中盤は奇術師のように
アイツは私が撫子と話している間、どこかに行っていたはず。
唾液の乾いた吸殻、履いた形跡の残った靴…
…煙草が切れて買いにいった、てのは楽観的ね。
朝早くに起きて買いに行く手間を、アイツがするはずないのだから。
…多分、つけられていたんだわ。
そうとしか考えられない。
帰って来た私を問い詰めないのは、私が外出して何をしていたのかを知っているから。
だから慌ても、戸惑いもしていない。
…。
撫子の存在は完全に露呈したと考えていいでしょう。
私と懇意にしている人間を見て、アイツはなんて考える?
…そんなこと、分かり切っているわ。
そう。
アイツは、撫子を殺す。
川辺に打ち上げられている女の子。
体は水分を吸ってぶくぶく膨れている。
魚に食われたのか、顔半分はほぐした鮭みたいに身くずれしていた。
大きな瞳は今では死んだ魚のようにくすんでいる。
締まりのない口からは、肺を満たしていた泥水が緩やかに溢れ出続けていた。
景色が森林に移り変わる。
生い茂った葉が春風に揺られて、太い枝が吊るしたそれとともに揺れていた。
腐敗をはじめたそれは、蠅が卵を産み付けるのに適した苗床。
孵化した蛆は、母とも言える胚胎した腐乱死体を貪り尽くしている。
目を伏せると、そこは見慣れたバスルームだった。
浴室には二人の男女。
女は浴槽にもたれかかって片腕だけを湯船に浸している。
男性はただただその光景を眺め続けていた。
足元には鋼製の折り畳み式剃刀。
薄まってほんのり赤い湯は、蒼白な女の子と反して次第に血色がよくなっていく。
その様子を最後まで見守っていた男性が立ち上がると、女の子に一瞥もくれずに立ち去っていった。
「…ぁこっ!」
…?
「…はぁっ……はぁ…はぁ…」
呼吸が整わない。
「…ゆ、め?」
はだけた浴衣が背中の汗でぴったりと張り付いていた。
辺りを見渡す。
「ねぇ…」
返事がない。
「ねぇったらっ!」
…。
布団から飛び出して居間への襖を開ける。
「…アイツっ」
机の上には広がったランチパラソル。
…。
部屋にはもう誰もいなかった。
「わわわっ!」
昨日買った私服に着替えて部屋を出ると、廊下にはカートを押す撫子がいた。
「あっ、なぎちゃんお目覚め?ちゃんとご飯食べた?今日の朝ごはんはねぇ…」
「撫子っ!!」
思わず彼女に抱き着いてしまう。
「えぇっ!?なになに!?そんなに私が恋しかったぁ?」
よしよし、とあやすように頭を撫でられる。
「違うわよ…」
…ただ、現実になりかねない夢を見ただけ。
「もぉ。蓮さんもこんな子を置いてどっか行っちゃってさぁー。ひどいよねぇ?」
…。
ん?
撫子を見上げる。
「蓮さんって気が利きそうな人だったけど…。意外ととーへんぼく?」
「…なっ、なにを、言っているの?」
引っかかる言い方ね…
「…うん?あぁそっかそっか。なぎちゃん寝てたもんね」
「どういう…」
「なぎちゃんの彼氏と喋ったんだぁ。素敵な人だったねぇ」
…。
最っ悪。
「えっ!?今度はなにっ?」
「いいから来てっ!」
撫子の手を引いて部屋に連れ込んだ。
両肩に手を置いて座らせる。
「撫子、落ち着いて?」
「なこはずっと落ち着いてるよ?」
…。
深呼吸をする。
「…撫子はこれから仕事?」
「うん?…うん。お客様のお見送りとか片付けとかいろいろ…」
「それ、休めない?」
「えっ…?」
発した言葉のまま固まる撫子。
…確かに、急な提案だと思う。
けれど、撫子の安全を思えば仕方がない。
「…どうしても?」
「どうしても」
ここは折れることはできない。
「うぅん」
…。
撫子の目を真っ直ぐ見つめる。
お願い…
…。
「…分かった。仲居頭に頼んでくるっ!」
「ちょっとっ!」
走っていく撫子を追う。
今、彼女を一人にしておくことはできないわ。
流石のアイツも、私を目の前にして撫子を殺すことなんてできないでしょうから…
仲居頭と呼ばれる30代くらいの女性は、撫子の無理難題を快諾した。
どうやら撫子は今まで仕事一辺倒だったらしく、日頃の行いのよさが幸いして、午後の仕事は全て交代して貰えることに。
仲居頭さんは撫子の我儘を聞いている間、どことなく嬉しそうな顔つきだった。
頷きながら朗らかに笑う彼女は、面倒見のいい姉のような、そんな雰囲気。
撫子がこのまま順当に成長したら、きっとこんな女性になるのでしょうね…
「やったねなぎちゃん!午後休だよ午後休!」
嬉しそうに浮かれる撫子。
無理矢理取らせた休みに罪悪感を覚える。
…けれど。
「ありがと。でも、そんなに時間がないの。とりあえず、撫子の部屋で話しましょう」
「いいよぉ。私はたっぷりあるから」
何も聞き返してこない彼女は、包容力のある大人の女性のような気がした。
撫子の部屋は天井裏へ続く階段の下にある横長な物置のような場所で、二人で入るのが限界だった。
斜めの天井は低く、奥に座っている撫子は頭が上についてしまっている。
「それでそれで?あんなにテンパってどうしたのぉ?話し足りなかったってわけじゃないでしょ?」
目を爛々とさせて私に尋ねる。
…。
どう説明すればいいか…
深呼吸を挟む。
「…撫子はアイツと何を話したの?」
まずは情報収集。
アイツはどこまで知ってしまったのかを量る必要がある。
「アイツって蓮さんのことぉ?」
小さく頷く。
「別に普通だよぉ?なぎちゃんの彼氏さんですよねぇ?って聞いたら嬉しそうに頷いてた。そっからなぎちゃんの話をしてさぁ、…なに話したっけ?」
「しっかり思い出して。なるべく細部まで」
「うぅん…。…自己紹介したかな?それで蓮さんが大学生だって知ったの。そこから蓮さんのことについて質問攻めにしちゃったような気がする。途中で蓮さんが時間を気にしてたから「何か予定があるんですかぁ?」って尋ねたら、「買い物に行かないといけないんです」って言ってたから、「なぎちゃんをよろしくお願いします」って言っておいたよ?」
…。
親指を立てられても…
…『買い物』ね。
多分、急に何かが『入用』になったんだわ。
ロープかしら?
それともナイフ?
薬もありうる。
…。
現状では判断できないわね。
「…それじゃあ、ほとんどまともに会話してないってことでいいのかしら?」
「うん。なぎちゃん、隣で寝てたからさ、なぎちゃん抜きで盛り上がるのもあんまりよくないかなって…」
…何よ、その気遣い。
まぁ、今はそのありがた迷惑が功を奏したわ。
…。
「撫子」
真剣な目で彼女を見つめる。
「はいっ!」
撫子も釣られて顔を引き締めた。
ふざけているようにしか見えないけれど…
「もうアイツには会わないで」
なるべく強い言葉で、率直に言う。
「…いちおー、なんで?って聞いてもいいの?」
…。
「アイツ、女に目がないの」
「えっ!?そんな風には見えなかったけどなぁ…。…でもウソつきっぽい人だったからそうなのかなぁ」
頭を回して大袈裟に考えている。
「…でもさ、ここまでする必要ってあるかなぁ?」
うっ…
「…彼氏が取られそうなんだからそれくらいするわ」
「はいウソ。目がおよいでるよぉ」
…。
私って、そんなに分かりやすいかしら?
「…詳しくは言えない。でも信じて!アイツと撫子が会うと最悪の事態になるの!」
支離滅裂なことは自覚している。
…でも。
これが私にできる最善なの。
お願い…
「…顔をあげて?」
いつの間にか伏せていた顔を持ち上げられる。
「気持ちはじゅーぶん分かったよ」
頬に添えられた撫子の手は温かかった。
「それより、そんないっしょーけんめーなトモダチのことを信じられないと思われてるほうがイヤ」
頬を膨らませて子供っぽく怒っている。
…ふふっ。
「ごめんなさい。こんな突拍子もない話だから…」
「いいよ。トモダチだからね。でも…」
撫子が私の後ろを指差した。
「もう遅い、かも…」
ゆっくりと振り返る。
「あれ?お取込み中?」
そこには不気味な顔で微笑むアイツがいた。