四月、休日
目が覚めたとき、部屋の中はひっそりと静かだった。
薄いカーテン越しに、ぼんやりと春の光が射し込んでいる。
スマートフォンの画面には、昨日と同じように日付が表示されていた。
違うのは、カレンダーの小さな数字の上に、今日だけ控えめな色で印がついていること。
ある四月に日曜、休日、私の誕生日。
胸の奥に、じんわりとした重みがあった。
目覚めたばかりの柔らかな心に、その重みはすぐに沁み込んでいった。
ベッドに寝転がったまま、しばらく天井を見つめる。
特別な予定はない。
家族はメッセージをくれるだろう。
何人かの友人も、きっと「おめでとう」と言ってくれる。
それだけで、十分なはずだった。
なのに、心の片隅では、何かがひっそりと冷えていた。
わがままなのだろうか。
満たされているはずなのに、どうしても満たしきれない小さな隙間。
私はベッドを出て、窓を少しだけ開けた。
春の風が、カーテンを揺らして部屋に流れ込んでくる。
少し冷たく、でもどこか甘い匂いを含んだ風だった。
キッチンへ行き、コーヒーを淹れる。
今日は、少し贅沢に、買い置きしていた高めの豆を使った。湯気がふわりと立ち上り、豊かな香りが部屋に広がる。
鼻の奥に、少し苦くて、温かい匂いが満ちた。
コーヒーを注ぎ終えると、私はマグカップを両手で包んで、リビングの窓辺に座った。
目の前には、静かな住宅街の景色。
新緑の街路樹が、春の光を受けてきらきらと揺れていた。
遠くの公園では、子どもたちのはしゃぐ声が小さく聞こえてくる。
私は一口、コーヒーを飲んだ。
舌に広がる苦味に、ふと、昔のことを思い出した。
中学生の頃。
誕生日に、父が買ってきたコーヒーゼリー。
当時の私は、まだコーヒーの苦さを受け止められなかった。スプーンを口に運ぶたび、顔をしかめ、むせそうになりながら、それでも笑って食べた。
横で父も母も笑っていた。
あの日のリビングの光景が、まるで昨日のことのように、鮮やかに蘇る。
「変わらないな…」
私は思わずつぶやいた。
あの頃も、嬉しいのに、どこか寂しかった。
誕生日は、ただ楽しいだけの日ではなかった。
自分の時間が確かに流れていることを、静かに突きつけられる日だった。
スマートフォンが振動して、テーブルの上で小さく揺れた。母からだった。
『おめでとう! 元気にしてる?』
短いメッセージ。
でも、そこに込められた温かさを、私はちゃんと受け取った。
『ありがとう。元気だよ。』
そう返して、スマホをそっと伏せる。
私はまた、コーヒーに口をつけた。
あの日のコーヒーゼリーより、ずっと苦いけれど、
今の私は、ちゃんとこの苦味を「美味しい」と思える。
そう思うと、少しだけ、胸の中の冷たさが和らいだ気がした。
私はカレンダーを見上げた。
今日の数字の下に、小さな丸が描いてある。
それを指先でそっとなぞる。
祝ってくれる誰かのためでもない。
世間に認められるためでもない。
今日という日を、私自身が「よくここまで来たね」と祝ってあげるために。
外では、四月の風がまた洗濯物を揺らしていた。
シャツの袖が、手を振るみたいにひらひらと動いている。
私は静かに笑った。
一人だけれど、寂しいけれど、それでも、私はここにいる。
この世界の、春の光の中に。コーヒーの湯気に包まれて。
過ぎ去った年月も、これから来る日々も、ぜんぶひとつに抱きしめるように。
今日、私はまた一歩、前に進んだ。
誰に知られなくても、誰に褒められなくても。
この小さな一歩を、私は忘れない。
四月の自分の誕生日に、そっと心の中で言った。
「おめでとう」
それは、とても小さく、でも確かな祝福だった。