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Double bind  作者: 佐々木研
灰色のオセロー
137/148

胸が痛いから下を向く度に

 私の人生は不幸から始まった。

 働かずに女の所に通う父親と、私を虐待する水商売の母親。

 両親から愛された記憶はないし、家庭で幸せを感じたこともない。

 それを疑問に思ったのは小学生に上がってから。

 就園することができなかった私が、世界の広さを知って、自分の家庭の異常性を理解した。

 クラスメートの誰もが私よりも幸せそうに見える。

 それでもまだ鬱屈しないでいられたのは多分、柊のおかげだと思う。

 孤立していた私に、話しかけてくれた最初の人…

 「わたしはひいらぎみずき。あなたは?」

 それが彼女との初めての会話だった。


 小学校に通うようになって、家に帰るのが苦痛になった。

 罵声を浴びるためだけに帰るようなものなのだから…

 だから、たまに帰ってくる父親がただただ待ち遠しかった。

 母親の怒りの矛先が逸れる。

 私が父親に望むことはそれだけだった。


 柊の周りには常に沢山の人がいた。

 必然的に私に話しかける人も増えていく。

 撫子と榊原君と話すようになったのは、柊と友達になって間もなくの頃だった。

 仕切りたがりの柊と不愛想な私、能天気な撫子と社交的な榊原君。

 2年生に上がる頃には、グループはこれで定着した。

 撫子と榊原君はいつも一緒というわけではなかったけれど、柊と私は大体一緒にいた気がする。

 話のほとんどは柊の自慢話か愚痴で、私は相槌を打つだけだったけれど、それでも二人で話している間は楽しかった。

 …私の人生で一番楽しかったのは、間違いなくこの時期。

 嫌なことは家庭の中で完結していたこの期間が、私の幸せの絶頂期だった。

 



 旅館を出て2分ほど歩いた先。

 古めかしい小屋を模したバス停に人影が見えた。

 夜明けの前の薄暗い明かりが僅かに彼女を照らす。

 一回り大きいゆったりとしたパーカーに、くるぶし丈のスキニーパンツ。

 大きく足を開いて両肘をつき、木製のベンチに座っている撫子は、試合前のスプリンターのようだった。

 私の足音に気付いて、彼女が顔を上げる。

 「…ごめん、待った?」

 「おそぉーい。二度寝しちゃいそうだったよぉ」

 …。

 間の抜けた喋り方がなければ、もっと格好いいのに…


 「なぎちゃん可愛いねー。大人の女って感じ」

 「撫子はボーイッシュって雰囲気ね」

 他愛もない会話が始まる。

 …実際、撫子は変わった。

 言動にあまり変化はないけれど、体は色んな所が大きくなっている。

 背は私よりも高く、アイツよりも少し低いくらい。

 ラインの見える脚は健康的な引き締まった太さで、胸は私よりも二回り以上大きく見える。

 棒切れみたいな私とは違って、女性的な体形をしていた。

 「髪を短くしたからかなぁ?仕事のとき邪魔だったんだぁ。なぎちゃんは昔っから長いよね~」

 私の髪を指で梳く。

 「一目で分かったよ。なぎちゃんは気付いてくれなかったみたいだけどぉ」

 「仕方ないじゃない。8年も経っているのよ?色々と変わるわ」

 …本当に、色んなことが変化した。

 この1年だけでも。

 「…大震災、どうだった?」

 「大変だったわ。私の住んでいた所は直撃だったから」

 沢山の人が流され、今もなお行方不明者の捜索は続いている。

 「なぎちゃんは今、どこに住んでいるの?まだ地元?」

 撫子が心配そうな顔で私を見た。

 …。

 「東京の親戚の家。たらい回しにされて、ね」

 彼女に嘘をつくのは心が痛い。

 …でも。

 撫子のためには必要なことだわ。

 「そっかぁ。…他の友達のこととかは聞いてないの?ほらっ、瑞樹ちゃんとか藤也とか…」

 「ごめん。被災してすぐに引き取られて会えなかったの。それに、知っているでしょ?私の家は貧しかったから…。当時は携帯電話も持ってなかったのよ」

 嘘を重ねる。

 「…」

 撫子は口を曲げて黙ってしまった。

 余程、榊原君の現状が気になるようね…

 …。

 なんだかんだ言っても、撫子と榊原君の仲はよかった。

 思い出すのは、ぴーぴー喚く撫子をあしらう榊原君の顔…

 いつも喧嘩ばかりで、憎まれ口を叩いてはいたけれど、二人の間には固い信頼関係のようなものがあった気がする。

 撫子はもう、榊原君との交流を絶ってしまったのかしら?

 「「…」」

 沈黙が続く。

 なるべく明るい話題を探さないと…。

 「あの…」

 「ねぇ」

 私の言葉を遮った。

 曇りのない真っ直ぐな瞳がこちらを向いている。

 「…何?」

 動揺を悟られないように微笑んだ。

 この手法、アイツと同じような気が…

 「なんでウソつくの?」

 …。

 撫子は静かに怒っていた。


 「…嘘?」

 心当たりがないとでも言うかのように、撫子の言葉を繰り返した。

 「ウソだよ…」

 彼女はそう言ってまた黙ってしまう。

 …。

 私の言うことが信じられない、と言う意味かしら?

 どこか矛盾があった?

 だとしたらどこ?

 分からない…

 「なぎちゃん、なんで本当のこと言ってくれないの?」

 撫子は私が嘘を付いていると確信しているよう。

 「…」

 現に嘘は付いているけれど、撫子がどこに引っかかっているかが分からない。

 …。

 「私のどこが嘘だって言うの?」

 まずは撫子の出方を窺う。

 あとは口八丁で…

 「全部だよ。ウソってのは言いすぎかもだけど、本当のことはなんにも言ってくれてない」

 …。

 「言ってるじゃない。被災して東京に引っ越して暮らしてるって。他に何が聞きたいの?」

 だんだん語気が荒くなる。

 「橘蓮さんって誰?」

 アイツか…

 「だから撫子が看破したじゃない。…彼氏よ。私の誕生日が近いから羽目を外そうって旅行に誘われたの」

 流石に親戚と言い張るのは難しいでしょう。

 私とアイツは似てなさすぎる…

 「…被災者名簿…」

 …?

 ひさいしゃめいぼ?

 「SNSにね、今回の震災で行方不明になった人の名簿があるの。見つかった人とか、死んじゃった人はどんどん消されていくんだ」

 撫子がスマートフォンを取り出していじりだした。

 「ほらここ。なぎちゃんの名前。…まだ行方不明のままだよ?」

 画面には五十音順に並んだ人名が羅列している。

 …。

 「更新されてないだけでしょう?」

 「…なこ、バカだから分かんないけどさ、親戚に引き取られるときって、市役所とかに行って手続きしないといけないんじゃないの?それなのに行方不明のまま?」

 …。

 ここで名簿の不備だと言い張るのは簡単だけれど…

 人の生死が関わっている名簿の管理がそんなずさんなはずがない。

 何か、突破口を…

 なにか…

 …。

 「…本当は、逃げ出してきたの」

 数秒の沈黙を挟んでそう言った。

 撫子の大きな目がさらに開いて、小さく頷く。

 「ほら、私の家、おかしかったでしょう?中学校上がった頃くらいから次第に酷くなって…。それで、震災の起きた日に逃げ出したの。…あぁいう災害の時って皆混乱するでしょ?壊れたATMとか自動販売機とかからお金を拾って東京に行ったのよ。両親から逃げたくて…。…そこでまぁ、色々あって、今はアイツのお世話になってるってわけ」

 詳細を濁して彼女に伝える。

 お金のない女が上京して男の家にお世話になっているとなれば、やったことは容易に推測できるでしょう。

 流石の撫子でも、それくらい気付くことができる。

 「…あまり面白くない話よ。だから黙っていたの」

 駄目押しの嘘。

 けれど、矛盾点はないはず。

 「…そっか」

 撫子がばつの悪そうな顔で俯いた。

 きっといらない詮索をして、私の傷を抉ってしまったと思い込んでいる。

 「別に落ち込む必要なんてないわ。私は気にしてないから」

 「ありがと…」

 どうやら信じてくれたみたいね。

 「…大変、だったんだねぇ」

 …。

 「あなたもね。…住み込みで働いているの?」

 「うん。女将さんがいい人でさぁ~。格安で泊めて貰ってるの」

 屋根裏みたいなとこなんだけどね、と笑って話す。

 …よし。

 この調子で…

 「でも流石だわ。私と違って自分でしっかりと生きている」

 上手く話題を逸らす。

 「えへへぇ~。そうかなぁ?」

 「そうよ。聞かせてよ。…今度は私の番よね?」



 撫子は父親の転職の関係で引っ越したみたい。

 外資系金融企業に勤めて最初の数年は豊かだったようだけれど、4年前の金融危機でリストラ。

 家庭仲は悪化して2年前に離婚が成立し、撫子は勉強ができる弟のために働き始めたようだった。

 「今は車の免許が欲しいんだぁ~。そしたらまた家族で暮らせるの」

 撫子の家はここからそれなりに近い所にあるらしい。

 旅館は朝が早いことやバスの始発の関係で、自動車免許が取れない間は旅館に住み込みで暮らす計画を立てていた。

 「なぎちゃんはさぁ、寂しくなることない?」

 唐突に話を振られる。

 「…どうかしら?私と撫子では話は違うから…」

 撫子はまだ父親とも交流があるらしい。

 たまに弟を連れて三人で会っているとのこと。

 「…なこはあるよ。なぎちゃん達と過ごした時間はなこの人生からすると短いけどさぁ、頼れる瑞樹ちゃんがいて、頭のいい藤也がいて、優しいなぎちゃんがいて…。思い返せば人生で一番楽しかったのはあの時だった気がするの」

 撫子が次第に明るくなっていく空を見上げて言う。

 「…私も同じよ」

 柊と撫子に振り回されて、榊原君と呆れながら付き合う日々は、私の短い人生でも数少ない幸福。

 それが後の不幸のスパイスになったとしても、それでもあの短い幸せは紛れもない事実…

 「…なぎちゃん、あのさぁ」

 「何?」

 「なぎちゃんはさぁ、今、幸せ?」

 …。

 深い黒の瞳の底は見えない。

 『幸せ』ね…

 撫子から見て、私はどんな風に見えているのかしら?

 同じく親に問題を抱えた仲間?

 恥ずかし気もなく春を売っている売女?

 年上の彼氏を持つ憧れの存在?

 …全部、違う気がする。

 少なくとも私が知っている撫子は、そういう『人のステータス』をあげつらうような人間じゃなかった。

 考えなしで、向こう見ずで、浅慮で、愛くるしい。

 撫子に真剣な話をするのは馬鹿らしくて、そんな彼女を疎んじる自分をつい恥じてしまうような…

 そんな敵愾心てきがいしんを殺すような、純粋さがある子だった。

 それは今も変わっていないように見える。

 無垢な瞳は単純に、発した言葉通りの意味を求めていた。

 …今の私が幸せなら、きっと一緒に笑ってくれる。

 今の私が不幸せなら、きっと一緒に悩んでくれる。

 …。

 「えぇ、…幸せよ」

 そう言って撫子の目を見た。

 安心したかのような優しい目が私を見つめる。

 「そっか。…私も一緒だよ」

 …よかった。

 撫子が裏表のない笑顔で私を抱きしめる。

 全てを包み込むかのような抱擁が、不安定だった私の心を慰めた。

 撫子の匂いに包まれて、茹っていた頭が冴えていく。

 …。

 本当に、撫子の笑顔が見たかっただけ?

 …。

 それは、引き返せない嘘のような気がした。



 それからは他愛のない身の上話が続いた。

 撫子の仲居見習いの生活やら弟の受験奮闘やら旅館の新人板前からのアプローチやら…

 そのどれもが特記することもないようなくだらない話で、私が送ってきた凄惨な人生と比べれば本当に些細なこと。

 手足を縛られて粗相をするような目にも、神経を擦り減らして夜を明かすこともない。

 家でグラスを投げつけられもしなければ、せせら笑うクラスメイトの横顔を見ることもない。

 家族とも仲が良くて、仕事をしていて…

 未来のない私に比べて、撫子の前途は洋々とは言わないまでも、多難ではない。

 それならきっと、彼女は『幸せ』なのでしょう。

 私とは違って。

 …。

 嘘をつくしかなかった。

 彼氏がいると豪語しておいて、不幸だなんて言ったらまた不審がられてしまいそうだったから。

 撫子は案外、勘が鋭い所がある。

 だから、そう言う些細な綻びを嫌っただけ…

 本心ではないし、本音じゃない。

 この嘘だけは良心の呵責は全くなかった。

 ただ、この釈然としない思いだけが残る。

 …そう。

 私は不幸なの。

 そう。

 決して『幸せ』なんかじゃない。



 靴の位置が変わっていた。

 石畳の目に沿って置いていたはずのアイツの靴がずれている。

 撫子と会う前にしっかり確認したはず…

 …無意識に自分で蹴った?

 そんな馬鹿なことをするはずがない。

 …。

 居間にも寝室にも、アイツはいなかった。

 窓辺の小さな机に放置された灰皿には、2本の吸い殻。

 アイツは朝に必ず、灰皿の中身を捨てて煙草を2本吸う。

 と言うことは…

 …。

 水の流れる音が聞こえる。

 …トイレ?

 「…あれっ?帰ってきてたんだ?」

 振り返った先には、間抜け面のアイツがいた。

 「アンタ、…どこに行っていたのよ?」

 「何処って、トイレだけど…」

 使いたかった?とふざけたことを抜かす。

 「…別に」

 と言うか、何でこんなに余裕なの?

 アイツがいつ起きたのかは知らないけれど、私が『行き先も告げずにいなくなった』というれっきとした事実がある。

 私が消えていなくなれば、困るのはアイツのはずなのに…

 …アイツのこれまでの非道を私は知っている。

 拉致、傷害、殺人…

 今までの所業が公になれば、コイツは死刑だってありうるのに。

 そんなリスクを、アイツがみすみす冒すはずない。

 …。

 寝室には二組の布団。

 毛布をはぐって手を入れる。

 …。

 冷たい。

 トイレに行っていたくらいでここまで冷えるものかしら?

 煙草の吸殻も冷たくなっていたし、靴の位置も変わっていた。

 「どうしたの?お腹痛い?」

 さりげなく肩を抱かれる。

 …。

 私の行き先すら、アイツは追及しない。

 と言うことは…

 手を払う。

 「痛いわ。…だから放っておいて」

 …。

 間違いない。

 コイツは私に嘘をついている。

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