冷酷な処刑人に一目で恋をして、殺されたはずなのに何故か時戻りしたけど、どうしても彼にまた会いたいと願った私を待つ終幕。
「セシル・ブラッドフォード公爵令嬢……せめて、一息に。苦しまぬように致します」
非情な決断を下し自らを呼び出した主に、目の前で座り込んでいる私を殺すように命じられ、彼は短く呟いた。
私の目に入るのは感情が見えない、紺碧の瞳。ただ、それだけ。
まるで、裏稼業の人間か暗殺者を思わせるような不気味に見える黒衣を纏い、コツコツと靴音をさせて、こちらへと近付いて来る背の高い男。
未来の王太子妃……王妃へ嫌がらせを繰り返した冤罪を被った私にとって、彼は恐ろしい死神になるはずだった。
けれど、どうしてだろうか。私には彼が与える死でさえも、残酷な美しい天使による断罪に思えてしまうのだ。
ああ……きっと。私は、もうすぐここで彼に殺されてしまう。すぐそこに死が迫り来る恐怖よりも先に、彼へと向かう気持ちが勝っていた私は。もう。
恋という熱病に侵されて、その時にはどうかしていたのだ。
こちらへと歩み寄る彼の整った顔を、見つめたまま。次の瞬間。私は、かつて婚約者であった人の顔を見つめていた。
「っ……リチャード……えっ?」
これまでに彼にされた酷い仕打ちの数々を思い出し、顔を歪めて大きな音をさせてティーカップを置いた私に、婚約者だった王太子リチャードは優しく微笑んだ。
「いつも完璧な君が、そんなに焦っているなんて、珍しい。何か、気になることでも思い出した?」
先ほどまでの緊迫し張りつめていた空気など、欠片も感じさせない。呑気な態度で、首を傾げた。
パリッとした糊のきいた白いテーブルクロスを掛けられた丸テーブルで、数秒前まで冷たい石の床に座っていたはずの私は柔らかなクッションの敷かれた椅子に座っていた。
正面に座っているのは、穏やかで優しい性格と誰をも虜にするような美しい容姿を持つ、この国の王太子リチャード・ヴァイスキルヘン。
運命の女性と恋に落ちて、彼女への嫌がらせの冤罪だと泣いて否定した私を、容赦なく死に追いやったその人。
……そうだった。
彼女が現れる前の彼は、こんな風に穏やかで陽だまりの似合う人だったわ。その後の……あまりの変貌に、すっかり忘れていたけど。
とりあえず。殺されたはずの私が、今この場所に居る意味を、全く理解出来ていない。落ち着こうと、大きく深呼吸した。
新鮮な晴れた日の空気が、肺に入っていた。
じめじめとしたカビの匂いのする地下牢で鎖に繋がれていた私は、あの時に初めて見た美しい男性に殺されたはずだった。
けれど、ここはうららかな陽の光がさんさんと降り注ぐ、美しいサンルーム。確かに私はこの場所で、婚約者のリチャードとは良くお茶をしたものだった。
殺されたと思っていたあの時と、明らかに状況が違う。もしかしたら……これは、あの女性が現れる前の過去へと戻った?
最近流行っている物語では、聞いたことがある。主人公たちは時を越えて過去や未来を、移動するのだ。
「あの……リチャード。ルイーゼ様は、今どこにいらっしゃいますか?」
「ルイーゼ? 誰の事だ?」
光が跳ねる美しい金髪をさらっと揺らしリチャードは、私の質問に対し、本当に不思議そうにして首を傾げた。
そして、確信した。
あの女性……貴族の子女を集め教育する学園で、多くの男子生徒を虜にした男爵令嬢ルイーゼ・ローランスと、彼はまだ出会っていない。
こうして、冤罪で殺されたはずの私は、何故か時を遡り……人生を、やり直す機会を与えられた。
◇◆◇
時が戻る前のことが夢でないのならば、近い未来に婚約者のリチャードは、まるで人が変わったようになり「運命の相手を見つけたので、婚約解消をして欲しい」と、私に迫って来るはずだ。
あの時に、大人しく頷いて引き下がっていれば、私は殺されることはなかっただろう。
一度王族から婚約解消された貴族令嬢として、傷物扱いされたとしても、私の父は公爵で政治的にも力を持っていた。貴族院でも、議長を任されていた。
政略結婚で、王太子とは比べるべくはないにしても、再び良い縁談が舞い込んでもおかしくはなかった。
最初からそうしていれば、良かったのかもしれない。今思えば、私はリチャード殿下に、自分は恋をしていないことを知っているのだから。
あれは決して恋などでは、なかった。
いきなり現れた自分より下位にあった令嬢に、幼い頃から仲の良い婚約者を横取りされて、いわれもない嫌がらせなどの冤罪を認めたくはなかった。
公爵令嬢としての高い矜持が、安易な安全策におもねってしまう楽な道を辿ることを邪魔をした。
……黒衣を纏う冷酷な、美しい処刑人。あの人は、今どこで何をしているんだろう。
暦を確認すれば私は、実に二年ほどの時を巻き戻ってしまったようだった。
現在は貴族学園の二年生で、リチャードが恋に落ちる男爵令嬢ルイーゼ様が入学するのは来年の春だった。
入学式で運命的に出会い、彼らは恋に落ちるはずだ。
未来、何が起こるかを知る私が、このまま何もしなければ。きっと、そうなることだろう。
けど、私の関心はそこにはなかった。
王家の影と呼ばれている存在が居る事は、近い将来に王太子妃になる予定だった私は教師から教えられていた。
特定の王家の人間のためだけに存在し、死にゆく者。王家に近い血筋から、影として身代わりにもなれるように。容姿が良く似た者が、選ばれるらしい。
そういえば、彼は髪の色を除けば王太子リチャードに似ていた。陽の光のような金髪と、闇を思わせる黒髪。まるで、彼ら二人の対照的な立ち位置を表すような。
あの時に、怒りに我を忘れたリチャードが彼を呼んだ名前。ユーウェインという名前で、私は密かに調査を開始した。
王家の影の正体を知るなど、通常であるなら政治的な力も持たない公爵令嬢に出来るはずもない。でも、私には彼が存在している事も知り、名前などのいくつかのヒントを得ていた。
その上に、この頃の私はいずれ王族となる身分だった。
限られた者にしか立ち入れない家系図のある資料室にも、入室は可能だ。
リチャードの影であるためには、彼は近い年齢の縁戚である必要があった。けど、その産まれた系譜なんかは、今は公式には抹消されて秘されているはずで……。
「……前王弟の、庶子……今ではもう、死んでいるはずのユーウェイン。あの人は、リチャードの従兄弟だったのね……」
「仕方の無い人だ。せっかく、人生をやり直すために時を戻したのに。なぜ、こんなところで俺なんかのことを、調べているんですか?」
暗く狭い資料室には、私一人しかいないはずだった。
ここは、王家の者とそして極少数の限られた学者以外は入ることの出来ない場所のはずで……。
声の方向を見れば、あの時の処刑人。私を殺した人だった。薄暗い影の中に居て、溶け込んでしまいそうな黒髪と黒衣。
美しい、紺碧の瞳。
「貴方……ユーウェイン?」
震える声で問い掛けた私に、彼は小さく溜め息をついた。
「あれが、最後の……逃げるチャンスでした。前世の記憶を持っていた、俺にも気が付いた時には手遅れだった。牢に入れられれば処刑台で断罪されてしまうはずの貴女を、どうにかして救うためには……ああする以外の方法が見つからなくて」
彼が淡々と語る内容は、良く理解が出来ない。前世の記憶を、持っていた?
「待って……何を、言っているの?」
「貴女は本当に……美しい。すべてを身に付けている、悪役令嬢。けど、俺は幼い頃からリチャードの影として、常にあいつを警護するために共に動き、傍で笑う婚約者の貴女を見ていて、いつの間にか好きになっていました」
「悪役令嬢……?」
確かに私は令嬢ではあるけど、悪役なんて酷い言いざまだと思った。
けれど、前の生でもルイーズ嬢を虐めたことなど一回もなかったけれど、世間的にはいつの間にか、そういう事になっていたと思う。
「……貴女には、何の事だか。この状況も、何もかも。理解など出来ないでしょうね。俺は貴女を殺した世界線で、世界の中でも最難易度に入手できないアイテム。時を戻すという時戻りの剣を、どんな事をしてでも手に入れたんです」
「もしかして……殺されたはずの、私の時が戻ったのって」
「そう。俺の仕業です」
あの時の私を殺したはずの人は、私を救うために殺したと言った。
「でも……私は、貴方に殺されたわ……」
理解し難い経緯に、私は頭が酷く混乱していた。
「時戻りの剣には、発動条件があったんです。処刑台に立つ前の貴女の時を戻すためには、一度は殺すしかなかった。そして、一度使用すれば、もう……あれは、もうないんです。そういう、アイテムなんです。一度しか、使えない」
「私を……また、殺すの?」
今もなお震えている私の声は、恐怖からだと勘違いしているかもしれない。彼は整っている顔を、歪めたから。
「いいえ。ヒロインが入学すれば、強制的に乙女ゲームのイベントが進んでいく。貴女は冤罪だと言っていましたが、あのヒロイン……ルイーゼ・ローランスは、婚約者のリチャードと懇意になっているのにも関わらず、なかなか自分を虐めて来ない貴女に痺れを切らして、既に惚れている攻略対象者にやらせたんです」
「待って。私がしたとされている彼女への嫌がらせは、冤罪だって……貴方は知ってたの? だったら!」
なぜあの時、殺す前に無実を証明してくれたら良かったのにと続けようとした私に、彼は首を横に振った。
「一度始まってしまったゲームの強制力は、凄くて……俺が、安易に想像していた以上のものでした。そして、俺がどうにか貴女を救おうとした時には、ヒロインのルイーゼは順調にイベントを進めていた。貴女を助けるために。俺にはもうああするしか、なかったんです。生きている間に、時を戻す剣を使って貴女を殺せば時は巻き戻る。そうすれば、ゲームが開始する前であれば、なんとかなるかもしれないと……」
暗い表情でユーウェインが言っている意味がわからなくて、困惑はした。けれど、私を救うためにあれをするしかないという事実は、理解した。
「その……ゲームっていうものが、私には到底理解は出来ないけど……ユーウェインは私を救うために、凄く苦労をしてくれたのね。それは、わかったわ」
「……殺した事を、許して欲しいとは、言いません。もし、ゲームの開始を回避するのなら。あのヒロインが、やってくる前の今くらいなんです。もう、この地を逃げるしかない。だから俺と、どうか約束してください」
「何を?」
「幸せになることを努力し続け決して諦めないと、そう言ってください。一度死んだはずの人間が、何もかもをなくして、人生をやり直すんです。並大抵のことでは、きかない。もう、また選択肢に失敗しても、時は戻せないですが……」
どこか悔いる様子を見せる彼に、私は首を振った。
「私は、何も失敗してないわ……やっぱり。あの時から、おかしいのかしら。殺されたはずの、貴方に会いたくて……だから、これは成功したのよ」
「一体、何を……」
今度は、逆に彼側が困惑しているようだった。私の言っている事が理解出来ずに、眉を顰めている。
「私は……信じられないことに。自分を殺しに来た貴方に、恋をしたの。だから、もう一度会うために、こうして調べていた。だから、時を戻して貰えて。今こうして、会えたのなら成功よ」
「俺は、貴女を殺したんですが……」
「ふふっ……そうね。苦しむこともなく、一瞬の出来事だったわ。自分が一度死んだなんて、今も思えないくらいよ。腕の良い処刑人に当たって、運が良かった」
肩を竦めて彼に言葉を返した私に、ユーウェインは理解できないと右手を頭に置いた。
「貴女が恋をしていたのは、リチャードでしょう? だから、彼からの婚約解消の申し出も断って……」
「いいえ。あれは、恋ではなかったわ。ただの、一度手に入れたと思ったものへ対する、下らない妄執よ。けど、貴方への思いは全く違った。殺されたというのに、もう一度会いたいと思うほどに」
「俺は……特別に訓練された王家の影で……表に出られるような身分では、ありません。きっと、後悔をしますよ」
王家の血を引く者だけど、いなかった事にされている人に違いない。光の道を歩く、誰かのために。誰かは、闇の仕事に手を染める定め。
「私と、一緒よ。私も……またルイーゼ様が学院に入学すれば、同じことの繰り返しだもの。でも、そうだとしても……貴方に会いたかった」
それは、私の本心からの気持ちだった。
ユーウェインを真っ直ぐに見つめれば、ゆっくりとこちらへと近付いて来る。美形の王子として近隣諸国に名高いリチャードと良く似た……美貌の王家の影。
「実は、俺は攻略対象という……本来ならば、ヒロインのルイーゼに惚れている側のキャラなんですよ。だからこそ、悪役令嬢の貴女を好きになったことに気が付くのが遅れた。この世界に生まれ変わって。ずっとそれが、不思議だったんですが……」
「こうりゃくたいしょう?」
意味のわからない単語に困惑していると、手を伸ばせばすぐに触れられるほどの位置に居て、彼は溜め息をついて笑った。
「もしかしたら……貴女も、記憶を取り戻してないだけで。俺と同じように転生者の一人なのかもしれません。俺が知っている悪役令嬢のセシルは、もっと高慢な性格で嫌な女だったはずでした。俺が長い期間かけてずっと観察していても、嫌なところなど何一つ見つからなかった。素直で可愛くてリチャードが何故あちらを選んだのか。理解に苦しむ……ええ。貴女こそが、俺のヒロイン役に相応しい」
ここは薄暗く、視界が悪い。だから、彼は私の顔が赤くなっていることには気が付かないはずだ。
もしかしたら、このまま上手くいけばユーウェインは、私の想いに応えてくれるかもしれない。けれど、私は近い将来に捨てられるとは言え、現在は王太子のリチャードの婚約者でブラッドフォード公爵令嬢だった。
「ねえ……待って。でも、貴方が私を連れて、ここから逃げれば。きっと、多くの優秀な追手がかかるわ。王家の影が、王太子妃となる女性を攫うのよ。王家の威信を掛けて、必ず探し出すでしょう。貴方が一際強かったとしても、多勢に無勢。それに、私にはとても追手とは戦えない。人を一人守りながら。長い距離を逃げ切るなんて、とても現実的ではないわ」
彼と私の逃避行は、危険極まりない道行きになることだろう。
恋に浮かれたままで、幸せに生きて死んでいくのも、それはそれで甘美な結末かもしれない。けど、私は出来ればやり直しの人生の中で、日陰の身分だったユーウェインと幸せになる方法を選びたかった。
「貴女の言い分には、一理ありますね。何か対案が?」
「ええ」
頷いた私を見て、彼は満足そうに微笑んだ。
◇◆◇
私は予定通りに婚約者リチャードとルイーゼ・ローランス男爵令嬢が親密になっていくのを、ただ何もせずに見守っていた。
そして、私はリチャードに、ルイーゼ嬢へのやった覚えのない嫌がらせや彼女を危害を加えようとしたという冤罪の責任を取り、大人しく婚約解消に頷くように言って来た。
なんだか、不思議なものだ。
一度目の時は、私の事を誰より知っているはずなのに、なんでわかってくれないのという怒りが身体の中を占めていた。
けれど、今はもう捨てられるとしても何とも思わない。リチャードと彼の隣で怯えた表情を見せつつ気丈に振舞っている演技をしているルイーゼ様を前にして、婚約解消をすることを甘んじて受け入れる事にした。
そして、高い地位に居る父親を持つ公爵令嬢である私と、恙なく婚約解消をしたいのなら、王家の影であるユーウェインを王族へと復帰させて自分と婚約させて欲しいという取引条件を聞いて、リチャードは渋々ながら頷いた。
ユーウェインは王家にとってとても便利な存在だったと思うし、きっと汚い仕事もしていたはずだ。これから国を背負わねばならない王太子のリチャードにとっては、彼が自分の好きに使えなくなってしまうことは痛かったと思う。
それもこれも、愛しいルイーゼ様と結婚するため。どうぞ、愛する二人は何の曇りもなく幸せになって欲しい。
私も、同じようにそうするので。
これまでに隠された存在であったユーウェインは、前王弟である実父が当主である公爵家へ帰ることになった。
いきなり社交界へと現れることになったいなかったはずの公爵家子息に、国の貴族間で大きな騒ぎになっていたものだった。
流石、元王族の威厳を見せる彼の父は「幼い頃から身体が弱かったので、空気の良い異国で育てました」と、余裕綽々の顔で嘘をついていた。
彼は愛する息子のユーウェインを甥のリチャードのために取られ、影として育てることには納得はしていなかったようなので、奪還するきっかけとなった私に感謝してくれている。
そして、従兄弟にあたる王太子の代打としてユーウェインが婚約者となることを認められた私の部屋に居て寛ぐことも、公爵令息として立派に仕事をしている彼にとっては当然の事で。
「セシル。本当に美しい」
「もう……何度目? 誉め言葉の価値が下がってしまうから、止めてくれないかしら」
いつもいつも同じように言われているけど、彼のような美形に甘い言葉を囁かれていると思うと、落ち着かないし恥ずかしい。
育ちが良い正統派のリチャードとは違って、彼の影であったユーウェインは例えようもない色気があった。
「今日は、もう言いましたっけ? セシルを褒めるのは、これが初回だと思うんですけど」
「いつもいつも……そうして褒められていると、それが当たり前になってしまうわ。私に飽きてしまったら、どうするの?」
悲しい哉。恋は永遠ではないし、熱い激情が冷めてしまえば灰も残さない焼野原。お熱い二人が、憎み合ったり完全に無関心になったり。貴族の間では良くあることだった。
「それが当たり前になって、僕がいないと物足りないと思ってくれたらと。愛する人への褒め言葉を惜しむような、下衆にはなりたくありません」
彼は血の繋がりのある従兄弟なだけあって、リチャードには良く似ていた。
けれど、初対面の時にはゾッとするような冷たい目だったものだけど、今では他人だったんじゃないかと疑ってしまうほどの火傷してしまいそうな熱い眼差し。
「最初会った印象とは、正反対ね。ユーウェイン」
「……最初会った時は、どうでしたか」
「あの時は、もっと恐ろしくて冷酷な人に思えたわ。無慈悲に……一息に、私を殺してしまったもの」
もちろん。それは、私を救うためだったと、今ではわかっている。首を傾げて揶揄うように言った私の言葉を聞いて、ユーウェインは肩を竦めた。
「あれは、どうしても時を遡る必要性があったからです。あそこまで来てしまうと、バッドエンドを回避するには、時戻りの剣を使うしかなかった。それに、僕は……いや。そういえば、結婚式は明日でしたね」
ユーウェインは、なんだかわざとらしく話題を変えた。謎を多く持つ彼はたまにこういう時があるので、私も特に追及せず流した。
王太子リチャード・ヴァイスキルヘンとルイーゼ・ローランス男爵令嬢の結婚式は、明日だ。
私は彼から婚約解消されたものの、表向きは運命的に愛する女性と出会ってしまったリチャードを思い、自分から身を引いたことになっている。
そして、陛下としても位の高い公爵家のユーウェインを復帰させて私の希望通りに彼と婚約させることで、息子の身勝手な振る舞いの詫びを十分にしてくれたという訳。
だから、婚約解消に伴う、王家とのしこりなどは私とユーウェインの実家双方共になかった。
元婚約者と言えど結婚式に出席するのも、別に支障がない。
「ええ。ルイーゼ嬢の豪華なウェディングドレスは、周囲でも話題になっていたわ。美しいでしょうね……」
なんとなく窓の外に目を向けた私も、明日の結婚式に合わせて、ドレスを新調している。ユーウェインが私の部屋に居るのは、揃って出席する明日の打ち合わせという名目だ。普通、婚約者でも私室に通すことはない。
「……ねえ。セシル」
耳元で低い声で囁かれ、私は驚いた。いつの間にか、正面の椅子に座っていたはずのユーウェインが長椅子の隣に腰掛けていて、その距離は間近だったからだ。
「何……ユーウェイン。すごく……近いわ」
私は今までにない距離の婚約者に、顔に血が上っていくのを感じた。力の入り切らない手で胸を、押した。
「そろそろ。良いと、思いませんか」
「何が?」
「婚前交渉ですよ。一度、婚約者を替えた後で、俺に決まった後なので。別に初夜を待つまでもない」
するりと大きな手が、デイドレスの上から胸を撫でて私は目を見開いた。昼日中の明るい私の部屋で、彼はそういう事をしたいらしい。
「ダメよ……だって。子どもが出来たら……」
「……貴女は俺のものだ」
真剣な彼の言葉が、なんとなく違和感があるように思えて私は彼の胸に頬を寄せつつ言った。
「私は、ユーウェインの婚約者だわ……どこにも行かないわよ……」
胸に当てた耳から聞こえるのは、速い速度でユーウェインの心臓は鼓動の音を刻む。
あの時、確かに彼に殺されてしまったと思っていたけど……あれは他でもない私を救うためだったと思えば、仕方ないものだったとも。
リチャードとルイーゼ嬢は、明日愛を誓い合う。そして、これがきっと……私とユーウェインのハッピーエンド。
◇◆◇
これから、城で立場上の仕事があるからとセシルには先に帰って貰った。
その言葉は、間違ってはいない。あの人には、出来るだけ嘘をつきたくない。誰よりも、愛しているから。
広い廊下を乱暴な足音をさせて走ってくる大きな音を聞いて、俺は目を細めつつ彼の到着を待った。
きっと、こうなるだろうと予測していた。この結婚式を以て、乙女ゲームはエンディングを迎えるからだ。
一番簡単なルートの、正ヒーローとのハッピーエンドだ。
セシルがなるはずだった悪役令嬢は、すぐに引き下がったのでいくつかの恋愛イベントがなくなってしまったのかもしれない。
だが、好感度が元々高い正ヒーローとは重要な選択しさえ間違わなければ支障はない。イレギュラーはあったとしても、ここまでヒロインはエンディングまで辿り着けた訳だ。
楽しかったはずの恋愛イベントを起こせなかったヒロインは、あまり満足出来なかったかもしれない。それもこれも。セシルを手に入れた俺にとっては、どうでも良い事だが。
花婿用の豪華な衣装を着用し、パッケージに一番大きく描かれるメインヴィジョアルの王太子リチャード・ヴァイスキルヘンは、顔を大きく歪ませていた。彼を待っていた俺を、鋭く睨み付けた。
「ユーウェイン。お前。知っていたな?」
慌てて彼に付いて走って来た何人かの護衛は、同じく荒い息をして立ち止まった。儀礼用の重い鎧を着ているのに、大変だったことだろう。
「何のことですか?」
「僕があの女に……ルイーゼに、何か操られるような術を掛けられていたことだ」
「さぁ。どうでしょうか」
素知らぬ顔をして肩を竦めた俺に対し、リチャードは悔しそうにして、ますます顔を歪める。俺は過去の自分の立てていた仮説に、これで確信を得た。
リチャードは結婚式でようやくエンディングを迎えたことにより、乙女ゲームのヒロイン役の女の魅了が解けてしまったのだろう。
だが、諸外国の重鎮を呼び盛大に結婚式をあげて、法的にも結ばれてしまった。世継ぎの問題もあって、王家に離婚は許されていない。
ここまで来てしまえば、愛があろうがなかろうが。仮面夫婦になろうが、あの女と共に重圧のある王族としての責務を果たすしかない。
政治的な後ろ盾のない男爵令嬢など、運命的な激しい愛情を失ってしまえば……何の価値も、持たないだろう。もうすぐ王位を手に入れるはずの男が行く先は、想像を絶する茨の道だ。
公爵家で生まれ育ったセシルであれば、妃としての教育や礼儀作法も申し分ない。そしてなにより、川を泳ぐ魚のように、貴族としての人間関係も上手くやっただろうが。
もう。何もかもが、手遅れだ。
セシルを救うために使った時戻りの剣は、実は隠しヒーローである俺の攻略イベントに必要な重要アイテムだった。
五人のヒーローを攻略した後で冒頭で現れる選択肢を選べば、ヒロインを庇って命を落とした俺を彼女は救うことになる。国宝として宝物庫にあった時戻りの剣で過去へと戻り、何個かの難易度の高いイベントを経て、俺と結ばれるはずだったエンディングに必要だったアイテムだ。
時戻りの剣で時を戻るには、その剣によって殺される必要があった。だから、国宝としてでも現在まで残されていたと言える。いくらそういった云われがあっても誰も確信を持って、あれを使えなかったのだろう。
前世でこのゲームに嵌っていた妹の攻略の進捗をなんとなく聞いていて、そういうゲーム情報だけはたんまり持っていた俺以外は。
あの時、俺が死んでしまったセシルを追って自刃で命を絶つ前。
おそらくだが。自作自演をやり過ぎてしまったヒロインのせいで、あの時は悪役令嬢セシル・ブラッドフォードが死を迎える酷いバッドエンドだった。
彼女が自分が命じたことで亡くなり、ようやく本来の自分に戻れたと思われるリチャードが、ゲーム終了後と共に自分が彼女に対して行った所業を思い出して、悲痛な叫びをあげるなんて。
前世の記憶もあり、一度、時を戻した経験のある俺一人しか、知らない事のはずだ。
乙女ゲームは、本日無事にハッピーエンドを迎えた。この先の主役の二人がどうなるかなんて、本来このエンディングでは脇役で終わったはずの俺に知る由もない。
俺が自分を冷酷であるように見せているのは、セシル以外の人間の前だけだ。セシルは、その事実を一生知らなくても良い。
面倒くさいことは、もう何も。
Fin
処刑人に処刑されちゃったのは、誰だったのか。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。もし良かったら評価をお願いします。
また、違う作品でもお会い出来たら嬉しいです。
待鳥