ありったけの水をちょうだい
彼女は思いのほか従順だった。
諦めが強いのだろうが…
思い込みも激しいらしい。
風邪薬で眠ってくれてよかった。
首を絞める手間が省けたな…
眠っている彼女の口にガムテープを張り、再びテニスバックに入れる。
…。
若干の湿り具合が不快だった。
部屋に帰ったら洗ってあげないと…
異臭の放つ車を放置しバックを担ぐ。
服も泥だらけで汗もすごい。
あまり人にすれ違いたくない状況だ。
エレベーターに乗り15階を押す。
…。
もうすぐだ。
思えば長い一日だった。
大学の講義を受け、家に帰り、テレビを見ている中、地震が起きた。
それからは動きっぱなしで、今はもう13時。
食事も睡眠もろくにとっていない。
気を抜くと気絶する自信がある。
…。
部屋に帰ったらまず、彼女を風呂に入れる。
窓やドアのカギは明日買いに行けばいいだろう。
幸い明日は日曜日だ。
大学の予定もない。
もうしばらく、彼女は身動きがとれない状況になるな。
…はやく自由にしてあげたい。
15階に着くとエレベーターが開き、女性が立っていた。
…楓さん?
今日は土曜日のはず…
「あっ橘君。ってひどい格好だね~」
嫌なところに出くわしたな。
「友人とテニスをしましてね。白熱して、つい」
「白熱…、イメージがつかない。見てみたかったなー」
楓さんが物珍しそうに近づき顔を覗き込む。
「汗臭いので近づかない方がいいですよ」
バックを背負ったまま退いて言うと、楓さんは笑った。
「そんなことないよ~」
…。
このアンモニア臭のたちこめるこの空間が臭くないわけがない。
きっと気を使っているのだろう。
「大きいバックだねー。…テニスラケットってそんな大きかったっけ?」
「12本用なのでたくさん入るんです。友人の分も必要でしたので」
「昨日、あんな地震があったのに呑気だねー。こっちだって震度5くらいあったのに~」
「死ぬときに悔いが残らないように、ですよ」
かなり苦しいな…
「…橘君らしいね。困ったことがあったらいつでもお姉さんを頼っていいんだよ~」
「ありがとうございます。その時はよろしくお願いします」
「わかったよー」
楓さんは手を振りながら笑顔でエレベーターに乗って下りて行った。
…危ないところだ。
部屋の扉の前まで来た。
鍵を開け、部屋に入りドアを閉める。
リビングもキッチンも、地震の影響で散らかっていた。
…。
やっと、帰ってきた。
…はぁ。
やるべきことは山積みだ。
すぐにでも寝たい。
…でも、今は。
彼女を風呂場に立てかけキッチンに向かう。
グラスを手に取り、蛇口を捻る。