息子を捨てた、とある元公爵夫人の独白 -玉の輿に乗った侯爵令嬢の転落と幻の愛-
本編『追放令嬢の妹には復讐の才能がない! そして復讐相手は愛が重い』
2章2話+4章6話でハイドから語られる母親の話の、【ハイドの母親視点】の短編です。
短編だけでもお読みいただけるようにしていますが、もしよければシリーズ本編もよろしくお願いいたします。
マクロフィア公爵家に嫁いで、ローゼ・ロサエ・マクロフィアになった。高等貴族学舎を出て1年後、婚姻としては一般的な、18の夏だった。
ひとつ下の階級な上に領地経営もうまくいっていない零細侯爵家の三女としては、完全な玉の輿だ。縁談をまとめてきた父は鼻高々で、母も大喜びしていた。自分もまた、侯爵家なのにろくな贅沢ができない実家を出て、太い公爵家に入れることを喜んだ。
マクロフィア公爵家は公爵家の中での立場こそ中堅だが、資産の増加は飛ぶ鳥を落とす勢いだと聞いている。先代当主が有力な商人の娘を正妻に迎えるという、貴族としては異例の婚姻をした結果だと聞いている。
当代当主となったその男は、丸メガネの奥に潜む氷のように薄い青の瞳をギラつかせ、人を値踏みするような冷酷な気配を放っていた。
(美しい私に骨抜きにされるといいですわ)
社交のために磨き抜いた笑みを向けた。が、夫になる男は表情を変えなかった。
式を挙げて義務としての初夜を過ごした翌日、信じられないことを言われて声を上げた。
「なぜ私が、商人出の下について商売を学ばなければなりませんの?」
貴族夫人の仕事は貴族同士の社交と決まっている。せいぜい家の中で使用人の差配をすることまでで、他の時間は自由に贅沢をして過ごせるものではないのか。零細侯爵家ではない、公爵夫人なら尚更、それが当たり前なはずだ。
「公爵家の格としてはオスマンサスやトゥーンベリに及ばないマクロフィアが、筆頭公爵家と同等に重用されているのはなぜだと思っている?
母とその実家からもたらされた商才があるからだ。商家を愚弄するのは許さん。マクロフィアの女になったからには、マクロフィアの流儀に従ってもらう」
有無を言わせない指示に歯を噛み締めた。
姑はおもしろみがなく堅苦しい、小言ばかりな女だった。
(商人出のくせに偉そうに! ブサイクなくせに)
元侯爵令嬢であり、若くて美しい自分をもっと尊重してもいいのではないか。
そんな鬱憤ばかりが溜まっていく。
「実家への援助?」
「はい。お願いいたします」
「これで何度目だ? 先月も多額の援助金を送ったが?」
「天候不順で困っていると、また頼めないかとの連絡が」
「うちはお前の実家の金づるじゃない。そっちでなんとかしろ」
「いいではありませんか! これだけ多くのお金があるのですから!」
「その金は誰が稼いだものだ? お前はミスばかりで損害を出したり、うまくいっていた人間関係を壊したりしていると聞いているが? よくそんな態度でいられるものだな」
「私だって、やりたくもないのにがんばっているんです! それに、それとこれとは話が別でしょう!」
「話にならん。もう援助するつもりはない」
ピシャリと言い切られ、夫への嫌悪感が募る。実家に利をもたらせないのなら、自分はなんのためにここにいるというのか。
やらされる仕事へのモチベーションが更に下がって、できるだけサボるようにした。
気がつけば、いつからか夫からも周りからも蔑んだ目で見られるようになっていた。
(こんなはずじゃなかったのに。本当に最低な家)
互いに気持ちがなくても体の関係を持ち続けたのは、後継ぎを産むという義務のためだ。それすらできなければ、自分の立場は更に落ちる。必死だった。
無事に息子が産まれた時にはホッとした。これですべてが解決する、跡取りの母親として大事にされる、そう思っていた。
半年は子育てに専念していいと言われてやっとゆっくりできると思ったが、とんでもなかった。産まれてすぐは2時間おきの授乳。産後の体の重さもあって辛すぎる。深夜でも起きないといけなくて、ろくに寝られない。
息子の目が開くようになってくると、嫌いな夫にばかり似ているように見えてくる。特に夫と同じ瞳の色で笑われると、まるで自分を嘲笑っているかのように感じた。
「乳母?」
「はい。乳母に子育てを任せる貴族家は多いでしょう? 雇ってください」
「乳母に子育てを任せ、お前は何をするんだ?」
「もちろん、公爵夫人として社交を」
「それは元々の最低限の義務だろう」
「私のような美しい女を連れて行けるのです。なぜそれ以上を私に望むのですか!」
ハァと、夫が深くため息をついた。
「美人は三日で飽きるということわざには半信半疑だったが。お前はその通りの女だな。
大体お前は、自分で思っているほど貴族社会で群を抜いてキレイなわけでもない。正直2日目のやりとりですでに呆れている。1日で飽きる程度の女だということだ。
自らはなんの価値も作り出そうとしない、とんだ負債だな」
投げつけられた侮蔑の音。血の気が引いて冷えた感じと、怒りで頭に血がのぼる感じ、相入れなそうな2つを同時に感じる日が来るとは思わなかった。
「心を入れ替えて母上に誠心誠意頭を下げて教えを乞うか、ハイドの母としての義務を全うするか。本来であればそろそろ両立してほしいところだが、特別にどちらにするかを選ばせてやる」
「……ハイドを連れて実家に帰らせていただきます」
「お前を育てた家にろくな教育ができるとは思わんが。2歳になったらこちらに戻れ。それが最大限の譲歩だ」
部屋に飾ってあった高そうな壺を割ってやって、その場を後にした。実家に帰りさえすれば、母と使用人に息子を預けて休めるだろう。
そう思っていたのに、実家ですら居心地がいい場所ではなくなっていた。
「かれこれ何年、支援金をもらっていないと思っているんだ。うちの困窮状況はわかっているだろう」
「自分ばかりいい思いをして、実家にはお金を回してこないなんて、ほんと育てたかいがない子ね」
「マクロフィアの子を連れてきたんだ、当然、養育費は入るのだろう? 全部家に入れなさい」
聞きたくない言葉ばかりが投げつけられ、マクロフィアにいたころ以上にハイドが泣いてばかりになった。母親なんだからなんとかしろと言われ、針のむしろだ。
(こんなことならマクロフィアの方がまだ……、ううんどっちも地獄じゃない!)
どうしてこうなったのだろうか。自分はただ、公爵夫人としての優雅な暮らしがしたかっただけなのに。何を間違えたというのだろうか。
ハイドのことは好きになれなかったけれど、言葉を覚えはじめた息子は自分を「ママ」と呼んで、時には懐いてくれた。その目にイライラすることは多かったものの、他の人間に比べればだいぶマシだ。
「ハイド。ママにはハイドだけよ。ハイドだけはママを大事にしてくれる?」
「うん。ママ、だいすき」
機嫌がいい時にはそんなやりとりもできた。少しだけ幸せだったかもしれない。
約束の、ハイドの2歳の誕生日にはマクロフィアに戻った。その時に初めて、自分の実家はマクロフィアから養育費をせしめていたらしいことを知らされた。
一体誰を信じればいいのだろうか。
マクロフィアの子に戻った最初こそハイドはとまどったようだったけれど、すぐに父親と祖父母のものになった。
教育に悪いからと、日に数分も会わせてもらえない。言いつけられるのは雑用ばかりで、それも当主からではなく、執事からだ。自分の扱いは、使用人以下に落ちたと感じた。
そんな日々を過ごして、ハイドが4つの時に、その人に出会った。使用人と変わらない服を着て、町に買い出しに行っていた時のこと。
澄んだ唄声が聞こえた。
吟遊詩人が歌っていたのは、家のための婚姻をして、虐げられて泣き明かした良家の娘が、真実の愛を見つけて駆け落ちをする唄だった。
自分のことだと思った。駆け落ちをするような相手はいないけれど、前半はそっくりそのままだ。
気がついたらボロボロと泣いていた。
ひととおり泣いて、微々たる小遣いを心づけとして渡す。
「美しいレディ、きみの気持ちに感謝するよ」
柔らかな音で奏でられた優しい言葉に、ドクンと心臓が波打つ。美しいなんて、いったいどれだけの間、言われていないのだろう。たとえそれが客への社交辞令だったとしても、もっとこの人の声を聞いていたいと思った。
積極的に町に出る仕事を引き受けて、ほんのひとときでも彼に会えるように工夫した。彼にもっと多くの心づけを渡したい。その一心で小遣いの値上げも交渉したけれど、働きを見てからだと却下された。気づかれない程度の小銭を、売上金から持ち出すようになった。
「ローゼは本当に美しくて優しいね。きみのような天使に出会えて、僕は世界一幸せだよ」
「まあ、お上手ですこと」
「本心さ」
「あなたこそ、将来はきっと大スターよ。あなたに出会えた私こそ幸運だわ」
人目を逃れるようにして裏路地に行く。
そっと額にもらったキスで、生まれて初めて異性から愛された気がした。
数日後、マクロフィアの家で、夫から詰め寄られた。
「どういうつもりだ」
「どういうつもりとは?」
「お前が町で若い男と近しい距離でいたのを目撃している者が何人もいる」
「何か問題が? 私なんてこの家では使用人以下なのですから、そんな人間が誰とどこで何をしていようが関係ないではありませんか」
「お前を使用人だと思ったことはない。使用人ならとっくにクビにしている。仮にもマクロフィア公爵夫人が何をしているのかと聞いているんだ」
「クビになさればよろしいではないですか! あなたは私のことなんてお嫌いなのでしょう?」
「感情論の話ではない。他にもある。お前が足を運んだ店舗に限って、売り上げの計算が合わないことが頻繁に起きている。申し開きはあるか?」
「あなたが悪いのでしょう?! 私にこんな少ししかお金を与えずにこき使って! 私は真実の愛を見つけたの! あなたなんかと違って、本当にステキな人なんだから!!」
夫が深くため息をついた。向けられる瞳には蔑みがありありと浮かんでいる。
「部屋に連れて行け。冷静になって反省するまで食事を与えるな」
(なんて横暴な人……!)
それに比べて、彼は本当にやさしいし、自分を大事にしてくれる。もういっそ、こんな家から出てしまった方がいいのだろうか。
そう思った時、4つの息子の顔が浮かんだ。
「今日はまだハイドに会っていませんわ。ハイドに会わせてくださいませ。そうしたら、部屋に行きます」
「ダメに決まっているだろう。お前のような女に会って、ハイドがおかしくなったらどう責任をとるつもりだ?」
その言葉で悟った。ここはやはり、地獄でしかない。
マクロフィアを捨てることを決意した。
従順なフリをして部屋に戻り、寝ると言って使用人たちを退室させ、数々の宝飾品をカバンにつめる。
窓から外に出ようと覗ったのと同時に、扉がたたかれてビクッとした。
返事をすべきか迷って、今は寝たふりをすることを選ぶ。
「奥様。ハイド坊ちゃまをお連れしております。旦那様には内密に」
小さく開かれた扉から、執事にそうささやかれた。
「ハイド……」
同情されたのだろうか。どうであっても、最後にハイドの顔を見ていきたい気はする。
起き上がって迎え入れる。
「かあさま?」
呼ばれたのと同時に涙があふれた。
この地獄にほんの少しの未練があるとすれば、それはハイドの存在だ。
「……ごめんなさい」
抱きしめて、泣きながら謝る。
ハイドは黙っていた。自分が泣き止むまで。
「かあさま、おちつきましたか?」
「ええ……」
「すぐにかんじょうてきになるのが、かあさまのわるいところです。あやまるあいてはぼくではなく、とうさまですよね?」
ゾワッとした。
理を解くような言い方は、まさに小さな夫だ。夫と同じ氷のように薄い青の瞳。その目に蔑まれているように感じて、吐き気がした。
執事がハイドを連れてきたのは自分のためではないのだろう。息子に自分を諭させて、当主である夫に謝らせるため。
これ以上の底がないはずの地獄から、更に下へと落とされた気がした。
その日の夜のうちに、逃げた。宿屋を渡り歩いて彼を探して、持って出た宝飾品の山を見せて、今すぐ一緒にこの町を出てほしいと頼んだ。
彼は犯罪を疑ったけれど、そうではない証として身分を明かしたら、「奥様の気が済むまで家出につきあえということですか」と、どこか冷めた声で言われた。
それでも、この人と人生をやり直したいと思った。
持って出た宝飾品を通常の方法で換金するとそこから足がつくため、裏ルートに回したら、それほどの金額にはならなかった。1年ほど遊んだら消えてしまった。
それからは、彼の心づけを集めたり、行く先々で日雇いのバイトをしたりして暮らすようになった。
(これだけ……?)
手にできたお金はスズメの涙ほどで、少ないと思っていたマクロフィアでの月々のお小遣いには、まるひと月働いても遠く及ばないものだった。
世間知らずだったことを初めて知ったけれど、マクロフィアに戻ることを考えるだけで脚が震え、悪夢を見た。戻るという選択肢はない。
マクロフィアを出てから12年。
吟遊詩人の彼にはマクロフィアの家がどれだけひどかったかを話し、男女として一緒にいられるようになった。
けれど、彼は大きくは売れず、金銭的な問題でよくケンカをするようにもなった。
そんなある日、王都の建国祭の時に、はずれの公園で彼が歌っていたら、貴族の子息らしい青年が歩みよってきた。
知っているような、知らないような顔だ。
(金貨……っ!)
こんな大金を見たのはいつ以来だろうか。
「ありがとうございますっ! ありがとうございます……!」
感謝の気持ちをこめて深く頭を下げる。
そして、顔を上げた直後。
夫と同じ氷のように薄い青の瞳から、心の底からの侮蔑を投げられた。
しばらく震えが止まらなかった。
お読みいただき、ありがとうございました!
私にしては珍しい、バドエン寄りのお話でした。
このお話の更に番外として、「もしもハイドの母がアリサだったら」の「イフ」の物語 (ハピエン)を用意しました。2000字未満の短編です。
もしよければ「次へ」で、合わせてお楽しみください。