沢山の道を選べるほど
…撫子は私が守る。
どんな手を使っても。
部屋には清掃が入ったようで、机の上にあった朝食は下げられていた。
番のように寄り添った座椅子にアイツを座らせる。
「…なぎ?」
流石のコイツも困惑している様子だった。
…いい気味だわ。
搦め手を使うのはアンタだけじゃないのよ。
…。
胡坐をかくアイツの上に座る。
「…今日は二人でいましょう?」
胸に耳を置くと心音が聞こえた。
一定のリズムで鼓動がなっている。
「…いいけどさ、何するの?」
「何でもいいじゃない。二人でいられれば」
…。
明日のチェックアウトまで、時間を稼ぐ。
「e4」
「…e6」
フレンチディフェンス…
「d4」
「d5」
やっぱり。
「ナイトc3」
「…テイク、ge4」
強気ね…
「テイク、ナイトe4」
受けてあげる。
…。
「はぁ、また負けた」
9局目は薄氷の勝利。
頭の中でのチェスは普段とは要領が違って、アイツは強かった。
それでも負け越すことはないけれど。
…それに。
「これは喉が渇くね」
遂にアイツが音を上げた。
「お茶でも飲んで一時休戦かしら?お茶請けにお饅頭でも食べましょう」
アイツを見上げて提案する。
「そうだね。足も痺れて感覚もないし、一旦休憩しよう」
…。
「一種のハネムーン症候群ね。嬉しい悲鳴よ」
「どこでそんな言葉を覚えてくるんだか…」
呆れるように言うアイツ。
「立ち上がれないよ」
「そう。なら私が用意してあげる。大人しく座ってなさい」
時刻はまだ16時を回ったところ。
あと18時間…
…。
「夕食の前に露天風呂に入りましょう。さっぱりしたいわ」
湯呑を差し出す。
「…そうだね。僕も汗臭いし、今日はもう疲れたよ」
そう言いながらも、アイツは相変わらず余裕の表情だった。
…。
私は知っている。
コイツが油断できない奴だってことを。
撫子の部屋での一件を、なぜかアイツは追及してきていない。
と言うことはやはり、コイツには私達のことが筒抜けだということでしょう。
買い物を済ませて帰って来たということは、もういつでも『なにか』を実行できるということ。
…。
好きにはさせない。
「ねぇ」
「何だい?」
「この部屋に露天風呂が備え付けられてるって知ってる?」
「…うん」
「大浴場と違って随分小さいのだけれど…」
「そうだね」
「足を伸ばすことはできないけれど、他人がいないから羽を伸ばせるわ」
「…」
「ねぇ」
「ん?」
「今日はこっちにしましょう?」
「…うん」
湯船から溢れたお湯が簀の子を濡らす。
散ったお湯が湯けむりを生んで辺りを包んだ。
「…ふう」
アイツは左足を庇うようにして座って、そのまま肩まで浸かっている。
「もう少しそっちに寄ってよ」
「…あぁ。ごめんごめん」
座り直して足を畳んだ。
…。
大丈夫。
私は平気。
アイツの目の前に、一糸まとわぬ姿で湯船に立った。
顔を見ていた目線が下がり、腹部の辺りで止まる。
…。
タオルで前も隠さない。
正面を向いて湯に浸かった。
両腕を湯船の淵に置いているアイツが、ふてぶてしい態度で私を見ている。
「…何よ」
羞恥心でどうにかなりそうな気持ちを押し殺して尋ねた。
「いやっ。…なんか気恥ずかしいね」
アイツが控え目に笑う。
…。
「そうでもないわ。アンタも別に初めてってわけじゃないのでしょう?」
「まぁ、そうだけどさ…」
…。
あぁ、そう。
少しだけ、冷静になれた。
「何よ。二人で入った方が効率的じゃない」
「機能的ではない気がするけど…」
…。
あぁ言えばこう言うわね…
首まで体を沈める。
「…また逆上せるよ?」
アイツはそう言って、私の頭に濡れたタオルを乗せた。
湿ったタオルが私の頭を冷やす。
「ありがと。優しいのね」
そう言うとアイツは目を見開いた。
今日一番の驚いた表情…
「…どうしたの?ちょっと不気味じゃない?」
一言多いわね…
「素直になったのよ」
嘘だけれど。
そう言った方が受けがいいような気がする。
「…いつも素直になればいいのに」
アイツが汗で張り付いた前髪をかき上げながらそう言った。
ほのかな憂い顔で溜息をついている。
「今日だけよ。…こういう時じゃないと中々なれないわ」
…そう。
こういう時じゃないと、こんな大胆な行動なんてとれない。
…。
「ねぇ」
身を乗り出してアイツの肩に手を置く。
筋肉質な肩は私と違ってごつごつしていて、僅かな弾力があった。
アイツの目線が体を沿って、私の顔で止まる。
「何?」
表情に動きはないけれど、困っているようにも見えた。
…。
距離を縮める。
「…夕食前にやりたいことがあるの」
耳に口を近づけて、なるべく妖艶にそう囁いた。
帯を締めて振り返ったアイツが、困ったような顔を浮かべた。
ほとんど裸の私を見て視線を逸らす。
…。
布団の上に突き飛ばした。
力はそれほどかけていないのにも関わらず、アイツは簡単に尻餅をつく。
上から羽織っていただけの浴衣がなびいた。
「…なぎ?」
アイツは私を見上げている。
…戸惑っている。
そんなわけがないと思いながらも、そうとしか考えられない。
そんな二律背反がせめぎ合っているのでしょう。
「…いいじゃない。どうせ脱がせてくれるのでしょう?」
そのまま馬乗りになる。
…。
頭は冴えているのに、体は燃えるように熱い。
バスタオルで体を拭いたにも関わらず、首筋に大粒の水滴が流れた。
呼吸が徐々に荒くなっていくのを感じる。
「…アンタは女が嫌い?」
羽織っていた浴衣を投げ捨てた。
外気が全身を舐めて、火照った体を冷やす。
「いやっ…、寧ろ好きだと思うけど…」
「ならいいわね」
腰をついたまま退いていくアイツに身を預けた。
小さい胸が固い胸板に押し潰される。
「まずはキス…、よね?」
アイツの顔を両手で包んだ。
お互いの目線は逸れない。
「…本気?」
「当たり前でしょ?」
こんなこと洒落でできる方がおかしい。
「…」
アイツがじっと私を見つめた。
目を逸らしたくなる気持ちをじっと堪えて見つめ返す。
…。
長い沈黙が続く。
「…やっぱり、おかしいよ」
口を開いたのはアイツだった。
私の両肩を掴んで引き離す。
「どうしたのさ、桂に何かされた?」
桂…
撫子のことね。
…やっぱり、知り合ってしまっている。
「今は他の女なんてどうでもいいでしょう?」
…。
「今は私だけを見て」
「…私、だけ?」
おかしい文言だったかしら?
「そうよ。他のことなんてどうでもいいじゃない。学校のことだとか、お金のことだとか、怪我のことだとか。今夜はそんな些細なこと忘れて」
だから、今日だけでもいい。
私だけを見て…
アイツの手を取って自分の胸にあてる。
冷たい手のひらに触れて、体が跳ねそう。
「…なぎ、震えてるよ?」
…。
心配そうな顔で私の名前を呼ぶアイツは、経験のない少年のようだった。
戸惑いの目線が私の胸元で、泳いでいる。
「…きて」
目を閉じた。
無防備な顔を差し出して、ただその時を待つ。
…。
…。
「っく」
…え?
アイツが息を漏らす。
体がアイツに釣られて小刻みに揺れた。
「…ふっ、ぁはははっ」
大口を開けて盛大に笑っている。
「はぁーあ。そう言うことか…。…何となく分かったよ」
横に転がっていた浴衣を拾った。
それを広げて頭から被せる。
「もうこんなことしなくていいよ」
…。
顔を上げると、晴れやかな顔のアイツがいた。