表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

四月、休日

作者: コバヤシ

 目が覚めたとき、部屋の中はひっそりと静かだった。

 薄いカーテン越しに、ぼんやりと春の光が射し込んでいる。

 スマートフォンの画面には、昨日と同じように日付が表示されていた。

 違うのは、カレンダーの小さな数字の上に、今日だけ控えめな色で印がついていること。

 ある四月に日曜、休日、私の誕生日。


 胸の奥に、じんわりとした重みがあった。

 目覚めたばかりの柔らかな心に、その重みはすぐに沁み込んでいった。


 ベッドに寝転がったまま、しばらく天井を見つめる。

 特別な予定はない。

 家族はメッセージをくれるだろう。

 何人かの友人も、きっと「おめでとう」と言ってくれる。

 それだけで、十分なはずだった。


 なのに、心の片隅では、何かがひっそりと冷えていた。

 わがままなのだろうか。

 満たされているはずなのに、どうしても満たしきれない小さな隙間。


 私はベッドを出て、窓を少しだけ開けた。

 春の風が、カーテンを揺らして部屋に流れ込んでくる。

 少し冷たく、でもどこか甘い匂いを含んだ風だった。


 キッチンへ行き、コーヒーを淹れる。

 今日は、少し贅沢に、買い置きしていた高めの豆を使った。湯気がふわりと立ち上り、豊かな香りが部屋に広がる。

鼻の奥に、少し苦くて、温かい匂いが満ちた。


 コーヒーを注ぎ終えると、私はマグカップを両手で包んで、リビングの窓辺に座った。


 目の前には、静かな住宅街の景色。

 新緑の街路樹が、春の光を受けてきらきらと揺れていた。

 遠くの公園では、子どもたちのはしゃぐ声が小さく聞こえてくる。


 私は一口、コーヒーを飲んだ。

 舌に広がる苦味に、ふと、昔のことを思い出した。


 中学生の頃。

 誕生日に、父が買ってきたコーヒーゼリー。

 当時の私は、まだコーヒーの苦さを受け止められなかった。スプーンを口に運ぶたび、顔をしかめ、むせそうになりながら、それでも笑って食べた。


 横で父も母も笑っていた。


 あの日のリビングの光景が、まるで昨日のことのように、鮮やかに蘇る。


「変わらないな…」

 私は思わずつぶやいた。


 あの頃も、嬉しいのに、どこか寂しかった。

 誕生日は、ただ楽しいだけの日ではなかった。

 自分の時間が確かに流れていることを、静かに突きつけられる日だった。


 スマートフォンが振動して、テーブルの上で小さく揺れた。母からだった。


『おめでとう! 元気にしてる?』


 短いメッセージ。

 でも、そこに込められた温かさを、私はちゃんと受け取った。


『ありがとう。元気だよ。』

 そう返して、スマホをそっと伏せる。


 私はまた、コーヒーに口をつけた。

 あの日のコーヒーゼリーより、ずっと苦いけれど、

 今の私は、ちゃんとこの苦味を「美味しい」と思える。


 そう思うと、少しだけ、胸の中の冷たさが和らいだ気がした。


 私はカレンダーを見上げた。

 今日の数字の下に、小さな丸が描いてある。

 それを指先でそっとなぞる。


 祝ってくれる誰かのためでもない。

 世間に認められるためでもない。


 今日という日を、私自身が「よくここまで来たね」と祝ってあげるために。


 外では、四月の風がまた洗濯物を揺らしていた。

 シャツの袖が、手を振るみたいにひらひらと動いている。


 私は静かに笑った。


 一人だけれど、寂しいけれど、それでも、私はここにいる。


 この世界の、春の光の中に。コーヒーの湯気に包まれて。

 過ぎ去った年月も、これから来る日々も、ぜんぶひとつに抱きしめるように。


 今日、私はまた一歩、前に進んだ。


 誰に知られなくても、誰に褒められなくても。

 この小さな一歩を、私は忘れない。


 四月の自分の誕生日に、そっと心の中で言った。


「おめでとう」


 それは、とても小さく、でも確かな祝福だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ