4 切ない恋
家のちょっと前で、車を止めてもらった。なんだか、親に対して悪いような気がして…。
「今日は楽しかった。ありがとう」
「俺も、楽しかったです。あの…」
圭介くんは、何か言いたそうだった。
「…何?」
「いえ…。それじゃあ…」
圭介くんは軽く頭を下げて、車を発進させた。私は、車が角を曲がるまで見送った。
それから、家に入ると、
「ちょっと、何してたのよ?」
と、いきなり、母が聞いてきた。
「え?何って…」
「桜井さんから電話あったわよ。今日行けなくて、すみませんって。まだ帰ってないって言ったら、また電話しますって。桜井さん来ないのに、なんでこんな時間まで帰ってこないのよ?」
「あれ?桜井さんは何も言ってなかったの?」
「何が?」
ちょっと母は、むっとしている。
「今日ね、桜井さんの代理で、部長の息子が来た」
「ええ?他の人とデートしていたの?」
「ちょっと~~、デートって言っても相手は一回りも年下だよ。子供だよ、子供。部長がね、私に申し訳ないからってさ、代理人として、行ってこいって、命令されたらしいよ」
「あら、そうなの?まあ、部長の息子さんじゃ、無下に断れないわね。で、今までずっと?」
「え?ううん。映画だけだよ。そのあとはさ、ぶらぶら洋服見たりしてさ。だって、せっかく出かけたのにもったいないじゃん、そのまま帰るの」
「ふうん。あ、桜井さんにはすぐに電話しなさいよね」
「は~~い」
ああ…、なんで私、嘘をついたんだろうか。
茂さんに電話しづらいな。でも、こういうのはすぐにしないと、もっとしづらくなるのよ。
やっと子機を握り、2階にあがって電話をした。茂さんは、平謝りをしてきた。
「本当に、申し訳ない。この埋め合わせは絶対にするから」
「いえ、大丈夫です。それに患者さんだもの、しかたないです。全然気にしてないですから」
「いや、でも、埋め合わせはします。映画、来週こそ観に行きましょう。あ、何にしますか?」
「え?、あの…。今日観ましたよ。代理で来たいとこの、部長の次男さんと…」
「え?圭介?圭介が行ったんですか?代理って?」
ああ、やっぱり知らなかったのか…。
「部長が気を利かして、いえ、気を使ってくれて、息子さんを代理で、来させたみたいで…」
「じゃあ、今までもしかして、圭介と?」
「いえ、あの、映画観たくらいで…」
「すみません。あいつ、何かそそうしませんでしたか?」
「大丈夫ですよ」
そう言うと、沈黙になってしまった。ああ、やばい。
「すみません。埋め合わせはもう、あいつがしてくれたんですね」
「……」
なんて言ったらいいんだろうか…。
「じゃあ、今度、食事でも…」
「はい。また、空いてる時間に電話ください。私、週末はたいてい家にいますから」
電話を切ると、重いため息が出た。
お風呂に入り、バスタブにつかる。水面を見ていると、浮かんできたミスチルの「花火」のメロディ。目をつぶると浮かんできたのは夕日。圭介君越しの夕日だ。
「もう、会えないんだ…」
ぽつりとつぶやく。その声が、エコーもかかることなく、水面に沈んでいく。
♪もう一回 もう一回 もう一回 もう一回 何度でも君に会いたい♪
その部分だけが、繰り返す。リピートする。何度も、何度も…。
翌日、もやもやしている重たい心をもてあましながら、会社へと向かった。ため息混じりに席に着くと、部長がすっと横にやってきた。
「昨日は、茂君、急患がいたみたいで…」
「ああ、はい」
「うちの次男坊が、ちょうどどっかに出かけるところだったから、急いで車で行かせたんだけど、ずいぶん待たせてしまったかな?」
「いえ、そんなでもないです」
「すまないね…。他には何もアイデアが浮かばず、でもあとから考えたよ。あんな若ぞうを行かせるよりも、電話した方が早かったって。映画や食事までつき合わせたんだろう?あいつは暇していたから、別にいいんだが、つまらない思いをかえってさせたんじゃないかな?」
「いいえ、そんなこと…。楽しかったです。あの…、圭介君にはお礼を言っておいてください」
「ははは。いいんだよ、あいつの方が、よっぽど楽しんでいたみたいだから」
ギクギク…。いったいどんな話を部長にしたんだろうか…。気になった。でも、聞けなかった。
ああ…。圭介君はあくまでも、代理。もう、会うことはないんだな…。
ぼ~~っとしながら、コピーをとっているところに、桐子が来た。
「おはよ。瑞希」
「あ!」
桐子の顔を見て、昨日電話をくれたことを思い出した。
「昨日は、ごめんね。急いでいたから。何か用だった?」
「ううん。なんでもない」
少し、顔色が悪かった。
「それよりお見合い、どうだった?」
「う~~ん。今日帰り、時間あるかな?昼でもいいや」
「んん?ゆっくりと話を聞いてほしいってか?」
「うん…」
「了解。じゃあ、昼は隠れ家で食べよう」
隠れ家というのは、たいしたことはない。歩いてほんの数分のところにある、地下の創作料理屋のことだ。地下にあって、うちの社員があまり行かないので、相談事をするのにそのお店を使っている。
桐子が休みの日に、いきなり会えないかと電話してくるのは、めずらしいことだ。何もないわけはない。私の話も聞いてほしかったが、桐子のことも気になっていた。
気丈な彼女が、私に相談事をしてくることはめったにない。元彼と別れたときにだって、別れて一週間もしてから、報告してきたくらいだし。
私はつい、桐子に頼ってしまうところがある。時々、うじうじしている私に渇を入れてくれることもあれば、彼女に話すと笑い飛ばしてくれることもあるから、とっても楽になるのだ。
昼、エレベーターの前で、いつも、なんとなく待ち合わせをしている。今日は桐子のほうが先に来て、私を待っていた。
「ごめんね。注文の電話がはいっちゃってさ…」
「うん、そんなに待ってないよ」
「さて、今日は何を食べようかな」
「ははは。瑞希は何食べようかとか言って迷っても、結局日替わりランチなんだよね」
「ま、そうなんだけどさ」
「あと、お店のおすすめとかに弱いよね」
「桐子は同じメニューばかり」
「こだわりがあるのよ。お店によって、注文するものが決まってるの!」
「頑固一徹!」
「瑞希は人の意見に流されやすい!」
うう、当たっているだけに、なんとも…。
そのうえ、私はね、流されやすいけど保守的なの。人の意見を聞いてはふらふらし、でも結局、動かないでこのままでいようって、殻に閉じこもるのよね。
桐子は、自分がこう思ったら、こう!っていう頑固なところがあって、でも、行動するときには、どんどん行動するタイプ。真逆なんだよね。
「私たちが仲いいの、不思議よね」
ちょっと遅くなったから、店は満員で、ウインドーの脇に並んでいるいすに腰掛け、席が空くのを待っていながら話をしていた。
「価値観、考え方、全然違うのにね」
「うん、でもさ、だから面白いのかもよ。瑞希みたいなタイプは周りにいなかったからさ」
「私も、桐子みたいなタイプいないわ。周りみんな、うじうじしているタイプで、みんなしていじいじ、うじうじ」
「ははは、くら~~い。私の周りはいけいけ~~!ちょっとは、考えて行動しようよって感じだったからね」
「お二人でお待ちの柴田様、どうぞ」
席が、空いたようだ。それぞれ注文をして、水を飲んで、一息つく。
「で?お見合いは?相手は速攻お断りしたいタイプだった?」
「それ、即行の間違えじゃない?早い攻撃してどうするの?」
「あれ?わかる?漢字の違い、言葉だけで…」
「なんとなくね~~。ああ、あのね、生理的に受け付けない…」
「え?また?」
「ってわけじゃなかったよ」
「あら?あらら~?もしや、好みのタイプだった?」
「う~~ん、好みでもないと思うけど、害はないって感じ」
「ふ~ん、いい人って感じですか?」
「うん。そんな感じだね」
「お待たせしました。日替わりランチのお客様」
「はい」
って結局、私は日替わりランチにした。
箸を割り食べだすと、マイ箸をかばんからごそごそと、桐子が出した。
「今日も持ってたか~~。マイ箸」
「君はいつ、持つのかな?マイ箸」
えらいなと思いつつ、そこまでする?とも思う。
「桐子は?」
「何が?」
「昨日、本当は何か、あったんじゃないの?」
「う~~ん、するどいな」
「そりゃね、何年の付き合いだと思ってるの?で?」
「あのね。元彼がさ、奥さんと別れたってさ」
「え?あのずっと付き合ってた、不倫の…」
「それ、不倫って言葉嫌いなんですけど…」
「あ、ごめん」
「電話がね、土曜にあって、日曜会えないかってさ。私一人で行きにくくて、ついてきてもらおうかなんて、私らしくもないこと思っちゃったわけ」
「そうだったんだ」
しばらく二人、沈黙で、もくもくと食べていたが、先に沈黙を破ったのは私だった。
「それで、会ったの?」
「ううん。会ってない」
「…会いたくなかった?」
「もう、終わった恋だしさ」
そう言うと、水をぐぐっと桐子は飲み干した。
「けっこう、別れてからひきずったんだ。泣いたしね。別れてくれって言ってきたのは向こうだったし、奥さんにばれて、奥さんがなんていうのかな、ちょっと鬱みたいになっちゃってね。って話は少ししたっけ?」
「ううん。別れたってことしか、聞いてないよ」
「奥さん裏切れないって言われてさ、その時はどうしようもないし、別れた。奥さんと別れてほしいとか、私と結婚してほしいとか、そういうのなかったし…」
「そっか…」
「…ううん。心のどっかでは、願ってたかな…」
「…うん。そっか…」
「でもさ、今回ね、奥さんに男ができたんだって」
「え?」
「それで、奥さんから別れてほしいって、言われたらしいよ」
「それで?それで、今になって桐子に?」
「うん。より戻さないかって。遅すぎるっちゅーのって感じでしょ?」
「そうなの?遅いの?まだ誰ともその後付き合っていなかったのは、元彼のことが忘れられなかったからじゃないの?」
「…でも、私はもうね、決心したのよ。田舎帰るって。だから、遅いの…」
「でも、その彼とより戻したら結婚も…」
「できないよ」
「なんで?」
「女将になるんだよ。相手には、婿養子になってもらうかもしれないんだよ。彼はね、専務なの。今の会社辞められないの。静岡なんて来れないんだよ」
「だから、女将になる必要がないんじゃ…」
「私、長女なのよ。継がなきゃならないのよ」
「だって妹さんもいるでしょ?それに今すぐじゃなくても、まだお母さんだって、お父さんだってさ」
「だめなの!」
ボロ……。桐子の目から涙が出た。大きな大きな涙のしずくだった。
こんな桐子は初めてだった。興奮して話して、いきなり泣き出す。
「ごめん、言ってなかったけど、お父さんね、倒れたのよ。半身不随なの。お母さんはその介護で毎日病院行ってるし、妹たちも、旅館手伝ってる」
「え?」
「妹たちがいるし、私には会社があるからって、帰るのやめてた。妹たちには申し訳ないけど、もし帰ったら、二度と東京には来れないだろうって思ってたから」
「……」
「東京離れられなかったのは、彼がいたから。そうよ。未練たっぷりだったの。より戻したかったのよ。ずっとね…。でもね、肩たたきされて、決心がついたの。静岡に帰る決心も彼をふっきる決心も。だから…、だから……」
桐子は涙を拭き、言葉を詰まらせた。
「妹さんには、任せられないの?」
「…知ってるんだ私。すぐ下の妹、遠距離恋愛してて、彼は名古屋にいる。転勤になってさ。多分、結婚したいんだよね…」
「……」
「3番目は、もう結婚してる。だんなさんは自営業なの。そのうち、妹もそこ手伝わなきゃならない。だから、私なのよ。後を継ぐのは…」
うちは、普通のサラリーマンだ。もし、お店をしていたとしても、継ぐのは兄か弟だ。女の私は気楽なものだった。だから、桐子の気持ちも、事情も理解しきれないところがあって…。
わかるとも、辛いよねとも、彼と結婚しなよとも、実家に戻って継ぎなよとも、何もアドバイスできず…。
「知らなかったよ、桐子何も言わないから」
「私さ…、長女でしょ。それもうちの親はいつも働いてて、おばあちゃんに育てられたけど、きびしい祖母でね。早くから旅館も手伝わされてたし、悩みとかも、誰かに相談することなかったし、いろんなこと頑張ったり我慢したりしてきて、一人で解決したり、一人で悩んだりして、ずっと生きてきたんだ」
桐子は、少し間をおいてから、話を続けた。
「私って、妹の悩みを聞いたり、友達の悩みを聞いたりしてばっかりだったな。でも、私が自分の悩みを打ち明けたり、相談したりってどう話したらいいか、それすらわからなくって…」
「でも、今話してるよ」
「ははは、そうだね。そっか、こんなふうに、話せばいいんだ」
「うん、そうだよ。私は頼りないし、桐子みたいなアドバイスもできないし、しっかりしてないし。でも、聞くことだけはできるよ。聞くことしかできないかもしれないけど…」
「やば~~~い」
「え?」
「泣きそうだ。胸腺に触れちゃったみたい。うわ…」
「ええ?何それ?」
「瑞希…、ありがとう。そっか。聞いてもらえるだけでも、楽になるね。ありがとう…」
そう言うと、桐子は目を押さえたまま、うつむいた。
強かったわけじゃなくて、強がらないといられなかったんだ。ずっと、そうやって、一人でいろんなこと抱えて、生きてきたんだな。
ここが創作料理屋じゃなかったら、せめて夜で飲んで酔っ払っていたら、その勢いで桐子のことをハグしたのにな…。
その日、はじめて桐子が、小さくて、幼くて、そして愛しく感じた。
「先に戻ってて、化粧直してから行くよ」
桐子は更衣室に戻ると化粧ポーチを広げ、いすに座って手を後ろ向いたまま振った。
桐子に、圭介くんのことは話せなかった。だいたい話す必要もないね。もう会わない人だし、だいたい12歳も下だよ。何かあるわけないじゃない。って、そんなこと懸命に自分に言い聞かせている。
言い聞かせているって気づきながら、そのことも否定したくなっている。
それにしても、桐子の恋も切ないな。ずっと思っていたときには叶わなくて、きっぱり忘れようって決めたら、向こうから会いたいって言ってくるなんてさ。私だったらどうするだろうか…。
…わからないや。だって、そんなに一人の人を、ずっと思ったことってないんだもの…。だから、なんのアドバイスもできない。
ああ、アドバイスって言うのは、いろんな経験してきた人が人にできることなのかな?
桐子は、元彼とは会わないって決めたようだった。会ったら決心がぐらつく、そう思っていたみたいだ。
私はというと、2週間後に茂さんから電話が来て、食事をする約束をした。 今回はきちんとお互いの携帯電話を交換し合い、事前にもし何かあっても連絡が取り合えるようにした。
医者という職業は大変だな…。もし結婚しても、大変なんだろうな。ふと、そんなことがよぎる。
約束の時間の5分前に行くと、茂さんはもう来ていた。渋いスーツを着て、その上にコートをはおっていた。私も、夜の食事ということで、ワンピースにカーディガン、それにコートをはおっていった。
「すみません、お待たせして」
「いや、僕も今来たところです」
茂さんはちょっとぎこちない笑顔で、迎えてくれた。
「この前は本当にすみませんでした」
「いいえ」
「実はもっと早くに電話をしようと思ったのですが、その、タイミングがどうも、わからなくて…」
茂さんは、素直な人なんだろうな。そういうことって、あまり口に出して言わないものじゃないかって思うし…。素直というか、誠実というか…。
「あ、先週は私、少し風邪気味だったので、今週でちょうど良かったです」
これは、本当のことだ。数日だるかったし、咳も出ていたから。
「そうですか、そういうときには、薬出しますよ。うちの病院に来てくだされば」
「あ、そうですね。お医者さんですもんね。でも、私子供じゃないし…」
「あ、ははは。それもそうですね」
この人といると、なんだか、ゆったりとできる。言葉数少ない人だけど、安心感があるっていうのかな?
食事がすむと、車で送ってくれると言い、駐車場まで一緒に歩いた。
車まで着くと、なんだか緊張した。助手席のドアを開けてくれて、そういうところは紳士だなって思う。
茂さんは、運転も慎重な運転だった。だけど…、私の心はここにあらずだった。
車の運転をする茂さんの手を見ながら、思い出しているのは、圭介君の綺麗な手だった。線が細い指と、上手な運転。
かかっている曲も違えば、外の風景まで違う。車の中で流れていく時間までが、全然違っていた。
圭介君越しに見る風景は、きらきら輝いていた。時が止まっているかのようだった。ミスチルの歌と彼の声と、外の夕日とすべてが、一瞬の中のきらめく絵のように、ずっと続く永遠の時のように感じられた。
ぎゅ~~~。胸が締め付けられた。急に息苦しくなった。あの空気は?あの空間は?あの時間は何だったんだろう?
外の風景は色あせていた。車のヘッドライトがすべてモノトーンに見えた。音楽は雑音になった。茂さんの話にあいづちをうつが、何も頭に入ってこない。
今この時が自分だけ残して、どんどん後ろへと流されていく。私だけ時が過去へと戻っていく。今は、隣にいない、圭介君との時間へと戻っていく。
「送ってくれてありがとうございます」
そう言い残し、車を降りドアを静かに閉めて、ぺこってお辞儀をした。茂さんも軽く会釈をして、そのまま車は去っていった。
夜空には、たくさんの星が輝いていた。
ポタポタ…。空を見上げてから、下を向くと、涙がこぼれた。驚いた。私、泣いてる…!ポタポタ、ポタポタ…。うつむくと、アスファルトの上に涙が落ちる。どんどん、とめどなく…。
なんなんだろう?これ。なんなんだろう…。
また、頭の中に、ミスチルの「花火」のメロディが、流れ出した。
…会いたい。会いたいのは、圭介君で…。でも、もう会えない。会えないんだ……。