ZIP A DOO WA DEE
「おぉ。春休みだと言うのに精が出るな」
奥の部屋から出てきた教授が、私の肩に手を置いてPCを除いた。
「念願の1人暮らしはどうだ?」
研究内容とは関係のない話をする教授は珍しい。
「別に、普通です」
料理もしないし、洗濯もコインランドリーに放り込むだけ。
掃除も家ではそれなりにやっていたし…
「そうかそうか」
教授がマウスを奪い取る。
「車の免許は取ったか?」
…。
「大学から近い所に借りたので取ってません」
多分、私は運転が下手だろうし…
電車があるし、生活には困らないと思う。
「あると便利だぞ?…まぁ、没頭する人間には向いてないがな」
教授が愉快そうに笑う。
…。
「どうしたんですか?回りくどいですね」
いつもなら単刀直入に話を振る教授が、今日はやけに遠回りだった。
「ん?そうか?私はいつも聞きたい話を聞いているつもりだが?」
画面のスクロールを続ける。
「では、そうだな…」
教授はマウスから手を離すと、体を起こして私を見下ろした。
「椎名。橘とはまだ上手くやれそうか?」
…ほら。
本当に聞きたかったのはそれじゃない。
「橘は金に困ってるみたいでな。私達は深刻な人材不足と言う訳だ。ピースが嵌るだろう?」
「…それで?」
「橘を研究の手伝いとして雇う。助手見習いみたいなものだ」
「蓮君は一度断ったんですよね?彼、頑固ですよ?」
「そこはお前と梅野の出番だ」
「桜井君の後輩、でしたっけ?」
「あぁそうだ。梅野はこの研究室に入りたがっている。アイツはしつこいぞ?それで辟易している所にお前が付け込め。甘言で誑し込めば橘も断り切れなくなるさ」
「無理、ですよ…」
「意気地のない奴だな。考えてもみろ。アイツは理に適った状況判断しかできない。なら陥れることも容易だろう?」
「…甘言って、具体的には何を?」
「金だ」
「…かね?」
「そうだ金だ。金はいいぞ?欲しい物の大半が手に入る。今アイツがやっているバイト以上の金を出せば、橘はきっとこちらに靡く」
「…それは一回失敗したのでは?」
「あぁ。だが状況を変える。『面倒でしつこい後輩』にせがまれ、『引け目がある先輩』に頼られ、『尊敬する教授』に目を付けられては断るに断り切れんだろう」
「誰が誰のことか私には全く分かりません」
「知らん振りをするな。研究生の名が廃る!」
「…」
「よしっ!これは決定事項だ!…もしかしたら梅野が明日あたりにここに来るかもしれん。流れを汲んで良きように計らえ」
「…」
「返事は?」
…。
「分かりましたよ…」
…はぁ。
勝手なんだから…
教授は他に類を見ない偉大な人。
42歳にして○○大の教授にまで登りつめた。
役職意識の高いこの業界で、女性にして早々に教授のポストに就くことがどれだけ難しいか…
教授の講義はとても人気で、テレビの解説役としてのオファーから出版依頼なども年に何回も来る。
学会でもそれなりの地位にいて、女性の地位向上を図る国連の機能委員会の会員…
肩書が凄いのは分かるけれど…
「はぁ…」
だからって私達に命令できる権利なんてない。
そんなことは分かっているけれど、そんな女王様みたいな振る舞いを許してしまえるほどの魅力が、才能が、教授にはあった。
…。
教授は蓮君を評価している。
確かに蓮君は凄い人だと思うけれど、それでも偉大な教授が目を惹くほどの人材かと問われれば疑問だった。
彼の着眼点は鋭いけれど、それでも数理科学で功績を遺すことは無理でしょうし、そもそも蓮君の専攻は医学だ。
それに彼は研究者ではなくて臨床医を目指している。
私達とは接点がないように思うけれど…
…。
分からない。
教授は何がしたいんだろう?
忙しいのだから研究生なんて引き入れずに、自分の事に専念すればいいのに…
…分からない。
PCを見つめる。
…。
私には、分からないことばかりだ。
…。
…。
遠くからノックが聞こえる。
「…っ」
考え事に没頭してしまっていた。
「…はい」
返事をする。
『梅野です。しつれいしまーす』
…。
本当に来るの、ね…
教授を恐ろしく感じるのは何度目だろう?