5 再会
静かに家に入った。だが、クロが気づいて、カリカリカリってリビングのドアをひっかいているのが聞こえる。
「瑞希なの?」
母の声がしたが、
「うん、もう疲れてるから、寝る」
と言って顔も出さずに、私は2階へ直行した。顔が涙で濡れているのを、母には見られたくなかった。
トントントントン。クロが2階に上がってくる音。それから鼻をドアにくっつけて、く~んってないている。
「いいよ、入って」
ドアを開けると、尻尾をふって入ってきた。そして、私の横に座ると、私のほっぺをなめだした。
「やだな、なんでわかるの?私が泣いてたのを…。そうやって、いつも慰めてくれるよね。泣いてると、いつも…」
ぎゅう…。クロに抱きつく。抱きつけるサイズの犬でよかったって思う。クロはそのまま、じっとしている。尻尾はふったままで。
「おりこうだね。クロは…」
そう言って、頭をなでると、クロはまた、く~~んとないた。
涙がポロポロまた出てくる。クロには心が通じるのか?優しい暖かいぬくもりだった。
3月終わりの日、退社した。その日、部で送別会をしてくれた。涙での別れになると思いきや、泣くことはなかった。12年もいた会社なのにな。
部長がご苦労様と言ってくれ、同じ課の女の子がお花をくれた。
総務でも送別会があり、ちょうど同じ時間に終わって、桐子と一緒に帰ることにした。
「この電車ともお別れか~~」
「桐子の旅館行くからさ。いつ静岡に行くことになった?」
「1週間後。それまでに一回うちに遊びにきなよ」
「1週間後か、早いな…。行けるかな…。夜でもいい?私あさってから、働くんだ」
「え?」
「言ってなかった?最近仕事忙しかったもんね、お互い、引継ぎとかで…」
「部長が薦めてくれたってところ?」
「そうそう、榎本部長の学生時代の後輩が社長らしいよ。小さめのIT関係の会社だってさ。結婚するかしないかは、まだ決めてないんだけど、結婚しても続けたらいいし、結婚しなくても、仕事したらいいって。ま、契約社員なんだけどね。部長が話を通してくれたんだ。ちょうどそこ、前の契約社員が期限切れて、やめたらしくってさ」
「よかったじゃん。榎本部長さまさまだね」
「うん、足向けて寝れないや~~」
「でも、なんでそんなによくしてくれるの?お気に入りなの?瑞希のこと」
「違うでしょう~~。ほら、甥っ子とお付き合いしてるからじゃないの?」
「ふうん…。で?その甥っ子とはどう?進展は?」
「うん。まだ、4回しか会ってないからな~」
「え?そうなの?」
「なんかね、忙しいんだよね、彼は。日曜も、大学病院の入院患者さんみにいったりしてるしね…」
「検診?」
「お見舞い」
「は~?」
「よくわからないけど、ほら、茂さんの患者さん、入院したでしょ。他にもいるらしんだ、入院してる子。普段の日は行けないから、日曜に会いに行ってるって」
「仕事熱心だね」
「子供好きなのかな?」
「子供好きな人はいいけど、結婚しても家にいないのは嫌だね」
「結婚か~~。結婚は今いち、ぴんとこない」
「んなこと言ってるけど、誕生日が来て、33になった人は誰よ」
「それを言うな~~!」
そうだった、33歳だ。ぞろ目だ。ああ…。だからね、茂さんと、別れていいものか、どうかわからないんだ。好きかどうかもわからないのにね。
結婚ってなんだろうって最近思う。両親は恋愛結婚だったらしい。それも、社内恋愛だ。
兄も社内恋愛だった。大学時代に付き合っている彼女とはさっさと別れ、会社の後輩でかわいかった子を口説き落とし、結婚したんだよね。なかなかの強引さだったようで…。まったく、兄ときたら…。
弟も、先生と生徒という、禁断の恋をしちゃってさ…。って、今はそんなに禁断ってほどでもないのかな?
それにしても、みんなどうしてそんなに、好きな人が簡単に現れるんだろうか。いや、どうして私には現れてくれなかったのか。
それとも、あるところで、妥協をしなくちゃいけないのかな?結婚ってさ…。
妥協か…。だったら、茂さんは、いい線をいっているかもしれない。医者だしな…。
よく桐子に、何を迷ってるの?これを逃したらないと思えって言われる。兄にも、弟にも言われる。逃がした魚は大きいのよ…ってこの前、いきなり母にも言われた。
魚料理をしていた横で言い出したから、なんのこっちゃって思ったけど、茂さんのことを言っていたんだろうな~~。
わかっているよ。でもね、そういう話って、女の私から持ち出すものなのかな?
「結婚どうしますか~~?」
とか、
「いったい、結婚する気はありますか~~?」
なんてさ…。っていうか、それ、自分に聞かないと…じゃない?
「瑞希、結婚する気はありますか?ないのに、付き合ってていいんですか?もしかしたら、期待させてるかもしれないですよ」
だよね~~。
翌日は昼近くまで寝た。開放感を味わったが、すぐに新しい仕事が待っている。仕事があるのだから文句は言えないが、もう少し開放感は味わいたかったな。
会社は横浜にある。新宿よりも全然近くてありがたい。
会社の規模も小さいし、社員の数も少ないし、給料も少なくなるが、そんな文句も言えないし、贅沢も言ってられない。仕事があるのだから…。と、思いつつも、今までの会社を辞めてまで、移る価値があるのかは疑問だった。
緊張で寝れなかったのか、昨日昼まで寝ていたからか、ほとんど寝れずに朝が来た。
少しはれぼったい目のまま、化粧をする。のりが悪い。あ、花粉症のせいもあるね…なんて思いつつ、不安と期待が入り混じる。
どんな人がいるのか、どんな出会いがあるのか…?
会社に着いたのは、始業の時間の20分も前だ。 まだ、早いかなと思いつつエレベーターに乗る。オフィスに着き、ドアを開けるとすでに、何人かの人がパソコンに向かって仕事をしていた。
「おはようございます」
後ろからいきなり、声をかけられた。
「もしかして、今日から来た契約社員の方かしら?」
「は、はい…」
20代前半か、後半か、化粧が濃くてわからない。
「私、経理の稲森です。よろしく」
「あ、私、柴田瑞希です。よろしくお願いします」
「ね、今、おいくつ?」
いきなり、年を聞くか~~?
「33歳です」
「あら。じゃあ、2歳年下か~~」
「へ?」
「へ?って?私、いくつに見えた?」
「てっきり、20代に…」
「うふふふ~~。いい人ね、気が合いそうよね」
若作りか…って言葉は飲み込んだ。
同年代がいてくれて、安心したような、していないような…。
そこに、前からつかつかと、白髪交じりだが、すって姿勢がよく、若い感じもしないでもない男性がやってきた。色黒、腕に金の時計をしている。
「柴田さん?」
「はい」
「榎本さんの後輩の笹塚といいます。よろしく!」
すって、手を差し出した。握手の手、らしい。おそるおそる握手をする。こういうときに、握手をしたのは初めてだ。
「柴田瑞希です。よろしくお願いします」
「今日は、とりあえず、会社に慣れてもらうってことで、ま、伝表の仕分けや簡単なパソコン入力でもしてもらおうかな。え~とね、まだ、来てないけど、昨年入った新人君から教えてもらってよ。今年は正社員採ってないからさ、彼がまだ、この会社では1番の新人なんだ」
「はあ…」
昨年入ったってことは、23歳くらいかな?大学での、若い子か…。
「あ、来た来た。紹介するよ」
ドアがいつの間にか開いてて、そこから、すうって風が入ってきた気がした。振り返ると、白い歯をにかって見せながら笑っている、圭介君がいた。
「?!」
「柴田さん、もしかして面識あるのかな?榎本さんの息子さんの榎本圭介君」
「え?あれ?…はい、いえ、でも、あの…」
すんごい動揺の仕方を隠し切れず、言葉が出なくなった。
「一回、お会いしたことがあります。どうも!その節はお世話になりました」
圭介くんが元気に挨拶をして、ペコっと深くお辞儀をした。
「あ、はい…」
こっちも、お辞儀をした。
「顔見知りなら、よかった。仕事もやりやすいでしょう。圭介、柴田さんにいろいろと教えてやってくれ。じゃ、柴田さん、昼は、みんなで食べに行くとして、そこで、歓迎会でもしよう」
「あ、はい」
ペコ!社長の笹塚さんにお辞儀をした。
「ここ、柴田さんの席だから」
圭介君が、自分の座っている横のデスクの上を軽く、グーでたたいた。おそるおそる座ると、
「びっくりしました?」
と、あどけない顔で圭介くんが聞いてきた。
「うん、だって部長何も、言ってなかったし」
「やっぱり?親父ってそういうの、何ていうの、言い忘れること多いんすよね。俺も昨日聞いたばかりで、すんげえびっくりして…。でも、お前は驚きすぎだって逆に驚かれた。はははは…」
なんて無邪気に笑うんだろう…。
やばい。だんだんとこみあげてくる。嬉しい…!今、最高ににやけてるかもしれない。
顔を見ないようにして、反対方向を向いて言った。
「圭介君、緊張してのど渇いてて、水とか自販機で買ってきてもいいのかな?」
「ああ、エレベーターの裏のところに、自販機ありますよ」
「ありがとう」
急いで、自販機へとお財布を持って向かった。その先にはトイレもあったので、先にトイレに行くことにした。
鏡で顔を見ると、やっぱり赤い。口がにやけていて、なんともみっともない顔をしている。
手を洗い、化粧ももっと、念入りにすればよかったと後悔し、濡れた手で髪を整えた。それから、自販機で水を買い、オフィスへと戻った。
「ここ数週間はわりかし、暇してます。あ、暇してても定時にあがることなんて、絶対にないですけど。でも、会社に泊り込んだり、徹夜で仕事したりって時期ではないんです」
「そんなときもあるの?」
「柴田さんは契約社員だし、定時にあがれますよ。多分」
そんなに忙しいのか。ああ、そういえば忙しくて、彼女と会えず、別れたって言っていたっけ。
「ITは忙しいって有名でしょ?ま、ここの会社はまだ、ましな方ですよ」
「そうなんだ…」
「大変なところにきたって思ってます?辞めるなら今かなって…」
「ううん。全然、頑張って働く気満々だよ!」
「あはは。そうですか、頼もしいな~~」
だってほら、その笑顔だよ。それ見れたらもう、頑張れちゃうでしょう~~!
ミスチルの歌がまた、頭の中で流れ出す。何だっけ?歌詞…。世界が輝くとかって…。
ああ、違う、今はあれだよ。ドリカムの、嬉しい楽しい大好き。
え?え?え…?嬉しい…、大好き……?
思わず、真っ赤になったのを、自分でも気づいた。でも、周りには誰も人がいなくって、気付かれずにすんだ。当の本人の圭介君も、社長に呼ばれてデスクを離れていたし。
好きなんだっていうのはもう、自覚している。 だけど、会うわけない人だからって、封印しようとしていた。
だけど、だけど、会っちゃった…。これ、運命かな?
……待てよ。……ちょっと待ってよ。好きになったとしても、どうすることもできないのか? 私、今、茂さんと付き合っていて、圭介君は、茂さんのいとこで、部長の息子さんで、12歳も下で、12歳も…。……そうだ。相手にされるわけないんだった。
ちん…。
エレベーターが一階に着いた。と同時に、あんなに浮かれていた心が、沈んでしまった。
「さ、柴田さんの歓迎会だ。どこに行こうか?」
社長が、声を高くして盛り上げようとしている。
「いつものところで、いいんじゃないですか~?」
化粧の濃い、稲森さんが、だるい感じで、言う。
「いつもの店」ってところに入った。奥に座敷があり、ちょうど社員全員が座れるほどの大きさだった。
そう、社員は少なく、8人しかいない。経理の稲森さんも契約社員で、私も入れると10人…。
稲森さんはどうやらその中の、見るからに、一人の男性が気に入っているようだった。
30歳前後の、ちょっと渋さも入った、イケメン。う~~ん、芸能人で言うと、仲村トオル。その人の横をずっとキープしている。
私の横には、誰かな?名前も印象も薄い、ついでに、髪も薄めの年齢不詳の男性が右に、社長が左に座っている。
圭介君は少し離れていた。圭介君はどうやら、誰とでも話せる明るい人懐こい性格のようで、周りの人たちと、始終笑いあっていた。
会社のマスコット的存在なのか、1番年下だからか、「圭介、圭介」とみんなにかわいがられているようだった。
ちょっと離れてるからこそ、ときどき、その笑顔を、視界の中に入れることができた。そして、時々目が合った。目が合うと、胸がぎゅってするから、なるべく、視線をはずすようにした。だけど、次の瞬間にはもう、彼の姿を目が追う。その繰り返しだ。
周りの人と話しながらも、彼の声や、笑い声に耳をそばだてた。どんな会話をして、どんなことに興味があって、どんなことで笑うのか、一つ発見するたびに心が躍っていた。
午後は、稲森さんが、伝表の仕分けを手伝ってと言って来た。
応接コーナーのようなところがあり、そこで、二人で向かい合って座り、作業をすることになった。残念なことに、仕切りがあり、ここからは、圭介君が見えなかった。
「ね、柴田さんは、結婚は?」
「してないです」
「あ、そうなの?一回もまだ?」
「はい」
「私はバツ一。離婚して、3年になるんだわ。離婚してからこの会社に来て、だから、勤めだして2年半くらいかな」
「そうなんですか…」
「結婚もね、2年しか続かなかったわ。でも同棲は長かったのよ。4年していた。同棲してうまくいってたら、結婚してもうまくいくって思わない?だけど、やっぱり結婚と同棲は違うのよね」
「そういうものなんですか」
「男の人と暮らしたことは?」
「ないです」
「今、もしかしてご実家に?」
「はい。稲森さんは?」
「離婚して一回は戻ったの。でもさ、出戻りもいづらいのよ。兄のお嫁さん同居してたし。すぐに一人暮らしを始めたわよ」
「ふ~~ん」
「こんな話つまらないか」
「あ、いえ、すみません。私話を膨らませるのが、苦手で…」
「人見知りする方?」
「はい。ごめんなさい」
「謝ることないけど」
「はい…」
その後は、気まずくなり、沈黙が続いた。
この人とは気が合うのだろうか?桐子とも、藤子さんとも、違うタイプだ。
私は、人見知りもするし、初めての人は苦手だし、大勢の中にもなかなか、入れない方だ。でも、いつの間にか、仲のいい人ができている。藤子さんもそうだったしな…。
だから、稲森さんとも大丈夫だよって思いつつ、不安もよぎる。
この人で二人目か…、私の周りでいるバツ一。
藤子さんといい、稲森さんといい、不倫をしていた桐子の彼といい、結婚っていいものなのか、どうなのか考えてしまう。
結婚をして幸せになっている友人が、多いわけではないからな…。
一人身の友人といると、結婚が羨ましいと言いつつも、一人身の楽さのほうが勝ってしまう。そんな共通点があり、一人身の友達通しで会って、わいわいと楽しんでしまう。とはいえ、そんな友人も最近ぐんと減ってしまったが。
もう、結婚をあきらめ、一人身で仕事に燃えようというタイプと、まだ結婚はあきらめないと、結婚相談所や、お見合いを頑張るタイプとに別れるが、私の場合はどっちでもないな。
「さて、これで終わり。ありがとうね、手伝ってくれて」
稲森さんが突然大きな声を出して、驚いてしまった。
「終わったっすか?もう、柴田さん、返してもらってもいいっすか?」
いきなり、応接コーナーのブースから圭介君が顔を出した。
「ちょっと、今の話聞いてた?盗み聞き?」
「んなの、何回も飲んでは聞かされてますよ、今さらですから。盗み聞きも何も、聞こえるくらい大きな声でしゃべってるのは、そっちじゃないっすか」
「圭介、生意気!」
圭介…。稲森さんもそう呼ぶのか。
「はいはい、大事な柴田さん、お返ししますよ。もしかして、圭介の好みですか~?」
ええ?ドキ!なんつうことを聞くの。
「そうっすね、ストライクゾーンど真ん中っすね」
ええ…?って、思い切りそういう冗談で返すのか?
「柴田さん、ちょい、パソコンの入力お願いしてもいいですか?」
「はい」
「前の会社で、ワードやエクセルやってました?」
「あ、はい。簡単なのなら、一応」
「じゃ、この辺の入力できますよね」
「うん。ああ、できると思う」
「じゃ、一応、流れだけ、教えるんであとはお願いします」
「はい」
圭介君はいすを、私のデスクの方に寄せてきて、顔を近づけパソコンの入力の仕方を、教えてくれた。耳の直ぐ横で聞こえる声と、マウスを動かす指が綺麗で、どきどきした。
こんな時、比べるなんて悪いって思うけど、つい、茂さんと比べてしまう。声も、手も、笑い方や、視線や、かもし出す空気や…。
茂さんも、あたたかい人だが、圭介君はそれだけじゃない。隣にいて、あたたかいって思うときもあるけど、ときめいて、ふわふわして、夢心地の気持ちにさせてくれる。
恋なのかな…。恋をしているのと、していないのとの差なのかな。
だけど周りの人に、それを悟られないよう、せいいっぱい普通をよそおい、必要以上に話さないようにした。でも、すぐ隣にいる圭介君には、胸の鼓動も、頬の熱さも伝わってしまったのではないだろうか?
桐子から夜電話が来たのは、4月も半ばを過ぎる頃だった。
「ゴールデンウイークに、うちの旅館に来ない?」
その声は明るくて、透る声だったから、あ、元気でやっているんだってことが、すぐにわかった。
「一人ででもいいし、彼とでもいいよ」
「彼?」
とっさに、圭介君の顔が浮かんだ。
「そうよ、医者の彼」
「あ、茂さん?忙しくて無理だよ」
「え?他にもいるのかな?」
「違うよ。彼って言われても、ぴんとこなかっただけでさ」
と、私は少し慌てて嘘をついた。
「でも、ゴールデンウイークはかきいれ時でしょ。行って悪くない?」
「う~~ん、本当はゴールデンウイークじゃないときにしたいけど、空いてる時あるの?」
「土日なら、あるかもね」
「ま、考えといてよ。瑞希はいつでも、ビップ扱いだからさ」
温泉か~~。桐子にも会いたいし、そうだ、藤子さんを誘おうか。あ、でも、息子さんがいるものね。
お母さんとでも行くかな…。
まさかな…、まさか、稲森さんとは無理よね。いまだに、仲良くなれてないしな…。