8 心の中
翌朝、会社に着いて驚いた。圭介が、よれよれのYシャツで、応接コーナーに座り込み、コーヒーとコンビニのサンドイッチを食べていた。
「あ、もう大丈夫っすか?」
大丈夫じゃないのは、圭介のほうじゃないのって顔をしていた。ひげがうっすらと生えていて、目の下にはくまができていた。
「寝てないの?」
「いや、寝ました。2時間くらい」
「仕事…そんなに忙しいの?」
「う~ん、昨日なかなか出来上がらなくて…。こんなにかかると思わなかったんだけど」
「ええ~~?みんな?」
「いえ、今朝までいたのは、俺だけっす。みんな昨日のうちに帰りましたよ」
「……」
「あ、こんなのざらですから、そんなにびっくりしないでください」
「あ、じゃあ、これから言ってくれたら、お弁当とか作ってきたりできるし…」
「いえ、いいっす。適当におなかすいたら、その辺のコンビに行くから」
「……」
「顔、洗ってきます」
そう言うと、自分のデスクの引き出しから、歯ブラシ、歯磨き粉、タオルと髭剃りを持って、圭介は出て行ってしまった。
「おはよう、柴田さん、もう大丈夫?」
稲森さんが、後ろから声をかけてきた。
「あ、はい。すみません、昨日は…。なんだか忙しかったみたいなのに」
「ああ、大丈夫よ。私らは派遣だし、そんなに大変じゃないから」
「はあ。でも、みなさん、忙しそうですね」
「ここ最近が暇だったのよ。仕事なくなったかって、ちょっと焦ってたくらいよ」
こんなふうに、会社に泊まるようなことが多い仕事なら、デートの回数も減って、彼女ともすれ違いになるのは、しかたないことなのかな。
「この会社の人、結婚してる人少ないですっけ?」
「うん。まず、社長からして、独身だし…」
「え?」
「知らなかった?」
「はい」
「結婚しているのは、山木さんと、新藤さんと、…あ、二人だけだわ」
「へ~~」
「まだ、若い人ばかりだしさ~。私はもっと、結婚対象になる人がいるかと思ったら、年下ばかりじゃん、がっかりしたのよね」
そう言うと、自分のデスクへと稲森さんはいってしまった。
確か、稲森さんがお目当ての楠木さんは独身で、30歳とか聞いたけど…。っていうことは、稲森さんより、年下だよね…なんて思いつつ、社長が独身って言うのに、驚いてしまった。はて…、社長はいくつなんだ?
自分のデスクに戻り、仕事を始めると、圭介がさっぱりした顔で戻ってきた。
「圭介も1日たつと、ひげはえるんだ」
「それ、俺が子供かとでも思ってたってことですか?」
「あはは。違うけど、なんかあんまりひげ濃くないから…」
「はやそうと思えば、はえますよ、もっとこう…」
「でも、似合いそうにないよ。ひげ…」
「そうっすか?じゃ、はやすのはやめとこう」
圭介はまだ、眠そうな目をしている。その目をこすってから、パソコンに向かいだした。
パソコンを打つ手は、いつもの綺麗な手だ。…しばらくうっとりとそれを眺めて、圭介の隣にいるのを満喫する。
ほのかに、圭介の匂いがする。この前、隣でよっかかっていたときにもしていた。ほわってする、あったかい空気に包まれて、幸せを思い切り味わう。
この幸せはいつまで続くのだろう…。圭介は、好きな人とどうするのだろう。思いは告げたのか。そして、もしその人と付き合ってしまったら、私はどうしたらいいのだろう…。
私のパソコンを打つ手が止まる。しばらく止まる。圭介が他の人のものになってしまうと思った瞬間、心が凍りついたかのように、止まってしまった。
「熱、下がってよかったですね」
「え?うん」
「風邪っすか?」
「うん、多分。でも、熱だけですんだみたい」
「病院行きましたか?」
「ううん、寝てただけだよ」
「ああ、なんだ、茂にいの病院にでも行ったかと思ったのにな」
「小児科でしょ。私子供じゃないし」
「はは…、じゃ、俺が風邪引いたら、茂にいのとこ、いかなくちゃ。子供だから」
「ふ~ん、わかってるじゃない。子供だって自覚してるんだ~~」
「え?何それ?やっぱ、子供?俺」
「くすくす…」
パソコンを打つ手を止めて、圭介がこっちを見た。その目だ。その熱い視線にいつも、やられてしまう。
「瑞希さんさ、いくつくらい年下でもOK?」
圭介が、小声でそう聞いてきた。
「へ?」
「なんでもない…」
圭介はそう言うと、また、パソコンの方を向いて手を動かしだした。
なんだよ。ドキッてするじゃないか。私の心の声でも聞こえちゃったかと思ったよ。
彼は、私の気持ちに気づいているんじゃないかって時がある。ほのかにそんなことを匂わせるようなことを言う。そのたび、心臓が止まりそうになる。
ばれてもいいかもとも思うし、ばれたら、ここにはいられないんじゃないかと思うこともあるし…。もう、ばれちゃった方が楽だって、開き直りそうになることもあるし…。
もし、私が彼に気持ちを打ち明けたら、彼は何て言うだろう。どう反応してくるのだろう。それを考えると、どうしても、
「すみません。俺には、好きな人がいますから」
「すみません、瑞希さんのことは、女性としてみていません」
なんていう言葉を言っている、圭介が浮かんできたり、
「ええ?冗談でしょ」
とか、
「瑞希さん、茂にいがいるでしょ」
とか、そんなふうに言っている圭介も浮かんでくる。どんなに、いい答えを言っている圭介をイメージしようとしても、浮かんでこない。
「俺も好きです」
なんて、とてもじゃないけど、言うわけがないって思ってしまう。
6時を過ぎて、社長が稲森さんと私に、もう帰っていいよと言ってくれて、ようやく席を立ったが、周りみんな忙しそうで、帰るのに気がひけた。でも、
「おつかれっす!」
という、圭介の元気な声で、
「お先に…」
と、ロッカーに向かうことができた。
「ああ、疲れた。じゃ、お先にね」
稲森さんは、さっさと鞄を持って、帰ってしまった。
私はカーディガンをはおり、鞄を持ち、ちらっとまた圭介の方を見た。圭介は、のびをして目をこすり、また椅子に座りなおして画面を見たあとにすぐ、私の視線に気づいたらしい。こっちを見て、立ち上がった。
それから、足早に私のほうにかけてきて、
「コンビに行くんで、途中まで一緒していいですか?」
と、人懐こい目で言う。
「うん」
まだ一緒にいられるのが、嬉しい…。
二人でエレベーターに乗ると、
「俺、汗臭くないですか?昨日風呂はいれてないし…」
と、圭介が聞いてきた。
「大丈夫。圭介の匂いはするけど」
「え?なんすか?それ。俺の匂いって…」
「わかんない…」
「くさいっすか?」
圭介は、自分の腕をくんくん嗅いだ。
「ううん…。前にね、テレビで見たことあるよ。10人くらいの男性が1日Tシャツ着て、それをそれぞれビンの中に入れるの。それを10人の女性が匂いを嗅いで、1番いい匂いのTシャツを選ぶんだ」
「げ?1日着たやつ?くさそ~~」
「それが、そうでもないの。良い匂いがするって言うんだよ。草原のような匂いとかって…」
「へええ!」
「でね、DNAを調べると、よりDNAが近い人はくさく感じて、遠い人がいい匂いがするんだよ」
「まじっすか?へえ。面白いですね。本能でそういうのかぎ分けるんすかね?」
「ねえ、面白いよね」
「あ、じゃあもしかして、俺が臭くないなら、遠いってことじゃないんですか?もし、DNAが近かったら、俺、きっと臭いかもしれないっすね」
「そうだね。そういえば、草原のような匂いがするよ」
「ええ?まじっすか?」
「うそ」
「なんだよ~~。それ、ちょっと喜んだのに」
「あはは、草原の匂いって言われて喜ぶの?」
「そうじゃなくて、瑞希さんと俺、いい相性なのかなって。だって、より遠い方がいいんでしょ?強い子孫残せそうじゃないっすか」
「くす…。圭介はどんな相手でも、強い遺伝子残せそうだよ」
エレベーターを降りて、コンビにまで行き、買い物に付き合うよって私もコンビニに入った。お茶とお弁当をかごに入れ、雑誌を立ち読み始めた圭介の隣で、すごい勇気をふりしぼってみた。
「圭介の好きな人は、圭介のことをさ…」
「え?」
「いや、その人もいい匂いがするって、言ってくれたらいいのにね…」
「……」
「あ、ほら、うちの近くに住んでるんでしょ?その人に会いに来たりしないの?もう」
「ああ、はい。もう行ってません。っていうか、一回だけっすよ、行ったの…」
「そうなんだ。…会えたの?その時…」
「いえ。なんか、ずっと待ってたらまじ、ストーカーですよね。偶然装っても、不自然だし…」
「じゃあ、会えずじまい?」
「いいんです。もう…」
「いいの?あきらめた…とか?」
「いえ、会えてるからいいんです。もう…」
そう言うと、圭介は照れくさそうに、雑誌をわざとらしくパラパラめくった。私は、何を言ったらいいのか、話を続けられなくなった。
付き合ってるの?とか、気持ちは伝えたの?とか、彼女なの?とか、そんな言葉が頭の中をめぐったが、結局何も聞けないまま、コンビニを出た。
レジで品物を買い、出てきた圭介に、
「しゃ、仕事頑張って」
と言い、後ろを向いた。
足ががくがくしていた。でも、それを悟られないように、しっかりと踏ん張って歩いた。だけど、ヒールが時々、まるで、ぐにゃってやわらかいものにでもなったかのように、よろけてしまう。
この前、彼女ではないと否定していた。まだ、彼女じゃないんじゃないか。じゃあ、まだ、大丈夫かもしれない。
何が…?圭介が他の人のものになっていないってこと…。でも、心はすでに、その「好きな人」の方を向いてるよ。 じゃあ、こっちを向いてもらえばいい。…そんなの、無理!
そんな言葉が、頭をかけめぐり、やっとこ、足に力が戻ると、私の足はどんどん早くになった。まるで、圭介から逃げるようにと。
その夜9時過ぎ、携帯がなった。…圭介?なんとなく出たくないって思いながら、携帯を手にすると、茂さんの名前が表示されていた。
「はい、もしもし…」
「あ、瑞希さん?茂です」
「こんばんは」
「熱、下がりましたか?」
「はい。もう、大丈夫です」
「それは、よかった。昨日電話しようかとも思ったんですが、もし寝てたら悪いなって思って」
「あ、はい…」
茂さんと話をしていると、どんどん胸の奥が苦しくなるのがわかった。原因は、罪悪感だ。
「あの…」
「はい?」
「今度、お話があるんです。時間とってもらえますか?」
「はい。実は、僕も話があります」
「え?」
ビクってした。何の話だろうか?結婚を断る話なら良いが、その逆だったらどうしようと、一瞬たじろいだ。
会う約束は、その週の土曜の夜にした。
私は、何回も練習をした。頭の中で、シナリオを考えた。断る理由をあれこれ考えては、振り出しに戻し、もう1度シュミレーションをした。だが、どれも自分の気持ちを偽っている。
理由は「ほかに好きな人がいる」それだけだ。なのに、今は結婚を考えられないだの、私は茂さんに不釣合いだの、そんな言い訳ばかりを考えている。
はあ……。
バタン。隣のドアが閉まる音がした。修二だ。こんな時なら修二は何て言うかな?
過去2回の見合いを断るときには、親に断ってもらったんだが、今度ばかりはそうはいかないだろうな…。
コンコン。
「修二、今いい?」
修二に相談するつもりはなかったが、どうしても聞きたいことがあった。
「何?」
修二がドアを開けた。むっとする匂いがする。
「修二にしても、兄さんにしても、なんでこう、部屋が臭いの?」
「うるせえよ、そんなこと言いに来たの?」
「DNAが近いからかな~~」
「だから、そんなことを言いに来たのかって?」
「彼女、柚ちゃんは、修二のこと臭いって言わない?」
「言わねえよ。だから~~」
「ごめんごめん、そうじゃなくて、聞きたいことがあって…」
「んあ~~?ねっころがってていい?すっげ疲れてて」
「いいよ。でも寝るなよ。途中で…」
「かったる…」
こんなでよくもまあ、あんなかわいい彼女がいると思うよ。でも、ま、彼女の前じゃこうじゃないんだろうけどね。
クカ~~~~~ッ。っていういびきは、修二の部屋のラグの上で、寝ているクロのいびきだ。たいていが、修二の部屋で寝る。たまに修二がいないときや遅いときは、私の部屋に来る。どうも、人がいないと寝れないという、さびしがり屋の犬らしい。
「修二さ、まだ結婚しないの?」
「何?いきなり。あ、もしや、おふくろに聞いてこいって言われた?」
「違うけど、付き合って長いのに、何でかなって」
「う~~ん、まだ柚、24歳だしさ」
「24歳って十分結婚できる年でしょ。10代なら早いけど、早くはないよ、もう」
「う~~ん」
修二は面倒くさそうに、頭をぼりって掻いた。
「どうせ、修二がまだ遊びたいんじゃないの?結婚なんて人生の墓場とかって考えてて…」
「それ、姉貴の元彼でしょ」
「う…。うるさいな…。私のことより今、あんたのね~~」
「あ~~、はいはい。うっさいのはそっちだと思うけど。人がいつ結婚しようがいいじゃんよ。自分のこと考えたら?いい年してるんだから」
グサグサ。ほんと、こいつは~~~。
ああ、こんな口の悪い、態度の悪い弟だからね、圭介がめっちゃかわいく見えるのよね。
「柚がさ、まだ結婚したがってないんだよ」
「え?」
「俺は別に、いつでもいいんだ。今すぐだって…。でも柚の周りは、まだ結婚しないで遊んでるやつ多いし、今、仕事も楽しいみたいだし、結婚はまだ先でいいって言うからさ」
「そうなんだ、あ、でも、そんなの待ってていいの?そのうち柚ちゃんかわいいから、ほかにいい人…」
「縛るの嫌なんだよね。俺もそういうの嫌だし」
「でも…」
「結婚ってタイミングみたいなのあるし、これからも柚と付き合ってたら、結婚するかもしれないし、でも先のことだからわかんないよ」
「そんなもんなの?もう5年付き合ってて…」
「俺の中では、結婚するなら柚って決めてるけどさ」
「決めてる?決め手は何?」
「何って…。う~~~ん?ずっと一緒にいたいかどうか?」
「いたいんだ?」
「もう、いいじゃん。なんでこんなこと姉貴に…、あ!そうか。小児科医との結婚、決まったとか?ってか、悩んでるのか?」
「う…」
「ああ、それで、俺の話でも参考にしようかって感じ?」
「う…」
「図星?でも、そういうのは、自分で決めたら?」
「わかってるよ!ただ、参考までに、結婚をどう思っているのかなってさ…」
「姉貴の方こそ、結婚をどう思ってるんだよ」
「わかんない」
「は?」
「一生の問題でしょ。なんでみんな、結婚をしようって考えられるのかな?だって、一緒に暮らすんだよ?それも一生」
「ま、一生じゃない人もいるかもしんないけど」
「でも、結婚するときにはみんな、離婚考えてはいないでしょ」
「先のことまで、あれこれ考えてたら、何もできないんじゃないの?」
「え?」
「先の先まであれこれ考えてたら、動けないし、一歩も踏み出せない。一歩踏み出してから、また考えりゃ良いじゃん」
「でも…」
「姉貴は、考えすぎだよ。いつも先の先のことまで考えては、動けなくなってる。仕事も転職考えててもできなかっただろ、今の今までさ」
「あ、あんたがお気楽すぎてるんじゃないの。もっと、先のこと考えて、柚ちゃんとだって…」
「考えてないことはないけどさ、でも、先のことばっかじゃ、今のことおざなりにしてるよ」
「え?」
「だから、今をもっと大事にしたらってこと」
「……」
「結婚も、したいかどうかだろ。その人と一緒にいたいかどうかだろ」
「うん」
「後悔するかしないかとか、考えすぎだよ。だいたい、後悔しそうならやめりゃいいじゃん。そんなに一緒にいたい相手じゃないんじゃないの?」
「…じゃあ、ずっと一緒にいたい。この人といると幸せだって思える人が、もし、現れたら?」
「その人と、ずっと一緒にいたらいいじゃん。その人と結婚考えたら?」
「うん。でも…」
「でも何?また、なんかあれこれ、考えすぎてるんじゃないの?」
「う…」
「姉貴、いつもそうだよ。学校決めるんでも、仕事決めるんでもさ~~。自分が行きたいところにいきゃあいいじゃん。親の言うことあれこれ聞いて、こっちがいいのか、あっちがいいのか、あれこれ悩んで、一番、無難なところにして。仕事もさ、せっかく総合職の話きてたのに、それ受けたら結婚できないかもだの、自分には向いてないだの、やってみなきゃわからないって~のに。それに、仕事と結婚と両立だってできるかもしれないじゃん」
「そ、そんなこと言うなら、柚ちゃんも」
「柚はいいの、今は姉貴のこと言ってるの」
グウ、グガ~~~ッ。こんな言い合っている中で、よく寝てるよな~~と、つい二人でクロの寝顔を見た。
「俺も寝たいんだけど。すっげ、疲れててさ」
「わかったよ。おやすみ」
と、ドアを閉めかけ、
「最後にもう一つ、柚ちゃんさ、あんたのこと草原の匂いがするなんて言うことある?」
と聞いてみた。
「ああ、はいはい、草原の匂いもバラの香りもするってよ。おやすみ」
けっ。馬鹿にして…。と、私は舌打ちをして、部屋を出た。
はあ、痛いな。弟め、私の性格をよく知ってるじゃないか…。
そう、私は取り越し苦労ばかりをしている。ああ、あれだ。メニューの件でもそうだ。自分でこれだと決めて、人の方がおいしそうで、あっちにしておけばよかったと思うことが多々あり、それから、店のお勧めや、日替わりでも頼んでおけば、間違いはないかなっていう、そんな性格なのだ。
自分の意見をしっかりと持つ修二も桐子も、羨ましいし、素直で純粋で、無邪気な圭介は もっと羨ましい。
その夜は、なかなか寝れなかった。寝付けないならお酒でも飲もうと、ダイニングに行くと、母がテレビを見ながら、一人でビールを飲んでいた。
「あれ?めずらしくない?」
「うん、なんかお風呂はいったら、ビールが飲みたくなって」
「ふうん。私も飲みたくなってさ」
「な~に?病み上がりの人が」
「もう、大丈夫だよ。それ、少し分けてよ。コップ一杯だけ」
「わかったわよ」
小さめなコップを持ってきて、母がついでくれた。
「お母さんはさ、恋愛結婚でしょ?」
「そうよ」
「決め手は何?お父さんと結婚しようって決め手」
「ないわね」
「へええ?」
「そうねえ、しいて言うなら、お父さんのことを好きな人が、同期にいたのよね」
「へえ。それで?」
「取られたくなかったのよ。だから、こっちから、プロポーズした」
「まじ?!」
「まあ、結婚してくださいとは言わなかったわよ。でも、遠まわしにね」
「なんて言ったの?」
「柴田さんのような人と、結婚ができたらいいなって…。そんな感じ?」
「それで、お父さんは?」
「何も。でも、それ、おおっぴらにみんなで飲みにいったとき言っちゃったから、周りがさわいでさ、周りにこう、二人くっつけられた感じ?」
「お母さんの作戦じゃないの?それ」
「ふふ、違うわよ。飲んで酔って、本音をぽろって言っちゃっただけで、そんなにお母さん、恋のかけひきうまくないしね」
「それで、お父さんも、その気になったとか?」
「そうね~~。あまりそういうの話してくれない無口な人だから、わからないわ、いまだに。本人に聞いてみたら?ま、言わないだろうけどね」
「そんな無口な人、どこがよかったの?」
「あったかかったのよね、なんか、一緒にいて…」
「ふうん」
「それにあの頃は、わりかし、かっこよかったのよ~~」
「へえ!」
「あなたは?茂さんとどうなの?」
「う、うん…」
「お母さんね、結婚はやっぱりしてほしいけど、でも、何よりも幸せになってほしいのよ。だから、ただ結婚をしてほしいわけではないの。わかる?」
「幸せな結婚をしてほしいんでしょ?」
「そうなのよ」
「わかるよ」
「お母さんから見たら、茂さん良い人そうだし、幸せになれるんじゃないかって思うけど、でも、当の本人が決めることだから」
「うん」
「焦るなって言う年でもないしね。子供を生むこと考えたらさ、そろそろ結婚した方がいいって思うけど、でもね~~」
「私が決めることだから…ね」
「そ、お母さんもお父さんも、なんも言えないわ」
ビールを飲んで、柿の種をつまむと、母は、少しため息をついた。
「タイミングかしらね。結婚しても良いなって人と、結婚する年頃のとき、付き合ってたら、結婚する…」
「結婚適齢期ってあるのかな」
「ないとは言えない。子供のことを考えたらね」
「そうだね。は~~~~。なんでさ、世の中の人はそうやって、巡り会っちゃえるんだろうか?」
「そうよね。でも多分、ほとんどの人は、そんなことも考えず結婚してるわね。あなたは、考えすぎよ」
「く~~~。やっぱり?」
「頭で考えないで、ここに聞くの」
そう言うと、母は自分の手を心臓の辺りにおいた。
「ハート?」
「そう、感じてみること。考えてもわからない。でもハートはきっと、わかってる。出会えたらね、この人だって。そう感じたら、ゴー!一歩踏み出してみる!」
「うん」
「茂さんは、ハートで、感じなかった?この人って」
「え?」
「この人かも…でもいい。そんな予感でもいい。感じたから、もう一回会ってみたんじゃないの?」
「うん。どうかな…」
もう一回会ってもいいって思ったら、別の人に出会っちゃったからな。
「もし、ハートが違うって言ってるなら、部長に悪いとか、これを逃したらやばいとか、年齢がとかそういうの関係なく、断りなさい。ね…」
「うん」
ビールを飲みほし、ダイニングを出ようとして立ち止まり、振り返って聞いてみた。
「それは、やっぱり私から本人に?」
「え?」
「その、断るときにはさ…」
「そうね、今回はあなたからの方が、いいかもね」
「うん」
ドアを開け出て行こうとすると、母のため息が聞こえた。やっぱりだめだったかって言う、ため息のようだった。
部屋に戻り、カーテンを開けて夜空を見ると、月が綺麗に見えた。
ハートに聞く…。今に生きる…。母と弟の言葉を思い返して、一人でつぶやいた。
今、私の心にいるのは、どっからどう考えても、いや、考えなくても、圭介一人だ。圭介しか住んでない。もうどっぷりと圭介が住んでいる。答えは出ている。
ただ、私のすることは、私の心に素直になる、それだけだ。今、このときに生きて、心に素直に生きる。それが今の私には大事なんだ、きっと…。
不安と期待と、いろんなものが入り混じって、その夜は、本当に眠れなかった。