13 雨は苦手
6月、夏のような日差しの日が続いていたが、とうとう、梅雨の季節に突入した。私は、この季節が苦手だ。雨の日っていうだけでも、憂鬱になる。
そのうえ、圭介がまったく、あの日のことを思い出さず、あれは本当に私が酔って夢を見たのかとか、圭介は本当は私のことを、なんとも思っていないのではないかって疑ってしまい、心はなかなか晴れず…。この梅雨の空のように、毎日、心が曇っていた。
ボーナスの日が近づいてきた。圭介が隣でにわかに嬉しそうだ。こっちの気も知らないで…。
「契約社員にも、ボーナス出るようですよ」
「あ、そう」
「え?嬉しくないんですか?」
ええ、まあ。あなたのおかげでね…。っていうのは、心の声だ。
その日、6時を過ぎ、帰ろうと廊下に出ると、後ろから社長に声をかけられた。
「今度、ボーナスが出たら、食事にでも行かないかな?」
「あ、いいですね。みんなでぱあっと…」
「いや、二人で…」
ええ?
「二人で食事はまだ行っていないね。いろいろと仕事も頑張っているから、一回くらいおごらないとね」
「いえ、そんな、気を使っていただかなくても。私は雇ってもらえただけで…」
「いやいや、まあ、おごらせてよ。ね」
「はあ…」
あれかな、稲森さんとも、食事に行ったのかな…。でも、そういうの稲森さんに聞いてまた、変なことを言われるのは嫌だし、稲森さんには黙っておくか。
ボーナスの日に、社長が食事に連れて行ってくれるというので、6時を過ぎ仕事を終え、ロッカーで待っていた。稲森さんは、仕事を終えるととっとと帰ってしまった。
最近、稲森さんは、帰るのが早い。化粧も念入りだ。稲森さんのお気に入りの楠木さんは残業ばかりだから、多分、楠木さんでない人と会っているのだろう。会社の人じゃないな。だって、会社の人はみんな、残業しているからな~~。ま、いいんだけどね。どうでも…。
社長がみんなに「お先に」と言っているのが聞こえたので、廊下に出て待っていた。ちょうど、そのとき、トイレの方から圭介がやってきた。
「あ、瑞希さん、今帰り?」
「うん…」
今、社長に来てほしくないな…。
「お疲れ様。あ!そうだ!ボーナスでたし、今度一緒にご飯でも…」
圭介がそう言いかけたとき、社長が、
「ああ、柴田さん、待たせたね」
と、やってきた。ああ、なんてタイミング…。
「え?」
圭介が少し、驚いていた。
「あ、笹おじさんと…、お出かけっすか?」
「ああ、食事にね」
「そっか…。なんだ…。今度俺も誘ってください。社長~~」
「今度な。飲みにでもまた行くか?」
社長は、圭介に笑いかけ、
「じゃ、お先にな」
と、圭介に手をふり、ちょうど来たエレベーターに乗り込んだ。
「はい、お疲れ様です」
圭介の声が、1オクターブ下がっていた。
エレベーターが一階に着くまで、私はなんだか、居心地が悪かった。圭介のちょっとさびしいような、悲しいようなそんな視線がいつまでも、心に残っていて…。
連れて行ってくれたお店は、イタリアンのしゃれたお店だった。社長はワインも頼んでくれて、その店で美味しいというものを、いろいろと頼んでくれた。
「実は、榎本先輩から、柴田さんのことを聞かれて…」
「え?」
「最近、元気がないのは、やっぱり、お見合いの件が原因かな?」
「あ、いえ。違います。あ、私、元気なかったですか?」
「う~~ん、なんとなくね」
「すみません。あの、きっと雨が続いていて、その、この季節は気が沈むって言うか…」
「ああ、まあね。毎日こう、雨じゃね」
「あの…。榎本部長…、何か言ってましたか?」
「ああ、いや…。ただ、お見合いの件でふさぎこんではいないか、心配していただけで…。それとなく様子を見てくれないかとね」
「そうなんですか。お見合いの話、社長も知っていたんですか」
「あ、いや~~。会社に勤めるときに、一応そういう話もあると、先輩から聞いていたからね。それで、先輩もその結果を報告してくれたんだと思うよ。一応、君の上司だからね、僕は」
「そうですよね。すみません」
「いや…。まあ、結婚ということでないなら、このまま柴田さんには働いてもらえるのだから、こっちは嬉しいんだけどね」
「もし、結婚して辞めることになったら、その、すごく短い間しかお勤めできなかったかもしれないんですよね。なのに、何で雇ってもらえたんでしょうか?」
「そりゃ、まあ、先輩の頼みだったしな~~」
「そうですか、すみません。本当に…」
「ああ、いや、別に柴田さんが謝ることではないし、それにお見合いも駄目になった…、ああ、ごめん。こういう言い方は、あれだなあ…」
「いえ、いいんです。駄目になって今、すっきりしていますし…」
「う~~ん、そうか。ま、そんなもんかな~~。僕も以前、お見合いして、もうすぐ結婚って言うときに断られたことがあってね」
「え?そうなんですか?」
「相手が、やっぱり結婚に踏み切れないって言い出して…」
「……」
「でもね、破談になって僕もほっとしたんだよ。多分、僕も結婚に踏み切れない部分があったんだろうね。お互い様だったんだ」
「それで、今でも独身?」
「縁がなくてね~~。ははは…。一人身も長いと、一人身の方が楽になっちゃうんだよね」
「独身貴族ですか?」
「そんなにかっこいいもんでもないよ。ただ、会社も経営しているし、会社だけでも責任が重いうえに、家族を持つのはけっこうきついっていうかな。何も肩に背負っていないから、自分で会社をつくることに踏み切れたっていうこともあるしな~~」
「仕事人間なんですか?」
「いや、仕事だけでもないけど。こう見えても多趣味でね」
「一人で、いる方が気楽で楽しい?」
「まあ、そういうところだな。年を取ったら寂しいかもしれないけどね、こういう生き方は…」
おいしいイタリアンを食べて、おいしいワインを飲んで、ほろ酔い気分になった。もっと話していて緊張する人だと思っていたが、けっこう話しやすいんだな…。
「柴田さんは、どうなのかな。結婚はしたいのかな」
「はい、したいですよ」
「そっか。じゃ、今まで出会いがなかったか、それとも、理想が高すぎたか…」
「出会いがなかったです」
「どんな人が好み?うちの会社にはいないかな?っていっても、年下が多いか」
「…年下でもかまわないです。ただ、年が下すぎると、結婚を相手はあまり意識してくれないのかなって、そんなことは思っちゃいます」
「う~~ん、そうだね…。でも、年齢いってても結婚しない僕みたいなのもいるし、若くてもさっさと結婚しちゃうやつもしるしね」
「その人の価値観とか?生き方とか…?」
「そうだね。あと、結婚したいっていう相手と出合ったかどうかも、あるかもしれないけど」
「結婚したい相手って、どういう相手でしょう?」
「さあね、これもまた、人それぞれじゃないのかな?」
「そうですよね…」
「今は昔よりも、独身でいることに、肩身の狭い思いはしないですむよ。結婚するのが当たり前の世界じゃないからね。女性だって、独身で仕事をばりばりしていたり、シングルマザーもいるしね」
「そうですね。私の周りにもいます」
「だから、結婚って言ってもその人それぞれだな。それで、どんな人が好みなんだっけ?もし、僕の知り合いに柴田さんの好みの男性がいたら紹介するよ」
「え?ええっと…。そうですね、えっと…。好みって、う~~ん」
頭の中には、圭介しか浮かばない、でも言えるわけがない。
「好きになった人が、好みって言うか…。だからないです」
「ははは、そんなものかもね」
グラスのワインを飲み干し、社長はそろそろ出ようかと言って、立ち上がった。
会計を待っている間、なにげに携帯を見ると、一件着信が入っていた。圭介だ…。
「それじゃ、駅まで送ろうか」
その店は会社からそんなに、離れた場所ではなく、駅からも近かった。
圭介は多分、まだ仕事をしているだろう。
「あの、私忘れ物をしました。それで、その…一回会社に戻るので、ここで失礼します」
「明日じゃ駄目なのかな?」
「えっと…、携帯だから、ないと困っちゃうかな…」
鞄の中にある携帯を見られないようにしながら、嘘をついた。
「ああ、そうか…。じゃ、誰かしらまだ、この時間なら残っていると思うから」
「はい、お疲れ様でした。あ、ごちそうさまでした」
「ああ、また明日ね」
よかった。一緒に会社に戻るって言われるかと思った。
会社に向かう途中、携帯で圭介に電話をした。
「もしもし」
ちょっと、そっけない声がした。
「あ、柴田です。電話くれた?」
「…社長は?」
「今、別れたところ」
「ふ~~ん」
「圭介はまだ、仕事?」
「…もう終わりました」
「え?そうなの?」
会社のビルに入ろうってところだったが、行っても圭介がいないのなら、しょうがない。
「今、圭介どこ?」
「え?」
「今、どこにいるの?」
「ここ」
ビルのドアが開いたと思ったら、圭介が出てきた。
「わああ、びっくりした!」
電話を持ったまま、さけんだので、圭介が耳を押さえた。
「声、でかすぎっすよ」
「ごめん…」
慌てて、携帯を切る。
「すごい偶然、今、会社出たところだったの?」
「はい」
「そっか…」
圭介の顔が見れて、ちょっと心がほころんだ。きっと、ワインで酔ったせいもあったかな。
「顔、赤いですね。酔ってますか?」
「あ、あれ?わかる?」
「飲んでたんだ、社長と」
なんだか、すねた言い方だ。
「圭介も、一緒にこれたらよかったね。今度、社長に連れて行ってもらいなよ」
「…。俺は、行かない方がよかったでしょう」
「は?」
「社長も、二人の方が良かったんですよ」
「なんで?」
「なんでって…」
「もしや、妬いてる~~?」
ああ。こんなことを言えちゃうのも、酔ってるからだな。
「…妬いちゃ、悪いっすか?」
「え?」
「…冗談ですよ」
でも、冗談と言っている顔が、あからさまにすねた顔だ。
「だけどさ、妬くようなことな~~んにもなかったけど」
「社長に口説かれて、喜んでたんじゃないんすか?」
「……」
そんなわけないじゃん。私が誰を好きだか知ってんでしょ!告白したでしょう~~~。と心の中では叫んだんだけど…。
「あれ?何?その間…」
黙っていると、圭介は、少し不安げな顔をした。
「あ~~、えっと…。今のも冗談っすよ。そ、そんなわけないですよね。いくらなんでも…」
「社長は最近、私が元気なくて、お見合いを断られたからかって心配してくれてた、だけです」
「え?」
「それから、私の好みの男性を聞いてきて、誰か紹介してくれるって」
「ええ?」
「それだけ」
「いや、それだけって…。で、何て言ったんすか?」
「は?」
「だから、好みの男性」
「ああ、そうね。渋くって、年上で、頼りがいがある紳士」
そう私が言うと、圭介は黙ったまま、その場に立ち尽くしてしまった。
しばらくして、再起不能だっていうような顔をしたまま、ちょっとよろけてこっちを向いた。顔はあきらかにひきつっていたが、必死に笑いかけ、
「それで、社長はなんて…?そんな男紹介してくれるって?」
本気にしてるよ、笑えるな~~。
「そうね…」
ああ、どこまで嘘をついてやろうか…。相当な意地悪かな、私。
「……」
しばらく黙っていると、ほっぺたをひきつらせながら、じ~~っと話すのを待っている圭介が、なんだか今度は妙に可愛く見えて、
「嘘だよ。嘘」
と笑って言った。
「え?」
「だから、好みの男性、まったく逆だよ」
「え?え?え?え?じゃ、えっと、渋くなくて、年上じゃなくて、頼りにならない?そんなやつですか?」
「ふふふ…。そんなやつよ」
「……」
あ、あれ?俺じゃないですかって、言わないの?黙って考え込んでるよ。
「それ、冗談っすよね」
って、今度は、すごいまじな顔。
「そうね…。本当は好みのタイプってないですって答えました。好きになった人が好み」
「…ああ、そうっすか」
圭介は少し、安心したような、でもがっかりしたような、変な顔をした。
「おなか空いてない?」
「はい、ぺこぺこです」
「なんか、食べようか?」
「でも、瑞希さん、ご飯食べたんすよね」
「私は、何か飲むくらいにする」
「ああ、じゃあ、その辺の、ファーストフードでもいいっすか」
「ええ?ボーナス日に?」
「それは、また、瑞希さんときちんとご飯食いに行くのに、取っておきますから」
「え?もしかして、おごり?」
「当たり前です。そのくらいしますよ、俺だって!」
「嬉しいな、ありがとう」
酔っているせいか、今日はなんだか、圭介と楽しく会話ができる。
今まで、圭介は私のことをどう思っているのか、そればかり気になって、なかなか、こんなふうに楽しく会話もできなかったんだ。だからきっと、会社でも元気がないって思われたのかな。
あ、それは、圭介も気づいていたんだろうか?