あとがきのようなもの
アイツの両手には数日分の食糧が入ったビニール袋。
私もひとつ持っている。
「また沢山買ったね。籠城でも決め込むのかい?」
「春休みはアンタも家にいるから沢山買っておかないともたないのよ。つべこべ言わずに運びなさい」
旅行前に使い切った食材を買い戻す。
…買い戻すって、こういうときに使う言葉なのかしら?
「もうすっかり主婦だね」
エレベーターの扉を背中で押さえて、そう言った。
…。
「専業主婦は法的解釈だと年収200万そこそこが妥当らしいわ。私も妥当だと思ってる。…アンタは私にそれだけの給与をしているの?」
押し慣れた階層のボタンを押す。
「…善処したいよね。でも僕はまだ無職でさ。給金を出す余裕がないんだよ」
吊り上げられていく室内で、アイツは情けなく笑った。
「なら口答えしてはいけないと思わない?普通の道徳心があったのなら、私のこの無償労働に賛美の言葉を送りそうなものなのに…」
「…本当だ。なら僕も無償の愛で以て代えさせて頂こうかな?」
ゆっくりと近づいてくる。
「やめて気持ち悪い」
片手でアイツを押し返した。
ただの冗談じゃない…
「傷付くなぁ」
そう言いながらも、アイツの笑顔は崩れなかった。
エレベーターが開く。
「さぁ、早く戻るわよ。今日は部屋の片付けをしな…」
「わわわっ!」
知らない男の人の声が聞こえると同時に、背中が何かにぶつかった。
衝撃で荷物が落ちる。
「なぎっ」
アイツが腕で私を支えた。
「大丈夫?」
そのまま目線を後ろに向けている。
「…貴方も、お怪我はありませんか?」
誘われて振り返ると、尻餅をついている男性がいた。
…。
男性というよりは男の子といったほうが正しいくらいに見える。
「おっ、おかまいなく~。この通りピンピンしてますよっ」
…私と同い年くらいかしら?
立ち上がった彼は私と同じ程度の身長しかなかった。
「ごめんなさい、私の不注意で…」
「いえいえこれしき。僕もぼーっとしてましたから。…お嬢さんも大丈夫でしたか?」
お嬢さんって…
年上なのかしら?
…まぁ、悪い気はしないわね。
「はい。私は大丈夫です」
落としてしまった袋を拾うと、水っぽい嫌な音が聞こえた。
「わぁ!ごめんなさいっ!!中のものとか平気ですかね?」
弁償します、とポケットから財布を取り出す。
「いえいえそんな…。この子が悪いんです。…ほらっ、なぎ?」
アイツが私を見下ろした。
「結構です。申し訳ありませんでした」
頭を下げて丁寧に謝る。
「いえいえそんなご丁寧に謝らなくても…。…あははっ。…すみません、これじゃきりがないですね。それではこの件はこれで終わり、ということでっ!」
彼はそう言うと満面の笑みを向けた。
「僕は藤原。藤原優徒っていいます。昨日、このマンションに引っ越してきたんですよ。あの部屋です」
彼が私たちの部屋の隣を指差す。
「若輩者ですがよろしくお願いします。仲良くして下さいねっ」
エレベーターが閉まるその時まで、彼は私たちに手を振り続けた。
「あの人、おかしな人だったね」
「…アンタが言う?」
「いや、それもそうなんだけどさ。…なぎはどう感じた?」
「子供っぽいけれど優しそうな好青年。大人っぽくて残忍なアンタと真逆」
「おかしいなぁ。僕は自分と似ていると思ったんだけど…」
「はいはい。アンタは自信過剰だからきっとそうなのでしょうね。はぁ…。…まずは何かお腹に入れましょう?片付けはそれからね」
「…そうだね。お昼のメニューは?」
「卵をふんだんに使った料理になるわね。…オムライスと卵スープかしら?」
「…あぁ。そうなっちゃったかぁ」
高い所はアイツが、水回りは私が掃除をすることになった。
アイツが埃を落としている間にバスルームを徹底的に洗う。
「なぎー。この食器はもう捨てていいの?」
「駄目よ。まだ使えるかもしれないでしょう?」
…はぁ。
コイツは何でも捨てたがる。
不経済この上ないわ。
「部屋が狭くなっちゃうって。使わないものは捨てようよ」
「広いのだからいいじゃない」
このただ広いだけの部屋は、一年前に比べて充実し始めていた。
洗面台には青とピンクの歯ブラシ。
アイツがまとめて買ってきて、そのままずっと使い続けている色…
「…ねぇ」
換気扇の油汚れを取っているアイツに声をかける。
「なんっ…だい?」
ファンを取り外して重曹をまぶしていた。
「何で私はピンクなの?」
「…」
作業している手が止まった。
真剣な顔でこちらを向く。
「…何でだろう?深く考えたことなかったよ」
汚れた布を絞った。
「アンタの私物は青か黒が多いわよね。服も財布も筆記用具も…。好きなの?」
「いや特に…。男だからって理由が大きいんだろうね。女性は赤とかピンク色のイメージが強いから…。共通認識を持つことで視認性を高めているんだろう。日本人が二言目にはすみませんと謝るのと同じだよ」
「…どちらも無意識に刷り込まれたスタンダードで、利便性以外に特に理由がないってこと?」
「そう。話が早いね」
綺麗に洗ったファンをはめながらいう。
「…ふっ」
アイツが小さく笑った。
「なっ、何よ…」
不気味ね。
「いや、なんか色気のない話だなぁって思ってさ。普通、男女がこうして暮らしていたらさ、もっと直情的な話をすると思うんだ」
…はぁ。
「何が普通よ。一端の一般人になってからものを言いなさい」
「僕は一般人だよ。少なくとも潜在意識に何の違和感も覚えない位には、ね」
はいはい。
そういうことにしておいてあげるわ。
「どうでもいいことは考えてないだけでしょう?はぁ…。…じゃあ、青は私のものね。赤もピンクも嫌いなの」
「いいじゃないか。なぎなら何でも似合うよ?」
「安い口説き文句、嬉しいわ。アンタの方が似合うから身につけてなさい」
「えぇ」
換気扇のカバーを取り付けた。
「…間違って使っちゃったらごめんね?」
想像して、身の毛がよだつ。
…気持ち悪すぎる。
「じゃあ、白でいいわよ…」
2番目に好きな色を告げると、アイツは無表情で頷いた。
目の前には慎ましいケーキとプレゼントボックスが並んでいた。
今日は3月31日。
他の同級生から遅れるようにして、私は17歳になった。
「誕生日、おめでとう」
そう言って小さな箱を差し出す。
「…ありがと」
誕生日を祝われるのは久しぶりね。
それこそ、撫子が転校して以来だから8年ぶりくらいかしら?
…。
「別にいらないって言ったのに…」
「そう言わないで。拾い物だと思って使ってよ」
箱を開ける。
「…」
出てきたのは白いハイカットのスニーカーだった。
「いやぁ、最近外に出る機会が増えたからさ。ヒールとかばかりだと疲れるかなぁって思ったんだ。女の子は沢山靴を持ってるじゃないか。だから一足くらい増えても困らないかなって…」
…。
「それでスニーカーってわけ?」
「うん」
複雑な気持ちってこのことなのかしら?
どう反応したらいいのか分からない。
…。
「まぁ…、…ありがと」
「どういたしまして」
自信満々に答える。
…。
「なんだか腹立たしいわ」
「理不尽だね」
嬉しそうに笑ってそう言った。
その何でも見透かしているかのような余裕顔が癪に障る。
「…感情が籠ってないから、かしら?」
だから舐められているようにもあしらわれているようにも感じるのね…
…でも。
実際舐めていてあしらっているのだから誤解ではない。
ただ悪意がないってだけ。
「その態度どうにかならないの?はらわたが煮えくり返るわ」
「そうなのかい?なぎは表情にでないんだね」
そう言ってアイツは目を見開いた。
心の底から驚いているように見える。
…。
私ほど無様に顔に出る人間もそうそういないと思う。
普段は平静を装う癖に、いざとなったらパニックを起こすのだから目も当てられない。
これはどんなに気をつけていても治らない悪癖だわ。
そこだけは素直に、アイツを見習いたいと思う。
…。
「少しは私を見習いなさいよ。自分の感情を伝えることがコミュニケーションの起源でしょう?そんなこと原始人でもできるわ」
「そうだね。…今まではこれほど親睦を深める必要がなかったんだ。だからこれからは必要なのかもしれない」
変に素直ね…
…。
いいえ。
コイツはいつも素直だったわ。
「子供みたい。アンタ、何にも知らないのね」
皮肉を込めてそう告げると、アイツは嬉しそうに笑った。
お腹に手を当てて、声を出して肩を揺らせている。
「…初めて言われたよ」
落ち着いたアイツがそう漏らした。
「確かに、なぎに言われた通り、僕は何も知らない子供みたいだ」
…そうかしら?
控え目に言って、コイツは博学でそれなりに紳士的だわ。
何でも知っていて何でもできる。
物腰も柔らかいし、情緒も安定した真っ当な人間。
世の中の犯罪者が皆こんな性格だったのなら世の中はもっと平和でしょう、と思えるほどにコイツは正常だった。
…。
初めて『彼』を見た時、私は助けられたと思った。
話してみて、コイツは狂人だと感じた。
幽閉されて恨んだ。
長い時間を共に過ごして…
…。
どうでもいいことが延々と頭を廻る。
「…ねぇ」
いつも通りの会話の切りだし。
「なんだい?」
いつも通りの返答。
「…」
二の句が出ない。
戸惑う私を、アイツはただただ無機質に待っていた。
急かさないのは、急いでいないから。
助け船を出さないのは、必要がないと理解しているから。
微笑まないのは、嘘になるから。
単純で純粋なコイツは、捉え方次第で容易に変化する奇妙な人間だった。
…いえ。
きっとどんな人間も、自分の捉え方次第なのよ。
害を与えられれば嫌いになるし、好意を寄せられれば好きになる。
受けた害も、それ以上の利を受け続ければ嫌いにはなれない。
結局、私も単純でちょろい人間だったってことなのね…
…。
息を吸う。
「アンタを嫌いになるにはどうすればいいと思う?」
思いの外、すんなりと言葉に出た。
噛みもしなかったし、言いよどむこともない。
もうほとんど告白に近い言葉であるにも関わらず、極めて平常心で口に出すことができた。
…きっと。
こんな婉曲な言葉が、私の本心なんでしょう。
「…」
アイツは私の言葉を聞いて黙っている。
…。
予想外だわ。
もっと反応があると思っていた。
アイツにとってはそれなりに嬉しい言葉でしょうに…
犯罪に手を染めても、障害を持っても、人を殺めても、それでも手に入れたかったそれを、たった今得た。
もっと浮かれてもいいと思う。
勝ち誇っても。
…現実をまだ受け入れられていないのかしら?
あまりの衝撃に思考が追いついていない?
どちらにしてもいい気味だわ。
敗北感でいっぱいだけれど、どんな形であれ、アイツの意表を突いてやれたのだから。
頬杖をついて横目で見つめる。
「…そうかぁ」
アイツは小さく呟いた。
「どうなのよ?」
余裕をもってもう一度促す。
…。
さぁ。
涙の一つでも流しなさい。
…。
「難しいよね。僕としてはなぎに好かれたいわけだから、そんな術を知っていても教えたくないんだ。でもなぎに嘘は付かないって約束した手前、伝えないわけにはいかない。だから言うしかないんだけど、本当に思い付かないんだ。一般的な誰かを好きになるケースの正反対のことをすればいいと思うんだけど…。確証もないし根拠もないから推奨出来ない。でもそんなことを言っても、信じて貰えないんじゃないかなって…。嘘をついた方が僕の利になる件だから、どうしても欺瞞に見えてしまう。だから…」
「もういい」
だらだらと続く馬鹿の言葉を遮った。
本当にはらわたが煮えくり返りそう。
…。
「死んでくれないかしら…」
なるべく凄惨に死んでくれれば重畳だわ。
「…ごめん。でも誤解して欲しくない。僕はほんと…」
「もういいって言わなかったかしら?」
弁明を制して黙らせる。
「はぁ…」
ため息が隠せない。
…でも。
「なぎ、怒らせてしまったかい?」
「私は大体怒ってるわ。ほっといて」
はぁ。
でも、何となくそうなるような気はしていた。
乙女心なんて曖昧で非合理的な感情を察しろなんて無理難題を、少しでも望んだ私が馬鹿だったってだけ。
…そう。
「私達、きっと一生分かり合えないのでしょうね」
少なくともこのままでは、間違いなくそうでしょう。
「…そうであって欲しくないとは思ってる」
顔を向けると、アイツは真剣な表情をしていた。
「「…」」
いつも通りの無言の時間。
…
ふふっ。
可笑しい人。
そんな真面目な顔をして何言ってるんだか…
「…なぎ?」
困惑の表情で伺いを立てるアイツ。
「別におかしくなったわけじゃないわ。ただ…」
…そう。
「ただ、『アンタらしい』と思っただけよ」
いい意味でも悪い意味でも期待を裏切らないアイツは、不安を思わせない妙な安心感があった。
登場人物が多くなってきたのでまとめてみました。
※説明書きは、作中での4月現在のものです。
橘蓮…………主人公。大学4回生。味覚に重度、左足に軽度の障害あり。
なぎ…………主人公その2。橘蓮に誘拐された17歳の女の子。
ゼミ
椎名菫………橘蓮の先輩。M1。
桜井雅………橘蓮と同い年。経済学部。
片桐教授……数理統計学研究室の顧問。椎名菫、桜井雅が所属している。
梅野椿………3回生。桜井の後輩。テニスサークルに所属。経済学部。
富樫百合……3回生。桜井の後輩。テニスサークルに所属。薬学部。
医学部
伊吹りん……4回生。首席。
菱川あやめ…2回生。成績不良。
葛西あいり…2回生。成績不良。22歳。
桃……………3回生。成績不良。梅野椿と同じ高校。
棗……………男性。3回生。成績優良。
理学部
松本…………椎名菫誘拐事件の主犯。7月に脳死。意識回復は絶望的。数学科。
相葉…………松本の友人。数学科だった。卒業済み。
大野…………松本の友人その2。数学科だった。卒業済み。
その他
松田…………大学事務員。片桐の呑み仲間。
大学外
萩原楓………主人公達と同じマンションに住んでいたキャリアウーマン。昨年9月に死亡。
楠本菊花……萩原楓惨殺事件の犯人。橘蓮に殺害された。昨年9月に自殺したとされている。
藤原優徒……隣人。24歳。在宅ワーカー。
中野従美……27歳。家政婦。藤原優徒の世話をしている。
なぎの交友関係
桂撫子………温泉街の旅館の仲居見習い。9歳まで同じ学校に通っていた。
榊原藤也……撫子の幼馴染。橘蓮と同じ大学を目指している。
柊瑞樹………なぎと高校まで同じ。女王様気質。
警察関係者
警部補………28歳。椎名菫誘拐事件、萩原楓惨殺事件を担当。歳の離れた弟がいる。
柚木茜………女性。25歳。巡査部長。警部補の相棒。