父が死んで半年経ちますが、私はまだ父のスマートフォンを毎晩充電しています
父が死んで半年になる。
それでも私は、毎晩父のスマートフォンを充電している。
父が使っていた黒いスマートフォンは、今も居間の棚の上に置いてある。夕食の片づけが終わるころになると、私は何となく画面をつけて、残っている電池の数字を見る。
三十七パーセント。
昨日は五十二パーセントだった。
誰も使っていないのに、電池は少しずつ減っていく。
私は充電器を差す。
小さく音がして、画面の右上に雷のような印が出る。それを確認してから、自分の部屋へ戻る。
それが半年続いていた。
「まだ解約してなかったの?」
姉がそう言ったのは、父の四十九日が終わってしばらくしてからだった。
東京で暮らしている姉は、父が亡くなってから何度か実家へ帰ってきた。その日は残っていた書類を整理するために来ていて、居間のテーブルには父名義の契約書や、保険会社から届いた封筒が積まれていた。
「携帯会社にも連絡しないといけないんじゃない? 毎月お金かかってるでしょう。お父さんが使うわけでもないんだから、そろそろ止めた方がいいと思うけど」
「分かってる。今月中にはやるよ」
「先月もそう言ってなかった?」
「言ったかもしれない。でも番号を止めると、いろいろ確認できなくなるかもしれないだろ。まだ登録してあるところも全部分からないし」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
姉もたぶん分かっていた。
けれど、それ以上は言わなかった。
「じゃあ、必要なものだけ確認しておいてね。ずっとそのままにしておくわけにもいかないでしょうし。私もできるところは手伝うから、何かあったら送って」
「うん。そうする」
姉は父のスマートフォンを一度見て、それから書類へ目を戻した。
私は画面を伏せた。
どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
父のスマートフォンには、毎日のように通知が来た。
『本日限定クーポンのお知らせ』
『ポイントの有効期限が近づいています』
『今月のご利用料金が確定しました』
父が死んだことを知らない会社は多かった。
当たり前だ。
人が一人死んだからといって、その人が登録していたすべての会社へ、死亡の知らせが届くわけではない。
父のいない世界で、父あての広告だけが増えていく。
『お客様におすすめの商品があります』
ないよ、と私は思った。
もう何もいらない。
それでも通知は来る。
父は釣りが好きだったから、釣具屋からのお知らせも多かった。
『秋の新作ロッド入荷』
『今週末、店頭セール開催』
父なら見に行ったかもしれない。
買わなくても、新しい竿を手に取って、値段を見て、「高いなあ」と笑ったかもしれない。
父は高い物を見つけると、よく私にその値段を言った。
「この竿、十万するぞ。魚を買った方が安いな」
「じゃあ買わなきゃいいじゃん」
「そういう問題じゃないんだよ。釣るところが楽しいんだから」
「だったら十万でもいいんじゃない?」
「いや、それは高い」
毎回そんな話をした。
何度も聞いたから、今でも声を思い出せる。
けれど、声は少しずつ変わってきている気がした。
本当の父の声だったのか、それとも私が頭の中で作り直している声なのか、時々分からなくなる。
写真より先に、声の方から消えていくのかもしれない。
そう考えた夜は、いつもより長くスマートフォンを充電した。
父が亡くなったのは、春だった。
朝、母から電話が来た。
父が倒れた。
病院へ来てほしい。
それだけだった。
前の日まで普通だった。
夕食も食べた。
風呂にも入った。
母とテレビを見ながら、途中で寝てしまったらしい。
そのまま夜中に具合が悪くなって、救急車で運ばれた。
私が病院へ着いた時には、父はもう話せなかった。
手だけが温かかった。
その日の夜、家に帰ると、父のスマートフォンが食卓に置かれていた。
病院へ運ばれる時、母が父の上着や財布と一緒に持っていったものだった。
「これ、どうしよう」
母が言った。
「とりあえず置いとけばいいんじゃない。今は何もしなくていいよ」
「そうね。今日はもう疲れたわ。明日になったら、いろいろ考えないといけないんでしょうけど、今日はもう頭が動かない」
母は椅子に座ったまま、しばらく父のスマートフォンを見ていた。
私は画面をつけた。
二十一パーセントだった。
何も考えず、充電器を差した。
翌朝には百パーセントになっていた。
父は死んだのに、父のスマートフォンだけは満タンになっていた。
半年の間に、父の物はかなり減った。
服は母が親せきや古着回収へ出した。
釣り道具は父の友人が引き取った。
本棚も整理した。
冷蔵庫の奥に残っていた父の好きだった辛い漬物も、賞味期限が切れて捨てた。
父の歯ブラシもない。
玄関に並んでいた父の靴もない。
それなのにスマートフォンだけは、今も毎晩充電している。
自分でも変だと思う。
ある日、母に聞かれた。
「ねえ。あれ、まだ使ってるの?」
「何を?」
「お父さんのスマホよ。毎晩、充電してるでしょう」
見られていたらしい。
「使ってはいないよ。ただ、電池が減るから充電してるだけ」
「使わないなら、減ってもいいんじゃない?」
母は責めるような言い方をしなかった。
だから余計に答えづらかった。
「ゼロになるのが、なんか嫌なんだよ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
半年間、理由を考えたことがなかった。
母は少し黙った。
「私はね、お父さんの枕をまだ捨てられないの。もう使わないし、場所も取るから捨てればいいんだけど、何となくそのままにしてる」
「似たようなものかな」
「たぶんね。でも、私の枕は電気代かからないけど」
「スマホも大した額じゃないよ」
「そういう意味じゃないわよ」
母は笑った。
私も少し笑った。
それ以上は話さなかった。
九月の終わり。
仕事から帰ると、父のスマートフォンの画面が光っていた。
また広告かと思った。
けれど通知には、私の名前が表示されていた。
『明日は俊介の誕生日です』
一瞬、意味が分からなかった。
俊介は私だ。
父のカレンダーに、私の誕生日が登録されていた。
それだけだった。
ただの予定通知。
父が設定したものなのか、連絡先から自動で入ったものなのか、それさえ分からない。
それなのに私は、その場から動けなくなった。
明日は私の二十六歳の誕生日だった。
去年、父は何を言っただろう。
たしか、夕食の時に言われた。
「もう二十五か。俺が二十五のころには、お前が生まれてたんだぞ」
「それ毎年言ってない?」
「去年は二十四だったろ」
「そういう意味じゃなくて」
「今年は何か欲しい物あるか?」
「別にない」
「じゃあケーキでいいな」
「なんでケーキは確定なの」
「誕生日だからだろ」
たぶん、そんな会話だった。
私はスマートフォンを手に取った。
父の名前を押せば、父の連絡先が出る。
電話番号も残っている。
メッセージのやり取りも残っている。
最後のメッセージは、父からだった。
『帰り牛乳買ってきて』
私の返事。
『了解』
それが最後だった。
愛しているでもなく、ありがとうでもなく、牛乳だった。
父と最後に交わした言葉が牛乳なのは、少し情けない。
でも、父らしい気もした。
死ぬことを知らなければ、人はそんなものなのかもしれない。
最後の言葉が最後だと知っていたら、誰だって少しは立派なことを言う。
知らないから、
『牛乳買ってきて』
で終わる。
私はそのやり取りを何度か読み返した。
それからスマートフォンを棚へ戻した。
電池は十八パーセント。
いつもなら、もう充電する時間だった。
「明日、何食べたい?」
母が台所から聞いた。
「何でもいいよ」
「誕生日なんだから、何でもいいは禁止。去年もお父さんに同じこと言ってたでしょう」
「じゃあ、すき焼き」
「急に高いもの言うわね」
「何でもいいって言ったら怒るし、言ったら言ったで文句言うじゃん」
「文句じゃありません。感想です」
母の声が少し笑っていた。
「ケーキは?」
「なくてもいい」
「私は食べたいから買います」
「じゃあ聞かなくていいじゃん」
「あなたの誕生日を理由に食べることが大事なのよ」
私は笑った。
父も似たようなことを言いそうだった。
棚の上では、スマートフォンの画面が消えていた。
その夜。
寝る前に、私は父のスマートフォンをもう一度見た。
十二パーセント。
充電器は、いつもの場所にある。
手を伸ばした。
ケーブルを持った。
差し込み口の少し手前まで持っていった。
そこで止めた。
十二パーセントなら、朝までは持つかもしれない。
持たないかもしれない。
初めて、それがどちらでもいいと思った。
私はケーブルを丸めて、棚の横に置いた。
スマートフォンはそのままにした。
翌朝。
二十六歳になった。
起きて居間へ行くと、母がすき焼き用の肉を冷蔵庫に入れていた。
「おはよう。誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「今日は早く帰ってきてね。せっかく高い肉を買ったんだから、残業なんてしたら私が全部食べます」
「それは困るから帰るよ」
私は棚を見た。
父のスマートフォンは、黒い画面のまま置かれていた。
電源ボタンを押した。
反応しなかった。
電池が切れていた。
私はしばらく、その黒い画面に映る自分の顔を見た。
充電器はすぐ横にある。
差せば、またつく。
父の写真も、メッセージも、電話番号も消えたわけではない。
私は充電器を手に取った。
それから、棚の引き出しを開けた。
きれいに丸めて、その中へしまった。
「俊介、何してるの? 遅れるわよ」
「今行く」
玄関で靴を履く。
外はよく晴れていた。
家を出る前に振り返ると、朝の光が居間まで入っていた。
父のスマートフォンの黒い画面にも、小さく窓の光が映っていた。
私はそのまま、玄関のドアを閉めた。




