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「婚約破棄ですか?ありがとうございます。では連帯保証の解除書類にご署名を」〜前世で住宅ローン地獄を経験した令嬢は、王家の借金から全力で逃げたい〜

作者: アウラ

「セレスティア・ホワイトフィールド。本日をもって、我々の婚約を破棄する」


王太子アルベルトの声が、煌びやかな舞踏会場に響き渡った。


シャンデリアの光を浴びて黄金に輝く彼の髪。自信に満ちた碧眼。まるで自分こそが正義であると言わんばかりの、傲慢な笑み。


(……やっと来た)


私は内心で深く、深くため息をついた。


待っていた。この瞬間を、ずっと待っていたのだ。


「私の心はすでにリリアーナのもの。彼女こそが私の真実の愛だ。お前のような冷たい女には、これ以上付き合いきれん」


王太子の隣で、蜂蜜色の巻き毛を揺らした少女が涙ぐんでいる。男爵令嬢リリアーナ・メイフィールド。大きな翠の瞳を潤ませ、震える声で「わたくし、セレスティア様を傷つけたいわけでは……」と呟く姿は、まさに可憐な被害者そのもの。


(いやいやいや。その演技、前世で見た昼ドラより下手くそなんだが)


周囲の貴族たちがざわめく。同情の視線、好奇の視線、そして——ほんの少しの嘲笑。


「侯爵令嬢ともあろう方が、婚約者の心も掴めなかったのか」

「やはり『氷の薔薇』などと呼ばれる女は情がないのだ」

「可哀想に……いえ、自業自得かしら」


ひそひそと交わされる声が耳に届く。


ええ、ええ。どうぞ好きなだけ囁いてください。


私は微笑んだ。


氷のように、冷たく、美しく——そして、心の底から安堵しながら。


「承知いたしました、殿下」


「……は?」


王太子の顔が、一瞬固まった。


「い、今なんと……」


「承知いたしました、と申し上げました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」


私は深々と、完璧な角度でカーテシーを取った。貴族令嬢として十五年以上叩き込まれた礼儀作法。こういう時にこそ役に立つものだ。


「お、お待ちなさい!」


リリアーナが甲高い声を上げる。


「あなた、悔しくないの⁉ 殿下に捨てられたのよ⁉」


(悔しい? むしろありがとうございますなんだけど?)


前世の記憶が蘇る。


住宅ローン。三十五年。変動金利。連帯保証人。


あの地獄のような日々。毎月届く返済通知書。どれだけ働いても減らない残債。結婚相手の借金を背負わされ、離婚しても保証人からは逃れられず、最後は過労で——。


(二度とあんな思いはしない)


今世で目覚めた時、私は誓った。


借金には近づかない。連帯保証人にはならない。そして——王家の財政難の尻拭いなど、絶対にしない。


「リリアーナ様」


私は穏やかに微笑んだ。


「悔しいかどうかは、人それぞれですわ。私にとって殿下との婚約は……そうですわね、『重荷』でしたもの」


「なっ……!」


「重荷だと⁉」王太子が声を荒げる。「この私との婚約が重荷だと、そう言うのか⁉」


「ええ」


私は即答した。


「王家の財政を立て直すための婚約でしたもの。殿下もご存知でしょう? 私の持参金がなければ、王家は——」


「黙れ!」


王太子の顔が朱に染まる。図星、というやつだ。


周囲のざわめきが大きくなる。王家の財政難。それは宮廷では公然の秘密だったが、こうして明言されるのは初めてのこと。


「お金の話なんて下品ですわ!」


リリアーナが叫ぶ。


(出た。この世界のテンプレ台詞)


「下品かどうかは、立場によりますわね」


私は懐に手を入れた。


今日という日のために、ずっと準備してきた。婚約した日から五年。全ての支出を記録し、全ての契約書を保管し、全ての法律条文を暗記した。


前世で住宅ローンに殺された私だからこそ、できた準備。


「ところで殿下」


私は一枚の書類を取り出した。


「婚約破棄、誠にありがとうございます。では早速、こちらにご署名をいただけますか?」


「……何だ、それは」


「『婚約解消に伴う財産分離契約書』でございます」


私は微笑んだ。


氷のように冷たく。


そして——前世の住宅ローン地獄を生き延びた者だけが持ちうる、債権者の笑みを浮かべて。


「殿下がお住まいの離宮の改修費用、三千万ゴルド。私の持参金から支出しておりますの。——返済方法についてご相談させていただきたく存じます」



「さ、三千万ゴルドだと……⁉」


王太子の顔から血の気が引いていく。


(あ、この顔。前世で何度も見た)


住宅ローンの返済が滞った時の債務者の顔。督促状が届いた時の顔。「利息が雪だるま式に膨らんでいます」と告げられた時の顔。


私自身もあの顔をしていた。だからよく分かる。


今、王太子は理解し始めている。自分が何をしてしまったのかを。


「な、何を言っている。あの離宮は王家のものだ!」


「建物はそうですわね。ですが改修費用は別ですの」


私は書類の該当部分を指さした。


「五年前の婚約時に、殿下の離宮があまりに住みにくいとお嘆きでしたでしょう? 水回りが古い、冬は隙間風で眠れない、と」


「そ、それは……」


「私、お優しいものですから」


内心で(お人好しのバカだったから)と付け加えつつ。


「持参金の一部を使って、全面改修いたしましたの。最新式の給湯設備、二重窓、床暖房。殿下のお気に入りの浴室なんて、特注のタイルを使いましたわよね」


「あ、あれは贈り物だろう!」


「いいえ」


私は別の書類を取り出した。


「こちらが当時の契約書です。『婚約中の便宜供与に関する覚書』。『婚姻成立を条件として、改修費用の返還義務を免除する』と明記されております」


王太子の目が点になる。


「婚姻が成立しなかった場合——つまり婚約が解消された場合は、全額返還していただきますわ」


「そ、そんな書類に署名した覚えは——」


「こちらです。殿下のご署名とご捺印」


私は書類を広げて見せた。王太子の筆跡。王太子の印章。間違いようがない。


「い、いつの間に……」


「五年前ですわ。改修工事の発注時に、ご一緒に署名いただいたでしょう? 『面倒だから任せる』とおっしゃって、中身をご確認にならなかったのは殿下ですわ」


(読まずに契約書に署名するな。前世でも今世でも、それは常識だろう)


周囲がしん、と静まり返る。


貴族たちの視線が変わった。同情や嘲笑ではない。驚愕と——ほんの少しの敬意。


「さらに」


私は三枚目の書類を取り出した。


「この国の民法第八百四十七条をご存知ですか?」


「知らん」


「『婚約の一方的解消を申し出た者は、相手方に生じた損害を賠償する義務を負う』。婚約解消の申し出は殿下からですわね?」


「……っ」


「つまり、私がこの婚約のために費やした全ての費用を、殿下にご請求できますの」


私は微笑んだ。


「衣装代、社交費、婚礼準備費用、そして先程の改修費。合計で——」


計算書を読み上げる。


「四千二百万ゴルドになります」


会場がどよめいた。


「よ、四千二百万……!」


「前世の換算で約四億二千万円ですわね」


「は?」


「いえ、何でもありませんわ」


(危ない。つい口が滑った)


「で、殿下」リリアーナが王太子の腕にすがりついた。「こんな女の戯言など無視して——」


「戯言?」


私は彼女をまっすぐに見つめた。


「リリアーナ様。あなた、算術はお得意?」


「え?」


「四千二百万ゴルド。王太子殿下の年間予算が三百万ゴルドですから、返済に何年かかるか計算してみてくださいな」


「……」


「利息を除いても十四年。でも私、年利十五パーセントの複利でお貸ししますの。返済計画によっては、三十年でも終わらないかもしれませんわね」


住宅ローンの恐ろしさは、利息にある。元本がなかなか減らないあの絶望感は、経験した者にしか分からない。


「そ、そんな……」


リリアーナの顔が引きつる。


「ご心配なく、リリアーナ様」


私は天使のような笑みを浮かべた。


「殿下と結婚されれば、あなたも連帯保証人になれますわ。夫婦の借金は共有財産ですもの。素敵でしょう?」


「——っ⁉」


リリアーナの手が、王太子の腕から離れた。


ほんの少しだけ。でも確実に。


(あ、距離取った)


私は知っている。この手の女が「借金」という単語に示す反応を。


「で、殿下……」リリアーナの声が震えている。「この、この方の言っていることは本当なの……?」


「リリアーナ、落ち着け。大丈夫だ。王家には——」


「王家の財政状況」


私は遮った。


「私の父が財務大臣ですの。詳しい数字、お聞きになりたいですか?」


王太子の顔が、蒼白から土気色に変わった。


父上、ありがとう。毎晩食卓で愚痴のように聞かされた王家の収支報告が、こんなところで役に立つとは。


「ち、父上に言いつけてやる! 王に!」


「どうぞ」


私は頷いた。


「でも陛下が返済を肩代わりなさるなら、王家の財政はますます傾きますわね。父が大臣として黙っているかどうか……私には分かりかねます」


沈黙が落ちた。


重く、冷たい沈黙。


王太子は私を睨みつけていた。侮蔑と恐怖と困惑が入り混じった、情けない顔で。


「……お前」


「はい?」


「お前、最初から——」


「ええ」


私は微笑んだ。


「『婚約破棄されたらこうしよう』と、婚約初日から準備しておりましたの。だって殿下、私のことなど愛してらっしゃらないでしょう? いつかこうなると分かっておりましたもの」


(むしろ、こうなってほしかった)


連帯保証人から解放される日を、ずっと夢見ていた。


「さあ、殿下」


私は契約書を差し出した。


「ご署名を。一括払いが難しければ分割でも構いませんわ。返済計画書は後日お届けいたします」


王太子の手が震えている。


リリアーナはもう、彼に触れようともしていない。


舞踏会場は、水を打ったように静まり返っていた。



結局、王太子は署名した。


するしかなかった。


衆人環視の中、私が読み上げた契約書と法律条文に、彼は一言も反論できなかったのだから。


「で、では分割で……」


「承知いたしました。毎月の返済額と利息の計算書は、後日お届けいたしますわね」


私は書類を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。


「それでは、殿下。リリアーナ様」


最後の礼を取る。完璧な、完璧なカーテシー。


「お二人のお幸せを、心よりお祈り申し上げます」


(借金四千万ゴルドを背負ったまま幸せになれるならね)


「どうぞお幸せに。——私には、もう関係のないことですけれど」


振り返らずに歩き出す。


背後で誰かが何か叫んでいる気がしたが、聞こえなかったことにした。


会場を出る。廊下を歩く。角を曲がり、人目がなくなったところで——。


「お嬢様」


「セバスチャン」


執事長が壁際に控えていた。銀髪を撫でつけた初老の紳士。完璧な無表情だが、灰色の瞳の奥にかすかな笑みが見える。


「お見事でございました」


「……ありがとう」


私は壁に背を預けた。


「……勝った」


「ええ。完勝でございます」


「勝ったよ、セバスチャン」


私は天井を仰いだ。


シャンデリアの光が滲む。涙が出そうだった。喜びで。解放感で。


「連帯保証人から、解放された……!」


「お嬢様、お声が」


「いいの、もう誰もいないでしょ」


敬語が崩れる。でもセバスチャンの前だからいい。彼は私の『内と外』を知っている数少ない人間だ。


「やった……やったぁ……」


「お嬢様」


「ローン地獄からの解放……これで老後の心配が……いや待って、まだ十九歳だった」


「お嬢様、深呼吸を」


「セバスチャン」


私は執事長を見上げた。


「私、自由になった」


「——ええ」


セバスチャンが微笑んだ。


本当に珍しいことだ。この鉄面皮の執事長が、こんな柔らかい顔をするなんて。


「お嬢様は最初から、このために準備なさっていた。老いぼれながら、感服いたしました」


「あなたの助けがなければ無理だったわ。契約書の法的チェック、全部やってくれたでしょう」


「恐れ入ります」


「——お嬢様!」


廊下の向こうから、栗色の髪を揺らした少女が駆けてくる。専属侍女のルシア。


「見てました、全部見てました! お嬢様すごい! 王太子の顔ったら!」


「ルシア、廊下で走らない」


「だって! だって!」


ルシアは私の手を取った。琥珀色の瞳がきらきらと輝いている。


「あのリリアーナって女、最後すっごい引いてましたね! 『連帯保証人』って聞いた瞬間!」


「ふふ。そうね」


「お嬢様が『連帯保証人』って単語に過敏なの、前から気になってたんですけど——」


「気にしないで。前世のトラウマだから」


「……お嬢様、今なんて」


「何でもないわ」


私は誤魔化すように笑った。


ルシアは薄々気づいている。私が時々、この世界の人間が知らないはずのことを口にすることを。でも彼女は追及しない。『お嬢様がお嬢様であることに変わりはない』と言ってくれた、優しい幼馴染だから。


「さあ、帰りましょう」


私は夜空を見上げた。


星が瞬いている。前世では見えなかった、都会の空では見えなかった、満天の星。


「自分のために、お金を使いたいわ。誰のためでもなく、私のために」


婚約者のための離宮改修じゃない。


王家の体面を保つための社交費じゃない。


私が、私のために、私の意思で使うお金。


「学校を作りたいの。女性のための職業訓練学校」


「学校……でございますか」


「この国、女性が自立する手段が少なすぎるわ。結婚以外の選択肢がないなんて——」


(前世の私みたいに、誰かの借金を背負わされる人生なんて、他の女性には歩んでほしくない)


「——素晴らしいお考えかと」


セバスチャンが深々と頭を下げた。


馬車が走り出す。


窓の外、王城が遠ざかっていく。あの煌びやかな舞踏会場が、傲慢な王太子が、計算高い男爵令嬢が、全てが——。


「さようなら」


私は小さく呟いた。


「私の『負債』だった日々」



一週間後。


私は領地の屋敷で、優雅に紅茶を楽しんでいた。


「お嬢様、王家からの使者が」


「……来たわね」


予想通り。いや、むしろ遅いくらいだ。


応接間に現れたのは、恰幅の良い中年の文官だった。額に脂汗を浮かべ、目は泳ぎ、手は書類を持ったまま小刻みに震えている。


(あー、この感じ。銀行の債権回収部門から呼び出し食らった時の私だ)


「ホワイトフィールド侯爵令嬢様。本日は王太子殿下のご名代として参りました」


「わざわざご足労いただきまして。それで、何のご用件かしら」


分かっているけれど聞く。これが債権者の余裕というものだ。


「そ、その……返済の件でございまして」


「ええ」


「利息を……その……下げていただくわけには」


「あら」


私は紅茶を一口含んだ。


ゆっくりと。優雅に。相手を焦らすように。


「年利十五パーセントは、民間の融資としては標準的な利率ですわ。むしろ良心的と言ってもよろしいかと」


「し、しかし複利計算では——」


「複利が嫌でしたら、早く返済なされば良いのです」


私は微笑んだ。


「元金四千二百万ゴルド。一年目の利息は六百三十万ゴルド。合計四千八百三十万ゴルドが一年後の残高。二年目は——」


「お、お待ちください! そんな額、殿下のご予算では」


「存じております」


私は紅茶のカップを置いた。


「だから分割払いをご提案したのですわ。毎月五十万ゴルドずつ返済いただければ、元金は徐々に減っていきます。……利息より少ない返済では、残高が増えていきますけれど」


使者の顔が引きつる。


(いやまあ、毎月五十万ゴルドでも足りないんだけどね。利息だけで月五十二万五千ゴルド発生するし)


これが複利の恐ろしさ。返済額が利息を下回れば、借金は永遠に減らない。むしろ増える。


「ホワイトフィールド様……どうか、どうかお慈悲を」


「私はもう王家とは他人ですわ」


私は穏やかに告げた。


「ビジネスライクに参りましょう。感情で利率を変えるなど、金融の基本に反しますもの」


使者が蒼白な顔で去った後、私は窓辺に立った。


「ルシア。リリアーナ・メイフィールドの近況は?」


「母上様が調査済みですわ。王太子殿下との婚約は——まだ正式発表されていませんわね。殿下が『準備が整ってから』と言っているとか」


「お金がないもんね」


「それで、リリアーナ様は最近、別の貴族の方々の社交会に頻繁に出席されているとか。どうやら『真実の愛』の相手を探しているようだと」


私は笑った。


声を出して、心の底から。


「借金のある男なんて願い下げってわけね。……因果応報だわ」



三ヶ月後。


職業訓練学校『アウローラ学院』は、予想以上の反響を呼んでいた。


「お嬢様、今月の入学希望者、百二十名を超えました」


「キャパ超えてるわね。校舎の増築、急がないと」


領地内の女性たちが殺到した。貴族の令嬢から、商家の娘、農家の次女三女まで。『手に職をつけたい』『自分で稼げるようになりたい』という切実な願いを持った女性たち。


(分かる。自分で稼げないって、本当に不安だもんね)


「本日の視察の方、お見えになりました」


「視察? 予約入ってた?」


「昨日急遽。隣国シュヴァルツェン公爵領の、公爵様ご本人です」


「……え?」


応接間に現れた人物を見て、私は息を呑んだ。


漆黒の髪。深い紫紺の瞳。長身で引き締まった体躯。


影のある美貌、というのはこういう人のことを言うのだろう。王太子の「王子様ルックス」とは対極の、静謐で鋭い美しさ。


(いかん。見惚れてる場合じゃない)


「レオンハルト・フォン・シュヴァルツェン公爵です。急な訪問をお許しください」


「いえ、こちらこそ不作法で申し訳ありません。セレスティア・ホワイトフィールドと申します」


社交辞令を交わしながら、私は相手を観察した。


質素だが仕立ての良い衣服。無駄な装飾がない。合理主義者、と見た。


「噂は聞いていました」


公爵が口を開いた。


「王太子との婚約破棄。そして四千万ゴルドの返還請求」


「お恥ずかしい限りで」


「いえ。見事だと思いました」


「……は?」


「契約書の準備。法律条文の引用。利息計算の正確さ。——あれだけの舞踏会場で、冷静に全てを実行された」


公爵の紫紺の瞳が、まっすぐに私を見た。


「正直に申し上げて、興味を持ちました。あなたに」


(ちょ、待って。いきなり何の告白?)


「財務の才能です」


「あ、そっち」


「?」


「いえ、何でもありません」


私は咳払いして姿勢を正した。


「この学校も拝見しました。複式簿記の授業カリキュラム、素晴らしい。どこで学ばれた?」


「……独学です」


嘘ではない。前世で嫌というほど勉強させられただけ。


「セレスティア嬢。単刀直入に申し上げます」


「はい」


「我がシュヴァルツェン公爵領の、財務顧問になっていただけませんか」


「——は?」


財務顧問? 隣国の公爵領の?


「お言葉は光栄ですが、すぐにはお返事できません」


「もちろんです。条件も提示していない」


「条件、ですか」


「顧問料は前払い。経費は別途支給。成功報酬として、財政改善利益の十パーセントを——」


「お待ちください」


私は遮った。


「成功報酬の計算基準は何ですか? 改善前後の収支比較? それとも資産増加額?」


「……」


公爵が沈黙した。


そして——笑った。


初めて見る表情だった。冷静な仮面の下から覗いた、人間らしい笑み。


「君は本当に令嬢か?」


「前世では住宅ローンに追われる会社員でしたの」


「……何?」


「冗談ですわ」


(冗談じゃないんだよなぁ……)


「顧問料は前払い。経費は実費精算。成功報酬は純利益増加分の十パーセントでよろしいかしら? 契約期間は一年、更新条件は別途協議」


「……詳しいな」


「契約書は命ですもの」


「いいだろう」


公爵が頷いた。


「契約書は私の法務官が作成する。——君のような人材、逃がす気はない」


「交渉上手でいらっしゃいますわね」


「君には負ける」


公爵が去った後、私はソファに崩れ落ちた。


「…………何これ」


「お嬢様、顔が赤いです」


「うるさいルシア」


「公爵様、素敵な方でしたね。『君のような人材、逃がす気はない』ですって。まるで口説き文句——」


「ビジネスの話よ! ビジネス!」


私は頬を叩いた。


「仕事よ仕事。恋愛より老後の資産形成。分かってるでしょ、私」


……でも、あの紫紺の瞳が、脳裏から離れない。


『君は本当に令嬢か?』


まるで——本当の私を見抜こうとするような、まっすぐな問いかけ。


「困ったなぁ……」


新しい厄介ごとの予感がする。


でも、それは——前世とは違って、少しだけワクワクする種類の厄介ごとだった。



さらに三ヶ月後。


「お嬢様、朗報です。リリアーナ・メイフィールド嬢が、正式に殿下との関係を絶たれたそうです」


「理由は?」


「『お互いの将来のため』とのことですが——」


「『貧乏王子なんて願い下げ』でしょ」


「お嬢様の仰る通りかと」


私は紅茶を啜った。


「それで、リリアーナ嬢は?」


「他の貴族方の社交会を転々としているようですが……最近は招待されることも減ったとか。『あの婚約破棄騒動の女か』と敬遠されるようで」


「因果応報ね」


同情はない。


結局、誰よりもお金と地位に執着していたのは彼女自身だった。


「王太子は?」


「借金の返済に追われておいでです。遅延なくお支払いいただいておりますが——元金があまり減らないようで」


「そりゃあね。利息分返すので精一杯でしょうから。三十年ローンの気分を味わってもらいましょう」


「お嬢様、笑顔がこわいです」


「ルシア、失礼ね」


「さて、今日の予定は?」


「午前中は学院の授業視察。午後はシュヴァルツェン公爵領との財務会議です」


「……レオンハルト公爵様がお見えに?」


「お嬢様、顔」


「何も言ってないでしょ」


「言ってないけど顔に出てます」


私は咳払いした。


公爵との仕事は順調だった。財務顧問として公爵領の帳簿を見直し、無駄を削り、収益を上げる。三ヶ月で目に見える成果が出始めていた。


そして——会議の後、お茶に誘われるようになった。


最初は仕事の話だけだった。それがいつの間にか、「好きな本は」「休日は何をしている」という話になり——。


『君といると、時間を忘れる』


先日、公爵がそう言った。


私は窓の外を見た。


青い空。白い雲。前世では見る余裕もなかった、美しい景色。


「……私、幸せかも」


呟いてみる。


借金の心配がない。自分の仕事がある。認めてくれる人がいる。


(そして——待っていてくれる人が、いる)


「公爵様……レオンハルト様」


名前を口にすると、心臓が跳ねた。


「だめだめ。仕事仕事。老後の資産形成——」


「お嬢様、独り言が漏れてます」


セバスチャンの冷静な声。


「……何か言いたいことある?」


「いえ。お嬢様が幸せであれば、それで十分でございます」


「……ありがとう」


「ただ——公爵様との会議、お化粧は念入りになさった方がよろしいかと」


「セバスチャン!」


鉄面皮の執事が、珍しくにやりと笑って去っていく。


私は顔を覆った。


「……もう」


でも、悪い気分じゃない。


むしろ——前世では味わえなかった気持ち。


借金に追われ、希望を失い、最後は過労で倒れた前の人生。


今世は違う。


自分で選び、自分で歩み、自分で幸せを掴む人生。


「さあ、仕事仕事」


私は立ち上がった。


(でも……ちょっとだけ、お化粧も念入りにしようかな)


心の中でそう呟きながら、私は執務室へ向かった。



後日談。


王太子アルベルトは、借金の返済に追われながら、かつての栄光を懐かしむ日々を送っているという。リリアーナは彼のもとを去り、他の貴族に「真実の愛」を求めて彷徨ったが、誰からも相手にされなくなった。


『婚約破棄騒動の女』という噂は社交界に広まり、彼女の居場所はどこにもない。


一方、セレスティア・ホワイトフィールドは、隣国の若き公爵レオンハルトと——。


それは、また別の物語。


ただ一つ確かなのは、彼女が二度と『連帯保証人』にはならなかったということ。


そして、彼女の人生は——前世よりもずっと、幸せだったということだ。


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