27 閉ざされた心
翌朝、早くに起きて、お弁当を作りにキッチンにいった。少しすると、母も起きて来て、手伝ってくれた。
「なんだかね。お母さんには、信じられない話だわ…」
突然母が、言いだした。
「何が?」
「がん細胞が消えちゃうだなんて」
「お母さん、やめてよ。周りがそういうふうに疑っていたら、圭介だって前向きに考えられないじゃない!」
私は、母にくってかかった。母はすぐ、
「ごめん、瑞希。そうよね。まずは周りが信じないと…」
と、申し訳なさそうに言ったその瞬間、ドスンという、大きな音が2階から聞こえた。
「圭介?」
慌てて、母と圭介の部屋に行った。
「圭介?」
ドアをノックして、呼んでも返事がない。
「どうした?」
修二が、私と母の声で、起きてきた。
「開けるよ、圭介」
ドアを開けると、圭介がベッドの横で、倒れていた。
「圭介!」
修二がかけよった。修二の後ろからついてきていたクロが、ワンワンと吠えた。
「圭ちゃん、どうしたの?」
母もかけよった。
圭介はけいれんをおこしていた。
「……。ど、どうしよう…」
私の足が震えた。どうしたらいいかわからず、頭は真っ白だった。
「お父さん、呼んでくるから!」
母が、一階に急いで行こうと部屋を出た。
「母さん、救急車も!」
救急車?ああ、そうだ…。そうだ…。そうだ!大変なことが起きているのだ。ここで、ぼ~~って立ちつくしている場合ではない。でも…、足が動かない。
「姉貴!しっかりしろよ!」
修二に怒鳴られた。やっと足が動き、圭介の部屋にはいった。修二が、圭介に何度も、
「圭介、おい、しっかりしろ!」
と、声をかけたが、圭介のけいれんはおさまらない。
怖い…。
怖い……。
真っ暗な闇に飲み込まれていくようだ。
「圭介君!大丈夫か?」
父も、パジャマ姿のまま、2階に走ってきた。一気に階段を上ったので、はあはあと息があらくなっていた。
「お父さん、どうしよう、圭介が…」
顔面蒼白の私を、父は一瞬見たが、すぐ圭介の方を見て、
「圭介君!」
と、大きな声をあげた。
ワンワン!クロも、部屋の外で吠えている。この緊急事態を察してか、それとも、圭介の名を呼んでいるのか、それとも、私と同じように、怖いのか・・。
「圭介!」
「圭介君!」
修二と、父が同時に叫んだ。 圭介が正気を取り戻していた。でも、目をあけてはいたが、何が起きたのかもわからない様子で、しばらく天井を見つめていた。
それから、周りを見て、父の顔、修二の顔、そして私の顔を見て、
「…。俺…?」
と、ようやく声を出した。
「ああ、良かった。あ、そうだ。母さん!母さん!」
修二が、一階にいる母を呼びに行った。
「母さん!圭介の意識戻った。もう大丈夫だよ!」
そう言いながら、修二は階段を駆け下りて行った。
父は、大きなため息をしてから、
「圭介君、大丈夫かい?」
と、圭介の体を起こすのを手伝った。私は力が抜けて、そのままへなへなと、座り込んでしまった。
怖かった…。まだ、震えてる。全身ががたがたと震えてる。冷や汗も流れていた。
「すみません、俺…」
「いや、いいから、ベッドに横になりなさい」
父に体を支えてもらいながら、圭介は起き上がり、そのままベッドに静かに横になった。
母と修二が部屋にはいってきた。クロは、静かに部屋の外にいた。
「圭ちゃん、大丈夫?今、救急車も呼ぼうとしたんだけど…。病院とか、行った方がよくない?」
「いえ。すみません、迷惑かけて」
「いいのよ、何言ってるの。それより、病院」
「あ、平気です。家でもけいれん起こしたことあって…。すぐにおさまりました」
ああ、現実をつきつけられる。圭介のこんな姿を見たら、私はもうプラスになんて考えられない。怖くて、悪いことばかりが頭に浮かぶ。
「今日は、休んだ方がいいな。瑞希、会社にあとで、連絡してあげなさい」
父がそう言うと、部屋を出て行った。
「具合は?どう?」
母が、聞くと、
「大丈夫です…」
と、圭介は弱々しい声で答えた。
「今日は、誰か、一緒にいた方がよくないか?」
修二が心配そうに、圭介に言った。
「まじで、大丈夫です。朝だけですから、こういうの起きるの…」
「じゃあ、静かに横になっててね。時々様子を見に来るから」
「はい」
修二と、母も部屋を出たが、母が振り返り、
「瑞希は?会社休むの?」
と、私に聞いてきた。
「俺、大丈夫だから、瑞希行ってきて。それに午後からなら、俺も出れるかもしんない」
「あら、圭ちゃんは、無理しちゃ駄目よ。一応お母さんの方に、連絡いれるからね」
母はそう言うと、一階に下りて行った。
私はなんだか、圭介の顔が見れなかった。
「じゃ、私、会社に行くね」
そう言って、圭介だけ部屋に残して、ドアを閉めた。
バタン…。ドアの前で、また震えだした。圭介には悟られないようにしていたが、まだ震えはおさまっていなかった。
自分の部屋に入り、ベッドに座り込んだ。圭介が今まで、具合悪そうにしていたのを何度か見たが、こんなに怖くなったのは初めてだ。
「私…」
両手に、顔をうずめた。母にあんなことを言っておきながら、私だって怖くて、この現実さえも受け入れられない。圭介のそばにいることすらできない。
何分たっただろう。ようやくわれに返り、時計を見た。
「あ、いけない、会社!」
私は部屋を出て、圭介の寝ている兄の部屋の前まで行ってみたが、中に入る勇気が持てず、そのまま下におりて行った。
「圭ちゃん、どう?」
「あ…。わからないけど、多分寝てると思う」
「そう…。圭ちゃんの家に連絡するから、電話番号教えてくれる?」
「うん」
メモに、電話番号を書き、母に渡した。
「圭ちゃん、大丈夫かしらね、時々様子は見に行ってくるけど、あんたも早めに帰ってきてよ」
「うん…」
私は力のない、返事をした。
会社に行くと、もう社長が出てきていたので、圭介の話をするために、会議室に来てもらった。社長の席の周りに、社の人がいたので、聞かれたくはなかったからだ。
「圭介が、今、うちに泊まっているんですが…」
「あ、そうなの?」
「今朝、けいれんを起こして…。それで、お休みをしますって。あ、いえ、午後に出られるかもとは、言っていたのですが…」
「ああ…、じゃあ、俺からあとで、圭介の携帯に電話して、休むように言っておくよ」
「はい、すみません」
「柴田さん、大丈夫?」
「はい…」
はいと答えだが、その答えとはうらはらに、私は泣いてしまった。
「すみません、本当は、あまり大丈夫ではありません」
「うん、そういうところを見たら、動揺するだろうな。たぶん俺でも」
「すごく、怖かったんです。それで、私きちんと圭介なら大丈夫、病気も治るって思えるか、これからも、信じられるか、自信がないんです…」
「弱気になっちゃったかな?」
「わ、私がこんなじゃ駄目だって、わかってます。しっかりしようって頭では思ってます。でも、駄目なんです。怖くて…」
「逃げ出したい?」
「逃げ出すとか、そういうのじゃなくて、ただ…」
「そうだな。でもきっと、1番怖いのは、圭介だろうな」
「はい…」
「柴田さん、今日は早引きしていいよ。午前中に仕事を済ませるだけ済ませて、早めに帰ってあげたら?」
「はい。すみません」
そう言うと、私は、会議室を出た。
表情が暗い私を、心配して稲森さんが席に来たが、何も話したくなかった。
「どうしたの?具合悪いの?」
「……」
もう、ほっておいてほしい。愛想笑いも出なかった。
「ちょっと、調子悪いので、今日は早退します」
私は無愛想にそう言って、パソコンの画面を見つめ、キーボードを打ち始めた。
稲森さんは、そのまま、自分の席に戻っていった。申し訳ないと少しだけ思ったが、周りに気を使う余裕など私にはなかった。
午後、2時過ぎ、ようやく仕事がある程度片付いたので、社長に挨拶に行き、会社を出た。圭介は大丈夫だろうか…。何かにせきたてられるような気がして、歩く足がどんどん速くなった。
家について、ドアを開けると、玄関に見慣れない靴があった。
「瑞希?早かったわね。今、圭ちゃんのご両親がみえてるのよ」
リビングから、母が出てきた。
「え?」
慌ててリビングに行くと、榎本部長と、圭介のお母さんがいた。二人同時に席を立って、深々と頭を下げた。
「あ。あの?」
「ごめんなさいね、瑞希さん、圭介が迷惑かけて…」
「いいえ、そんな…」
あまりにも、申し訳なさそうにお母さんが言うので、胸が苦しくなった。
「家でもけいれんを起こしたことはあってね。いや、やはり泊まりに行くといっても、やめさせればよかったな。とんだ迷惑をかけたね、柴田さん」
部長が、また頭を下げた。
「いいえ…。うちに泊まりに来なさいと言ったのはこっちですから」
母が、恐縮して言うと、
「いや、こちらもちょっと、考えが安易だったな。な、圭介」
と、圭介を見ながら、部長が言った。圭介は黙ったまま、うなずいた。
ああ、そんなことを言わないで。いろんな希望が消えていっちゃう。
「ほんとに、すみませんでした。俺のわがままで、とんだご迷惑をおかけしました」
圭介が、母に向かって頭を下げた。
「圭ちゃん、そんな…」
母も、困っていた。
「じゃあ、圭介はこのまま、家に連れて行きますので」
部長は立ちあがり、部屋を出た。
「こちらこそ、本当にすみませんでした」
母が、玄関で部長と、お母さんに深々と頭を下げた。私はどうしていいか、わからなかった。
圭介も、深々と頭を下げると、そのまま私の顔も見ず家を出ていった。
…何も話せなかった。何を言っていいのかもわからなかった。
母がリビングのソファに座り込み、はあってため息をもらした。そのまま黙って宙を見つめていた。リビングのテーブルの上に、『ザ・シークレット』のDVDが置いてあった。
「これ…」
「ああ、それね。圭ちゃんが修二に返してくれって」
「そう…」
なんだか、DVDとともに、圭介が未来への希望までを捨ててしまったような気がしてならなかった。いや、それは私も一緒だったかもしれない。
私はそのDVDを持って、自分の部屋に行った。パソコンに入れて、自分の部屋で、ぼ~~っとそれを観だした。
DVDには、いろんな人が出てきて、いろんな話や、エピソードの映像が流れた。
乳がんが治ったという女性も出てきたし、一生寝たきりになるかもしれなかった男性も、元気な姿になって出てきていた。
彼らが言うには、思っていることが現実になるから、絶対に実現して欲しいことだけを思い、絶対に、叶って欲しくないマイナスのことは思わない、それどころか、そんな思考は頭からすべて追い出したと言っていた。
途中で、私はDVDを消した。それから、ベッドに横になった。
「圭介も、これ、観たんだ…」
ぽつりとつぶやいて、天井をぼ~っと眺めた。
こんなことができるんだろうか?いったい、私に、こんなこと…。でも、未来に起きて欲しいことをイメージして、それが叶うとしたら…。
私は、圭介と一緒に結婚しているところを思い描いた。お弁当を作り、一緒に会社に行いく。それから、圭介と休みの日は、ドライブに行く。それから、家では二人でゆったりと過ごし、一緒にご飯を食べ、一緒にテレビを観て、一緒に笑って…。そんなありきたりの生活を思い描いた。
と、同時に、湧き上がる悲しい感情。そんな、ありきたりの、平凡などこにでもある、そんな日常が、叶わないなんて…。涙が出た。悲しくて、涙がどんどん出てくる。
「違う、叶うんだ。叶うんだよ。なのに、なんで泣いてるの?こんな、悲しい思いをしては駄目だ。圭介がいなくなるなんて思ったら駄目だ。それが叶うのは嫌だ、絶対嫌だ」
自分に、何度も言い聞かせた。圭介は治るんだ。ずっとそばにいるんだ。ずっと…。つぶやくたびに、心の奥が痛む。
それを、感じないよう、必死につぶやく。大丈夫、大丈夫だから…。
夜、桐子から電話があった。
「彼とのことを、お母さんに話したら、喜んでくれてね。式の準備もしましょうって。お父さんもリハビリ頑張ってて、けっこう体動けるようになってるんだよ。結婚式には出たいからって…。瑞希、聞いてる?」
「うん」
少しだけ、声のトーンを無理してあげた。
「それでさ~~、結婚式はこっちですることになるんだけど、瑞希も圭介くんと来てよね~~。なんて言って、多分来年になりそうだけどさ~~」
「……」
来年?来年…。
「瑞希?聞こえてる?電話がおかしいのかな?」
「……。ごめん、ちょっと…」
私の声が、泣き声に変わった。桐子は様子が変なことに気づいたようだ。
「どうした?」
来年…。未来のことを言われただけで、きつかった。私たちには来年はないのかもしれないのだ。大声をあげて泣きたかった。でも、ぐっとこらえた。
桐子が、あまりにも心配するので、私は圭介の病気の話をした。
「え?」
「だけど、私はあきらめてないの。治るって信じてるし」
私は、必死に泣くのをこらえて、桐子に言った。
それから、『天国の青い蝶』の話、『ザ・シークレット』の話をした。そして、私は未来、圭介とずっといるって、そう信じ続けると最後に告げた。
桐子は、それを聞いて、
「そうだね。うん。私も祈っているよ。よくなるって…。うん、大丈夫だよ」
と、励ましてくれた。
「ありがとう…」
桐子に、お礼の言葉を言ったが、むなしさだけが、なぜか私の心に残った。きっと、桐子の言葉が、慰めでしかないことを感じたからだ。100パーセントそう思ってくれていないことが、わかってしまったからだ。
桐子との電話を切り、また、暗く重いため息が出た。
お笑いのビデオしか観なかったとか、絶対に自分が癌だということを思わなかったとか、DVDの中で言っていたが、そんなことができるのだろうか?
今、圭介はどうしているのだろう。圭介は一人、孤独じゃないだろうか?また、落ち込んで暗い未来を考えてたりしないだろうか…。
不安がよぎり、携帯を手にすると、圭介に電話した。
呼び出し音が8回、寝ているのかと思い、切ろうとしたとき圭介が出た。
「圭介?寝てた?」
「ううん…」
圭介の声は、あまり元気がなかった。
「体の具合は?」
「うん、もう大丈夫だよ」
「そう…」
「…何?」
「あ、うん。別に用事はないんだけど、どうしているかなって思って」
「……。何も変わったことはないよ」
「うん…」
話が、続かなかった。
「あ、そうだ。私もね、『ザ・シークレット』観たの。すごい奇跡だよね」
「ああ…」
「そ、それでね、私も圭介との未来とか、イメージしまくったり、楽しいことだけを考えていようかなって思って…」
「…未来?」
「そう。あ、桐子がね、来年当たり、結婚するんだって。例のコック長さんと」
「そうなんだ、よかったね…」
「うん。静岡で式をあげるから来てねって。それに一緒に行ったりとかさ。それから、えっと、夏のお祭り一緒に行ったり、秋には、紅葉を見に行くのもいいし、冬はね、クリスマスを一緒に過ごして、あ、ディズニーランドでクリスマスっていうのも、いいな~~」
「……」
「それとか、正月は、初日の出に、初詣でしょ。一緒に二人で旅行にも行きたい。それに…」
結婚して、圭介の子供生んで、3人で公園に行ったり、海に行ったり、いろんなところに遊びに行ったり…っていうのは言えなかった。
もう、精一杯だった。涙が出ていたが、泣いているのを気づかれないようにするので精一杯で…。
「瑞希。俺、入院早まるかも」
「え?」
「明日から、会社も休むよ。笹おじさんには、今日電話した」
「…なんで?」
「うん。あれから、両親と病院に行った。担当医がさ、ベッドも今空いてるし、すぐに入院もできますって…」
「でも…」
「おふくろ、俺がまた、けいれん起こしたりするの、怖いみたい。ほら、入院してたら、すぐ医者に診てもらえるし」
「……」
私だって、怖かった。お母さんが、怖いのはわかる。でも…。
「ごめん、瑞希。本当にごめん…」
「え?何が?何がごめんなの?」
「瑞希の夢、叶えられないかもしれないから…」
「やめてよ!なんでそんなに弱気になっちゃってるの?なんでそんなに、悪い方ばっかり考えるの?そういうの思ってたら、悪い方が叶っちゃうよ。だから、やめて…。言わないでよ…」
泣いているのを、気づかれたかもしれない。
「……。瑞希…」
「え?」
「…いや、なんでもない」
「圭介…?何…?」
圭介は、黙り込んでしまった。
「圭介…、何を言いかけたの?」
と聞いても、黙っていた。電話の向こうにいるのに、もう圭介がどこか遠くへ行ってしまったような気がした。怖かった。
また、震えが来た。でも、必死で、震えをおさえた。
「圭介、黙ってないで、なんとか言ってよ…」
「うん…」
圭介がようやく、返事をした。そして、
「もう、切るよ。そろそろ寝たいから」
と、言うと、そのまま、圭介は電話を切ってしまった。
「あ……」
ツー…、ツー…という音だけが、むなしく耳に残った。その音とともに、私の心の中の希望がどんどん、消えていくのを感じた。
どうして、こんなことになったのだろう。涙が溢れた。苦しくて、思い切り泣きたかった。
でも、それもできなかった。この、辛いという感情も、悲しいという感情も、すべてを切り捨てたかった。感情なんてなくなってしまえばいいのに…。今すぐ、そんなマイナスの感情がこの世から、消えちゃえばいいのに…。
翌朝、目が覚めて、自分が泣いているのがわかった。私は夢を見た。圭介が笑っていた。笑って横にいて、それだけの夢だった。でも、幸せだった。その幸せな気持ちに包まれ、私は泣いていた。
目が覚めてみたら、本当に涙を流していた。
「圭介…」
泣くのも、悲しいと思うのも、全部を押し殺し、私は着替えた。そして、会社に行く準備をした。
何もかも、考えないようにした。電車でも、何も考えないようにした。何かを考えたら、涙が出そうになった。必死に悲しさを追い払いながら私は、会社に向かった。
会社に着いて、席に座る。圭介の席は見ないようにして、パソコンを開ける。そして、わざと、忙しくした。何も考えないで、仕事だけをしようとした。
9時半が過ぎ、みんなが社にそろうと、社長が自分の席から、みんなに向かい、
「ちょっと、聞いてくれ」
と、声をかけた。
「今日から、圭介がしばらく休むことになった。実は、入院をして治療をするんだが…」
そう社長が話し出すと、みんなざわざわとしだした。
「圭介、どっか悪いの?」
「検査して、なんでもなかったんじゃないの?」
みんなが、思い思いに、隣の人と話し出す。
「たいしたことはないんだ。でも、入院して治療した方が、いいだろうって医者が言うんで、しばらく入院することになった。それで、明日から、新しく圭介の仕事を担当する松永君っていう新人が来るから、みんなよろしく頼んだぞ」
「新人?」
「ああ、正社員として迎える。圭介が来ても、残ってもらうことになると思う。年齢は圭介より上だ。今までもITの会社にいたが、転職を希望していたから、来てもらうことにした。ま、そういうことだ。それじゃ、仕事に戻ってくれ」
みんなは、すぐに仕事に戻らず、少し話をしていた。圭介、どこが悪いんだろうとか、胃潰瘍じゃないのかとか、いつまで、入院するのかとか、新人はどんなやつだろうとか…。
私は、耳をふさいでいたかった。圭介のことを聞きたくなかった。ちょっと名前を聞くだけでも、圭介のことで、頭がいっぱいになり、不安と恐怖で、心を闇にのっとられてしまう。
「大丈夫、圭介なら、大丈夫…」
心の中で、何度もそうつぶやいた。
パソコンの画面に目を向けようとして、ふと、圭介のデスクが目に入ってしまった。圭介の椅子。パソコン。圭介がいつも、動かしていた、マウス…。
圭介の手、圭介の横顔、圭介の声、圭介の笑い声、圭介のかもし出すあったかい空気、圭介の…。
駄目だ…。もう駄目だ…。もう、限界だ…!
私は、ガタガタと帰り支度を始めて、社長の席に行き、必死で、泣くのをこらえながら聞いた。
「あの、すみません。早退していいですか?」
「うん、顔色が悪いね。早く帰ったほうがいいな…」
社長が、察してくれて、優しくそう言ってくれた。
私は、急いで鞄を取りに行き、エレベーターも待っていられず、階段で一気に、一階まで下りた。耐えられなかった。圭介がいないことに…。
圭介に会いたくて、圭介をそばで感じていたくて、いてもたってもいられなくなっていた。
走って横浜駅に行き、電車に飛び乗った。電車の中でも、圭介のことしか考えられなかった。
「待ってて、待ってて…」
気ばかりがあせった。
なんで、圭介と離れているのか、なんで、圭介のそばにいようとしていないのか。自分が自分で、わからなかった。
ああ、そうだ。1分1秒でも長く、一緒にいたいと思ってしまうと、圭介の病気や、圭介のこれから訪れる死を認めてしまうことになるから…。それが嫌で、必死に未来のことをイメージした。
でも、それも辛くて、今度は、圭介のことまで、私の中から追い出していた。
何をしていたんだろう、私は…。圭介のことを感じていたいんじゃなかった…?圭介がただ、そばにいるだけで、良かったんじゃなかった?圭介のあの、あたたかい空気が幸せで、それを感じていられたら、それでよかったんでしょ?なのに、なんで…。
そうだ、圭介に「今に生きよう」と言ったのは私だ。なのに、ずっと未来に行ってた。叶わないかもしれない、未来に。そして、今を忘れていた。
圭介がうちに、泊まりにきてても、すぐそばにいても、あんなに遠くに感じ、冷たくさえ感じた。でも、私が遠ざかっていたんだ。今、ここにいる圭介から。
電車を降り、タクシーに乗り込み、圭介が前に運転手に説明していた通りの道を行ってもらった。圭介の家まで、すぐに着いた。急いでお金を払い、タクシーを降りて、チャイムを鳴らした。
出ない…。誰もいないの?
「はい。どちらさまですか?」
お母さんの声がした。ほっとしながら、
「柴田です」
と、答えた。
「瑞希さん?ちょっと待ってて。今行くわね」
お母さんが、玄関を開けた。
「どうしたの?」
「あの、圭介は?」
「いるわよ、自分の部屋に」
「あの、上がっていいですか?」
「どうぞ。圭介の部屋に、行ってみて」
そう言われて、2階に上がり、小さくドアをノックした。
「圭介…」
ドアの前で声をかけたが、返事はなかった。そっとドアを開けた。圭介はベッドに横になっていた。
「寝てるの?」
小さな声で言って、近寄った。圭介は、小さな寝息をたてながら、眠っていた。その寝顔を見て、安心した。
圭介だ…。圭介が目の前にいることが、嬉しくなった。
クッションをベッドの横に置き、そこに座り、ずっと私は、圭介の寝顔を見つめていた。