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26 希望

 家の前まで、圭介は送ってくれた。

「今日は、遅いから帰るね。また、瑞希の家来るから」

「うん。おやすみ。気をつけてね」

「おやすみ。あ!明日会社来る?」

「うん!」

 圭介の車が見えなくなるまで、手を振って見送った。それから、玄関の鍵を開けようとすると、中から母がドアを開けた。玄関には、父もいた。

「わ。びっくりした」

「お帰り。今、圭ちゃんが車で送ってくれたの?」

「あ、うん」

「どうだった?」

「まあ、瑞希、リビングに入ってから話そう」

 父が先にリビングに入り、母は私が靴を脱ぐのを待って、一緒に入った。リビングでは、修二もいて、修二の足元にクロが丸くなって寝ていた。


「圭介には、きちんと私の気持ちを話してきたよ」

 ソファに腰掛けて、そう言うと、

「それで?」

母は、隣に立ったまま、聞いてきた。

「まあ、お母さんも座りなさい」

 父に促され、母も座った。

「それで…」

 なんて言ったらいいものか。

「あんたの気持ちは、どうなの?圭ちゃんと…」

「うん。ずっと、そばにいて、離れる気はないよ」

「そう…」

 母が、小さくつぶやいた。


「圭介は、なんて?」

 修二が聞いてきた。足元にいるクロの耳が動く。

「圭介も、離れないで、一緒にいてくれる…みたい」

 父も、母も、修二も、黙っていた。一緒にいてくれるといっても、ずうっとではない。そんな思いが3人にあったのかもしれない。重苦しい空気が流れた。

「明日から、会社行くから。もうお風呂入って寝るね」

 そう言うと、私は自分の部屋に着替えを取りにいった。


 バスタブにつかり、ふうっとため息をつく。両親や修二の重い空気が、辛く感じた。私と圭介だけの問題じゃないんだな。これから、家族にまで心配をかけたり、辛い思いをさせちゃうんだ。そう思うと、胸の奥が苦しくなった。

 ふと未来を思い、ものすごい恐怖にとりつかれた。

「圭介が、いなくなっちゃう」

 そう思うと、怖くて、怖くて、たまらなくなった。そのとき、どうしたらいいんだろう。どんなに悲しい思いを私はするのだろう。

 涙が溢れた。怖くて、あたたかいバスタブに入っているのに、がたがた震えた。

 ああ、また、未来に思いが飛んでる。今は、圭介いるじゃない。いるじゃない…。そう自分に何度も言い聞かせた。

 それから、圭介のことを思い出した。横顔、綺麗な指、声、髪、泣き顔も、笑顔も…。はあ、愛しいな~~。

 そうだ。全部が愛しい。その思いが私の心の闇を包み込み、徐々に闇を消してくれた。あったかい圭介への思いだけが、心に残った。


 翌日、朝起きて一階に行くと、母が、

「瑞希、今日はあまりおかずがないんだけど、でもこれ、圭ちゃんに持っていってあげて」

と、お弁当を渡してくれた。

「…ありがとう」

 母の思いが嬉しかった。でも…。

「明日からは、私が作るよ」

 圭介へのお弁当も、多分数日しか作れないだろう。

 ふと、結婚して、ずうっと圭介のお弁当を毎朝作っているところを想像してしまった。圭介が、結婚したら私の料理を毎日食べれると喜んでいたのも、思い出した。目の奥が、ぎゅうって熱くなった。

 ああ、駄目だ。過去とか、未来とか、思いが飛んでる。


 会社に着くと、社長が私を見て、驚いていた。すぐに私のもとにかけよった。

「柴田さん」

 すると、社にいたみんながいっせいに私を見て、

「柴田さん、もう体大丈夫なの?」

と、聞いてきた。どうやら、病気で休んでいるということにしてくれたようだ。稲森さんも、隣に来て、

「ちょっと、痩せたんじゃない?風邪?」

と聞いてきた。

「え…。はい。でも、もう大丈夫です。ご心配おかけしました」

 ぺこってお辞儀をすると、みんなが良かった良かったと、ほっとした表情になり、また仕事を始めた。


 圭介は、自分のデスクから私を見ていた。社長が、

「柴田さん、お昼一緒に食べれるかな?」

と、小声で聞いてきた。

「あ、はい」

 そうだよね。圭介とのこと、きちんと話さなくっちゃ…。

 圭介の隣の席に着く。圭介が、にこって笑っておはようって言う。ああ、それだけで、嬉しい。


「おはよう。あ、これ」

 圭介に、こっそりお弁当を渡した。

「今日のは、うちの母の手作り」

「え?まじ?」

 圭介は驚いて、それから喜んでいた。

「お母さんさ、俺のこと怒ってないの?」

「?別に。なんで?」

「いや、瑞希のお父さん、かんかんだったし。お母さんもめちゃくちゃ怒ってないかなって」

「ああ、くす…」

「え?何?」

 圭介は、私が笑ったのが不思議だったようで、目を丸くした。


「お父さんね。演技だったんだ」

「は?」

 圭介は、もっと目を丸くした。

「怒ってないよ。お父さん、あんまり怒らないんだよね。この前も冷静だった」

「うそだ、すごい剣幕だったんだよ。瑞希にも見せたかった。俺、まじでびびって…。いや、まじで、すんごい申し訳ないないことをしたって思って…」

「そうでもしないと、圭介が真相を話してくれないだろうって」

「え?」

「ひとはだ、脱いだって言うか…」

「ええ?そうだったんだ」

「うん、ごめんね。圭介には辛い思いをさせたよね」

「いや、そんな。だって、悪いの俺だし…」

「圭介。その自分を責めるのやめてね。圭介は何も悪くないんだから」

 そう言うと、圭介は黙ってしまった。それから、

「今日、夜、瑞希んち、行くよ。みんなにきちんと、会わなくっちゃ…」

と、ぼそってつぶやいた。


 昼になって、稲森さんがランチに誘いに来た。

「ごめんなさい。社長が話があるみたいで…」

 私はそう言って断った。もう、稲森さんがどう思うかとか、疑うかとか、まったくそんなの関係なかった。

 社長と、スカイビルの上にある、レストランに行った。晴れていたので、見晴らしが良かった。

 横浜ベイブリッジを眺めながら、ああ、ここに圭介ときたいな~って、ぼ~~って思っていると、

「柴田さん、圭介のことなんだけど」

と、社長がいきなり聞いてきた。

「あ、はい。ご心配おかけして…。その、昨日会って、きちんと話したんです」

「圭介の病気のこととかも、知っているのかな?」

「社長もご存知なんですか?」

「ああ、先輩から聞いたよ」

「そうだったんですか…」


「圭介は、俺が、知っていることを知らない。先輩からも家族しか知っていないことになっているから、他言しないでくれと頼まれたし、圭介の前では、しらを切ってくれとも言われた」

「いつから知ってたんですか?」

「検査入院する前にね。医者から、ガンの疑いがあると言われたと、先輩が教えてくれた」

「……」

 そういえば、社長の笑った顔、ひきつってた。

「じゃ、それを知ってて、私が会社辞めるの止めたんですか?」

「圭介が、自分の病気のことで、別れようと言ったのは、わかっていたよ。でも、俺の中で納得いかなくてね。圭介のそばに、柴田さんにはいて欲しかったからな~~」

「……」


「それで、圭介とは…」

「あ、はい。そばにいるって決めました」

「そうか…。会社にも出てきてくれて、嬉しいよ。あ、しかし、圭介は来週から入院して会社には出てこられなくなる…」

「はい、知ってます」

「そうか…。圭介がいない間、新しく入ってくる子も決まってね。いや、圭介よりも年上だが、俺の知り合いの息子さんで、転職をちょうど考えてたらしくてね」

「はい…」

「あ、圭介が、元気になって戻ってきても、ちょうどうちの会社は、今年正社員をとらなかったから、まあ、そのままその子にも、残ってもらうことにはなると思うんだけどね」

 社長の、「圭介が元気になって」という言葉に、私は反応してしまった。


 ポロ……。突然涙が出て、社長がそれを見て、慌てていた。

「柴田さん?」

「あ、すみません。私…。私、圭介が会社に来なくなったら、もう2度と、会社には出てこれないんじゃないかって、そう思ってて…。社長が元気になって、戻ってきたらって言われて、それで…」

「…うん。わかるよ。先輩も、奥さんもみんな、圭介が良くならないって、思ってるよ」

「……」

 涙が止まりそうもなくて、鞄からハンカチを出した。周り人が見たら、不思議に思うだろうな。

「でもね、柴田さん。俺はそうは思っていない」

「え?」


「これ、観たことあるかな?」

「『天国の青い蝶』?」

「観たことない?実は、昔これを観てね、慌てていろんなお店探し回って、買ったんだ。今日、圭介に渡そうと思ってたんだよ。でも、まずは、柴田さんがこれを観てみるっていう方がいいかと思ってね」

「…どんな映画なんですか?」

「脳腫瘍で余命わずかの少年が、大好きな幻と言われる、青い蝶を捕まえに行くという話」

「脳腫瘍…?」

「それで、時期的にも絶対に現れないだろうって思われてた青い蝶を、奇跡的に捕まえることができるんだよ」

「……」

「だけどね、もっとすごい奇跡は、立つこともできなかった少年は、青い蝶を捕まえようとして、自分の足で歩けるようになったり、ジャングルから帰ってきたら、脳腫瘍が消えていたんだ」

「…え?」


「実話だよ」

「実話なんですか?」

「最後、特典映像がついてる。その少年がもう、青年になって出ているよ」

「ほ、本人が、ですか?」

「うん。一緒に蝶を採りに行った、昆虫博士もね」

「……。あの…」

「ん?」

「どうして、奇跡が起こったと思いますか?どうやったら、奇跡は起こると思いますか?」

「さあ、どうだろうね。でも、青い蝶が奇跡を起こしたのではなく、少年が奇跡を起こしたんだろうね。他にも、癌が消えてしまったと言うそんな話は、けっこうあるんだよ、それも、余命何ヶ月と言われた人が」

「どうやったら?」

「……。そうだな~。そういう話を聞いてて、共通して言えるのは、自分の好きなことをするってことや…」

「はい」

「死ではなく、生を見たってことかな」

「…生を見た?」

「生きるほうを見ていた。死を恐れたり、生をあきらめるのでなくてね」

「……」


 私は、渡されたDVDを眺めながら、

「それって、本人がどう思うかですね。周りがいくら生きるほうを選択してって頼んだとしても…。圭介本人が決めることですよね…?」

と、社長に聞いてみた。

「いや、周りが圭介は生きるって思っていたら、圭介もまた、変わってくるんじゃないかな?」

「……」

 また、涙がボロって頬を流れた。それを、ハンカチで拭いてから、

「ありがとうございます。今日、帰ったら観ます」

と言うと、社長は微笑みながら、

「うん。柴田さん、みんなで希望を持とうよ。圭介なら、大丈夫。癌にだって打ち勝てる強さがあるって、ね?」

と私を励ましてくれた。

「はい…」

 私は、冷めてしまった、コーヒーを飲んで、DVDを大事に鞄にしまった。

 そして、前向きに圭介のことを思っている社長に感謝した。こんな話をしてくれなかったら、私は圭介がずっと生きるという、そんな考えも浮かばなかっただろう。


 席に戻ると、圭介が、お弁当箱をそっと渡してくれて、

「美味しかった。お母さんにお礼言っておいて」

と、小声で言った。

「うん」

 パソコンの画面を見ている圭介の横顔は、とても繊細な、弱いイメージがあった。でも、それも勝手に私が、そう思い込んでいるだけかもしれない。

 圭介は、強い。癌に打ち勝つほどの強さがある。そう思うことにした。


 6時を過ぎ、圭介が少し待っててと言うので、書類の整頓をしながら席にいた。

「木曜から、新しい人来るって」

「来週からじゃなくて?」

「うん。2日間、引継ぎをするから」

「そう…」

「俺より、年上だって、えっと、24歳って言ってたかな」

「ふうん」

「どうする?瑞希。すんごい瑞希好みのイケメンだったら」

 私はまだPCを開いていたので、メールで返事をした。

>私の好みは圭介だからな~~。


 それを、読むと、少しにやけて、

>でも、すんごいイケメンなんだよ。めちゃくちゃ、かっこいいやつだったら?

と、送り返してきた。

>圭介も、すんごいイケメンだけど。自分で気づいてないの?めちゃくちゃ、かっこいいよ。

「え?まじ?」

 メールを開くと同時くらいに、驚いていた。

「まじ」

「それ、あれだよ。恋は盲目ってやつ」

「なんじゃそりゃ」

「ははは」

 圭介はしばらくして、仕事の方に切り替えて、キーボードを打ち出した。この人は、本当に自覚がないんだろうか?他の人から見たって、イケメンだと思うけどな。


 30分位して、圭介が、

「ごめん、待たせて。もう終わるよ」

と言ったので、ロッカーに行き荷物を持って、廊下で待っていることにした。1分も立たないうちに、鞄を持って圭介も来た。

「家に圭介が行くこと、電話して伝えといたよ」

「あ、うん」

 少し、緊張しているみたいだ。

「夕飯作っておいてくれるって」

「なんか、夕飯時におしかけるの、悪かったかな」

「そんなことないよ。全然」

「うん」

 そうだ、DVD。社長から借りたのを、圭介と一緒に観ようかな。でも、今日の帰りが遅くなっちゃうかな。

 青い蝶を捕まえて奇跡を起こした少年の話は、なんだかどきどきして、圭介に話せずにいた。きっと、圭介の反応が怖かったのかな。


 電車で一緒に、家に帰った。家に着くと、すぐに母とクロが玄関に来た。

「いらっしゃい、圭ちゃん」

 母は、にこにこ顔だったし、クロはワンワンって大喜びで、圭介に飛びついた。

「クロちゃん、駄目。圭ちゃんのスーツが汚れるでしょ」

 母に言われて、クロはすぐに大人しくなった。でも、圭介の手をぺろぺろなめていた。

「クロ、久しぶり!」

 圭介が、クロのおなかや首の辺りをなでると、クロはすごく喜んでいた。なかなか、クロがなでられると喜ぶポイントを知っているもんだ。

 リビングから、父も出てきた。

「やあ、圭介君」

 父は、そう穏やかに言ったが、この前のトラウマか、圭介はものすごく緊張して、

「あ、お邪魔します」

と丁寧に、お辞儀をした。

「まあまあ、そこで立ってないで、中に入って」

 父に笑顔でそう言われて、圭介は、少しほっとしていた。


 ダイニングにはもう、夕飯の準備が整っていた。圭介の上着を預かり、廊下のフックにあるハンガーにかけた。

 圭介は、母に促され、私の横の席に座った。それから、とても和やかに、4人で夕飯を食べていると、修二が帰ってきた。玄関にある圭介の靴を見て、

「圭介~~?おお!」

と、急いで、ダイニングにかけよった。

「あ、お邪魔してます」

 ぺこって圭介がお辞儀をすると、

「何々?他人行儀だね~~。腹減った。母さん、俺にも飯!」

と言いながら、修二は洗面所に手を洗いに行った。

 そして修二が食卓に来て、圭介と話し出し、一気に食卓は盛り上がった。


 食事が終わり、私はコーヒーを淹れた。母は、キッチンで洗い物を始めて、

「圭ちゃん、顔色よくて良かったわ。食欲もあるみたいだし」

と、私に話しかけた。

「あ、お弁当美味しかったって」

「そう、良かった」

 母が笑った。母にはまだ、圭介のお母さんが料理の先生をするほどの腕前なのを内緒にしていた。そんなことを言ったら、お弁当も夕飯も作らなかっただろうな、萎縮しちゃって…。


 圭介と、父と、修二はリビングのソファに座り、話していた。小声なので、内容があまりわからなかったが、どうやら圭介が、迷惑をかけてしまったことを謝っているようだ。

 コーヒーをお盆にのせ、リビングに運ぶと、父がちょうど笑いながら、

「そんなに、謝らないでいいよ。圭介君。この前もあんなに怒ったけど、あれはお芝居だから」

と、言っていた。

「そうそう、よくこの気の優しい親父が、怒れたって感心したよ、俺」

「あ、それ、瑞希さんから聞きました」

「そうか」

「おじさんって、本当にあまり、怒らないんですか?」

 圭介が、質問すると修二が、

「う~~ん、怒られた記憶があまりないな~。ものすごく気が長い人なんだよね」

と、笑った。


 コーヒーをテーブルに置き、私も圭介の隣に座った。

「あ、圭介、まだ時間あるかな?」

「うん…」

 私は鞄から、DVDを取り出した。

「これね、今日社長が貸してくれたの。良かったら一緒に観ない?」

「何?映画?どんな?」

「天国の青い蝶っていう映画なんだけど」

「あ、俺それ、観たことある!」

 修二が、大きな声をあげた。

「そうそう、それ!俺もまた、借りてこようって思ってたんだ。よし、圭介、観よう!」

 修二は、圭介の背中をぽんってたたいて、

「母さんも観れば?」

と、キッチンにいた母を呼んだ。

 修二は、ソファを母に譲り、カーペットの上に座った。その直ぐ横に、クロが来て、ぴったりと修二に寄り添ってねっころがった。


 DVDが、始まった。少年が余命少ない脳腫瘍であることは、すぐに映画の中で語られたので、それを観ていた、父、母、圭介は、「え?」っていう表情をした。内容を知っていた私と修二は、ただ、黙って観ていた。

 後半、どんどん元気な姿になっていく少年。そして結末。映画が終わると、私は泣いていた。母も、涙ぐんでいた。

「あ、これね、特典映像っていうのがあるって、社長が言ってた。この映画のモデルになった少年が出てるんだって」

「モデルって?」

 圭介が聞いてきた。

「これね、実話なの」

 そう言うと、圭介がまた、驚いていた。


 特典映像には、モデルとなった青年が出ていた。映画が日本で上映されたときに来日をして、その時のインタビューの模様だった。

「こんなにでかくなってる…」

 ぽそっと、圭介が言った。

「ずっと、元気なんだな~」

 父も、ぽそっとそう言った。母は、

「実話だったの?」

とまだ、驚いているようだった。

 特典映像を見終えた。当時の本人の映像もあった。弱々しい感じの少年で、細くて小さかったが、昆虫博士と蝶を採っている彼は、嬉しそうだった。

「この青い蝶を捕まえたら、いいのかしらね」

と、母が言いだした。いや、少しずれていると思う。

「違うんじゃね?圭介、これ。このDVDも貸すから観てみろよ」

 修二は、自分の鞄から1本のDVDを取り出した。


「これさ、柚のなんだけど、柚、こういうの好きでさ。前に柚んちで、観たことがあって、昨日借りてきてたんだ。」

 そのDVDの題名は『ザ・シークレット』だった。私もうわさでは、聞いたことがある。誰だっけ、ああ、籐子さんがこういうの好きだったんだっけ。

「この中にも、乳がんが消えちゃったっていう人が出てるよ」

「修二、消えちゃうってどういうことなの?」

 母が、いぶかしげに聞いていた。

「だから、がん細胞が消えちゃうんだよ。3~4ヶ月で消えたって言ってたよ。本人が出てる。もう、お笑いのビデオばかり観たり、とにかく癌だってことをなるべく考えずに、楽しく過ごしていたんだってさ」

「それだけで、消えちゃうの?ほら、何か健康食品だのを飲んだとか、そういうのはないの?」

「ないみたいだよ」

「……」

 父と母が、無言で顔を見合わせた。そんな話があるものかという感じだった。


「それ、借りていいんですか?」

 圭介が、そう言うと、

「おお、持ってって!」

と、修二は圭介にDVDを渡した。

「あ、あのね。社長が、けっこう余命何ヶ月でも癌が治ったっていう人いるって言ってた。だから…」

「うん…」

「圭介が元気になって、会社に復帰するのも、待ってるって…」

「……」

 圭介は、目を細めた。笑うわけでもない、泣くわけでもない、どこか困惑している表情だった。 治ると言われても、当の本人には、信じられないことかな。


「もう、遅いな。圭介君、電車あるかな?」

 時計を見ると、11時近かった。

「あ、まだ全然、余裕であります」

 そう言うと、圭介は、自分の鞄を持ち、修二から借りたDVDを入れた。

「これも、持って行く?」

 社長から借りたDVDも、渡そうとすると、

「うん、そっちはいい。もしかしたら今度、借りるかもしれないけど」

と圭介は、言った。

「ご両親にお見せしたら?」

と、父が聞いた。

「うちの両親は観ないと思います。なんか、最近ずっと、そういう話題もさけているっていうか…」

「え?」

「あんまり、考えたくないみたいで、特に母は。今はかえって、そういうの観ると、辛くなるって言うか、とても前向きに思える雰囲気じゃないんです」

「そうか…」

 父は、そう言うと黙り込んだ。


「そんな中にいたら、圭ちゃん辛くない?」

 今度は母が、圭介にそう聞いた。

「いえ、俺もあまり、話題にしたくないから。別に」

 圭介は笑ってみせたが、すごく不自然な笑いだった。

「入院は、来週から?」

「はい」

「じゃあ、それまで、うちにいたら?」

「え?」

 母の提案に、圭介は驚いていた。でも、父と、修二は、

「あ、いいかも」

と、うなずいた。

「いや、でも、そんなの迷惑かけっぱなしじゃないっすか?」

 圭介が、恐縮した。

「いいんだよ。うちは全然かまわない。2~3日だけでもいい。うん、そうしよう」

 父はそう言って、圭介の肩をぽんぽんとたたいた。


 私は、ずっと、黙っていた。母がそんなことを言いだすなんて、思いもしなかった。圭介が私の方を見た。

「あ、兄の部屋があるから、そこに寝泊りしたら?」

 私が言うと、やっと、圭介がやわらいだ表情をした。

「決まり、決まり!じゃ、今日から泊まってけば?」

 修二が、そう言うと、

「そういうわけにはいかないでしょう。着替えとかもあるし、ねえ」

と、母が言った。

「はい、今日は帰ります。それで、両親に話をして、了解を得たら来ます。すみません。勝手ばっかり言って、すごいわがままで…」

「いいのよ。さ、今日は、気をつけて帰ってね。あ、修二が送っていったら?」

「いいです。仕事で疲れているのに、大丈夫です。俺」

「じゃ、駅まで送るよ」

 そう言うと、修二はすぐに車のキーを出した。

「気をつけて」

 父と母から言われて、

「おやすみなさい、お邪魔しました」

と圭介は、深々と頭を下げてから、家を出た。


 私は、すんごく嬉しかった。一分一秒でも圭介と長くいたかったから。でも、圭介のご両親も同じ思いではないだろうか?少しでも、長く、一緒にいたいって思わないのかな。

 あ。いけない。また、私は、圭介が治るって思っていない。くるくる首を横にふり、ほっぺを軽くたたき、「大丈夫!大丈夫!」と、自分に言い聞かせた。


 翌日、出社すると、圭介のデスクの横にでかい荷物があった。

「おはよう」

 挨拶をするや否や、圭介が、

「いきなり、今日から泊まりにいっても、大丈夫かな。もし、無理なら、この荷物は、会社において…」

と言ってきた。

「大丈夫だと思うけど、うちはいつでも。でも、お母さん、なんて?」

「あ、なんか、すんなりOKした」

「そうなの?」

「逆に、ほっとしてたかも」

「え?」

「なんか、ずっと、腫れ物にでも触る感じだったし。俺よりも、おふくろああ見えて、繊細っていうか…。いつも、強引で、強気なんだけどな」

 圭介は、お母さんの態度が辛かったのかもな。腫れ物に触る感じより、いつもと同じように接してほしかったのかもしれない。


 その日は、定時に圭介も仕事を終えていた。最近、忙しくないのかなとも思ったが、周りの人はみんな、残業をしているので、圭介だけが仕事があまりないようだ。

「最近、定時に帰れるくらい、仕事ないの?」

「あ、うん。もう社長が俺の分は、他の人に回してるから。…俺、社のみんなにも、迷惑かけてて…」

 圭介が、そう言いかけたので、圭介の口を私の手で押さえた。

「ストップ、それはなしだよ。迷惑なんてかけてない。わかった?」

「うん…」

 今日の昼は、どうどうと、圭介とお弁当を二人で食べた。周りがちらちら見ていたが、関係ないって思えた。


 稲森さんも、3時過ぎコーヒーを買いに行くと、やってきて、

「あれ、柴田さんの手作り弁当でしょ。二人付き合ってるの~~?」

と聞いてきた。私は即座に、

「うん」

と、答えた。稲森さんは、私があまりにもあっさりとそう答えたので、からかいがいがないと思ったのか、さっさと席に戻っていった。

 周りなんて関係ない。そんなことを気にして、圭介との時間を無駄にしたくない。

 でも、そんな思いが出ると、また私は、いや、圭介とはずっといられる、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせていた。


 昼休みに、家に電話をして、圭介が今日から泊まるということを伝えた。母は、午前中にもう、兄の部屋を綺麗に片付けたらしい。

 家に着くと、クロと母が玄関まで、出迎えに来た。そして、圭介の重たい鞄を母が持ち、さっさとリビングに持っていってしまった。

「あ、すみません、それ重いです」

 そう圭介が言ったが、母はそんなのおかまいなしだった。

 圭介はというと、クロにじゃれつかれてて、なかなか歩くこともできないでいた。クロは大喜びだ。昨日に引き続き、今日も圭介がいるんだから。 

 私だって、大喜びだ。母がこの場にいなかったら、クロをさしおいて、圭介に抱きついていたかもしれない。抱きついて、離れないな~~、多分。


 父が、帰ってきた。父も、最近早め早めに、家に帰るようにしているようだった。修二は、今日、生徒さんと飲んでくるから遅くなると、朝言っていた。

 やっとこ、足にまとわりつかれながらも、圭介はリビングにクロと入ってきた。

「もう、お夕飯できてるけど、圭ちゃん食べる?それとも、お風呂に入って、さっぱりする方がいいかしらね。今日は蒸し暑かったし…」

「あ、先にご飯いただきます。もう、腹ペコで…」

「はいはい、待っててね。ご飯よそってくるから」

 母は、嬉しそうだった。基本、母は圭介をすごく気に入っていたから。末っ子の下にまた、弟ができた感じなのだろうか?


 圭介が上着を脱いだので、それをハンガーにかけに行くと、

「それ、昨日も思ったんだけどさ」

「え?」

「なんか、瑞希俺の奥さんみたい」

 圭介のその言葉にドキってした。嬉しかった。でも、すぐに心の奥が、ヒュ~~ッツて冷たくなった。

 ああ、いけない。まただ。また、暗い方を考えてる。大丈夫、大丈夫なんだから!

 私は、少しでも圭介との未来に不安や、恐怖を感じたとき、大丈夫って自分に言い聞かせていた。大丈夫、私が、圭介は大丈夫って思わなくっちゃって。悪いことなんて、考えちゃ駄目って…。


 夕飯を食べ終わると、

「俺、風呂あとでいいですから」

と圭介は、荷物を持ち、2階に上がっていった。私も、着替えをしに、自分の部屋に行った。ジーンズに、オーバーブラウスを着て下におり、母の洗い物の手伝いをした。

「今度、圭ちゃんの好物聞いておかないとね。あ、でもやっぱり、栄養が満点のものがいいわよねえ」

 母が、圭介のために、お料理をしてくれているのが、嬉しかった。


 しばらく圭介が下に下りてこないので、2階に上がり、ドアをノックした。

「はい」

 圭介が中から、返事をした。

「入るよ」

「瑞希?うん」

 ドアを開けると、圭介は、荷物を半分くらい部屋に広げたまま、ベッドにうつぶせていた。

「ああ、ごめん、なんか疲れちゃって」

「そうだよね。もう、休んだら?」

「うん…」

 圭介は、今度は仰向けになった。


「昨日さ、修にいが貸してくれたDVDあるじゃん」

「うん」

 いつの間に、修にいと呼ぶようになったのか…。

「乳がんの人のところだけ、観たんだ、昨日、帰ってから」

「うん」

「瑞希、観たことあるの?」

「ないよ」

「そっか…」

「どんなだったの?」

「う~~ん、なんかさ、すんげえ、プラス思考っていうか」

「え?」

「けっこう、きついかも…」

「そうなの?」

「うん…」


 圭介は両手で、自分の顔を押さえながら、

「俺、あんなに強くないな~~」

と、小声でつぶやいた。

「じゃ、じゃあさ、私が一緒だったら?」

 圭介が寝ている横に座って、そう言うと、

「一緒に、プラス思考?」

と圭介は、まだ顔を両手で押さえたまま聞いてきた。

「そう、大丈夫って、治る、絶対治るって思ってみたら…。私もそうずっと、思うようにするし、一緒ならさ、頑張れるかもよ」

「……」

 両手で顔を押さえているから、圭介の表情がわからない。


「瑞希に、無理させそう」

 ぽつりと、圭介はそうつぶやいた。

「無理じゃないよ。全然」

「でも…」

「でも?」

「俺…、自信ないな」

「何の?何の自信?」

「……。癌に打ち勝つ自信…」

 そうぼそって言うと、圭介は、私と反対方向を向いてしまった。

「ごめん、すげえ、マイナス思考で…。だけど、大丈夫、って思えば思うほど、怖さが出てくる。絶対、元気になるって思えば思うほど、もし、死んだら、瑞希をもっと、悲しませるって。元気になるって言っておきながら、もし、駄目だったら、もっと、瑞希を苦しめるって、そう思うとさ、そう思うと俺…」

 圭介の声は、だんだんと小さくなって。最後はなんて言ったのかわからなかった。


「……」

 圭介の後姿が、やけに遠くに感じた。

「圭介、そんな弱気にならないで。圭介がそんな弱気になったら、私だってどうしていいかわからないよ。こういうのって、本人が生きるって決めなくちゃ。ずっと、私と生きてくれないの?ずっと、一緒にいたいって思わないの?」

 圭介は、しばらく黙っていた。圭介のいつものあたたかさが伝わってこなかった。変わりに圭介の回りには、冷たい、暗い空気が流れてた。

「ごめん…。そうだよね。俺が弱気になったら、瑞希もどうしていいか、わかんないよね。ごめん…」

 圭介は、こっちを向いて笑いかけ、そう言った。笑顔には、まったく力が入っていなくて、作り笑顔なのはまるわかりだった。その笑顔を見て、私の心が痛んだ。

 だけど、私はそのとき気づいていなかった。私が期待すればするほど、圭介を苦しめていたことを…。



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