目を開けて見る夢なら
なぎの行動にはずっと違和感があった。
それを感じたのは旅行2日目の朝。
なぎはそれからずっと考え込んでいる。
最初は二日酔いが響いているのだろうと勝手に解釈していたが、それも『桂撫子』の存在で説明がつく。
…多分、再会したのは二日目の朝。
彼女はこの旅館に住み込みで働いているのだから、可能性としては十分ありうる。
賢いなぎのことだ。
桂と自分が旧知の仲だと僕に悟られたら、どうなるかなんて知れている。
現に僕は今までそうしてきた。
前例もあるのだから、なぎとしてはそうだとしか考えられなかったのだろう。
…桂撫子が僕に殺される。
なぎは何としても、彼女から僕を遠ざけたかった。
それが二日目の焦燥の理由。
…。
些細な疑念が繋がっていく。
「…大丈夫?」
そう言うものの、目の前のなぎはとても健常には見えなかった。
「…」
なぎは驚いた顔のまま僕を見て固まっている。
「なぎは僕が友達を殺すんじゃないかって心配してたんでしょ?」
なぎと桂との関係性は分からないが、年齢から鑑みると親戚か同級生、比較的親密な先輩後輩と言った所だろう。
…ネット上での関係か?
それもありうるが、…まぁ、そんなことはどうでもいいか。
重要なのは間柄ではなく関係性…
桂がここで働いているという情報をなぎが分かっていたのならば、この旅館を宿泊先として選ばなかっただろう。
桂を僕から遠ざけようとする言動と矛盾する。
ならば、この出会いは偶然だろうな。
桂がここに勤めていることを、なぎは知らなかった。
だが、なぎにとって桂は、どうでもいい存在でもなかった。
少なくとも純潔を捧げてもいいと思える程度には、桂は大事な存在なのだろう。
…。
なぎを見る。
鋭い目で僕を睨んでいた。
そのまま噛みついてきそうな勢いだな…
「そんなことする訳ないじゃないか。…確かに処遇は考えたよ。殺すことも頭には過った」
「…っ!!…アンタねぇっ!」
なぎが襟に掴み掛かった。
怒りと憎悪に満ちた表情…
「…でも、冷静に考えてみてくれ。桂撫子を殺すデメリットを」
「…デメリット?」
指にこもる力が僅かに緩む。
「そう、デメリットだ」
なぎが俯く。
「…警察に目を付けられているアンタが、その上さらに罪を重ねるわけがないってこと?」
半信半疑で理由を述べた。
…。
理屈っぽいなぁ…
「違う。なぎと袂を分かちたくないから、だよ」
この状況で桂が死ねば、例え警察が事故死と断定しても、なぎは僕を疑うだろう。
ここまで築いた信頼関係は崩壊し、なぎは一生僕を許さない。
それこそまさに、今までの努力を無碍にする行為だ。
「…そんなの、信じられるわけないじゃない…」
「その通りだ。だからここまで拗れたんだろうね」
最初から僕に『知り合いがいるけど私の友達だから危害を加えないで』とでも言っておけば、何の問題もなかった。
だが…。
そうはならなかった。
その原因の一端は僕が担っているのだろう。
「…なぎは僕の一挙手一投足が信じられないのかい?」
「当たり前よ…」
…そうか。
当たり前、なのか。
…。
「なら、何で、『僕が桂撫子を殺す』と信じて疑っていないの?」
「…撫子は、アンタにとって生きていると不都合だからよ。リスクしかない」
いつの間にか、襟を掴んでいた手が離れていた。
先ほどまでの勢いがまるでない。
…薄々気付いているのだろう。
僕の態度を見て。
だが、信じたくないのだろう。
自分の間違いを認めるのは難しいらしいから…
「じゃあなぎは、少なくとも僕が『損得勘定で動く人間である』という所は信じてくれているんだね?」
「…」
返事はない。
…。
理屈、か。
「最近のなぎのフラストレーションの原因は僕だろう。お互い頑固な人間だ。譲り合わなければ蟠りが生じる。そう言った時、やっぱりなぎには『味方』がいた方がいいんじゃないかと思ったんだ。僕じゃない第3者が…。…成り行きではあるけど、落とし所としては悪くない」
今日の朝に話した様子では、桂はまだ深い事情を知っている風ではなかった。
なぎも、僕との関係性を無暗に話すような愚行は起こすとは思えない。
なら…
「なぎが『余計な事』さえ言わなければ、寧ろ桂撫子は僕にとっても都合がいいんだよ」
「…そう言って私を騙してるのでしょう?」
「なぎの油断を誘ってどうなるのさ。もし僕が桂撫子を殺そうと思っているのなら、もういつだって殺せる。彼女の居場所は突き止めているんだ。今日明日と言わず、一か月位準備をして、万全の状態で殺すだろう」
だから、なぎを騙す意味なんてない。
「いえあるわ。私を安心させて、撫子を自然に死んだ風に見せかければ、私から疑われない」
「無理だよ、そんな殺し方。大体どうやって死んでも仕方がない状況を作り出すのさ。殺し屋を雇ってひき殺させるの?病死なら疑われなさそうだけど、健常な若年者を確実に病死させる方法なんて手間がかかり過ぎるよ。狂犬病ウイルスでも培養する?」
病原体の培養なんて、それこそ殺人以上の重罪だ。
なぎの信用を損ねないような桂の死に方なんて、僕に完全なアリバイがあって、且つ最もありきたりな死に方でもないと…
「…アンタならやりかねないわ」
なぎは平然と言ってのける。
…無理だろ。
それを可能にするにはどれだけの条件をクリアしなければならないと思ってるんだ…
「やっぱり、なぎは僕を誤解しているね」
僕を無欠の超人か何かだとでも思っている。
それでいて、自分は僕より劣っていると決めつけてもいる。
「僕は普通の人間だ。ちょっとばかり頭が回って、平均以上に臆病な、何処にでもいる面白味のない人間だよ」
「…普通の人間は人を殺して平常心を保っていることなんてできないわ」
「普通の人間は人を殺さないんだから、前例がないってだけだよ。案外平然とできるものなのかもね」
「ふざけないで」
ふざけているつもりはないのだが…
「…要約しよう。なぎは僕を信用できない。それはきっと、今の僕が何を言っても払拭出来るものではないんだろうね。…どうすれば信じてくれる?」
…情けない質問だな。
我ながら哀れに思う。
だが、なぎの信用を勝ち取らなければいけないのだから、恥くらいは忍んで然りだろう。
なぎを見つめる。
「…無理よ」
消え入りそうな声でそう言った。
普段の優雅さも、尊大さもない、弱々しい少女の様に俯いている。
「そうかぁ…。これじゃ平行線だ」
流石にもう逸る気持ちは失せているだろうが、根本的な解決には繋がっていない。
はぁ…
…。
なら、やるしかないのか…
あまり気が進まないな。
立ち上がって寝室を出た。
「…どこ行くのよ?」
なぎも振り絞るようして立ち上がる。
「旅館なんだ。果物ナイフくらいあるだろう」
「…ない、ふ?」
なぎが震えながら反芻して、すぐに目の色が変わった。
「止めてっ!そんな無策で考えなしな行動なんて無意味よっ!!」
「ちゃんと考えはあるよ。なぎは安心してここにいればいい」
多分、テレビ台の下の引き出し当たりにでも入っているだろう。
「考え直してっ!」
なぎが僕の脚に抱き着いた。
肩に掛けてた浴衣を落として、必死の形相でしがみ付いている。
「…あった」
鞘のついたナイフの刃渡りは僅か10㎝程度だった。
…まぁ。
これだけの長さがあれば十分だろう。
「離れてくれないかな?」
足元にいたなぎに告げる。
刃物を持っている状況で、この状態は危険だろう。
「いやっ!」
腰の辺りに飛びつかれ、重心がぶれた。
崩れた態勢で後ろに倒れる。
「絶っ対行かせないっ!それを離してっ!!」
なぎが右手に手を伸ばして、ナイフを奪おうとしてきた。
「…危ないって!」
手首を捻って部屋の隅に投げる。
なぎの視線が端に転がったナイフの方を向いた。
自由になった両手でなぎを引き剥がす。
「ぅぐっ」
体重をかけてなぎを抑え込むと、潰されたカエルのような声を漏らした。
細い両腕を、片手で握り込む。
「うぅっ…はなしてっ!!」
両足をばたつかせて暴れる。
「…大人しく出来る?」
「できるわけないでしょっ!!」
じゃあ無理だ。
腰に巻いてある帯を外す。
「ちょっ…やめてっ!!」
「ごめんね」
暴れるなぎを力尽くで抑え込んで、両腕を縛りあげた。
両腕を縛られた人間が立ち上がるのは難しい。
出来ない事ではないが、時間が掛かる事に変わりはなかった。
横たわっているなぎはこちらを見ながら金切り声で喚いている。
その言葉は聞き取れない。
僕を非難する言葉だとは思うが…
…。
部屋の隅に転がっていたナイフを拾い上げる。
「…」
松本に誘拐された時を思い出す。
あの時は痛かったが、自分でやる分には加減が出来るだろう。
…。
出来るのか?
経験がないから分からない。
…はぁ。
「まぁ、やってみたら分かることか」
適当に転がっていた布を絞って、奥歯で噛む。
…。
果物ナイフは刃が鈍い。
抉るのではなく、刺すしかないだろう。
腓腹筋の先端、踵骨に当てないように…
…よし。
ナイフを逆手に持って狙いを定めた。
力を抜き、落ち着いて振り上げる。
「ふーっ…」
柄を握りしめ、全力で振り下ろした。