は死んでいらっしゃいますよ。」
ほとほと呆れたという表情で執事がつぶやく。
「生きてるんだからいいじゃない。行くわよ。」
表向きは、いつもの強気な教誨師が戻ってきていた。そして、これもいつものようにまた溜め息をつきつつ、辺りを確認した執事は小声で打ち合わせを始めた。
「それじゃ、始めましょうか。一般社員は、テロリストが六階に到達した後、首尾よく脱出したか屋上に待避したかだという話でしたね。したがって、ビル内に残っているのは……」
そう言いながら、森田は車から持ち出したナビゲーション・システムのモニターを、画面が読みとれる最低輝度で表示した。そこに示されていたのは、サーバー・システムを守護する私設警備部隊の制服だ。
「この連中か、そうでなければテロリストさんか、というわけね。」
そのとき、モニター画面にファイル受信中の表示が現れた。展開すると、ほんの五分ほど前の敵および警備部隊の配置図であった。
「センターってこういうときけっこう役立つわよね。」
「まあ、実質何割かは公安の出先機関みたいなものですし。こういう内容的にも地理的にも重要度の高い施設には、それなりの備えがありますから。」
「ふーん。そんなところにアタックする敵さんて、何考えてるのかしら。」
主人であるひなの言葉を聞いて、森田は一瞬、ある可能性について思い当たったが、現状に影響するものではなかったため、ひとまずは忘れておくことにした。たとえそれが事実だったとしても、おそらくこのビルに潜入しているテロリストには知り得ない事柄であるはずだからだ。
「それじゃ、あたしが四人、あんたが三人でいいわね?」
「お好きになさってください。確かに私の方は一人から情報を得なければなりませんので、お嬢様に多めに処理していただけると助かりますが。」
「ふん。じゃ、ひとまずあたしがフロントで階段室からこの第六フロアってのに突入するから、あんたはその隙に第七フロアに向かいなさい。」
「かしこまりました。」
こんなときまで執事面をしなくてもいいだろう、とひなは思ったが、かと言ってそれ以外の関係が今、二人の間にあるわけではなかった。日常でも、仕事のときでも、たまに衝突することはあっても、森田は常に自分の有能な執事なのだ。ひなからすればそれは、安心とともに切なさを心に与える、苦しくいとおしい「事実」でもあった。
二人は階段室に向かい、足音を殺して慎重に上階へと進み始めた。センターの情報通りであれば、六階に四名、七階には三名が潜んでいるはずだった。
(あれ、私どうしちゃったんだろう)
押野亜紀は、自分が肌寒いサーバー室の床に寝ている理由が最初、理解できなかった。
(確か板井さんと一緒にシステムを再起動させに来て、ああ、そうか……。殴られちゃったんだ。)
おそるおそる上半身を起こすと、重力に引かれて血液が下がり、板井に殴られた左側頭部が日常ではあり得ない痛みを発した。もう一度、失神しそうな痛みだ。そっと手を伸ばしてみると、何かぬるりとしたものが指先に触れた。
(出血してる……)
それでも押野は膝立ちになり、コンソール上の通話スイッチに手を伸ばし、サーバー管理室にいるはずの技師に呼びかけようとした。だが、なかなか声が出ない。出ても届かない。
(そうだ、ブザー押さなきゃ)
マイクのスイッチ脇の赤いボタンを押すと、味気ないブザー音が鳴り、ようやく技師を捕まえることができた。
「すいません、……事故発生です。至急……社内に今いる秘書全員を、そこに集合させてください。」
ただ事でない押野の様子に驚いた技師は、大慌てで一九階に連絡した。
(さて、始めるかな)
這い上がるようにして椅子に座り、コンソール上のキーボードのシフトキーを、七回ずつ一定のリズムで三セット叩く。本来なら二系統から同時に入力しなければ反応しないはずの最上位コンピュータが、あっさりと押野の入力に反応し始める。
(こんな状況になるとは思ってなかったけど、何かの役には立つと思ってたんだよなぁ。今日は働いてもらうよダミー。板井さんの汚染部分を中和するよ……。彼女絶対、何かを仕掛けたに決まってる。私なら、そうする。)
肉体的にはいつ失神してもおかしくないような状況で、押野は探索を開始する。少しして、
「押野君、大丈夫なのか?」
それなりに慌てて駆けつけたらしい秘書室長の声が、スピーカー越しに届いた。
「あと二分待ってください。板井さんのプログラムの現状の攻撃先が判明します。」
「ど、どういうことだ?」
押野はそれに答えず、板井の走らせたプログラムの攻撃先を絞り込む。
「攻撃先サーバの一意なIDを取得。これは……、」
思わず押野は息を呑んだ。
(これはうちが預けてる大手町サーバのIDじゃないの……。狙いは、官公庁のデータ?それとも、新宿インビジブル自体?)
「室長、聞こえますか?」
「ああ、聞こえる。」
「今から言うことを至急実行していただけますか?」
「まず状況説明が先だ。」
「……分かりました。まず、このシステムの再起動作業を開始した時点で、板井さんに殴られました。申し訳ありませんが、しばらく気絶していたようです。その間、板井さんは最上位コンピュータの再起動時に各ポートがチェックされるのを利用して、フラッシュメモリ内のプログラムを読ませたんだと思います。たぶん、……水着を着るときに、どこかに忍ばせ、ここまで持ち込んだのだろうと思います。」
「わかった。それで今どうなっている?」
「閉鎖中だったうちの社のゲート・システムをまず開放。ゲートは閉鎖中でしたが、閉鎖・開放のコードは板井さんも知ってますから、一瞬で解除されたと思います。続いて……現在は社外のあるサーバにアタックを開始しています。」
「どこのサーバだ」
「大手町データセンター内、本社代理サーバです。ただしそれが最終目標なのかどうかは不明です。もう少し……、時間をかけないと分かりません。」
「板井の狙いは何だ?」
事は自分が知っていないはずの極秘事項にも触れるため、押野は少し言葉を選ぶ。
「分かりません。思い当たるとすれば、大手町のデータセンターが官公庁から受託しているデータベースサーバの情報か、あるいは大手町経由で「より重要なサーバ」を攻撃する気なのか……。いずれにしても、サイバーテロ事件には間違いありませんので、攻撃対象未特定のまま、警察にまずは一報をお願いします。警察庁にも連絡を回してもらえるように頼んでください。緊急時のマニュアルにあります。」
「わかった。そうしよう。」
室長はそう答えると、集合していた秘書の一人に、関係機関および社の上層部への連絡を命じた。
「押野君、もう一度ゲートを塞ぐことはできないか?」
「塞ぐことは可能ですが、……大手町とこの新宿の間にはゲートを介さない専用線がありますよね。バックアップ名目で……大手町と直結するための。転送量から推測すると、現在はそちらからもアタックしているようですので、効果は半分止まり、……減速程度となります。やらないよりは……ましでしょうが。」
板井に殴られた怪我がつらいのか、時折押野のことばは途切れがちになる。
「わかった。ゲートの再封鎖はこちらで対応しよう。君は専用線からのアタックを何とか封じてくれ。」
サーバー管理室にいた秘書のうち二名が、ゲートの再封鎖のため、一九階の秘書室に戻った。
「それはそうと、押野君、君、体は大丈夫なのか?」
「それは何とも言えませんが、今はひとまず、できることをやってしまいます……しばらく応答できないかもしれません。」
そう言うと、押野はコンソールのキーボードを叩き始めた。
板井が仕掛けたプログラムはすぐに特定できた。だが、その停止や削除は、何らかのブロックがなされているようで、拒絶されてしまう。
(あの子、私と同じように特殊権限作ってたの?どこまで分かっていたのかしら。)
再起動作業に入る前、板井と交わした短い会話を思い出す。今思えば、板井は自分がどこまで知っているかを探っていたようにも思える。
(ちょっと頑張らないとマズそうね。)
押野は、初めてiゲート社が預かるサーバー・システムの全容を知ったときの驚きを忘れない。一般社員が知らされている知識と、システム担当秘書として配属されて知らされた知識とは最初から異なっていたが、それすら小さなずれに過ぎないと思えるほどの秘密が、この地下サーバーには存在していた。iゲート社が提供するサービスのテスト等を行う仮想サーバーとしての機能も、iゲート社の全システムを格納する、一般社員は知らない実体サーバーとしての機能も、この地下サーバー・システムの容量のごく一部、はっきり言えば余力のようなものに過ぎなかった。仮想サーバーでさえ、それだけで大手町にある代理サーバーと同一の構成・データ量を有しているにも関わらず、それらはこの地下サーバー・システムのほんの表層の一領域に過ぎないのだ。
地下サーバーの真の用途は、大手町データセンターが預かるすべてのデータのバックアップにあった。大手町データセンターには、iゲート社のような民間プロバイダーだけでなく、政府や省庁もデータを預けていた。危機管理および税収減に伴う合理化事業の一環として、数年前から、霞ヶ関をはじめとする省庁所有の小規模サーバーのバックアップは、一括して大手町データセンターに集約されるようになっていた。
その中には、国会内の小委員会の議事録のような公開性の高いものから、公安警察が内偵を進める特定宗教団体の構成員および内偵調査員の情報といった、高い秘匿性が求められるものまでが無差別に含まれており、それらは丸ごと、簡単には解読されないよう、一般には流通しない暗号が幾重にも施されていた。しかし、大手町データセンターのセキュリティ・システムの最大の特徴は、民間企業が機器ごと預けているサーバーを除き、センター内の基幹システムには揮発性メモリーしか使用しない、つまり電源が断たれれば消えてしまう形でしかデータを保管しないシステムとなっていることであった。これにより、何らかの目的で大手町データセンターが襲撃されても、サーバー・ユニットをラックから切り離して持ち出そうとした時点でデータは消失する。ネット回線経由での侵入・漏洩さえ退ければ、データの秘匿性は非常に高い。
当然、このシステムにはさらなるバックアップが必要であり、それが専用線を介して結ばれた、iゲート社地下サーバーということになる。押野はこのことを、入社して一年以上経ってから、非公式な手順で把握した。そもそも、大手町データセンターのバックアップに割り当てられた領域は、iゲート社内部からでは直接見ることはできない。だが、大手町と新宿を結ぶ専用線の転送量が異常なほど大きいことに気づき、そのデータの増減と連動する国内のサーバーを特定するというような、遠回りの作業を経て、ようやく、地下サーバーの見えない領域、そしてその知られざる役割を理解したのだった。やがて、国と大手町データセンター、およびiゲート社とを結ぶ資本の流れ、第二次大戦以前からのつながり等までを確認する頃には、押野はいつ公安からマークされても不思議のないレベルの超ハッカーとなっていた。
押野はいつしか、この見えざる領域に「新宿インビジブル」というニックネームをつけていた。板井の目的はまだ分からない。板井のプログラムは今、大手町データセンター内のiゲート社代理サーバーのデータ転送先となっているサーバーを、手当たり次第に特定・解析している段階だ。これがやがて、データセンターそのものと言える基幹システムに侵入し、そこに接続する省庁の情報にアクセスしようとするものなのか、それとも、民間・省庁の違いに関わらず、圧倒的な量のデータが格納される新宿インビジブルの存在を特定しようとするものなのかは、現時点ではまだ分からなかった。
はっきりしているのは、そのどちらであっても、もうこの大手町データセンターと新宿インビジブルとを用いたデータ保全システムは役に立たなくなる、ということだ。省庁内のローカルなサーバーの攻略が目的の場合には、新宿インビジブルの存在は明るみに出ないかもしれない。だが、新宿インビジブル、あるいは新宿インビジブル内部のデータが探索された場合には、このシステムのからくりが世に知られてしまう可能性が生じる――。
いくつかのケースを想定した上で、押野は今回の板井のプログラムの攻撃対象として、大手町データセンターの基幹システムを第一候補とする判断を下した。そこに接続する別のシステムの方が主目的であっても、それには、データセンターの基幹システムを突破しなければならないためだ。そこで食い止めることができれば、新宿インビジブルの存在まで手繰られることはない。
押野は、サーバー管理室に、今回の攻撃の主たる目標が判明したことを告げ、警察に連絡するように依頼した。
その会話の直後、もしかすると、短時間また、意識を失っていたかもしれない。気がつくと、スピーカー越しに同僚の秘書から名前を呼ばれていた。ひとまず「大丈夫」とだけ答え、また、作業に戻った。幸運なことに、板井のプログラムの解析速度は、四〇%ほど低下していた。一九階で、ゲートを再度封鎖することができたらしい。後は、プログラムの活動自体を停止させるだけだ。押野は板井の作ったプロテクトを解除するため、管理者権限の設定を始めた。もちろん、現状ですでに掟破りのアクセスを可能としている押野のスキルであれば、通常の管理者権限などはいくらでも取得・設定できる。だが、このシステムでは、同等の権限を持つ他のユーザーの権限を停止またはキャンセルできない設計となっていた。つまり、板井の仕組んだプロテクトを解除するには、板井の設定した特殊権限を超える権限を有したユーザー、言ってみれば、最終管理者権限を取得した上で操作を行わなければならないのだ。
押野はこれまでにも何度か、このシステムの設計・構築を行った人物のルートから、最終管理者権限を非公式に得ようとした。だが、たいていは設定のためのパスワードのところではじかれ、失敗に終わってしまう。何か別の手立てがないか、やや朦朧とし始めた意識で必死に打開策を探るが、時間ばかりが過ぎる。孤独な焦燥の中に取り残される。
「押野さん、聞こえますか?今からそちらに、警察庁の方がいらっしゃいます。その方によく相談するようにしてください。」
「……分かりました。お待ちしています。」
第五フロアまで階段を上ると、二人は一度、目を合わせた。第六フロアの北東の隅に当たる階段室前には、テロリストが一人配置されているはずだった。サイレンサー付きの火器を携行していれば作戦の立て方も変わっただろうが、緊急の依頼だったため、今回用意できたのはすべて、消音器のない仕様だった。指でサインを作り、突入開始の呼吸を図る。
(三・二・一……)
軽やかに、黒ずくめの二人が最後の階段を駆け上がる。テロリストが気づいて銃を構えたときには、その顎から眉間にかけて、教誨師の放った銃弾が三発抜けていた。そのまま後ろに倒れたテロリストを跳び越えると、サーバールームの外周を巡るビル東側の回廊をかけていく。発砲音に反応して迂闊に顔を出した二人目のテロリストも正確に撃ち抜き、南東の隅近くまで到達する。
(ここまでは予定通り。むしろラッキーか。後はサーバールームの自動ドア前の二人。)
この間に上階でも銃撃戦が開始されたらしく、双方の発砲音が轟音となって二つある階段室から響いてくる。
教誨師は、二人目の男の銃を拾い上げると、南側の回廊に投げ込み、壁面に背中をつけた。銃撃が来ないことを確認した上で、右腕だけを伸ばしてフルオートで西側に向けて掃射した。弾き出される空の薬莢が通路の壁面に当たり、てんでに散らばる。火傷はともかくワンピースの袖が焦げないように祈りながら、数発残したまま次のマガジンに交換しもう一度掃射。この二度目の掃射で、呻き声が上がった。一度目で全弾撃ち切ったと見せかけ、再装填のためのタイムラグがあると思わせて誘い出す、地味な手だった。
(あと一人。ここから先は手間取っちゃうかなぁ。)
当たり前の女子校生が持っているような、ごくふつうの四角い小さな手鏡を出して、教誨師は床に近い位置から通路の様子を確認する。今の掃射で倒れた男は床に仰向けになっており、手からは銃が放れている。と、その鏡めがけて銃弾が違う角度から撃ち込まれる。
(そこか……)
四人目はやはり、このフロア南西の隅、サーバールームの自動ドア前のスペースに潜んでいるようだ。
(さて、どうしようかなぁ。警備部隊の人は無事かなぁ。サーバールームの中からうっかり出てこないといいんだけど。)
教誨師は第六フロアの見取り図を思い出す。サーバールーム入り口までは直線で遮蔽物はなく、通路左手側には身を隠す場所もない。だが右手側には手前から、二つ目の階段室とエレベーターが並んでいるはずだ。まずは階段室まで進み、最悪の場合の退路も確保したい。
(三本目。)
自分で確認しながらポーチからマガジンを取り出し、まだ残弾のある二本目のマガジンは、別のポーチに収めた。
(でも、このルート、右利きのあたしにはちとつらいのよねえ。手首返してる分ホールド弱いし。やっぱりちょっとズルさせてもらおうかな)
胸一杯に息を吸い込んだ教誨師は、一六〇cmに満たない体をめいっぱい使って声を上げた。
「第六フロアの警備部隊の人、聞こえますか~?日本政府の方からきました~。聞こえたら適当に発砲してください~。できれば自動ドアの方に向けて撃ってね~」
こんな誘いで警備部隊が反応してくれるか、当人にも若干の不安はあったが、膠着状態に疲れていたのか、若干の間があった後、数発の拳銃の発砲音が聞こえた。きっと、隊員同士で意思を確認し合ってから発砲したのだろう。背後から突然発砲されて飛び退いたテロリストの背中が教誨師の位置から見えた。防弾装備ごと西の壁面に叩きつけてから、頭部に弾丸を撃ち込む。
(いやぁ、日本語分からない外人でよかったよ。)
さすがに少し決まりが悪いのか、教誨師は左手の人差し指で、頬をかいた。
もう一発、足元に横たわる三人目にもきっちりとどめを刺してから、サーバールームまで進んだ。
「みんな大丈夫?このフロアはたぶんもう大丈夫だと思うけど、念のためしばらく用心しててね。あとごめん、日本政府ははったり。でも味方ってのは変わらないからいいよね」
ぽかんとする警備部隊数名に向かってそれだけ告げると、南東の隅の階段室から第七フロアに向かった。
「ゴ、ゴスロリ?」
隊員の一人が、かすれた声でつぶやいた。
もともと敵が一人少ないこともあり、第七フロアはすでに決着がついた後だった。教誨師が様子をうかがったときには、森田は両肘を撃ち抜いたテロリストの口の中に焼けた銃身を差し込んで尋問中だった。その様子を遠巻きに、解放された警備部隊の隊員たちが見守っている。
「どこのオーダーかを訊いてみたのですが、知らないの一点張りで。」
「口にそんなもの入れてたら、しゃべれるものもしゃべれないわよね」
にっこりと笑顔を浮かべて森田の銃を引かせると、そのままテロリストの顎を蹴り上げた。ワンピースの裾から黒いパニエが翻る。一九〇cmはあろうかという大男が、簡単に吹き飛ぶ。味方のはずの警備部隊の隊員たちも、思わず首を竦め、顔を顰める。
「お嬢様、それでは死んでしまいます。」
「うるさい。まだ生きてるし頑丈そうだし。あんた、この作戦の目的は何なの?ちゃっちゃと答えなさいっ」
サブマシンガンを突きつけつつ、教誨師が問う。
「あの、お嬢様?日本語、通じていないようですよ?」
「う、そうだった。えーと、あー、え?そんなこと急に言われても……。 What… What’s the aim of your operation? とかでいいの?め、面倒だから森田、あなたが訊きなさいっ……て、あ、そこのあなた、今笑ったでしょ、ごまかしてもダメ……」
いきなり話しかけられた警備部隊の一人が、首を必死で左右に振りつつ、胸の前で両手を広げて左右に振った。別の隊員が小声で、「お・嬢・様?」とつぶやき、よせばいいのに首をかしげた。また絡まれる。どうもお嬢様がいらっしゃると緊張感が失せる、と思いつつ、執事は尋問を再開した。
「おい、お前、だいぶ出血してるじゃないか。」
サーバー室に到達した吾妻ルカが背後から押野に話しかける。
「はい……。でも、これ……何とかしないといけないので。」
「分かった。少し待て。」
そういうと、吾妻はサーバー室に入る際に通過してきた小部屋に戻り、予備の作業用白衣を一つ手にして戻ってきた。
「それ以上体温を奪われるのはまずい。これを重ねて着ろ」
そう言うと、押野の肩に白衣をかけてやった。
「すいません。……もうだいぶ、意識の方も怪しい感じなんですが、あなたが来てくれて少し目が覚めました。」
「ちょっとマイク借りるぞ。……室長、聞こえているか?」
軽くキレたような口調だった。吾妻ルカは怒っているのかもしれない。
「はい、なんでしょう?」
「お前の部下、重傷だぞ。一〇分経ったら消防に連絡して、救急車を寄こしてもらえ。」
「一〇分?」
「そうだ。一〇分間でここを私が引き継ぐ。その後、何とかそっちまで押野を連れていくから、病院に連れて行くんだ。このままではまずい。」
「分かりました。ともかく一〇分間お待ちします。」
「それから、私の携帯に着信があったら、教えてくれ。秘書に預けたスーツの胸ポケットに入っているはずだ」
「あ、ありました、了解です。」
秘書の声が返る。
「さて、それじゃ始めるぞ。きついだろうが、頼む。」
「承知しました。」
「警察庁の吾妻だ。」
押野は何故か、マイクがオフになっているのを確認した上で、返事をした。
「押野です。あなたのことは、……多少ですが存じています。」
そして、数行のコマンドを入力した。警察庁のサーバーに収まっているはずの、吾妻の履歴等が含まれたファイルが展開される。
「くっくっく……。どうなってるんだこれは。警察庁のデータが丸見えじゃないか。」
「これは、……私の不適切な操作によるものですが、簡単に言うと、大手町経由でこの地下サーバ内の情報を閲覧しています。」
「何?大手町データセンターの情報じゃないのか?」
「今現在は……大手町にもコピーされたデータが存在しています……が、通常、どこかの端末から呼び出されるまでは、……活性化していないすべての情報は、この地下サーバ内にしか存在しません。」
「そうか、つまりこれが……」
「そうです……大手町データセンターの、本体です。大手町が短期記憶なら、ここは、あのデータセンターの長期記憶の格納庫です……。」
「なるほどな……。このからくりを設計した人物は分かるのか?」
「いえ。いろいろ当たってみましたが、それらしい人物が出てきても、実在しない……、偽名の者にしか行き当たりません。」
「……そうか。一つ訊くが、iゲート社設立時の資本は?」
「うちはもともと、帝都生命が生命保険のためのオンライン・システムを構築するために作った子会社でした。昭和五〇年頃の話です。」
「帝都生命か。一気に分かりやすい話になってきたな。」
吾妻がにやりと笑う。押野も、血の気の失せた顔で笑顔を作って見せた。
「そうなんです……。うちも、大手町データセンターも、同じ財閥系の企業ですが、さらに、それぞれが独立して帝都生命とつながっています。」
公安警察に籍を置く吾妻にしてみれば、これだけの情報で、このサーバーの存在理由は十分確認できた。帝都生命は、戦前には、軍務に就き出征する兵士たちの保険を取り扱っていた政府系保険会社だ。その帝都生命が出資する二つの企業が、極秘裏にこれだけ手の込んだセキュリティ・システムを構築していたのだ。だから、この地下サーバー・システムは、大手町と新宿とを結んで構築された、国策サーバー・システムと見なすことができる。
「隠された昭和史をもう少し探求したい気分だが、そろそろ作業に入ろう。」
「板井さんのプログラムを止めるのですか?」
「それは後回しだ。板井のプログラムは、情報を収集してどこかに転送するタイプのものか?」
「そうです……。現在は、まずいですね、大手町データセンターの、基幹システムにアクセスし始めたようです……早く、止めないと、新宿インビジブルが……。」
「ん?」
「あ、すみません、私、勝手にこの子にニックネームつけたんです……。」
「ふ。悪くないな、新宿インビジブルか。板井プログラムの転送先は確認できるか?」
「少しお待ちください。……このサーバですね。トレース自体は簡単ですが、転送を止めるのは……。」
「いや、これはしばらくこのまま転送させておくんだ。」
「え?それではシステムの情報がどんどん漏れて……。」
「だが、今転送を止めてしまえば、板井は作戦失敗を悟り、逃亡するだろう。それよりは、しばらく放置しておき、板井と転送先サーバの方を押さえてしまうんだ。」
なるほど、と押野はうなずいた。吾妻が人を動かせば、そのくらいのことはたやすいだろう。
「室長、そこにまだ、警視庁の者はいますか?」
押野の状態を告げるときと比べ、やや落ち着いた口調で吾妻はマイクに話しかけた。
「いらっしゃいます。」
「警視庁木沢ですが、何か。」
「今から言うサーバの所在地を特定し、押収してくれ。今ここで起こっているハッキングのデータ転送先になっている。」
「了解です。」
「それと、そこに板井もいる可能性が高い。室長から板井の写真はもらっているか?ひとまず押野氏への傷害容疑で押さえてしまえ。」
「はい。了解しました。ではいったんここを離れます。」
「よろしく頼む。なお、サーバの押収ができた時点で、速やかに自分の携帯に連絡を入れてください。」
「了解しました。」
吾妻は指示を出し終えると、椅子にしっかりと座り直した。
「さて、それじゃ残り五分、板井プログラムを無効化するぞ。」
「よろしくお願いします。」
「簡単に状況説明を頼む。」
「はい。まず今日の正午過ぎに、原因は現状で不明ですが、おそらく板井の操作により、このシステムの最上位コンピュータ、システム自体の管理を行うユニットですが、それが操作を受け付けなくなりました。それで、私と板井の二名で再起動作業を行ったのですが、その際に板井に襲われました。再起動のルーティン自体は開始されていましたので、板井はプログラムを仕込んだこのフラッシュメモリをそのソケットに挿してから、ここを出て行ったんだと思います。」
押野が二本あるフラッシュメモリーを示しながら説明する。身体的にはとうに限界を超えているはずだが、それでも気力を振り絞って話を続ける。
「その後、回線の遮断作業を行い、解析速度をある程度下げることができました。ただ、このシステムは大手町と専用線を介しても接続されていて、そちらにはゲート等はありませんので、完全な封鎖はできません。それで、吾妻さんがいらっしゃる直前までは、板井の設定した特殊権限を解除することができないか、作業を行っていました。プログラム自体を停止または削除しようとしても、私の権限ではそれができないからです。でも、手詰まりの状態で、解除はまだできていません……。」
「そうか……。このシステムのコントロールはどうなってる?コンソールのレイアウトからすると、……」
「はい、そうです。二系統のコンソールから同時に操作することを要求します。現在は私と、私が作ったダミーとでコントロールしていますが、基本的には、二人同時に操作することでのみコントロールできます。ダミーも、完全なコピーではダメで、システムには別ユーザーだと思わせる必要があります。」
「それはプログラム実行の許可についてもか?」
「はい。プログラムの実行の際に、二重に承認が採れているかを確認するステップが挿入されます。」
「となると、板井プログラムも、何らかのかたちで二重承認されているはず、ということでいいんだな?」
あ、と押野が何かに気づいた表情になった。吾妻も頷く。
「たとえ、板井の設定した特殊権限自体をキャンセルできなくても、板井プログラムを承認したユーザーが二人揃えば、プログラムの停止や削除は可能なんじゃないか?」
押野が無言で、手にしていた二つのメモリーをソケットに挿し直し、解析し始めた。
「吾妻さんのコンソールの方のメモリは、プログラム自体は入っていませんね。プログラム実行許可のためのダミー・ユーザ情報を読ませるための小さなファイルがあります。で、こっちのメモリには、圧縮状態の板井プログラムのファイルと、これは……ああ、私のIDとパスワードですね。いつの間に……」
「そのダミーの方の情報は解析できるか?」
「……解けました。いや、これ、ダミーじゃないです。板井さん自身のIDとパスですね。」
「なんだ、お前たち、こっそりお互いのパスをのぞき見していた、というわけか。」
「ちょっと待ってください……。ちょっと悔しいですが、そうみたいですね。本来、このシステムのユーザは敵対せず連携しているはずですから、ユーザ同士の情報の隔離はそれほど厳しくないんです。管理者権限で少しいじれば閲覧できるくらいには。」
「よし、それじゃ、お前のダミーをログオフさせて、押野・板井で再ログオンするぞ。」
「了解しました。」
押野が板井のIDとパスワードを読み上げる。吾妻がそれを入力し、二人同時にログオンする。その瞬間、吾妻のコンソール前の画面上に予期せぬメッセージが表示された。
「くそっ、やられたな。」
「どうかしましたか。」
板井は、自分のIDとパスワードでシステムにログオンした際に、そのアラートをどこかに送信するように細工していたらしい。
「おそらくだが、板井に板井のIDでログオンしたことが伝わった。たぶんこれで、板井は逃走を開始するだろう。……警視庁の連中が間に合ってくれればいいんだが」
吾妻は念のため、サーバ管理室に確認した。
「警視庁からの電話はまだか?」
「はい、まだ連絡はありません。」
「……そうか、分かった。これから、押野さんをそちらへ連れて行く。そろそろ消防へ連絡して、救急車を寄こしてもらってくれ。」
吾妻はマイクに向かってそう言うと、戦いは終わった、という様子で、深々と座り直した。
「それじゃ、板井プログラム、停止後削除するぞ。」
「はい。面倒なおみやげをさらに残すプログラムでないといいんですけれど。」
「そうだな、その作業は、私がやっておこう。洗浄確認の手順だけ、教えてもらえるか。」
「はい。手順はすべて、このファイルに記されています。」
「了解だ。」
二人は、大手町データセンター内基幹システムへのアタックを続けていたプログラムを停止させ、削除を完了した。その後、押野と押野ダミーでのコントロールに再度切り替えた後、地下冷却水タンクへと向かった。
「吾妻さん、……何歳なんですか?」
押野が、作業用白衣を脱ぎ捨てた吾妻ルカに向かって訊いた。
「それは、思ったより若く見えるということなの?それとも歳をとっているように見えるってことなの?答えようによっては、このまま冷却水タンクに沈んでもらうけど?」
ふだんの口調に戻った吾妻ルカが、裸の腰に手を当てて物騒なことを口にする。
「いえ、……もう眠くて何だかよく分かりませんが、とても……きれいに見えました。」
吾妻はにっこり頬笑むと、失神寸前の押野にボンベをくわえさせて地下冷却水タンクを泳ぎ切り、秘書室のメンバーに押野を託した後、再びサーバー室に戻った。
その日、地下サーバーの復旧作業をボランティアで済ませた吾妻ルカがiゲート社から撤収したのは、すでに秋の日が西にだいぶ傾いた頃であった。帰り際、秘書の一人にかなり熱っぽく見つめられたことを思い返して少しにやつきながら、センターの時田に連絡を入れようと携帯電話を取り出すと、その秘書のものと思われる連絡先のメモが挟まっていた。せっかく全裸を披露したのだ。多少の見返りはあってもいい。吾妻ルカは、極端に有能なくせに、どこまで行ってもどこか下世話な人種だった。秘書のメモを片手に、さらににやにやを増長させていると、時田の方から着信があった。
「ルカねえさん、連絡遅くなったけど、そっちは片付いた?」
何故かなれなれしい口調の時田に、だがそれが当たり前だという反応で吾妻ルカが応じる。
「そうね。優秀な助手がいたから、比較的あっさりだったかな。うちにスカウトしたいくらいの超ハッカーだったわ。いや、むしろセンター向きかも。コネが続けば紹介してやってもいいけれど。そっちはどうなった?」
「ケイと教誨師ちゃんとで七人中六人までを始末。七人目は尋問の上、機動隊に警備部隊が引き渡した。ケイたちはもう、とっとと逃亡中。」
「何か情報はとれた?」
「めぼしいのはなし。ただ、第六・第七フロアを占拠後はとにかく連絡があるまで、警備部隊の他は誰もサーバールームに近づけるな、がオーダーだったらしい。楽勝で高額、退路も確保されてたから請け負ったそうだ。」
「ふん……。いい情報じゃない。誰も近づけるな、か。なるほどね」
「何一人で納得してるの?」
「ふふん。これは機密事項なので、一般市民には教えられないな。」
「あっそ。了解。まあ、ケイに連絡することがあったら、よろしく言っといてくれ。今回だいぶむっとしてたから。お嬢様も巻き込んじゃったし。」
「やっぱり?相変わらずあいつ怖いんだよなあ。年上女に何かトラウマでもあるのかしら」
後頭部を空いている方の手でかきながら、吾妻ルカは暮れていく新宿の空を見上げた。耳元で、そのトラウマってねえさん自身のことじゃないのと時田が言っていた気がしたが、それじゃね、の一言で通話を終えた。そして、押野の搬送された病院に向かうために、地下鉄の駅に降りていった。