傷口から漏れ出す液を
『橘蓮』
その名前をはっきりと認識したのは高校1年生の時だった。
予備校が主催する統一模試。
年数回ある全国の高校生が受けるセンター試験の予行演習的立ち位置である模試は、あたし達優等生にとっては能力の誇示ができる絶好の機会だった。
最難関である○○大の合格判定は『A』。
担任はあたしを褒めちぎり、両親は大手を振って街を歩く。
あたしの名前は予備校のホームページに成績優秀者として大々的に取り上げられ、高校のPRにも大いに使われた。
インターネットの検索欄に名前を入力すれば、真っ先に出てくる『伊吹りん』の文字。
冠する順位は『2位』だった。
次にその名前を見たのはネット記事だった。
『高校一年生にしてインターハイベスト8 文武両道 ○○高校に通う全国模試1位である彼の実態は?』
小さな記事には、テニスの取り組み方やモチベーション、学業の両立の仕方、普段は何をしているか、など、ありきたりな取材内容がインタビュー形式でまとめられていた。
彼は都心の方にある有数の進学校に通っている男子生徒で、将来はスポーツ選手ではなく医者を目指しているらしい。
記事には試合風景を写した写真。
勝ちを決めるその一瞬を切り取っているはずなのに、その顔はなぜか優雅で、鼻につく表情だった。
二回目の統一模試は死力を尽くした。
両親に激励されたことも意思決定の一因ではあるが、それよりも『こんなヤツに負けたくない』と言う気持ちが強かった。
あたしはこれまで、勉強では負け知らずだった。
学校の成績も常に一番上で、努力の量だったら誰にも負けない自信がある。
県で一番の進学校に合格してからも、学業だけは慢心せず怠らなかった。
先生に認められて、両親に褒められて、何の取り柄のない私には、その努力だけが唯一自慢できるアイデンティティ。
…ここまで登りつめたのだから、頂に立ちたい。
きっとそうすれば、周りはもっと賞賛してくれる。
それがあたしの原動力だった。
結果は変わらず二位だった。
一位の欄はなぜか空白…
…きっと、一位は橘蓮だ。
上位陣には前回のランキングに乗っていた数人がいたが、彼の名前はなかった。
名前を伏せる理由が分からない。
もしかしたら彼じゃないのかもしれない。
…でも。
あたしの上に立つのは、彼のような気がした。
いくら勉強しても、あたしは一位にはなれなかった。
科目別に見てもあたしの上にはほとんど毎回誰かがいる。
一番得意な現代文で一位を取ったことはあるが、それでも高校生活のトータルで見たら、5回に1回くらいしか勝つことができなかった。
満点を取っても、名前の明かさない誰かが常に私と並んでいる。
総合点では全敗。
結局あたしは、高校生活で一度も勝つことができなかった。
脳裏に焼き付いているのは、インターハイで輝かしい活躍を遂げた橘蓮の姿…
ベスト8を決めたドロップショットを打つ瞬間と、決勝戦で相手のスマッシュを返すことができなかった敗退の瞬間の写真だ。
1年生でベスト8という快挙を遂げた時でも、2年生でくしくも準優勝という栄光を掴んだ時でも、彼の目は変わっていなかった。
試合中で汗をかいていても、表彰台でトロフィーを受け取っていても、インタビューで心情を語っている最中でも、彼の目はくすんでいて『どうでもいい』と言わんばかりの瞳。
素晴らしいプレーで得点をあげても、健闘を称えた賛辞を受けても、感謝の念を述べている最中ですら…
まるでその場その場での『最善』を実行する機械のような雰囲気が見て取れた。
橘蓮は3年生でインターハイに出場していない。
それと同時に、あたしは模試で『空欄の彼』に全く勝てなくなった。
名前が公表される成績優秀者に『橘蓮』の名前はない。
…。
もう、そうとしか考えられなかった。
○○大の新入生代表はあたしではなく案の定、橘蓮だった。
入試の結果は変わらず2位。
人生で一番頑張った結果がこれなのだから悔いはない。
…。
いや、違う。
本当は死ぬほど悔しかった。
寝る間も惜しんで全身全霊で挑んだんだ。
悔しくないはずがない。
満点を取るつもりで挑んだ二次試験で、あたしは90%しか取れなかった。
例年通りならそれでも主席であることは確実なラインであるにも関わらず、彼はあたしの努力をあざ笑うかのように、悠々とあたしの上に立っている。
…悔しい。
壇上から見る光景をどれほど夢見たか…
羨望の眼差しで注目を集め、その中からアイツを見つけ出して『そんな顔してるから負けたんだ』と指差して言いたかった。
そんな適当な顔で、そんな中途半端な志で、そんな曖昧な目的で…
そんな熱誠のない生き方だからお前はあたしに負けたんだ、と声高々と言ってやりたかった。
なのに…
あたしの前には常にアイツが立っている。
あんな体裁だけを保っただけの生気のない目で生きる男が、あたしの前に平然と立っていた。
その事実が…
その事実が執拗にあたしを責める。
何でこんな奴に…
噛み締めた唇から血が零れる。
「…何?」
食堂で黙々とうどんを啜っていた橘を見つめていると、あちらから声をかけてきた。
その顔は形容しがたいほど曖昧で、微笑んでいるようにも、困っているようにも、煩わしがっているようにも見える。
「別に…。アンタが橘蓮だよね?」
一応尋ねると、彼は一瞬だけ顔をしかめて溜息を吐いた。
「…そうだけど?」
だから何だ?とでも言いたげな表情。
…その理由は私が一番よく知っている。
彼の噂は入学前から大学内に広まっていた。
『センター試験で全教科満点の人がいるらしい』『二次試験でもほぼ満点だった』『医学部で美形だ』『爽やかなスポーツマン』『社交的で頼れる』…
入学した瞬間から、橘蓮は有名人だった。
彼と同じ高校の出身者が発端となって広まった噂は、尾ひれがついて伝染病のように蔓延していた。
実際の彼は背も低くて、165cmのあたしよりは少し高いくらい。
顔は確かに悪くはないが、美形と評されるほどではなかった。
多くの人に囲まれても、反応は薄く、コミュニケーションが得意そうには見えない。
実際に会ってみると、彼は根暗でマイペースな人間に思えた。
…。
「君は誰?」
黙っていたあたしに面倒くさそうに投げかける。
…。
「…伊吹りんって、言ったら分かる?」
「いぶき…?聞いたことないな…。誰かの友達なの?」
見た事もないって表情だ。
統一模試の順位なんて関係ないってことか…
あたしなんて眼中にない。
「それで?どういった用?僕は忙しいんだけど」
そう言ってまたうどんを摘まんで口に運ぶ。
…そう。
あたしなんかより、そんなやっすいご飯が大事ってことか。
「…憶えてろよ」
そのスカした顔に目に物を見せてやる。
次の期末テストで、あたしはお前に勝つ。
そしてあたしの名前をお前に刻み込ませる。
余裕顔で調子に乗っていた自分を恨め馬鹿。
席を立って歩き去る。
一度だけ振り返ってアイツを見た。
…っ!
アイツは黙々とうどんを啜っていた。
相対してはっきりと分かった。
アイツはただの人形だ。
楽しみも生きがいも幸せも、アイツには何もない。
ただ惰性で生きていて、成果に何の報酬も得られていない。
そんな人生をのうのうと生きている目をしていた。
それは間違っている。
自分の人生を彩るのは自分で、価値を見出すのも自分。
人生がつまらないのは自分の責任以外のなんでもない。
誰もが夢見る成果を得て、それでも喜べないのなら、間違っているのは橘蓮自身。
栄光を掴んでなお『下らない』と唾棄するアイツは、不躾だし、非礼で、不調法だ。
…だから、許せない。
あたしが必死で望んでいるものを踏みにじってなお、不幸そうな面構えのアイツが。
…負けたくない。
負けたくないんだ。
機会は予定より早く訪れた。
医学部全体での討論学習。
割り当てられたグループごとに意見を纏め、医療倫理に関するジレンマの見解を発表、それを学年全体で評価するといった形だった。
…これはチャンスだ。
あたしたちに成績を付ける教授に目を付けてもらう必要がある。
そのためには模範的な回答を述べていても仕方がない。
…。
グループでのイニシアティブを執って、発言力を高める。
医療倫理の4原則を真っ向から否定する持論を述べて、着眼点がいいことを見せつけつつ、自分達の班の結論の問題点をしっかりと上げ、兼ね合いを経て、こういった結論を導き出したと大々的にアピールした。
それが功を奏し、あたしたちのグループは順調に評価を受け、煮詰まった議題は遂にあたし達の班の主張と、対立した橘蓮のグループの意見の二つに収束。
それぞれのグループで舵を切っていたあたしと橘蓮は、必然的に討論した。
…結果は惨敗だった。
相手のペースに飲まれないようにと相手の意見を否定していたつもりが、それが墓穴を掘る結果になった。
…偶然じゃない。
アイツは確かにあたしを誘導していた。
冷静になった今なら分かる。
「貴女の言う『正義』とは、『如何なる人間に対しても平等に扱う』という認識であってますか?」
「違います。人によって社会的、経済的理由を加味して医療を提供する側である人間が、利害とは無関係に医療を施すことが正義です」
「そうですか。僕達もその認識です。…ですがそれでは先ほど述べていた『善行(beneficence)』と矛盾しませんか?貴女は先ほど、僕達の『医療を受ける患者には最大の利益が得られるべき』と言う主張に対して…」
記憶が蘇る。
…恥ずかしい。
何であんなに空回りしてしまったんだ。
普段の状態なら、あれほど無様に負けることはなかった。
なのに…
…。
切り替えなければ。
次の期末テストで…
何回挑んでも、あたしはアイツには勝てなかった。
他人に何を言われても、他の全てを犠牲にしても…
うてる手は全て試して、いらないものは全て捨てて。
あと一歩が届かない。
諦めたわけじゃない。
熱が冷めたわけじゃない。
これほど熱心に努めても、あんな生気のない人間に負けている。
…許せない。
アイツが憎いわけじゃない。
嫌いなわけでもない。
…。
ただ。
自分の不甲斐なさに、ただただイラついた。