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第九特区  作者: 篠の目
1/8

序章 七つの大罪

災変。

突如として訪れた災変の後、大地は無惨に荒れ果て、生物は変異し、食糧は極端に不足、住環境は劣悪、時代は完全に崩壊し、文明は跡形もなく消え去った。

……

第九特区から西へ三百キロ離れた、まだ計画すらされていない無政府地帯のとある無名の通り。

二十三歳の青年が、胸元を押さえながら俯き、早足で歩いていた。

通りは荒れ果てて醜く、地下排水システムは何年も前に完全に機能を失っている。路地には簡易に作られた屋外トイレが悪臭を放ちながら並び、そのすぐ横には古びた商店がずらりと並んでいた。

この一帯はほとんど灯りもなく、時おり路端に数人が固まって立っているのが見えるが、その多くは女で、男は少ない。

目を逸らし、早足で歩くその青年の名は神谷悠真かみや ゆうま。身長182センチ、がっしりとした体格。

今日は仕事を失い、第九特区の正式な住民身分を買い、自分の計画の第一歩を踏み出そうとしていた。

本来なら整った眉目と端正な顔立ちの、陽光のような好青年タイプだったが、今はひげも剃らず、やや伸びた髪は汗で固まり、服も油染みや汚れだらけ。人混みの中ではほとんど目立たない存在だ。

早足で進みながら、神谷悠真は十字路を一瞥し、左へ折れて住処へ戻ろうとした。

「お兄さん、お兄さん……!」

澄んだ女の声が響き、色あせたワンピースに上着を羽織った女が路端からそっと神谷悠真の袖を引いた。

神谷は少し驚き、振り返った。「なんだ?」

「三千円。」女は細い指を三本立て、背後の古びた商店を一瞥しながら小声で言った。「あそこで。」

「はは、そんな遊びはできない。」神谷悠真は笑い、歩き出した。

「待って。」女は再び神谷の腕をつかんだ。「二千、二千でどう?」

神谷は女をしばし見つめ、首を横に振った。「金がない。」

「気に入らなかった? 中には他にもいるわ。」

「本当に金がない。」神谷は腕を振り払った。「離せ、急いでる。」

女は赤い唇を噛みしめ、小さな手で彼の腕を強く握りしめたまま、長く黙ったあと、かすかに言った。

「お米二杯でもいい。……でも、私の碗で量らせて。」

神谷は眉をひそめた。「ないって言ったろ。失せろ!」

女はそれでも手を離さず、切なげな目で商店の横にたむろする七、八歳の子どもたちを振り返り、言った。

「……あの子たちは、私の子ども。三人いるの。今夜一人も客が来なかったら、もう食べさせられない……。お兄さん、お願い、助けて。米一杯でいい、跪いてもいい。」

神谷は女を見据え、冷たく言い放った。

「この世界がこうなって何年経つと思ってる? そんな環境で、養えもしないのに、なぜ産む?」

女は言葉を失った。

神谷は力任せに腕を振り払い、胸元を押さえたまま歩き出す。

女はしばらくその場に立ち尽くしたあと、商店の奥へ駆け戻り、息を切らせながら叫んだ。

「あの人、持ってる! さっき引っ張ったとき、胸元の中を見た!」

……

約三十分後。

神谷は荒れ果てた六階建ての建物に戻り、埃だらけの古い階段を上って、五階の自分の部屋へ入った。

この建物には神谷悠真と友人の岡田おかだ おさむしか住んでいない。外壁は所々崩れ落ち、昔なら取り壊し寸前の危険建築だ。

だが今の時代、「家」の意味はただ、自分がいる場所を指すだけだ。神谷がここを選んだのは、電気も水道もなく、生活費が一切かからないからだ。

部屋は簡素そのもの。ベッド一つ、壊れた棚が二つ。娯楽といえば、2019年発行のボロボロになったミリタリー雑誌が一冊あるだけ。

部屋に入ると、神谷は汚れた上着を脱ぎ、胸元から使い込まれた帆布袋を取り出した。慎重にベッドのそばへ持っていき、欠けた碗を手に白米をすくい出す。

「岡田、飯できたか?」

「まだだ、今帰ったところだ。」奥の部屋から声がして、日焼けした精悍な顔立ちの青年が出てきた。

「ドンドンドン!」

会話を始めようとした瞬間、階下から地響きのような足音が響いた。

神谷は一瞬固まり、すぐに袋と碗を棚に隠し、唯一の木製のドアの前に立った。

十数秒も経たないうちに、七、八歳以下の子どもが十人ほど、大人の男女を何十人も引き連れて階段に現れた。

階段は屋外にあり、ひび割れたコンクリートと錆びた鉄の手すりでできている。そんなところを大勢が急いで駆け上がれば、建物全体が揺れるほどだった。

神谷は手を上げて叫んだ。

「やめろ……! そんな勢いで上がるな、クソッ、階段が崩れる!」

「おじちゃん、腹減った。」

「おじちゃん、ご飯食べたい……。」

子どもたちは一人一人が小さな碗を持ち、汚れた顔で神谷悠真を見つめている。

「おじちゃんも腹減ってるんだ。お前らの家で夕飯食べたか? 食ってないなら一緒に食おうか?」神谷は冗談めかして言った。

子どもたちの目は純真だが、その後ろの大人たちは人間の最後の仮面を剥ぎ取っていた。

坊主頭の大柄な男が前に出て叫ぶ。

「食糧を出せ。出さなきゃ、ここからは通さねえ。」

「食糧なんてない。」

神谷は手を振って答えた。「本当だ。俺たちだって、この未計画区で飢えてる身だ。楽じゃねえんだ。もし本当にあったら……全部は無理でも、少しは分けてやるさ。」

「口だけはいいな。お前が米を隠してるのを見たんだ。」

坊主頭の男はさらに声を張り上げた。

「さっさと出せ。半分だけでいい。残りはやる。」

「ない。」

神谷は首を横に振った。

「中に入れ!」

坊主男が怒鳴る。

「おじちゃん、食べ物ちょうだい。」

「おじちゃん、もう何日も食べてないんだ。」

「……!」

群衆が一斉に押し寄せ、外付けの階段は再び大きく揺れた。

神谷悠真の目は一瞬で血走り、右脚を踏み出し、汚れたズボンの裾から匕首を引き抜き、人々に突きつけて怒鳴った。

「ナメんなよ! 俺を一匹狼だと思ってるのか?! ここで死ぬのを怖がる奴なんて、この世界にいねえ! 米はある。だが、この刃を折ってからじゃなきゃ、くれてやらねえ!」

群衆が一瞬ひるんだが、坊主男は冷ややかに言い返した。

「子どもが前にいるぞ。まずそいつらを刺し殺してから言え。」

「この野郎……!」

神谷悠真は言葉に詰まった。

「中に入れ、米を出せ!」

坊主男が再び号令をかける。

その合図とともに、人々は押し寄せ、子どもたちも一斉に神谷悠真にまとわりついた。

「おじちゃん、米一杯でいいから……。」

「うるせぇ!」

神谷は匕首を握り、どうにもならない状況に子どもへ怒鳴った。

「さもなきゃ本当に刺すぞ! 刺すからな……!」

部屋の中で状況を見ていた岡田 修が、慌てて神谷悠真の前に立ち、人々に向かって叫んだ。

「落ち着け! 話し合おう!」

しかし、飢えた子どもたちは何も恐れず、神谷にしがみつく。

その隙間から、大人たちがさらに押し寄せてきた。

神谷は体格で優位に立ち、入口をふさぐように一歩踏み出し、目を見開いて叫んだ。

「俺は自分のためにしか生きねえ! 無理強いすんな!」

だが群衆は止まらず、なおも押し寄せる。

子どもたちが小さな手で神谷悠真を引っ張る。

そのうちの一人、十歳ほどの少年が必死に袖をつかんだ瞬間、神谷は腕を強く振り払った。

予想外に、その子は勢い余って後ろの群衆にぶつかり、足を取られてよろめき……鉄の手すりの隙間から仰向けに落ちていった。

「――あぁっ!!」

恐怖に満ちた悲鳴が響き、しばらく空中を裂くように尾を引いた。

「ドスン!」

直後、地面に叩きつけられる音が下から伝わってくる。

神谷悠真も岡田修も一瞬呆然とし、鉄の手すり越しに下を見たが、すぐに動けなかった。

人々の動きが止まり、階段は静まり返った。

「子どもが……子どもが落ちたぞ!」

岡田が我に返って叫ぶ。

数十人が下を一瞥し、無表情のまま、ほんの二秒足らずで視線を戻す。

ただ一人、その母親だけが硬直の後、絶叫しながら階下へ駆け下りた。

神谷は動けず、ただ立ち尽くす。

「米だ。」

「子どもが落ちたんだぞ。それでも食糧を出さなきゃ、通さねえ。」

「奪え!」

「……!」

怒号が飛び交い、誰一人、落ちた子どもを気にかける者はいなかった。

群衆は再び押し寄せ、岡田 修は冷や汗を流しながら入口をふさぐ。

「いい、降参だ……俺が出す!」

岡田は唇を舐め、そう叫んだ。

「ダメだ、絶対に出すな。一粒たりとも。」

神谷は低く、しかし強い口調で命じる。

「出さなきゃもっとまずい!」

岡田は歯を食いしばりながら言い返した。「もう目が血走ってる。わかんねぇのか?」

「少しでも与えたら、もっとひどくなる。」

神谷の目は鋭かった。

だが岡田は譲らず、大きな碗に米を盛って床に置き、「ほら、持って行け!」と群衆に言った。

坊主男が前に出て袋へ米を入れると、背後から誰かが叫んだ。

「一杯くれるってことは、もっと持ってるはずだ!」

罵声と怒号が再び広がり、刃物を取り出す者まで現れた。

「……クソが!」

岡田も匕首を抜き、構える。

「やるってのか? 怖くねぇぞ! もう死ぬ覚悟はできてんだ!」

群衆は止まらない。

その時――。

「ガチャン!」

神谷が棚から長さ二十センチの三連式回転装填の大口径拳銃を引き抜き、一瞬で弾を込めた。

銃口が群衆に向けられると、本能的に足が止まる。

神谷は無表情で、一袋の米を床へ放り投げた。

「食糧はここだ。欲しけりゃ取りに来い。」

沈黙。

「脅してるつもりか? 飯がなきゃどうせ死ぬ。銃なんざ怖くねぇ!」

坊主男が吠え、手を伸ばした。

「パンッ!」

銃声が炸裂し、坊主男の胸に大穴が空く。血が床を濡らし、男は半歩吹き飛んで倒れた。

神谷の声は冷酷だった。

「食い物がなくて死ぬのは先の話だ。だが、今ここで手を伸ばせば……俺が先に殺す。」

「あと二発ある。……それでも取りに来るか?」

神谷が怒鳴ると、群衆は本能的に二歩後ずさった。

神谷は前に出て、坊主男の腰に結びつけられた米袋を外し、低く言った。

「岡田、荷物を持て。行くぞ。」

岡田 修はすぐに部屋へ戻る。

「二列に並べ! 道を開けろ!」

神谷悠真が拳銃を構えたまま叫ぶ。

誰も動かない。

神谷は銃口を、最も近くにいた男へ向けた。

「どけねぇのか?」

わずかな逡巡の後、その男が一歩横にずれた。それを合図に、他の者たちも次々と道を開ける。

五分後、二人は階下へ降りる。

その時、落ちた子どもの母親が、血だらけの我が子を抱えて泣き叫んでいた。

神谷は数秒立ち止まり、さっき坊主男に渡していた米袋を投げ渡した。

「すぐ奴らが降りてくる。隠しとけ。」

女は一瞬呆けたが、すぐに袋を抱きしめ、「ありがとう……ありがとう……米があれば死なずにすむ……」と泣きながら礼を言った。

神谷は振り返らず、岡田とともに闇夜に消えた。

……

午前三時過ぎ。

果てしなく広がるゴビ砂漠で、神谷は米を分けて岡田に渡した。

「ほら、お前の分だ。ここで別れよう。」

「そこまでやるか……? さっきちょっと意見が合わなかっただけじゃないか……」

岡田は困惑して首を振った。

神谷は遮るように言った。

「人と人は、道が違えば一緒にいるべきじゃない。お互いを害するだけだ。俺は九区へ行く……お前も無事でな。」

そう言い残し、神谷悠真は一切の未練を見せず、背を向けて歩き出す。

新たな人生の第一歩――第九特区へ向けて。

……

未計画区の左手にある軍部の駐屯地。

黒人の兵士が白い歯を見せ、流暢な中国語で言った。

「今、向こうで銃声がしたぞ。見に行くか?」

「行くかよ。ここじゃ毎日、食糧の奪い合いや死人が出てるんだ。部隊の車すら襲われるんだぞ……俺らごときが行って何になる。」

粗悪なパイプ煙草をふかす老兵が、古びた木のベッドに横たわりながら答えた。


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