1 人生の岐路
いきなり、肩をたたかれたのは、1月のお給料日の次の日だった。パソコンにデータを入力していて、夢中だったから、すぐ後ろに部長がいたのも気づかなくて、すごく驚いて、3センチくらいは体が宙に浮いたと思う。
「ひゃっ」
声にならない声を発した。すると部長は小声で、
「あ、驚かせてすまない。ちょっと、あとで時間あるかな?話があるんだけどな」
と言ってきた。
「え?ああ、はい…」
なぜに、部長?課長が声をかけるならわかるけど…。課長の顔を見ると、目が合い、すぐに視線をそらされた。
う…。嫌な予感。
この会社には、もう12年いる。短大を卒業して就職をし、同期はどんどん辞めていき、もう私以外の女性の同期は、総務の桐子しか残っていない。
仲良しグループ6人で会議室で、お弁当を食べていたころが懐かしい。 今では、会議室で食べることもできなくなったし、昼は桐子と二人だけで食べているしね…。
今は、女性の新入社員をとらないので、正社員は少ししか残っていない。ほとんどが派遣社員だ。それだけこの会社も、経営難なのか、それが世間でも、当たり前のようになっているのか。私が入社したころはまだ、新入社員も多く、活気があったのにな…。
結婚退社していく友達を、何回「おめでとう」と見送ったことか…。いつか私もって夢見ながらも、とうとう12年になっちゃったよ。もうお局状態で、会社の主になっている。派遣の子達も、私よりも若い子ばかりで、みんなの会話にもついていけないこともあるし…。
5年前の27歳の時、総合職の試験を受けてみないかと、課長に言われたことがある。社内で何人かの女性が、課長などのポジションになり、それなりの成果を挙げ始めたころだ。でも、私は単に、事務職で入っただけのOLで、確かに課長クラスの先輩たちがかっこよくも見えたし、スーツ姿でばりばり仕事をしている姿が、まぶしくも見えた。
実はそのころ付き合っていた人もいて、総合職なんてなってしまったら、結婚が遠ざかるのではないかって不安の方が大きかったんだよね。それで、さっさと断ってしまった。
その彼とも28歳になって、結婚を焦りだしたら、別れを告げられてしまった。まだまだ、したいことがあって、結婚は考えられないって…。2歳年下の彼は、26歳。結婚を考えるには若い年だったのかな…。
ただ、私のことが嫌になったのかな…。そんなこととてもじゃないけど聞けないから、別れようって言葉をそのまま、うのみにして「うん」って答えてしまった。
その後、何日かは呆然としていた。結婚まで考えていたし、だから総合職だってあきらめたし、この人と一緒になるもんだって、疑ってなかったし…。
周りの友達から、
「だから年下はやめなって言ったのに。今度は年上の人にしなよ、ね」
って、言われたっけな。やめろって言われたってさ、付き合ってくださいと言ってきたのは向こうだしさ。3年も付き合っていたし、そりゃ、付き合いだしたころは私も、25歳で、23歳の人と結婚はどうかなって思ったけど…。
でも、彼もあと3年もすれば、結婚考えるんじゃないのかとか、私も30までに結婚できたらいいかなとか、安易だったんだよね…。
29歳になり、30歳までになんとかって、親も焦りだし、見合い話を持ってきた。2回見合いをしたが、2回ともどうにもこうにも、好きになれないというか、生理的に受け付けないというか、だめだったから、丁重にお断りをした。
父の仕事の関係の人だったし、断るのも気が引けたし、もう見合いはやめようって、それからは見合いもやめた。
結婚相談所も、どうにも行く気になれず…。変な人紹介されるのも嫌だし、多分そういう場所に偏見持っているのかもしれないけどね。
お見合いパーティみたいなところにも、桐子と一回だけ行ったが、婚期を逃したっていう男性陣がうようよしていただけだった。
「なんで~~~~?いい男っていうのは、どこにいるのよ?」
って、頭にきて、桐子と朝まで飲んで愚痴って終わった。
会社には、なかなかいい男が入社してこない。いい男だとすでに彼女がいたりして、入社してあっという間に結婚してしまう。
同期の男性陣はというと、たったの3人しかいなくて、3人ともこれまた、生理的に受け付けない人だったし、取引先はどうかっていうと、おじさんばかりだったし…。
ここ数年、かっこいい人も入ってくるけど、もう年下はこりごりだし、っていうか相手にもされないし…。
昨日は、桐子と夕飯を一緒に食べに行った。給料日だったから、奮発をして。
桐子は、短大卒業と同時に、東京に来た。家は静岡にある。東京に出て働くというのが、長年の夢だったらしいが、夢に見たのと現実の生活は、全然違うよと昨日も嘆いていた。
アパート暮らしなので、家賃やら光熱費を出すと、あまり自由にお金使えないのよと言って、ご飯を食べに行くのは、給料日くらいになっている。そんな貴重な日だったのだ、昨日は…。
「あ~~。ねえ、信じられる?もう32歳よ、私たち。結婚なんて30になるまでしなくていいわよ、って言ってたけど、30過ぎちゃったよ。遊んでから結婚したっていいわよね~って同期が結婚するたびに言ってたのがさ。どうするよ?瑞希」
「1番に結婚したのは、里枝だったよね。23歳だったっけ。みんなで早すぎだよって言ってたけど、新居遊びに行った後、みんなで羨ましくって、結婚したい~~ってなったよね」
「で、すぐに赤ちゃんも生まれちゃって、里枝の子供今、何歳?もう小学生よね?」
「桐子と海外旅行に行く度、里枝に羨ましがられたよね。私ももっと遊んでから結婚すればよかったって。あの頃は、そうだよ、そうだよなんて言ってたけど、もうそんなことも言えない年だよ…」
夕飯を食べるときつい、いつも、お酒も一緒に頼んでしまう。
昨日は、焼酎なんて頼んでしまった。飲むと必ず、愚痴を言い合っている。う~ん、この辺からして昔とは違ってるよ…。年齢を感じるな~~。
「瑞希さ、得意先の林さん、どうなってるの?みんなで飲みに行くといつも、駅まで送ってくれたりするんでしょ?」
「林さんね~~。ひとつ上だし、次男らしいし、いいんだけどさ、なんていうのかな、いい人なのよね…ってだけなのよね~~」
「瑞希はね、理想が高すぎるのよ」
「桐子に言われたくないわ。モテモテで、相手ならたくさんいたでしょ?」
「う~~ん、へんなのにつかまっちゃったからさ。ま、もう、別れたけどね」
そう。桐子にはずっと彼がいた。でも相手には妻子がいた。5年以上は付き合ってたんじゃないかな。
「このまんま、ずっとこの会社にいるのかな?転職って年でもないし、ここ辞めたら正社員で雇ってくれるところもないだろうしさ。今さら派遣もね~~」
「もしかして私たちは、定年までいるんだろうか…」
「やっぱり、結婚考えようか?」
いつも、いつも、こんな話になる。
明日も早いから、そろそろ帰ろうかってことで、9時前にはお店を出た。
飲みすぎると翌日朝起きれないし、辛くなってきた。30歳を過ぎたあたりから、お酒にぐんと弱くなった。それは桐子もだった。
桐子のアパートに泊まりに行って、朝まで飲むこともあったし、私たちはお酒強かったのに、最近は翌日のことまで考えて、飲むのを控えるようになってきた。年には勝てないな…。
「桐子はさ、いろんな資格持ってるんだから、この会社辞めても、大丈夫なんじゃないの?」
週末じゃないけど、電車の中は混んでいた。
混んでる電車に乗るのも、何年目かな。桐子は新宿から小田急線で下北沢に出る。混んでいたって、すぐにつく。私はその後、何十分も乗る。疲れているときや、お酒を飲んだ日は、帰りの電車が辛い。
こんな思いをいつまで、しなくちゃいけないのかな?
「資格ね…。役に立つかわからないものばかりだよ。お花とか、着付けとかさ。瑞希こそ少しの間、学生のとき留学してたんじゃないの?英語があるじゃない」
「ははは…。一ヶ月だけの留学だよ。全然しゃべれるようにならなかったよ」
「あ、もう着いちゃった。また明日ね。お疲れさん!」
「うん、バイバイ」
桐子は、多彩だ。綺麗だし、彼もすぐに見つかりそうだし、本当に今一人身なのが不思議なくらいだ。
桐子と別れた後、一人で電車に揺られて、窓ガラスに映った自分の顔を眺める。疲れた顔だ。いつの間に目の下にクマができたのかな。しわも増えたし、顔色も悪い。最近は、ファンデーションののりも悪い。
「は~~~」
無意識に、ため息が出る。
重たい気持ちを持ったまま、今日は会社に来た。私の気持ちと同じような曇り空の寒い日、それでも月末はたくさんのデータを入力しなくちゃならなくて、頭空っぽにしてパソコンをうってたんだ。
そんな時にいきなり、声をかけられたから、本当に3センチは浮いたと思う。
部長が声をかけてくることなんて、いまだかつてない。
すぐに、桐子にメールを送った。
>部長が肩をぽんってたたいて、話があるって。これがかの有名な「肩たたき?」
>瑞希もか。実は私もさっき、部長がきてさ、すぐに応接室で話をしたんだ。今、自主退社したら、退職金が1・5倍になるって。でも、辞めないなら給料も減るし、退職するとき、退職金も半分になっちゃうって。
>やっぱり、そういうことか~~。桐子はどうするの?
返事はなかった。
はあ…。気が重いのがいっそう気が重くなった。
そりゃあ、いつまでこの会社にいるんだろうかとか、いっそ、辞めちゃおうかとか思ったりもしたけど、こんな形で退社になるとはな…。だけど、給料が減ってまでしがみついているのも嫌だ。
かといって、辞めて何をしたらいいというのだろうか。フリーターか。この年で?3月で33歳になるんだよ?
5時半、仕事が終わる時間。部長が私のデスクの横になにげなく立っていた。ああ、話をするんだな…。
「柴田さん、応接室に来てくれるかな?」
「はい」
もう、話の内容はわかっている。ああ、気が重い。胃の奥が、ぎゅって痛む。
応接室のドアを閉め、いすに腰掛けた。
「どう?忙しい?」
いきなり、本題には入りずらいのか…。
「ああ、はい。月末はたくさんのデータを入力しなくちゃならなくて」
「ああ、そうだね。2課は月末で締める取引先が多かったっけね」
私のいる部署は営業2課だ。私は営業の事務をしている。
「もう柴田さん、何年になるの?」
「はい、12年です。今度の4月で、13年目になります」
「そうか、部署も変わらないで、ずっと2課にいるんだっけね?」
「はい」
「じゃあ、柴田さんベテランだ。2課で1番長いんじゃない?2課のことなら何でも知ってるね。そんな柴田さんが辞めたら、2課は大変だとは、思うんだけどね」
あ、きたよ。本題だ。
「来期で、大幅に人事異動がある。それに、営業所がなくなるところもある。給料も、夏のボーナスも、かなり下がると思う。この不景気だからね」
「はい…」
「柴田さんも知ってのとおり、今、事務はだいたいが、契約社員だ。それでね。柴田さんは本当にいなくなると惜しい人材だしね、自主退職を他の事務にはお願いしているのだけど、柴田さんは、契約社員ということで、残るって言うのはどうかな?」
「は?」
「っていうのがね、一つの案。これは課長の案でね。課長としては、柴田さんあっての2課だって思っているようだよ」
「はあ…」
「ただ契約社員になると、まあ、いろいろとね、給料の面、ボーナス、福利厚生とか変わってくるんだけど」
「はあ…」
「僕自身の考えとしては、契約社員でも、このまま正社員として残ったとしても、どちらも似たようなメリット、デメリットがあると思うよ。正社員の方が、安定しているし、少なくなるとはいえ、退職金も出ると思うしね」
「はい」
「ただ、本当のことを言うと、上の考えでは、この辺で、退職してもらいたいってことなんだよ。だから、僕もあまり、正社員に残るのを、大きな声で薦めるわけにはいかないんだ。立場上ね。わかってもらえるかな、そこのところ…」
結局はなんだ。何が言いたいんだ。遠回りに辞めてくれってこと?契約社員にもならないでくれと、そういうことを言いたいわけ?
首を切ったと思われたくないから、自分はいい人と思われたいから、こんな遠まわしなことをあれこれ、煮え切らないようなことを言っているのか?
「それでね、柴田さん。本題なんだけど」
「は?」
本題?もう、しっかり本題には入ってるでしょうよ。それとも何か?はっきりと辞めてくれとでも言うんですか?
「柴田さん、結婚の予定とか、その、あるのかな?そういう相手とか…。いや、こんなことを聞くのは、聞きずらいことなんだが…」
は?は?は~~~?????
「もし、いないようなら、どうかな。僕の甥っ子でね、あ、姉のところの長男で今、35歳で独身っていうのがいてね…。医者してるんだよ。小児科で忙しいんだけど、昨年独立してね、まあ、ずっと忙しかったせいもあって、いまだに浮いた話もなくて、姉が誰かいい人を紹介してくれないかって…」
「……」
私の顔が、呆けていたんだろう。部長は慌てて、
「あ、返事は今すぐじゃなくてもいいんだよ。それに、もしお付き合いしてる人がいるなら、遠慮なく断ってくれてかまわない」
と付け加えた。
「いえ、あの…。今そういう人はいません」
「そっか…。ああ、課長がね。s社の林氏と付き合っているかもしれないなんて言っていたから、姉には、断られるかもしれないけど、だめもとで聞いてみるよって言ってたんだけどね、ま、もし、会って合わないって思ったら、断ってくれてもいいし、気は使わなくても全然いいから」
「はあ…」
「ちょっとね、甥っ子のことをこんなふうに言うのはなんなんだけど、変わったやつでね。あ、いや、仕事で忙しかったからだろうけど、趣味も何にもない、仕事人間でさ。だから彼女もできなかったんだけどね」
「はあ…」
「ま、考えといて。じゃあ、悪かったね、忙しいときに呼び出しちゃって」
そう言うと、部長は部屋を出て行った。
乗り気は、まったくしない。だいたい、部長もあまりその彼のことをいいように評価していないようだし、そんな相手、会いたいとも思わない。
ああ、失敗したな。付き合っている人いますって断ればよかった。
でも、待てよ。そんなこと言ったら、相手は林さんだと思われるな。それで、課長に部長は報告するだろう。そして、会社中にうわさが流れるのは、目に見えてる。林さんのところまでうわさがいくのも、あっという間だろうな。
それはと~っても困る。その気になられても、困る。いや、悪い人ではないんだけど、でも、結婚をしたいとも、お付き合いをしたいとも思えない相手なのだ。
デスクに戻ると、桐子が待っていた。
「どうだった?」
小声で、聞いてきた。
「えっと…」
どう言ったものやら…。
「私、もう仕事終わったの。瑞希は?」
「まだ、今日は残業」
「そっか、じゃあ、あとでメールするわ」
「うん」
桐子はそのまま、帰っていった。
桐子がどうするのか、答えを聞かずじまいだった。まあ、きっと、桐子も今、頭の中ぐちゃぐちゃなんだろうな~~。
今は、人のことより、自分のことだな。さて、いったいどうしたらいいんだろうか?
パソコンを打ち始めては、手が止まる。会社を辞めたとして、その後どうしたらいいのか。会社を辞めないでいたとして、いったいいつまで勤めるのか。
契約社員になって、契約が切れたりしたら?見合いをして、断れなくなったら?
「はあ~~~~~~」
今日で1番重苦しいため息が出た。それでも、心の中のおも~~い空気は体からは出て行かなかった。
桐子から夜、メールが来たのは11時も過ぎた頃。
明日は休みだ。帰りがけにビールを買い、家でしこたま、飲んだらしい。お酒に酔うと桐子は大胆になる。行動も大胆だが、思考までが大胆になる。
>会社を辞めるわ。
それだけのメールが、突然来た。あ、飲んでるなっていうのが、丸わかりだ。飲んだときのメールは、やけに文章が短い。それに、投げやりだ。いっさい顔文字も、絵文字もはいらない。面倒くさくなるんだろうな。
>辞めてどうするの?桐子飲んでるでしょ?
>あったり前でしょ。飲まなきゃやってられない。そりゃ、今の会社なんて未練も何もないわ。こっちからさっさと辞めるつもりでいたし。でも、会社側から首切りってあったまくるわ。
>そんな時代なんだよ。
>まあね、一応、会社に残れる選択もあるんだけどね、でもさ、辞めなかったら、なんだかしがみついてるみたいで、みっともないじゃん。やめたる~~!
>だから、辞めたらどうするの?
>田舎帰るわ。
>は?突然何?
>突然じゃないの。親からも言われてたし、考えてたの。うち、旅館しててね、私長女なのよ。3人姉妹のさ。誰かがつがないとね。
>女将になるの?
>そう。女将にもなれるよう、着付けとか、お花とか、習わされてたわけ。私は絶対に嫌だったの。都会で働きたかったし、都会で生活したかったし、ずっと静岡の田舎にはいたくなかったから。
>旅館、初耳。12年も長く友だちしててさ。
>ごめんね。でも、封印したかったんだわ。考えたくなかったし。あ~あ、婿養子でもとって女将になる運命なのかな。
どう返事を返していいかわからなかったけど、実際、羨ましくもあった。だって、桐子にぴったりはまる職業だし、桐子の道がそこにはあるんだもの。桐子なら、十分女将が勤まると思うし…。
でも、私には何もないのだ。継ぐべきものもなければ、何も資格も技術も、才能もない。パソコンだって、たいした腕じゃない。いったい、会社を辞めて私は、何ができるというのだろうか?
>部長から、見合いしないかって言われた。
>なに、それ?相手は?
>部長の甥っ子の、小児科医
>え?医者?いいじゃない!
>部長だよ。もし、見合いしたら断りにくいでしょ。
>いいじゃん、会社辞めてれば、もう関係ないって。上司でも部下でもないんだよ。で、いい相手ならもうけもんだし、嫌なら断って、部長ともさよならだよ。
>で?そのあとは?
>知らないよ。瑞希が考えな。瑞希の人生だよ。
薄情なやつ。
そう、桐子は、しっかりしている。長女だし、ずっと一人暮らしをしているからか。何でも自分で決める。不倫していたときも、何年も私にも誰にも話さず、一人で悩んで別れる結論を出してた。
私はこの年でまだ、親と同居だ。何回か一人暮らしを試みたが、風邪で寝込んだり、具合が悪くなると 家に戻り、母に、
「うちから通っても、遠くないし、うちに帰ってきなさいよ」
と言われて、戻る。そんなパターンだ。
見合いか…。母に言ったら喜んで、その話を進めるだろうな。
どうしようか…。もしかしたらこれは、人生を変える、チャンスが来ているのだろうか?