凛と奏でた紅い唇
百合要素があります。
その子は、不思議な魅力を持った子でした。
「……あなたも、おいしそうね」
「……え?」
そう言って妖しく微笑みながら、その子は私に顔を近付けてきたのです。
「ーーっ!」
どんどん顔が近付いてきます。
このままでは彼女の唇は私の唇と重なってしまう。
「……っ!」
私は思わず、ぎゅっ! と目をつぶってうつむきました。
心は嫌がっていないのが不思議でしたが、初めてだったから体が勝手に萎縮してしまったみたいです。
「……?」
でも、いつまでたっても彼女の柔らかそうな唇が私に触れることはなく。
不思議に思っておそるおそる目を開けてみると……、
「……あっ」
彼女は少しだけ悲しそうな笑みをたたえながら私を見つめていました。
「……やっぱり、あなたには無理よ」
「……」
彼女はそう言うと、踵を返して教室から出ていってしまいました。
「……」
私はうつむいてしまったことを後悔している自分の気持ちに蓋をしながらも、いつまでも彼女が出ていった教室の扉を見つめていたのでした。
彼女のことはあまり知りませんでした。
同じクラスではあっても話すことはなく、いつも教室の窓際の、一番後ろの席でぼんやりと窓の外を眺めていました。
特定のグループには所属せず、基本的に1人でいることが多かった彼女ですが、かといって孤立しているわけではなく、誰かが話しかければにこりと笑って話すような人でした。
それに何より、彼女は美人だったのです。
すっと通った鼻筋に、少しだけ切れ長な目。
まっすぐでサラサラな長い黒髪を右耳にだけかけていて、身長はそこまで高くはないけど、スレンダーだから小さくは感じませんでした。
そんな神秘的で可憐な彼女だから、やはり彼女のことが気になる男子は多かったようです。
いつも遠巻きに彼女に視線を送っている男子がいたことを私は知っています。
ですが、彼女はそれに気付いていないのか気にしていないのか。
いつも誰に対しても同じように接していました。
ほとんど笑うことはなく、いつも静かに冷静に。
私自身、彼女のことは容姿以外に知っていることはほとんどありませんでした。
さしたる興味もなかった、とも言えるでしょう。
私は私の世界が充実していればそれで良かったのです。
そして、その中に彼女はいませんでした。
もちろん話しかけられれば話すし、必要ならば普通に話しかけますが、特段、そんな機会は現れませんでした。
そんな彼女の印象が変わるきっかけとなった出来事が二つあります。
それはきっと私だけではなく、クラスメートたちもそうだったのではないかと思います。
良い意味か悪い意味かは人それぞれとして……。
「凛ちゃん!」
ざわっ。
授業が終わったばかりの教室に飛び込んできた声に室内がざわめきます。
先生はもう教室から出ていて、皆は帰り支度をしていました。
「凛? 凛って誰?」
「え? いや、あの子でしょ」
「え!? そうなの!?」
皆がざわざわしています。
なぜなら、このクラスには彼女のことを下の名前で呼ぶ人は1人もいなかったからです。
私もその名前が彼女だと理解するのに数秒かかりました。
「奏っ!」
そして、再び教室がざわめきます。
彼女がいつも以上に大きな声を出したからです。
彼女もまた、クラスメートを下の名前で呼ぶことはありませんでした。
「もう終わった? 一緒に帰ろ?」
「うん!」
そして、みたび教室はざわつきます。
彼女があんな輝くような笑顔を見せたのが初めてだったからです。
今までも笑顔は見せていましたが、それらの笑顔が見せかけの、外面としての笑顔だったのだとクラスメートに知らしめるには十分すぎるほどの破壊力を、その時の笑顔は持っていました。
それが、彼女の印象が変わった一つ目の出来事でした。
「なにあれ? 今までのはただの愛想笑いだったの?」
「なんか嫌な感じ。てか誰よあれ」
「でも可愛かったよね」
「うん、そうだね」
「え? ヤバ。俺惚れたわ」
「分かる。俺にもあんな笑顔見せてほしい」
クラスメートの反応はだいたいこんな感じです。
私はどうなんでしょう。
よく分からないけど、驚いたっていうのはあるかもしれません。
いえ、たぶんとても驚いたんだと思います。胸がすごくドキッとしたから。彼女の輝くような笑顔が頭に貼り付いて離れなかったから。
そして、そんな笑顔を向けられた女の子のことが無性に気になったから。
人の噂っていうのはすごいもので。
次の日には奏なる女の子のことはクラスメートに周知されていました。
奏ちゃん。私たちのひとつ年下。
私たちはいま二年生だから一年生。
どうやら、凛(あれ以来、心の中ではそう呼んでいる)とは同じ中学だったようで、この春ようやく同じ高校に入学してきたらしいのです。
「……かわいい子だったな」
美人で格好いい感じの凛とは違って、奏ちゃんはいかにも女の子って感じの子でした。
ちっちゃくてふわふわしてて、髪の毛も少し色が抜けたような感じでゆるふわで。
「ん? なんか言ったか?」
「……なんでもない」
私の前の席に座る男子、浩平がこちらを向いて話しかけてきました。
「そか。まあ、結衣は昔から独り言多かったからな」
「……うっさい」
浩平とは昔っからの付き合いで、幼馴染みと言えば聞こえはいいですが、ようはただの腐れ縁です。
なぜか学力まで似ている私たちは同じ高校に進学し、なぜか同じクラスになったのです。
中学の頃は急に伸びだした身長に驚いて好きになってみたりもしたけど、今ではただの子憎たらしいただの友達です。
「……浩平は、り……あの子のことどう思う?」
あぶない。あやうく凛と呼ぶところでした。
名前を呼ばないと分からないかもしれませんが、凛は相変わらずいつもの席で窓の外を眺めているので視線を送るだけで十分でした。
「ん? ああ、あいつか。べつにどうもねえな。俺は特に興味ない。気になるっつってる奴はそれなりにいるけどな」
「……ふーん、そっか」
浩平はこういう時に素直に自分の気持ちを言います。
変に照れて誤魔化したりしないのです。
だから彼は本当に凛に興味がないのでしょう。
「……」
それを聞いて、なぜ私はホッとしたのでしょうか。
何に対して、ホッとしたのでしょうか。
誰に、対して……。
「……」
そして、その時の私は気付きませんでした。
私が視線を送ったことに、凛が気付いていたことに。
凛が、私のことを見ていたことに。
そして、彼女の印象が変わった二つ目の出来事は突然に、あっさりと、しかし衝撃的に、私たちに訪れました。
奏ちゃんが亡くなったのです。
交通事故でした。
道に飛び出した子猫を助けようとしたところにトラックがぶつかってきたそうです。
少ししか見たことはなかったけど、かわいくて優しそうな彼女らしいなと思ったりしました。
「俺、同じぐらいの奴の葬式に行くの初めてだわ」
「……黙って」
私と浩平は一緒に奏ちゃんのお葬式に行きました。
彼女のクラスメートは全員参加してましたが、他の生徒は希望者のみの参加となりました。
そこで私は帰ろうとする浩平を連れて式に参列することにしました。
「……」
会場に入ると、お坊さんが唱えるお経が会場に響いていました。
誰かのすすり泣く声も聞こえます。
あそこにいるのは奏ちゃんのお母さんでしょうか。
「……」
会場をひとしきり見回して、私は凛の姿を探していたことに気が付きます。
私はひどい女です。
きっと凛にとって、とても大切な人であろう奏ちゃんの死。
それを受けて彼女がいったいどんな顔をするのか。
私はそれを見てみたいと思ったんだと思います。
そして、そこまで来てようやく私は気付くのです。
私はあの輝くような凛の笑顔を見てからずっと、凛のことばかり考えていることに。
「……」
焼香を終えると、奏ちゃんの顔を見ることが出来ました。
綺麗に整えてもらった彼女の顔はやっぱり可愛らしくて。
でも、血の気のないその顔は私には少し怖く感じました。
「ねえ、あれ……」
「り、凛ちゃん」
会場がざわついたことで私は振り向きます。
「……っ」
そこには真っ黒な喪服を見事に着こなした凛の姿がありました。
凛はただでさえ白い顔がさらに青白くなっていました。
まるで生きるための活力をすべて奪われたようなその姿は……とても美しかったのです。
何もかもを無くし、一切の表情をも無くしたその顔は偽物みたいに綺麗で。泣き腫らしたあとなんてまったくない、涙の枯れ尽くしたその切れ長の瞳は何を考えているのかまったく分からなくて。
それにもまた、私は惹かれたのです。
「凛ちゃ……」
凛は立ち上がって近付こうとする奏ちゃんのお母さんを無視して、奏ちゃんが眠る棺桶の横に立ちました。
「……」
凛は無表情で黙ったまま奏ちゃんを見下ろします。
死に化粧で綺麗にしてもらった青白い顔の奏ちゃん。
凛の顔色は、そんな奏ちゃんによく似ていました。
それを少しうらやましいだなんて思ってしまう私はどうかしているのでしょうか。
「り、凛ちゃん! なにをっ!」
その時、凛が腰を曲げて、奏ちゃんが入っている棺桶の中に顔を突っ込みました。
その瞬間は、まるでスローモーションのようにコマ送りになっていたのを覚えています。
皆が驚いた顔をしていました。
「……」
そして、ずいぶん長い時間だった気がする一瞬が終わると、凛はそっと顔を上げました。
「……っ!」
奏ちゃんの死に化粧の紅がうつった凛のその唇が、私の脳裏に鮮烈に焼き付きました。
心と体がぞくりとしたのは恐怖からでしょうか。
それとも嫌悪からでしょうか。
それとも……。
これが、二つ目の出来事の顛末です。
この翌日から、凛に話しかける人はいなくなりました。
翌日には全校生徒が知っていたのですから、人間というのは怖いものです。
話しかけられれば笑顔でそれに応えるのが凛です。
でも、話しかける人がいなければ凛は無表情で窓の外を眺めるだけです。
その日から、それが凛にとっての毎日になりました。
そして、私は皆に隠れてそんな凛にこっそりと視線を送ることしか出来ませんでした。
けっしてこちらを見ることはない、凛に。
「あ、ヤバい。忘れ物した」
「あー、じゃあ待っててやるから、さっさと取ってこいよ」
「うん、ごめん」
しばらくして、私はたまたま浩平と一緒に帰ることになったのですが、教室に忘れ物をしていることに気が付きました。
浩平が下駄箱で待っていてくれるというので私は急いで教室に戻りました。
「……あ、」
「……」
そこには、凛がいました。
放課後の誰もいない教室。
そこで、一人きりで。
一番後ろの窓際の席で、凛はまだ窓の外を眺めていました。
「……結衣、さん?」
「えっ?」
その時、凛がこちらを向いて私の名前を呼びました。
信じられませんでした。
けっしてこちらを見ることはないはずの凛が。
私の方を見て、私の名前を呼んだのです。
「……っ」
私は嬉しい、と思っていました。
凛に見てもらえて、名前を呼んでもらえて、なぜだかとっても嬉しかったのです。
「……あなた、やっぱり……」
「……え?」
凛が立ち上がり、こちらに向かってきました。
私は突然の出来事にどうすればいいのか分かりませんでした。
心臓だけがやけに早鐘を打つようにどくんどくんと言っていたことだけは覚えています。
そして、凛は私のすぐ目の前までやってきました。
「……」
「……」
凛は感情のない瞳でまっすぐに私を見てきます。
まるで、私のすべてを見透かすかのように。
「……私は、奏のことが好きだったわ」
「……え?」
凛が何を言っているのか理解するのにずいぶんかかった気がします。
何となくそんな気はしたけど、認めたくなかったというのもあるのかもしれません。
「……あなたは、私のことが好きなの?」
「……え」
突然、凛にそんなことを言われて私は顔がカッと熱くなりました。
なんでバレてるの?
そんな言葉が頭をよぎって、そしてすぐにそれの意味を反芻します。
バレる?
バレるってなに?
私は、私は凛のことが?
それを否定したいという気持ちと、やっぱりねという気持ち。
嬉しいのかもしれないという反面、それはダメという拒否の気持ち。
「……あなたも、おいしそうね」
「……え?」
そう言って妖しく微笑みながら、凛は私に顔を近付けてきたのです。
「ーーっ!」
どんどん顔が近付いてきます。
このままでは凛の唇は私の唇と重なってしまう。
あの、青白い唇に差した深紅の紅。
今はピンク色に染まっている柔らかそうな唇。
「……っ!」
私は思わず、ぎゅっ! と目をつぶってうつむきました。
心は嫌がっていないのが不思議でしたが、初めてだったから体が勝手に萎縮してしまったみたいです。
「……?」
でも、いつまでたっても凛の柔らかそうな唇が私に触れることはなく。
不思議に思っておそるおそる目を開けてみると……、
「……あっ」
凛は少しだけ悲しそうな笑みをたたえながら私を見つめていました。
「……やっぱり、あなたには無理よ」
「……え」
凛はそう言うと、踵を返して教室から出ていってしまいました。
「……」
私はうつむいてしまったことを後悔している自分の気持ちに蓋をしながらも、いつまでも凛が出ていった教室の扉を見つめていたのでした。
「……」
私はしばらく呆然としたまま教室に一人で立っていました。
「おーい、まだかよ~」
いつまでも帰ってこない私を心配して、浩平が様子を見に来てくれました。
「ん? どうした? 何かあった……っ!」
私は浩平に駆け寄ると、その胸に顔をうずめました。
「お、おい。どうしたんだよ。何かあったのか?」
「……黙って」
私はそれだけ言うと、浩平の胸に顔を隠して静かに泣きました。
「……」
「……!」
浩平は黙って私を優しく抱きしめてくれました。
何となくですが、私はいつか、浩平をまた好きになるんだと思います。
そして何となく、浩平もそうなってくれるような気がしました。
もしかしたら、いつか結婚とかして、子供ができて、家族で幸せに暮らしたりもするかもしれません。
なぜだかその時、私はそんな気がしたのです。
ーーやっぱり、あなたには無理よーー
それはなんのことを言っていたのでしょうか。
私では奏ちゃんの代わりは無理だということでしょうか。
それとも、私はそちらの世界には行けないということでしょうか。
いくら考えても答えは出ませんでした。
そして、その答えを聞くことはついぞ、やってきませんでした。
凛は翌日から学校に来なくなったからです。
しばらくすると、凛は転校したと先生から報告がありました。
すぐに言わなかったのは本人の希望があったからだそうです。
私が追いかけてくると思ったのでしょうか?
思ってくれたのでしょうか?
そうだとしたら、私は少しだけ嬉しいのかもしれません。
この気持ちがなんなのか。
私には答えを出すことは出来ないでしょう。
きっと確かめることも出来ないのでしょう。
凛はきっともう、私の前に姿を現すことはないのだから……。