臆病者の恋
「あ、タブレット忘れた…」
「明日でいいじゃん」
「いや盗まれたらやだし」
「俺バイトだから先行くぞ」
「ああ、じゃあな」
俺は5分程前に出た教室にのろのろと引き返す為に階段を上る。
友人の高橋がバイトの時間まで暇になると言っていたので、俺のお勧め動画を見る為に持って来ていたタブレットを机の上に置きっ放しにして教室を出てしまった。
良かった、あった。
廊下側の1番後ろの座席が俺の机で、5分前のままタブレットは机の上にあった。
俺達が教室を出た時に既に人は居なかったけど、部活とかで残っている生徒はまだ居る。
クラスメイトを信じてないのかよと言われるとあれだけど、電子機器を机の上に置いたままにしておくのは不安だ。
「……ぁ、」
夕暮れが差し込む茜色の教室
窓際の前から3列目の席
確か、あの席はサッカー部部長の阿部の席
その席に誰かが突っ伏して、セーターに顔を埋めている
サッカー部は今校庭で部活中で、サッカー部部長の阿部の姿はさっき下駄箱まで降りた時に見掛けた。
では、今阿部の席で阿部の物と思われるセーターを抱き締めて寝ているのは誰なのだろう。
「………」
そっと音を立てない様に近付いて、やっと気付いた。同じクラスの大野勇気だ。
確か阿部とはいつも一緒に居るけど、大野は帰宅部だった筈だ。まさか部活が終わるまで待っているのか?大野自身はセーターを着ているから、セーターは阿部の物なのだろう。
って言うか、いくらなんでも友達のセーター抱き締めて寝るって、そんな片想い中の女の子みたいな……
そこまで考えてハッとする。
茜色に染まった教室で、自分の席では無い人の席で、その席の人の香りに包まれる。
瞼を閉じている大野の睫毛に影が落ちていて、その睫毛の長さに暫く気配を消して眺めた。
カシャ、
「………ぁ、」
瞼をゆっくり上げる大野から逃げる様に、教室を走り抜ける。
「はぁっ……っ、はっ……、運動、不足……」
一気に下駄箱まで降りてローファーを履くと早速さと校庭を走り抜けた。
俺、何で大野の寝顔なんて撮ったんだろ。
「あ……タブレット忘れた……」
丁度校門に差し掛かるところで手に持っていたタブレットを阿部の隣の席の上に放置して来てしまった事を思い出した。
だけど、戻れない。
今戻ったら確実に大野と鉢合ってしまう。
「…も、いいや…」
心無しかとぼとぼと家路に着く前にコンビニに寄る事にした。
家でもタブレットで動画を見る予定だったけど、する事無くなったので暇潰しに入って雑誌のコーナーで物色をしていたらポケットの中の携帯が振動した。
『今直ぐ帰って来い』
姉からの一方的で命令的なメッセージに自然と眉間に皺が寄る。
はぁ?いきなり何だよ。
無視しようとしたら今度は妹からの新着メッセージが届いた。
『お兄ちゃん、今何処?すぐに帰って来てくれない?』
高慢的な姉と違い兄にも優しい可愛い妹だ。そんな妹の頼みを断る訳も無く『今コンビニだから後5分くらいで帰る』と送信すると妹から可愛い了承のスタンプが返って来た。
雑誌はまた今度で良い。俺は雑誌コーナーから踵を返すとコンビニを出て家へと気持ち急いで向かう。
しかし、姉と妹両方からの呼び出しとはこれいかに。一体何があったんだ?そんな俺の疑問は5分後に判明するのだが、この時は大した事じゃ無いだろうと鷹を括っていた。
「………?」
帰宅して姉と妹が居るであろうリビングに入ると、ソファーに見知らぬ人影が座っていた。
ソファーはドアに背を向ける形で置かれているので、その人物が男性である事は分かった。
「あんたなに道草食ってんのよ。それと返事しなさいよ」
「お兄ちゃんお帰り」
キッチンで紅茶を入れているらしい姉と妹に両極端な出迎えをされ、ソファーと2人を見比べる。
え、もしかしてあの人どっちかの彼氏!?
姉なら良いけど、妹ならショックだ。結婚するまで男の影なんて俺の前に出さないで欲しいとさえ思っている。ブラコンじゃないよ。て言うかあれ、ブレザーだよな?高校生?姉は大学生なので年下彼氏となると弟としてなんと無く気不味い。俺より年下だと尚のこと気不味い。
「…えっ」
振り向いた人物に、俺は肩に掛けていた鞄をドサッと落とした。
「…谷原くん、お邪魔してます」
ソファーに座っていたのは先程逃げて来た筈の相手、大野だった。
「あんた、大野くんの写真を勝手に撮ったんだって?」
「ふゎぁっ!?」
いきなり核心を突かれて声が裏返る。
って言うか、わざわざ家まで来る!?そして家族に話す!?
「お兄ちゃん、大野さん恥ずかしいから消して欲しいんだって。消してあげて?」
「あっ……あ、う、うん、ごめんすぐ消す」
そうか、俺は焦って逃げたけど、冷静に考えれば大野にとってはあんな証拠を抑えられた写真、脅しの対象と思われても仕方が無い。
慌ててソファーに座る大野の側まで行くと、携帯を取り出して画像一覧から先程の画像を大野に見せながら消去ボタンを押した。
「これで、消えたから、あの、ごめん…」
「ううん、僕こそ、こんな押し掛ける様な真似してごめん…その、タブレットを届けようと思って…」
そう言いながら大野は鞄の中から俺の置き去りにしたタブレットを取り出すと差し出した。
「あっ、それ忘れて…悪い、ありがとう」
「ううん」
タブレットを受け取ると姉と妹が紅茶とお茶菓子をテーブルの上に置いた。
「大野くんどうぞ」
「あ、ありがとうございます。すぐに帰りますのでお構い無く…」
「いえいえ、もうすぐ両親も帰って来てすぐに晩ご飯なので宜しかったら大野さん晩ご飯もご一緒しませんか?今日はうち鍋の予定なんです」
「えっ、いえ、そこまでは…」
大野は両手を胸の前でぶんぶん振るが、玄関の方から母の帰宅を告げる声が聞こえて来た。
「ただいま〜、郁人の友達まだ居る?ああ、居るわね。初めまして、郁人の母です」
「あ、あの、初めまして。こんな時間までお邪魔してすみません。もう帰りますので…」
「良いの良いの、気にしないで〜」
大野は立ち上がって帰ろうとするが、母はそれを制して両手に抱えたスーパーの袋を持ったままキッチンに直行した。
「お友達来てるって言うからお鍋の具奮発して蟹買って来ちゃったから良かったら…ええと…」
「大野くんよ」
「大野くんね、大野くんもお家の都合良ければ食べて行って?」
母はカウンター越しに手を止める事なく大野に晩ご飯を勧める。マジか、結構気不味いんだけど…
「ええと、家も共働きなので大丈夫なんですが…」
ちらりと大野が俺の方を見る。
「あ、うん、大野が良ければ是非」
是非じゃ無いよ!でも、この場合こう言うしか無いだろ…
「…ええと、じゃあ、ご馳走になります」
「じゃあちゃちゃっと用意するからちょっと待っててね、お姉ちゃん達手伝って頂戴」
「「はーい」」
ぱたぱたと姉と妹がキッチンに入り、リビングには俺と大野が取り残される。
「えっと…悪い、うち男は弱くて…」
「ふふ、この数分で何となく分かった」
「うっ…」
「……谷原くんてさ、」
「えっ?」
何を言われるのかとヒヤヒヤしながらソファーに座る大野の前でラグの上に座るとテーブルに置かれたクッキーを摘む。何かしていないと落ち着かない。
「動物好きなの?」
「へっ?」
予想外の質問にまた声が裏返ってしまう。
「ごめんね、タブレット見るつもりなかったんだけど触ったら動画が見えて…」
「あー、あれね」
タブレットにはほぼ動画専用機として使用していて大した個人情報も入れていないので、ロック機能は使っていない。だから直前まで見ていた動画を大野も見たのだろう。
「猫派なんだ?」
「や、犬も好きなんだけど、今日は猫の気分だったっつーか…」
「猫の気分…」
「大野くん、その子元カノの影響でしょっちゅう猫カフェとか行くのよ」
「へぇ……」
「良いだろ別に…」
元カノは所謂映えるスポットに行くのが好きで、付き合っていた期間は毎週末色んな所に付き合わされ、その半分が動物と触れ合える形式のカフェだった。
元々動物は好きだったので可愛い動物と触れ合えるのが楽しくて、彼女と別れてからも暇があればカフェに行っていた。
「行くのは良いけど毎回付き合わせないでよね」
「男1人じゃ気不味いじゃん」
「お姉さんと行くんだ?」
「妹との方が多いかな〜」
「へぇ…」
「お願いだから着いて来てくれーって泣き付かれるから渋々ね。こっちだってデートで忙しいってのにねぇ」
「そうかよ、もう誘わねぇし」
不貞腐れていると横で大野がくすくすと笑っていた。笑った顔初めて見たけど、可愛らしいな。どことなく小動物の雰囲気があり、柔らかな髪を撫でたくなる。
「…今度、僕も行ってみたいな」
「えっマジ?じゃあ俺のお勧めの店紹介するし、猫だけじゃ無くて梟とか兎とかミニブタカフェとかもあるけど興味ある?」
「うん」
あんな事があった後なのに、大野が良い反応をしてくれた事が嬉しくてついぐいぐい行ってしまったが、大野が柔らかく笑いながら頷いていて、さっき阿部のセーターを抱き締めて寝ていた大野とはなんだか別人に見えた。
「ごめんな、今日はほんと…」
「ううん、こちらこそ色々とご馳走になっちゃってかえって申し訳なかったよ…」
「いや、あれは気にしなくて大丈夫だから」
あの後父もすぐに帰って来て家族全員と大野で鍋をして、食後のケーキも一緒に食べて腹ごなしにゲームまでした。
すっかり我が家のお気に入りとなった大野が家を出たのは22時ちょっと前で、大通りまで送って行くと一緒に家を出た。
「今日は本当、いきなり撮って悪かった…誓って脅しとかするつもりなんて無かったから、その、安心して欲しいんだ」
「…うん、その点は心配してないよ」
「そっか……」
「でも…」
大野が口籠もり、どうしたのかと首を傾げる。
「その…じゃあ、何で撮ったの?」
「なんで……だろう?」
「疑問系で返さないでよ」
ぺし、と大野に腕を叩かれてつい笑ってしまう。
「いや、なんて言うか…放課後の教室で夕日を浴びて……うん、綺麗だったんだよな」
「…綺麗?」
「ああ、気付いたらシャッター音がしてた」
「盗撮癖…?」
「…俺ヤバイ奴じゃん」
ぷっと大野が吹き出して、俺も笑う。
「……気になったりしないの?」
「……聞いても良いの?」
「…まぁ、何かあればお姉さん達とアドレス交換したし?」
「いつの間に……」
くっくっと笑う大野が、ふぅと息を吐いて声のトーンを少しだけ落とした。
「好き、なんだと思う」
「そっか」
「…それだけ?」
「え?」
ぽかんとした表情で大野が俺を見ていて、首を傾げる。
「あ、大野って結構行動的なんだなって思った」
「へ?」
「行動的って言うか、積極的…?普通脅されると思ったらそいつの家行って、しかも家族に写真撮られたとか言わないでしょ」
「ああ……18禁の画像なら兎も角、知らない人が見たら誰の席で誰のセーター抱き締めてるとか解らないだろうし…」
「18禁って…まぁ…確かに…」
あの画像じゃ誰のセーターかなんて分かりやしないし、寒くて、とか枕変わりに、等と色々言い様がある。
「まぁ、今思えば後でどうとでも言い訳が付くだろうし、僕も焦ってたのかな…」
「凄いな、大野は」
「……凄くなんてないよ」
「大野?」
立ち止まった大野が俯いて、俺も俯いて大野の顔を覗き込むと眉間に皺を寄せていた。
「臆病なんだよ、あいつにはバレたくなくて、必死で…勇気なんて名前、名前負けだよ」
「…んな事ねぇよ、大野は勇気ある。言わない。絶対誰にも言わないから、ごめんな?」
「…谷原くんは悪くないよ。教室であんな事してた僕が無防備だっただけで」
「でも無断で写真を撮るのも悪い事だろ?だからもうこの件は水に流してくれるか?」
「……うん」
ふわりと微笑んだ大野の顔が泣き笑いで、どうしようもなく笑わせてやりたい気持ちと抱き締めてやりたい気持ちに襲われたが、笑い返す事しか出来なかった。
「勇気、今日うちの晩飯鍋なんだけど来ねぇ?」
「え、良いの?」
「おお、今日はチゲなんだけど辛いの平気?そこまで辛くないと思うけど」
「うん、大丈夫。じゃあお邪魔させて貰おうかな」
「んじゃ一緒に帰るか」
「うん」
あれから勇気と俺は急激に距離を縮めた。
あの後知ったのは、最近安倍には違うクラスの恋人が出来たらしい、と言う事だった。らしい、と言うのは阿部がハッキリと恋人とは言わないが態度がどうもそれらしい、と言うのが勇気の推理だ。
勇気は相手を知るのが怖くて勇気は何も聞かないでいるらしい。
その為、勇気はクラスで1人過ごす事が増えたので俺と高橋と勇気の3人で過ごす事が増えた。
「チゲ良いな〜」
「高橋は今日デートだろ?」
「おお」
「勇気、高橋の彼女S女の子なんだよ」
「お嬢さま学校の?」
「そうそう。2人が歩いてんの見た事あるんだけど、月とすっぽんだったな」
「誰がすっぽんだよ…そう言う谷原は彼女と別れて大分経つけどどうなのよ?」
「んー…暫くはいいや……勇気と居る方が楽しい」
「そう言う台詞は彼女に言いなよ」
ぶっきらぼうに言いながらも勇気の耳がほんのり赤くて、可愛い。
「いやもう映え巡りは勘弁…」
「「ああ…」」
「何か最後の方には俺、マネージャーか何かか?って感じだったし」
「うーん…俺の彼女はそんな事無いけど、まぁ、お前見た目がそれだもんなぁ…」
「それってなんだよ、普通じゃん」
「谷原くんは付き合うと普通なんだけど、顔のパーツがハッキリしてて、なんて言うか、側から見ると、その、チャラく見えるんだよね…」
「大野、みなまで言ってやるな……」
高橋が態とらしく泣く真似をして、勇気は両手をパタパタと振る。
「あ、いや、谷原くんはかなりイケメンだと思うよ?だけど派手って言うか、地味にしてても派手に見えて…」
「…褒められてるのかなんのか……まぁ、ありがと……」
「ううん…」
そうなのだ。俺はキャラは普通の平凡なありふれたそこいらにいる男子高校生なのだが、くっきり二重のタレ目は色素が薄くてカラーコンタクトレンズを着けているとよく間違えられるし、通った鼻筋とこれまた色素の薄い髪は茶色くてぱっと見、チャラい。
それに加えて散髪が面倒で3〜5ヶ月は平気で放置する髪は長い方が多く、姉と妹が面白がって女子用のヘアゴムを着けたりするから余計にチャラく見えるらしい。
シャツのボタンは1つしか開けないし裾もちゃんと仕舞うし上履きも引摺らずにちゃんと履くし提出物もちゃんと期限守って提出する普通の生徒なのに、俺の側に来てくれるのは所謂ギャル系の女の子ばかりだった。
いや、ギャルがどうこうじゃ無い。良いんだギャル。好きだよギャル。でも俺は普通の彼氏彼女がしたかった。
デート中ずっと写真撮り続けたり、1枚の画像の為に何時間も待ったり金掛けたりするのは懲り懲りだった。
その点、勇気は良い。
話してて分かったけど、何気に趣味が合う。
あの後猫カフェに何度か一緒に行ったし、これから行く予定もある。
うちの家族も勇気を気に入って晩ご飯に誘う事も増えたし、映画の趣味も合うから今度は映画に誘おうと計画中。勇気と居るのが1番楽しい。勇気は俺の癒しだ。
「…谷原くん、声、抑えてね…」
「あれ、声に出してた?」
「いやもう俺が妬く暇も無い程にな…愛されてんな、大野」
「高橋くん…」
「おう、俺が1番愛してるのは勇気だ」
隣の席の女子がこっちをガン見しているのは気にしない方向で。
「大野…?」
「阿部?どうした?」
後ろから教室に入って来た阿部が不思議そうな顔をして勇気に近寄って来た。
見慣れない奴と勇気が一緒に居るのが不思議だったのだろう。
「高橋と…」
「谷原くん」
「あ、そうそう」
俺と高橋の顔を見て言い淀んだ。俺の事は名前も知らないってか。まぁ良いけど。
「どうした?」
「あ、いや…昼飯3人で食べてるのか?」
「うん、最近谷原くんと高橋くんと仲良くなったんだ」
「へぇ…」
そう言って阿部は俺と高橋をジロジロと見る。主に俺の方を。多分俺の事はチャラ男とでも認識してるんだろうな…
て言うか、俺達が一緒に食べる様になって既に1ヶ月過ぎてるんだけど、今更かよ。
「阿部、お前見過ぎ、失礼だろ?」
「あ、いや……何か意外だったから…」
「何が?谷原くんも高橋くんも良い奴だよ」
「俺らもう親友だもんな〜」
高橋が勇気の肩に腕を回してそう言うと、勇気が少し驚いて、笑う。おい、可愛いな。
「谷原、ダダ漏れだっつの…」
「あ、マジ?」
高橋に肩を抱かれたまま頬を赤く染める勇気も可愛いな、おい高橋肩を離せ。
「えーと、阿部はどうしたの?」
「いや……何でもない」
そう言うと阿部は俺と高橋には目もくれず窓際3列目の席に着いた。
「…勇気、」
「あ、うん、何だったっけ」
その時、チャイムが鳴り昼休み終了を告げた。
「大野、今日部活無いんだ。久し振りに部屋来ないか?」
5時間目、6時間目と授業が終わる度に阿部が勇気に話し掛けるのが何だかもやもやして眺めてしまう。嫌なら見なきゃ良いのに、と思いながらも見てしまう今は放課後で、勇気がどう出るのかドキドキしながら聞き耳を立ててしまう。
「あ…ごめん、今日は先約があるから」
「先約?」
「うん、谷原くんとちょっと…」
「谷原…」
勇気が俺の名前を出した途端に阿部は顔を顰めた。
「それ、他の日に出来ないのか?」
「え?…阿部の用は何なの?」
「いや……」
「勇気、うちなら気にしないで良いよ」
2人に近付きながら聞こえて来た会話に加わると勇気が振り向いて、一瞬眉尻が下がった様に見えた。
「谷原くん…ううん、大丈夫だよ」
「大野…っ」
「阿部ごめん、また明日」
「……ああ」
勇気に促されて教室を出る。背中に痛い程視線を感じながら。
「勇気、本当にうちはいつだって大丈夫だからさ、今からでも…」
「良いんだ、本当に」
「気ぃ遣わなくていいんだよ?」
「遣ってないよ。本当に良いんだ。僕が谷原くんと居たいから」
「っ……ヤバ、きゅんと来たんですけど……」
両手を胸に当てる。いや、もう、本当ぎゅんっときた。きゅんきゅんだ。
「あっ、いや、その…」
「お前ら、俺も居る事忘れないでくれよな」
後ろから高橋に声を掛けられて、あれ、居たの?と言うと尻を蹴られた。地味に痛い。
「…もしかして阿部、恋人と別れたとか?」
「…別れてはいないみたいだよ」
家で晩ご飯を食べて勇気を送るのは最早ルーティンになった。道は覚えたから良いよと言われても俺がしたいんだと言うと、どんどん距離を伸ばして今や勇気の家まで送っている。なので最近は自転車を引いて勇気を送り届ける。
早いもので、あっという間に家の前まで着いてしまったが、名残惜しくて玄関の前で勇気を引き留めてしまう。
「家はほら、いつでもウェルカムだし、だから勇気は阿部から誘われたらさ…」
こんな事自分から言いたく無いけど、勇気が幸せになれるなら背中を押してやりたい。
別に遠くに行く訳じゃないんだ、それに付き合うんじゃ無い、友達付き合いだ。聞いた話によると多分阿部にとって初めての恋人らしい。
初めての恋人に舞い上がって夢中になっていたのだろう。落ち着いて来て、勇気を蔑ろにしていた事を悔いているかもしれない。いや、阿部のことなんて知らないし知りたくも無いけど。
また勇気の事を放って置く様ならもう遠慮はしねぇけど。
「谷原くん、僕は…」
「大野!」
「阿部…」
勇気の手が俺に伸びたと思ったその時、向かいの家から声が聞こえた。
俺と勇気が咄嗟に声の方を見上げると、2階の明かりのついた部屋から阿部がこちらを見ていた。
「…なに?」
「……こっち、来てくれないか」
「…後で行くから」
「ああ…」
そう言うと阿部の部屋のカーテンが閉められた。
「……ごめんね、あんな空気読まない奴じゃ無かった筈なんだけど…」
「俺、こんなんだから勇気に悪影響だと思われてるのかもな」
あはは、と努めて明るく笑うと勇気はそんな事無い!と語気を強めた。
「勇気…?」
「そりゃ、谷原くんは見た目が良くて何だかふわふわしてるからチャラく見えるけど、実際はそんな事無いし、優しいし、ちゃんと間違いは認めて謝るし、カッコいいし、見た目と違って真面目だし、谷原くん知らないみたいだけど阿部よりも大分成績良いんだよ?スタイルだってモデルみたいに良いし、趣味だって僕と合うし、それに…」
「ス、ストップ!」
俺は勇気の口元に手を翳して勇気の言葉を遮る。唇には触れて無いぞ、断じて。
「谷原くん…?」
「いや、あの…嬉しいんだけど…それ以上言われると、勇気の事、あいつの部屋に行かせたくなくなるから…」
「ぁ…あっ、えっと……」
夜で辺りは暗くて、家の外灯が頼りだから勇気の顔色までは分からないけど、慌てる勇気が可愛くて、抱き締めたくなるのを必死に耐える。
「…行かないで…」
「谷原くん」
「あ……いや、悪い、阿部も用あるんだよな、ごめん引き留めて」
「ううん……今日は部屋から出ない」
「え?」
「阿部にはメールで済ませるし、それが駄目なら学校でだって話せるから」
「勇気、ごめん、俺の我儘だから気にしないで…」
「…嬉しいから、」
「え…」
「ぁっ、あの、送ってくれてありがとう」
「うん」
「また、明日…」
「ああ…またな」
「気を付けてね」
「勇気も戸締りしっかりな」
「うん」
勇気が家に入るのを見届けると、まだ熱い顔を手で仰いで自転車に跨る。
勇気の家も両親共共働きでお互い帰宅は遅いらしく、8時過ぎてもまだ家には誰も居ない様だった。
ちらりと向かいの阿部の部屋を見上げると、カーテンは閉められている。
勇気の事が心配だが、阿部の家は家族が在宅らしいので一先ず帰宅したら連絡をする事にして自転車を走らせた。
「谷原くん、高橋くん、おはよう」
「勇気、おはよ」
「はよ〜」
「谷原くん今日早いね」
「ああ、早く目が覚めたから」
いつもは勇気よりも遅い俺だけど、今日は勇気が心配で早く家を出た。
昨夜は阿部にはメールをしたと電話で言っていたが、その後は大丈夫だったのだろうか。
「そっか…あのね、今日」
「大野」
「…おはよう」
「ちょっとこっち…」
「……また後で…」
「ああ」
何か言いたげな勇気が気になったが、阿部の苛ついた様子にこれ以上焦らせたら勇気に害が及ぶのは避けたいから、高橋の視線は無視して2人を行かせた。
「良かったの?」
俺の前の席の高橋の視線は2人を追いながら声を潜める。
「ああ、流石にここじゃ無理強いしないだろ」
「まぁ、確かに」
「…昨日の夜、勇気を家に送ったらあいつ待ってて勇気を呼び付けて…俺が行くなって言ったら勇気が行かなかったから、苛立ってんだよ」
「へぇ…引き留めたんだ?」
高橋がニヤニヤしながら見てくる。
「………まぁ、」
「取り敢えず要経過観察だな」
「ああ…」
窓際の阿部とその前の席の勇気が一言二言話しているとチャイムが鳴った。
先生が入って来て勇気が前を向く一瞬、目が合って勇気が微笑んだ。
どきっとして、頬が緩んだが、直ぐに阿部の鋭い視線に睨まれて気分が萎える。
朝から勇気の笑顔が見れたっていうのに。
授業を受けながら、勇気の後頭部を眺める。
俺はもう、自覚している。
勇気が好きだと言う事を。
勇気の方も俺の事を憎からず想ってくれている、と思っている。
…そんな都合良く解釈しているが、ただの友達としか思われていないかも知れない。
だから、友達のままでいいと思っている。
友達のままなら、ずっと側に居られるから。
「俺だって、臆病なんだ…」
誰に聞こえるでも無い囁きは、教師の黒板にチョークを走らせる音に掻き消された。
「阿部居る?」
「ああ、窓際の3列目」
「ありがとう」
あれから特に何事も無く、4時間目が終わって直ぐにやって来た生徒は俺が席を教えると真っ直ぐ阿部の席に向かった。
確かサッカー部員の奴だから部活の話だろうか、阿部は部長だし。
そんな事をぼうっと思いながら何となく眺めていると阿部を避けているのか、勇気が直ぐにこっちにやって来た。
「さ、食べよ食べよ」
「勇気、今日は何パン?」
「今日はメロンパンと焼きそばパンにした」
「お、良いね〜」
両親が共働きで忙しい勇気はいつも外食が中心だった。昼飯もコンビニメインで菓子パンがお気に入りの勇気のパン一口と弁当のおかずを交換するのが日課だった。
差し出されたメロンパンに齧り付いてサクサクふわふわのパンを咀嚼しながら、勇気が指差した肉団子を取って口に運ぶと勇気が頬張ってむぐむぐと美味しそうに食べるのを眺めるのも俺の密やかな趣味だ。
小動物の様で可愛らしくて堪らない。
ふと、刺す様な視線を感じて顔を上げると、凄い形相の阿部と目が合ってしまった。
その隣で阿部の事を見ているサッカー部員も不機嫌そうに阿部の腕をぐいぐいと引っ張って教室を出て行った。
2人のその雰囲気は、どうにもただの同級生には見えなかった。
…もしかして、阿部の相手って……
ちらりと勇気を見るが、勇気は焼きそばパンの袋を開けるのに夢中で気付いてない。焼きそばパン頬張った。焼きそばが口からぴょ、とはみ出してる。可愛い。
「日直、この後ちょっと荷物運び手伝ってくれ」
「ぇえ〜…」
放課後は勇気と新しく出来た駅ビル見に行く予定だったのに…
しかももう1人の日直は早退しちゃったから日誌から全部1人でやらなきゃならねぇのに…!
「谷原くん、ここで待ってるから」
「悪い、直ぐ終わらせるから」
「急がなくて良いよ」
日誌を急いで書き終わらせると、急いで職員室に向かう。
「おお、谷原、あれを準備室に持ってってくれ」
担任が指差したのはとても1人では持ち切れない量の教材だった。
「嘘でしょ…」
「嘘じゃない、宜しく頼むな〜」
「あーもぉ〜っ」
文句を言ってる暇があったらちゃちゃっと済ませて終おう。1度じゃ無理なので、2度に分けて運び終えると教室を出てから既に15分経っていた。
「勇気、お待た……れ?」
誰も居ない事を良い事に廊下を走って勇気が座っていた筈の高橋の席には誰も居なかった。
ざっと教室内を見渡しても勇気は居ない。
トイレにでも行ったのだろうか?
携帯を見ても何の連絡も無い。
自分の席に戻って帰り支度をしながら勇気を待つが、5分経っても勇気は戻って来なかった。
勇気の鞄は高橋の席に放置されたままなので学校内には確実に居る筈だ。そもそも勇気が無断で帰る筈が無い。
一瞬迷い、自分と勇気の鞄を取るとトイレに向かうが無人だった。
「ぇえ〜?何で?」
かれこれ勇気と別れてから20分以上経過している。
廊下から校庭を見るが、試験前だからかどこの部活も活動はしてないらしく帰宅する生徒が校門に向かっている姿しか無い。
サッカー部も部活が無い
もしかして…
俺は逸る気持ちを抑えて携帯を出して勇気に電話を掛ける。
prrrr…
prrrr…
prrrr…
駄目だ、出ない。
何処だ?何処だ…
焦って思考が働かない。
勇気、勇気……
「あっ!」
阿部は部長だ。鍵の管理とか知らないけど部室の鍵を持ってる可能性は高い。
俺は階段を駆け下りると部室棟の方へ走る。
「サッカー部、サッカー部、何処だよ…っ、あった!」
部室のカーテンは閉まっていて中を覗く事は出来ない。
上がる息を整える事無く、サッカー部の部室のドアをノックするが返事は無い。
「っ……勇気?勇気、居ないのか?」
少し声を張ってドアの向こうに声を掛けるが反応は無い。
「はぁ……何処に居るんだよ……勇気」
携帯を確認するが何の返事も無い。
もしやベタに体育倉庫?
ここからなら近い、そっちに行ってダメだったら…
走り出そうとしたその時、ガタッと部室の中から音がした。
「……勇気?…阿部、居るのか?」
もう1回ノックして、ドアノブを回すが鍵が掛かっているのか開かない。
ガタガタッ
また中から音がして、意を決してドアを蹴り上げるとプレハブのドアが開いて、誰かが誰かに覆い被さってロッカーに押さえ付けられていて、部室の中に飛び込むと覆い被さっている奴の肩を引っ張り倒すとベンチに当たったのか、派手な音を立てて転がった。
「…っ、たに、はらく…」
「勇気!」
目元に涙を溜めた勇気が飛び込んで来て、咄嗟に抱き留めた。
ふわふわの髪と腰をそっと抱き込んで、落ち着かせる様に撫でる。
「勇気、大丈夫?」
そっと囁く様に言うと、腕の中でぴくんと動いた勇気がそろそろと見上げて来て、小さくうんと頷いた。
零れ落ちた勇気の涙を指の腹で拭うと、後ろで立ち上がる気配がした。
「…阿部、どう言うつもりだ」
勇気を抱き締めたまま、庇う様に首だけ振り返ると睨み付ける阿部と目が合う。
「お前には関係無い!俺と大野の問題だ」
ぴく、と震えた勇気をぎゅ、と抱き締める。
「…ある」
「ぇ…」
腕の中の勇気がじっと俺を見ていて、思わず苦笑すると視線を彷徨わせて、勇気の目を見る。
ええい、ここで言わずして何処で言うのか、ここで言わねば男が廃る!ぐずぐずと悩んでいる場合じゃ無い!
「勇気、好きだよ」
「…………ほんと…?」
「本当」
ぽけ、と呟く勇気に、力強く頷いて抱き締める腕に力を込めると、背中におずおずと勇気の手が回された。
「僕も…谷原くんが、好きです」
「じゃあ、俺達今から恋人同士だ」
「…うん…っ」
ぎゅうぎゅうと勇気を抱き込んでから、名残惜しいけどそっと手を離して勇気を庇う様に振り返る。
「これで俺は関係無く無いから、俺の恋人に手ぇ出さないでくれる?」
「っ……!」
ガン!とベンチを蹴り上げると阿部は出て行ってしまった。
「勇気、もう大丈夫だから」
「谷原くん…ありがとう…」
阿部が蹴ったベンチを元に戻してドアをきちんと閉めると勇気の手を引いてベンチに並んで座る。
「何にもされて無い?」
「うん、谷原くんが来てくれたから」
「良かった」
ほっとして笑うと勇気も笑うけど、どんどん眉尻が下がって行く。
「勇気?」
「…でも、僕で良いのか……」
「俺は勇気が好きだから勇気じゃなきゃやだよ」
「っ………谷原くんの家族に……何だか申し訳無くて……良くして貰ったのに……」
泣き止んだのにまた勇気の瞳からぽたぽたと涙が溢れ出して、俺はベンチに跨って座ると勇気の身体を抱き締めて目元に舌を這わせて涙を舐め取ると、勇気の身体がぴしりと固まった。
「それなら大丈夫」
「へっ……へ!?」
まだ固まってる勇気を他所に、画像フォルダを開いて勇気に見せる。
「え、えっ……これ、」
「俺の気持ちバレバレだから、皆が撮ってくれるんだよね…」
苦笑しながら、画面をタップしてどんどん画像を表示はさせると俺と勇気のツーショット画像や勇気の画像がずらりと出て来る。
「え、これ……えっ、」
「これは猫カフェの時で、こっちは水族館、こっちは焼肉の時で…」
呆気に取られる勇気の横で、画像を見ながら説明していく。
猫と戯れる勇気や水槽を眺める勇気、俺と話す笑顔の勇気、どれも消せない大切な思い出。
「俺の家は勇気ウェルカムだって言ったろ?」
「っ………うん、」
勇気が今まで見た事ない可愛い笑顔で笑うから、堪らず抱き締めた。
「勇気、大好き」
「僕も…大好き」
抱き締め返してくれる手の感触に、此処が自分のテリトリーでも無い事を忘れて勇気の温もりを堪能した。
「………え、」
教室へ向かう途中に高橋から届いた画像を見ると、小走りで教室に向かう。
「っ……ゆう、」
「しー」
高橋が口に人差し指を当てて相変わらずのにやにや顔をしていた。
そろそろと音を立てない様に近付くと、椅子に掛けて置いたジャージを抱き締めて勇気が俺の机で眠っていた。
「…勇気」
「ん………ぁ、郁人、くん」
背中から覆い被さる様に耳元でそっと囁くと、勇気が目を覚まして少し恥ずかしそうにジャージに顔を埋めた。
「朝からそんな可愛い事して勇気は俺をどうしたいの?」
「っ……」
耳元で囁く様に言うと、勇気の耳が真っ赤になる。ああ、可愛くて堪らない。
「俺が居るって事、忘れないでくれよな、マジで」
高橋の言葉はチャイムの音に掻き消された。