ギルド
貯金が如実に減っている。
仕送りのほぼ全てを貯金していたのにも関わらず、その残りは心許ない。
…はぁ。
最近は入り用だったからな。
家はそれなりに裕福だが、貯蓄も無尽蔵というわけではない。
親から借りることも怪しまれる。
この間も『電気代が高くなってない?大丈夫?』と探りを入れられた。
過干渉と言うほどではないが、怪我をしてからと言うもの、かけられる電話の頻度は増えている。
…はぁ。
バイトなんて、やろうと思ったこともない、な…
「はぁ?バイト?…お前が?」
喫煙所で煙草を吸う桜井が驚いたように僕に言う。
…そんな驚くことか?
「その前に煙草を止めろよ」
「買い溜めの残りだから。掃除してたら見つけたんだよ」
最近は足の調子も良くなり、なぎに任せきりだった家の片づけなどを手伝ってる途中で見つけたものだ。
そのまま捨てる理由もないし…
…そう言えば、これを吸うのも久しぶりだな。
しばらく吸っていなくても吸いたい衝動には駆られなかった訳だから、わざわざ吸う理由ももうないんだが…
「金に困ってんのか?…貸さないぞ?」
「借りないから。…何か効率のいいバイトとかってないか?」
桜井は顔が広いし、そう言う情報に詳しそうだから世間話として振ってはみたが…
「うちの大学はあんまりバイトしてる奴がいないからなぁ…。…お前に接客業は無理だろ?」
半笑いでこちらを向く。
「そんなことないだろ」
…まぁ、天職ではないだろうが。
「一番いいのは、大学内のアルバイトだろうけど…」
「何だそれ?」
購買部のレジ打ちか?
「お前のとこは医学部だろ?カリキュラムが大方決まってるから、下級生の家庭教師をする制度があんだよ。大学運営だから給料はあんま高くねーけど、勉強の復習にもなるし、何よりヌルい」
あぁ、そう言えばそんなのもあったな。
説明会みたいな会もあったような気がする。
「お前は成績上位者だろ?なら事務部に申請すればすんなり通るんじゃねーか?」
…なかなか魅力的な提案だ。
「そうか。…後で事務部に寄ってみる。助かったよ」
「おぉ。殊勝なことだ」
桜井が俺の手から煙草を一本盗っていった。
「はい。それでは後日、説明会を開きますので土曜日はいつもより30分早く講義室に来てください」
医学部は受講したい人に比べて教師が少ないらしく、僕の申請書はすんなり通った。
給料は一日5千円で、土日に大学の一室が解放されて、そこで下級生への勉強のサポートすればいいらしい。
生徒からの質問がない間は自身の勉強をしていても問題ないようで、それを考えれば薄給なのも頷ける。
これから土日の両方を働くとして、月給は4万から5万と言ったところか。
…まぁ、それ位で十分だろう。
「これから土日も大学に行くことになったんだ。だから休日もご飯は要らないよ」
黙ったまま夕食を頬張るなぎに告げる。
スプーンを咥えるなぎは驚いたように僕を見た。
「…ふっふぉ?」
なぎが口に物をいれたまま喋る。
「多分ね。取り敢えず今週は要らないよ」
なぎが食べ物を飲み込む。
「…じゃあ、アンタはこれから毎日大学に行くの?」
「うん。留守番よろしく」
そう伝えると、なぎは考え込んでしまった。
心なしか嬉しそうにも見える。
「お弁当とかって、いる?」
「愛妻弁当?」
「愛でも妻でもないわ」
「ならいらないよ。平日通り済ませるから」
松本に頭を殴られてから、食べ物の味を感じなくなった。
毎日なぎが作ってくれる料理も、この間食べたフレンチも、まるで粘土でも食べているかのような触感だけが残る。
元々食に関心が高いわけではないから別に構わないが…
「…アンタ、しっかり食べてる?結構痩せたんじゃないの?」
なぎが怪しむように僕を見る。
「食べてるよ。ほら」
空になった食器を見せる。
「…そう」
疑うような視線が収まることはなかった。
医学部棟にある講義室には、この間申請書を受領した事務員がいた。
「橘さんですね。学生証を見せて下さい」
財布にある学生証を提示する。
事務員が紙を見ながら学生証を照らし合わせた。
「はい、時間通りですね。…それではもう一人が来たら説明を始めま…、…来たみたいですね」
後ろのドアが開かれる。
「ごめんなさい!遅れましたか?」
扉から見たことのある女性が出てきた。
「このパートナーシップ制度は、新入生や成績下位者に対して学業面を生徒同士で保管しようと言うものです。成績上位者が下位者に対して勉強を教えることで、学習意欲の増大、学力の相互向上を目指しています」
…硬い言い方だが、要はここで習ってきたことを下級生に教えればいいと言うだけだろう。
「あなた達の先生としての評価は学生がします。教え方が悪かったり、先生としての意欲が見受けられなければ強制退去などの処分が下ることがありますが、前例はほとんどありませんので安心してください」
…怠けるなってことか。
「評価により昇給等はありませんが、学生は先生の評価を基準に学ぶ相手を選ぶので留意してください」
事務員の事務的な説明を二人で聞く。
「以上で説明は終わりです。…何か質問はありませんか?」
事務員が締めくくりの言葉を述べる。
「僕は大丈夫です」
隣に座る女性を見る。
「…何?」
悪態をつかれてしまった。
「いや、質問はありませんかって…」
彼女に向けた目線を事務員に戻す。
「あっ、ああっ。…大丈夫です」
とても説明を聞いていたようには思えないが…
「…そうですか」
事務員も同じことを思っている様だった。
「…お前、何でこんなところにいんの?」
事務員が去ると同時に女性が高圧的に問いかけてきた。
「君、誰?」
見た事はあるから、同学年だとは思うが…
知らない人にそんな態度を取られる筋合いはない。
「あたし、同学年なんだけど?」
「だから?」
この人は同学年を全員憶えているのだろうか?
「討論学習でも同じ班だったんだけど?」
「だから?」
さっさと名乗って欲しいな…
「…」
女性は僕を睨みながら黙る。
「勘違いじゃないかな?…僕は橘蓮。3年生だ」
「だから知ってるって!」
遂には声を荒げだした。
…どうやら勘違いの線も薄いな。
「僕、そんな怒らせるようなことした?僕、あんまり友達がいないから身に覚えがないんだけど…」
「…学年一位で孤高気取りの橘が何でこんなところにいるのかって聞いてんだけど?」
彼女は僕の話に答えることなく詰問する。
「前回のテストは十番代だったよ?…何でそんなに突っかかってくるの?」
初対面ではないのは分かったが、いい加減その態度を取る理由を教えて欲しい。
「…覚えてないの?」
「ごめん。なんのことか分からない」
「討論学習の時!…あたし、お前のせいで大恥かいたんだから」
…。
あぁ。
思い出した。
一年生の時、いくつかの班に分かれて医療倫理を題材にしたディペードをしたな。
その時の人か。
親睦を深める目的もあった討論会で、彼女は自分の倫理観を押し付けるかのように雄弁に語っていた。
その行為の是非は、僕にはどうでもいい事だが…
「あの時は仕方ないでしょ。反対意見がないと討論にならないんだから…」
確か僕が反対派を押し付けられて、最終的には彼女と討論になったのだったか…
「あの時のお前の発言のせいであたし、関わりにくい人だと思われて爪はじきにされたんだけど!」
酷い言いようだな。
最初に人格否定をしてきたのは彼女なのに…
僕がそこを突いて、『医療従事者を目指すのならば少なくとも他者の人格を否定するべきではない』と締めくくったのが相当気に食わなかったらしい。
「そうなったのは君のせいじゃない?…実際君は取っつきにくいし、遅かれ早かれ、君はそうなっていたと思うけど?」
「うるさいっ!」
怒声が響く。
そう言う人の話を聞かない所が原因だと思うが…
「…まぁ、ここで僕達が仲良くしなければいけないことはないんだし、無視してくれればいいよ。僕からは話す理由がないから安心して」
…何で僕はこんなに面倒な奴に絡まれるんだろう?
彼女は藪をつつく趣味でもあるのだろうか?
名前も忘れた女性と距離を取って待機していると、講義室には続々と下級生や学生証を下げた生徒が入って来た。
時刻も定時の10時。
皆、適当に空いている席に座り勉強をし始める。
中には日頃から懇意にしている者同士で集まって、熱心に話しながら勉強をしているグループもあった。
その中心には質問をされたであろう箇所を声高々に説明している人物の姿。
…受け身でいい。
首にかけたホルダーには僕の学生証。
この制度を受けている学生達は、疑問に思った内容があれば適当にホルダーを下げた先生に質問してくるため、僕もここで自己学習に励んでいればいい。
一時間ほど勉強に集中していると、1人の男子学生が話しかけてきた。
「…あのー、すいません。質問してもいいですか?」
「はい。…なんですか?」
顔を上げる。
「ここなんですけど…」
開かれた教科書は生理学のものだった。
「不整脈患者に用いるべき薬物の分類が分からないのですが…」
「あぁ。…不整脈って一口に言っても種類があるのは分かりますよね?」
生徒を見る。
「…はい。発生部位による分類や心拍数による分類とかってやつですよね?」
「そうです。体が電気信号で動いているのは知ってますね?心臓も同じで、体内にある部位が電気的興奮を起こしてそれが心臓に伝わって筋肉が収縮します。これは電線のように決まっているのですが、電気が漏れたり変なつながり方をして通常の伝導が行われない場合があるのです。…回路がショートしたようなものだと考えると分かりやすいですか?」
「…はい」
生徒は必死に教科書を見ながら頷く。
「あぁ、ここに書いてありますね」
説明したところを指差す。
「つまり…」
「…どうですか?覚えられそうですか?」
一通り説明した後に生徒を見る。
「…何とか」
結局、心不全から狭心症まで、循環器疾患のほとんどを話してしまった。
彼は僕の言った内容を教科書に書き込んでいる。
「どこか分かりづらいところがありましたか?」
「すみません。これって何て読むんでしたっけ?」
「間欠性跛行ですよ。歩いたりすることで痺れや痛みが生じますが、休憩することで回復する状態のことです。悪化すると安静時などにも症状が出ます。そうなるとⅢ度に分類されます」
聞き取れなかった所を一通り補足していると、時刻は12時を回っていた。
周りは立ち上がり始め、昼食休憩をしだしている。
「すみません。先生の休憩を奪ってしまって…」
「僕は昼は取らないので構いませんよ」
辺りを見渡すと、僕に突っかかっていた彼女が一人で食事を摂っていた。
…。
先ほど、彼女自身が言っていた事は本当だったらしい。
まぁ、話を聞く限りただの自業自得だし、別に独りでいることは不幸なことでもない。
…僕が気にすることではないだろう。
「出来ました!」
教科書に書き込み終わった学生が徐に立ち上がる。
「…先生、午後も教えて貰ってもいいですか?」
教科書を閉じた彼が問う。
「はい。それが仕事ですから」
当たり前のことを聞く奴だな。
今日のバイトが終わり、駐車場へ向かう。
時刻は18時15分。
結局彼は最後まで僕と勉強していた。
「先生は明日もいますか?」
彼の言葉を思い出す。
あれだけ悪意のない表情を向けられるのは久しぶりかもしれない。
少し気味は悪いが、悪い気はしなかった。
…丸くなった、のか?
昔は何も思わなかっただろうし、煩わしくすら思っていたかもしれない。
やはり仕事と言う精神状態でいることが大きいのだろうか…
…それにしても。
結局、悪態をついた彼女はずっと独りだった。
あの状態が続いてもバイトは続けられるのだろうか?
冷静に見ても雇い主である大学や生徒側からしたら不必要な人材で、無駄な出費だ。
…そこに居させる理由がない。
見回りに来た事務員もどうやら目を付けていたようだし…
…まぁ。
時間が解決するだろう。
僕が頭を悩ませることではない。
…。
楽そうで羨ましい。
機会があれば、その状況になれるコツでも教えて貰おう。