王国の英雄②
8あ
「がんばれー! ライナルトー!」
すすだらけの顔。
涙と埃でぐしゃぐしゃになった頬。
破れた上着の裾を握りしめ、子どもは必死に叫んでいた。
「ライナルトは――強いんだぞ!
お前なんかより、ずっと!」
震えた声。
だが、逃げない瞳。
瓦礫の向こう、血と油の匂いが混じる戦場で、その声は確かに届いた。
(……まずい)
ライナルトは、息を詰める。
視線の先――崩れた柱の影。
そこに、小さな影が取り残されている。
逃げ遅れたのだろう。
混乱の中で、親とはぐれたに違いない。
その前に、ナイフ男が立っていた。
ゆっくりと歩み寄り、
ゆっくりと刃を下ろし、
ゆっくりとしゃがみこむ。
その口元には、先ほどまでの戦闘とは不釣り合いな、軽い笑み。
「はは……」
低く、くぐもった笑い。
「子どもはいいな。
まっすぐで……」
ナイフを持ったまま、男は子どもの頭に手を置いた。
子犬を撫でるような、優しい仕草。
「かわいいこと言うじゃねえか」
その瞬間――
――ぺっ。
子どもが、思い切り唾を吐きかけた。
一瞬、世界が止まる。
ナイフ男の指が、ぴたりと止まった。
笑みが、すっと消える。
「……」
空気の温度が、明確に変わる。
「……ガキが」
低い声。
感情を切り落としたような、冷たさ。
「殺すぞ」
子どもの肩が、びくりと震えた。
――その瞬間。
「やめろ!!」
ライナルトが踏み込む。
地を蹴る音。
剣が唸り、一直線にナイフ男を裂こうとする。
だが――
ギィンッ!!
火花が散る。
反応は一瞬早かった。
ナイフが剣を弾き、二人の距離が強制的に開く。
「……ちっ」
ナイフ男が舌打ちし、軽く距離を取る。
「タフだねー、英雄さん」
からかうような声。
ライナルトは答えない。
ただ、子どもと男の間に立つ。
(なんとしても守る……)
剣を構え、重心を落とす。
息が荒い。
体のあちこちが悲鳴を上げている。
だが、下がらない。
ナイフ男が動く。
速い。
先ほどとは比べものにならない踏み込み。
刃が連続で襲いかかる。
防ぐ。
受ける。
弾く。
だが、一撃一撃が重い。
脇腹が裂け、肩が削られ、確実に体力を奪われていく。
「……っ」
歯を食いしばる。
視界の端で、子どもが身を縮めているのが見えた。
そのとき――
ライナルトは、遠くで“蒼”を見た。
迷いなく、短く指笛を吹く。
高く、鋭い音。
「?」
ナイフ男が眉をひそめる。
「どうした?
気でも触れたか?」
再び、嘲るように笑う。
――次の瞬間。
上空から、蒼色の影が舞い降りた。
ユランだ。
正確無比な急降下。
風圧が瓦礫を巻き上げ、地を震わせる。
「行け!」
ライナルトが叫ぶ。
ユランは一瞬も迷わない。
子どもを背に乗せ、一気に跳躍する。
「うわっ……!」
驚きの声とともに、子どもは空へ。
「あとは……任せたぞ、ユラン」
蒼い翼が、煙の向こうへ消えていく。
ナイフ男は、その光景を見送りながら、低く口笛を吹いた。
「……あんた、ほんとに英雄だな」
心底、感心したように。
「シビれちまったよ」
そして――
空気が変わる。
「じゃあ俺も――本気出しちゃおうかな」
一瞬。
剣が弾かれた。
先ほどとは段違いの重さ。
衝撃が腕を痺れさせる。
「…遊びはしめぇだ」
次の瞬間、両脇腹に衝撃。
「ぐ……っ!」
両手のナイフが、深く突き立てられる。
膝が折れ、ライナルトは地に崩れ落ちた。
覆いかぶさる影。
「とどめだ――」
そのとき、ナイフ男の通信機が鳴る。
「カイル、そっちはどう?」
女の声。
ナイフ男は一度、ライナルトから手を離す。
「やあ、エリス。
どうやら英雄さんが大活躍だったみたいでね」
視線を落とし、血に濡れたライナルトを見る。
「うちらの“兄弟”が、かなりやられてしまった」
「英雄?ああ、ライナルトね
……あなたは無事?」
「ああ。無事も無事。絶好調。
――英雄さんにも、もうすぐ眠ってもらうところだ」
「待って」
一拍。
「“強化可能個体”のリストに、彼の名前があるわ。
ちゃんとブリーフィング聞いてた?」
「寝てた」
「……まったく」
ため息。
「回収用のドローンを向かわせる。
あなたは到着まで現場の保護をよろしく」
「了解ー」
通信が切れる。
ナイフ男は、再び笑った。
「だとよ、英雄さん」
襟首を掴み、乱暴に持ち上げる。
「運がよかったな。
まだ――“生きられる”ってさ」
遠くで、低く唸る駆動音。
回収ドローンが、夜空を切り裂いて近づいてくる。
ライナルトの視界は、ゆっくりと闇に沈んでいった。




