後悔は死ぬほどしてる
アイツが私のショーツを拾った。
雑巾みたいに絞って噛んでいる。
…は?
突然の奇行に頭が追いつかない。
…何をやっているの?
アイツは撫子を殺そうとして、フルーツナイフを見つけて、私を縛って…
「ねぇっ!アンタ何やってんの!?」
アイツはナイフを見詰めたまま黙っていた。
反対に持って力強く握る。
「無視しないでよっ!!」
…。
返事はない。
…油断してる?
今ならまだ…
腹這いになって何とか立ち上がった。
バランスが取れなくてよろけてしまう。
…。
アイツは腕を振り上げていた。
逆手に握ったナイフは、アイツ自身に刃が向いている。
…不穏な雰囲気。
何かを決意したような真剣な表情で、歯を噛み締めた。
「ちょっ…」
何やってるのよ!
咄嗟に体が動いた。
「ばっ…」
畳を蹴って走る。
…。
振り下ろされるナイフが、ゆっくりに見えた。
「馬鹿じゃないのっ!?」
ぶつかって怯んでいたアイツに怒鳴りつける。
「何やってるのよ!!そんなに死にたいの!?」
大体何で自分で自分を傷つけてるのよ。
「っつぅ…」
アイツが頭を押さえながら目を開けた。
「…なぎ?」
「何か言いなさいよっ!!アンタは何が…」
「なぎっ!血がっ!!」
…?
右肩を見る。
「早く止血しないと!」
開いた傷口から出るどす黒い液体が、腕を伝って畳を汚していた。
「…ごめん。こんなことになって…」
手当てを続けるアイツからは、さっきまで勢いがまるでなくなっていた。
給湯器で沸騰させたお湯でタオルを洗って、止血している。
「大袈裟なのよ」
傷口だって別に大したことない。
「膿んだら大変だ。感染病は死ぬことだってあるんだから」
…。
「本当にごめん。こんなつもりじゃなかったんだ…」
心底申し訳なさそう謝っている。
…。
そうでしょうね。
そんな態度を見せられれば、誰だって分かる。
「…なら、どういうつもりだったのよ?」
あんな真似をする意味が全く理解できないわ。
アイツを見つめる。
「…腱を切るつもりだったんだ」
…。
「けん?」
アイツが自分の足首を指差す。
「断裂したら半年くらいはまともに歩くことが出来ないから…」
…。
「自分のアキレス腱を、自分で切ろうとしたってこと?」
「うん。そうすればなぎも安心出来るだろうって…」
…。
はぁ。
コイツは正真正銘の馬鹿だわ。
何でそんな斜め上の安直な解決策しか思いつかないのかしら?
「…なんでそんな無意味な自傷をするの?」
「信頼を得られないなら、現実として犯行が不可能になればいいと思ったんだ。なぎには何を言っても信じて貰えそうになかったから…。…両足が不自由になれば、流石のなぎも留飲を下げてくれるだろう。考え直す時間も得られて一挙両得じゃない?」
「ふざけないでっ!」
何が一挙両得よ。
「そこまでする必要があるのかって話よ!何でそんな短絡的なの!?」
「…確かに浅慮だったのは認めるよ。考えなしだった。切創なんて医師が見たらすぐに分かる。事件性を疑われたら面倒だっただろうね」
…だからっ。
「そういうことを言ってるんじゃないわっ!…もっとなにかあるでしょう?嫌だとか、痛いとか…」
「それはあるさ。自傷癖があるわけじゃないんだ。出来る事なら避けたい」
でも、とアイツが続ける。
「なぎからの信頼を得たかったんだよ。だから避けられない事だった。なぎは思慮が浅いと笑うんだろうけど、僕にはこれ位しか思いつかなかった。…こんな事になってしまったけどね」
私の右肩を優しく撫でて、申し訳なさそうに謝った。
「…もう分かったわよ」
わざとじゃないことはもう十分分かったし、喧嘩をしてたのだからどちらが悪いということでもない。
でも…
「…私達、何やってたんだろう」
楽しいはずの旅行が、なぜかこんな殺伐とした夜を迎えていた。
常に人の生き死にを考えて、夜も安心して眠れなくて、怪我もして。
散々言い合いを繰り返して、結局は平行線のまま、なし崩しの和解…
気付けば私達の一年はそれの繰り返しだった。
人を信じることができないのはお互い様で、言葉が足りないのもお互い様。
仕方ないことなのかもしれないけれど、それでも、ここまで同じことの繰り返しが続くと馬鹿らしく感じる。
…。
「ねぇ」
「…何?」
いつもより力ない返事。
まぁ、人に怪我を負わせといて元気いっぱいってのもむかつくけれど…
「…本当に、撫子を殺すつもりはないの?」
「ないよ。勿論、条件はつくけどね」
「条件?」
なによ、条件って…
「うん。僕の犯行を知らない事が条件だ。流石にこれを知られたら、何らかの対処はしなければならないだろうね」
…。
まぁ、そうなるのでしょうね。
「私のことは知られていてもいいの?」
「それはもう割り切っている。流石に一生幽閉しておくことも出来ないだろうから。適当に理由を付けて蓋然性があるのなら、僕は口を出すつもりはないよ」
…信じられない。
いえ。
信じるのが怖いといったほうが正確、かしら。
「…その判断は誰がするの?」
「それはなぎか僕でしょ。他に誰がいるんだい?」
そうだけど…
「…アンタは私のことを信用できるの?」
無表情のアイツに問いかける。
…そう。
アイツのそういうところが私の懐疑心を焚きつける一番の理由だった。
コイツは私の発言に一切、疑問を抱いていない。
最初の頃はもっと腹の探り合いだったのに、今ではその面影もなかった。
…耳当たりのいい言葉は信用できない。
自分に益のないことを積極的に行う人間なんて、殺人鬼以上の人格破綻者でしょう。
正常な人格者なら、何かを偽っている。
どちらにしても、到底信用できない人間であることに変わりないわ。
「当たり前だよ」
「なんで?」
思わず声が荒立つ。
コイツは何で…
「簡単だ。…なぎは桂撫子を守りたいと言うのは紛れもない事実だろう。どんな関係性なのかは知らないけど、あれだけの事をしたんだ。それは信じていい。ならなぎだって余計な事は言わないはずだ。これは今朝、桂本人と話して確認もした。目の前の人間が犯罪者だと知っていて、あんな自然には振る舞えない。間違いないよ」
アイツが淡々と語りだした。
「人は理屈に沿わない行動はしない。その人間が何を望んでいるかを明確に理解していれば、見誤る事はないさ」
…なによ。
私の理解者のつもり?
「…人は皆、アンタみたいに冷静には振る舞えないわ」
「そんなことないよ。少なくともなぎは違う」
…コイツは私を過大評価している。
私なんて、アイツに比べればなにもできない愚かな小娘で、頭を悩ませて立てた苦肉の策も、嘲笑うかのように看破されて…
…。
「…私は、撫子が助かるなら、どうなってもいいと思っていたわ」
「優しいね。僕は人のためにそこまで献身的にはなれない」
…嘘。
いえ。
本人が気付いていないだけなのかしら?
アイツは椎名って先輩の時も、楓って隣人の時も、自分を犠牲にして奔走していた。
問い詰めてもきっと、『自分の為だった』と言い張るのでしょう。
アイツは一見大人なようで、妙なところが子供っぽい。
極端な話ばかりで折衷案が出せないところも、自分が正しいと思ったら折れないところも…
そんなアイツが…
「…なぎ?」
考え込んでいた私に語りかけてきた。
「傷、痛む?」
曇りのない瞳で顔を覗いている。
…。
「ねぇ」
「何だい?」
…アイツのことなんて、信じられない。
でも…
「…本当に、撫子に危害を加えない?」
「うん。『少なくとも今は』って事も忘れないで」
…。
きっと、付け足した言葉がアイツなりの誠意。
『僕に不利益な情報でも伝えると約束する』
あの時の一方的な約束を、アイツは今でも律儀に守っていた。
…なら。
「なぎ?」
「えっ…」
気付けば涙が流れていた。
掬っても掬っても、とめどなく溢れてくる。
「あれっ?また何か傷付けるような事を言ったかなっ?」
早口で喋りながらあたふたし始めた。
「いえっ…、そうっでは…なくてっ…」
違うと伝えたくても、思うように言葉にならない。
咽びと鼻水が止まらなかった。
顔を手で覆って隠す。
「…」
アイツが遠ざかっていく。
「続きは落ち着いてから、だね」
滲む視界の中、アイツの姿が見える。
アイツは私から離れて、部屋の隅の壁にもたれかかっていた。
張り詰めていた気が緩んで、せき止めていた感情が溢れ出た。
声を出して泣いたのはいつぶりだろう。
…。
一年前、ね。
考えるまでもなかったわ。
あのときは、屈辱と虚無感だけが残ったけれど、今は違う。
泣いてすっきりとするなんて、本当に久しぶり。
まだ物心がつくかどうか、それくらいのときの曖昧な記憶が蘇って、妙な感覚だった。
「…」
まだ気恥ずかしさが残る。
私は何をしていたんだろう?
何度も自問自答を繰り返して、未だに答えは出ない。
「…ねぇ」
鼻声でアイツに語り掛ける。
「何?」
アイツはさっきまでのことなんてなかったかのように返事をした。
余裕顔のアイツが妙に癪に障る。
私だけが慌てふためいて、馬鹿みたい。
…。
むかつく。
なら…
「お風呂にしましょう。…もう一度二人で」
「はぁ?」
…。
今までで一番、間抜けな声だった。
二回目の露天風呂は、狭くても心地よかった。
頭を空っぽにして入るお風呂は気楽で、凝り固まっていた頭をほぐしてくれる。
「…」
アイツは何故か小さく縮こまっていた。
真剣な顔で思い悩んでいる。
「どうしたのよ。緊張してるの?」
足を組みなおして伸ばすと、アイツはさらに端に寄った。
「意味が分からない。なぎは何がしたいんだ」
「これだけすれ違いが続いたんだもの。腹を割って話す必要があるでしょう?」
本当に他意はなくて、強いて言うならそんな顔が見たかっただけ。
「裸の付き合いってやつ?馬鹿馬鹿しい」
「先人の知恵にあやかれないのはもっと馬鹿よ」
「鵜呑みにする方が馬鹿だと思うけど…」
そう言ってアイツは口ごもる。
目線は私の右肩を向いていた。
…。
「ありがとう」
「…は?」
困惑している。
「撫子を見逃してくれて、よ。右肩のことじゃあないわ」
そう伝えると、アイツは真面目な顔に戻った。
「あぁ…。…当たり前だよ。お礼を言われる事じゃない」
…本当にね。
アイツの思考に侵されて、正しい判断ができていない。
この状況も、後々振り返ったら死ぬほど恥ずかしい過去になっているのかもしれない。
でも。
「悪くないわね」
「え?何が?」
私の独り言にアイツが反応を示す。
「なんでもないわ」
そう伝えると、アイツが眉をひそめた。
こんなに戸惑っている顔が見られるのも、きっと今日が最初で最後でしょう。
「うーん…」
アイツが唸り声を上げる。
「何か見落としがあるのかもしれない」
「ないわよ馬鹿。嫌なこと言わないでよね」
二人の間を満たしていたお湯がさざめいた。
「…信じてるから」
真剣な顔でアイツを見る。
「…分かったよ」
アイツは一瞬だけ驚いて、真面目な顔で小さく頷いた。
「…撫子に謝らなくちゃ」
「そうだね。友達は大事だ」
「アンタ、友達いないじゃない」
「風の噂じゃあ、友達は大事らしい」
「…馬鹿じゃないの」
「そうだ。もうすぐ夕食じゃないか。彼女を招いたら?」
「はぁ?」
「いいじゃないか。そう何度もここに来れるわけじゃない。会える時に会っておいた方がいいよ」
「…」
「僕は適当に外で済ませてくる。二人で楽しんでくれ」
「…別に、そんな気を使わなくていいわ。アンタもいなさいよ…」
「いや、流石に水入らずに部外者がいても…」
「アンタを追い出した方が後味が悪いでしょ?大人しくしていればいいから」
「大人しく、かぁ…」
「借りてきた猫でもなんでもいいわよ」
「…そんな可愛らしく振る舞えるかな?」
「あぁもう面倒ね。ふざけたこと言ってないで準備しなさい。…私は肩が痛いの」
「はい只今!」