ばかは死なないとさ
案内された店は高級そうなホテルのレストランだった。
「…高そうですね」
助手席に座る椎名さんに尋ねる。
「安心して。ここは私がもつから」
優しく微笑む彼女に、さらに不安感が募った。
何もなければこんなところになど来ないのだから…
食前酒のワインが椎名さんの前に届き、二人で乾杯をする。
見るからに場違いな空間に委縮してしまった。
椎名さんもこんな雰囲気に慣れていないだろうに…
取り繕うように振る舞う仕草は、椎名さんの幼い容姿も相まって微笑ましいものだった。
最初のワインも僕の前に置かれたしな…
「…今日は蓮君にお礼をしたかったの」
ワインを口に含んで一拍置くと、椎名さんが話し出した。
「電話でも聞きましたが…。盛大過ぎませんか?研究のお手伝いをしただけなのに…」
「それだけじゃないわ」
椎名さんが僕を見つめる。
少し顔が赤い。
…まだ一口しか飲んでないのに。
「松本君の時も。…いいえ。思い返せばもっと前からね…」
…前?
「私は誤解していたわ。…高校生の時、蓮君を冷たい人だと決めつけて自分勝手に遠ざけていたの」
椎名さんがワイングラスの口を指でなぞった。
「…別に誤解ではないですよ。僕はそれなりに冷たいです」
それは自覚している。
「ふふっ。…そうね。それは私も同意見」
また一口、ワインを含む。
「私が誤解していたのはそこではないの。…考えてみれば当たり前よね。人には誰だって欠点はあるもの。…ただ、蓮君にはそんなところないって勘違いしてたわ」
配膳された前菜には目もくれずに続ける。
「買い被り過ぎですよ」
「そうかも。…人を形成するものが時間だとするのならば、ほぼ同じ時間を生きる私と蓮君とに大した差なんてない。良く見える人はそれだけ悪いところをひた隠しにしてるだろうし、悪く見える人も私の視野が狭いだけ。…最近はあなたのおかげでそう思えるようになったの」
椎名さんは晴れやか顔で僕に言う。
「…立派ですね。僕はとてもそんな風には思えません」
人間の価値は等価ではない。
人の価値とは自分にどれだけ貢献できるかに依存する。
例えその道の権威だとしても、僕が生きる上で不要だと考えているものを極めているような人間には意味がないと思う。
なんの役にも立たないし、むしろ邪魔だ。
「蓮君はそうかもね。人の意見なんて意味がないの。なんでも自分で出来るから。…でも私は違う。多分、ほとんど人間がそうよ」
…要領を得ないな。
何が言いたいんだろう?
「私はこれからも、あなたに助けて欲しいと思っているの。…蓮君は私の助けなんていらない?」
そう言う椎名さんの顔には見覚えがあった。
高校で付き合わないかと切り出された時。
あの時は二つ返事で答えたが…
…。
「…すみません」
椎名さんの申し出を断る。
…確かに椎名さんの提案は魅力的だ。
彼女から学べることも多いし、頭だって僕よりずっと冴えている。
…しかし。
椎名さんの顔を見る。
彼女は僕が思うよりもずっと自然体だった。
「…理由を聞いても?」
声は僅かに上ずっている。
「…お気持ちは嬉しいです」
「嘘はつかないで」
僕の言葉を椎名さんは見透かすように言った。
「私がこれだけ正直に話しているの。…取り繕った言葉を使うなんて卑怯じゃない」
それもそうだが…
「大丈夫。…大丈夫だから」
椎名さんは自分に言い聞かせるように繰り返した。
…そうだ。
きっとそれが最大限の誠意なのだろう。
…。
「椎名さんが尊敬に値する人間であると言ったのは本心です。ですが、それが僕にとって理想と言う訳ではありません。…椎名さんは僕に対して的確な意見を言えますか?」
彼女を見つめる。
「…きっと言えてないのでしょう?努力するわ」
「無理ですよ。結局なんだかんだ言って、貴女では僕を許容するか拗ねるかしか出来ません。…身に覚えはありませんか?」
パートナーとは相手を是正する存在でなければ意味がない。
…その相手として、椎名さんは不適当だ。
「…今から改めるわ」
椎名さんは俯いて答えた。
…はぁ。
「それですよ。これは僕の持論で椎名さんの意見じゃない。椎名さんが今までそれを信条にしなかったということは、それに反する主張があるからではないのですか?なぜそれを僕に伝えようとしないのです?僕の主張より素晴らしい可能性が十分あるじゃないですか」
僕に意見する人間は少ない。
その大半は面倒であったり、確固とした意見がなかったりが大半だが、椎名さんは違う。
…きっと僕に嫌われたくないからだろう。
そんなお為ごかしは他人に使うのもので、親密な相手には用いるものじゃない。
それなら他人で十分補完できる。
「そうだけど…」
「僕の全てを肯定する人間は、僕の全てを否定する人間と同程度の価値しかありません。使用人としては価値がありますが、そのような扱いは心外でしょう?…役に立たないんですよ」
…。
全て本心だ。
こんなに吐露したのは初めてかもしれない。
自分勝手な主張であることは十分理解しているが、そう望んだのも椎名さんで、そうであったのも椎名さんだ。
感情的にわめき散らかすこともしないだろう。
「…人を否定するのって難しいわ」
椎名さんがありきたりな一般論を口にした。
「僕は今、椎名さんを否定しています。これが正しい保証なんてないのに、です。正解が分からなければ口にしないなんて卑怯だと思いませんか?二人の間に問題があって、それを解決しなければならないのに、相手は手伝ってくれない。…そんな人が必要だと思えますか?僕はお世辞以外ではとても口にできません。だって、それなら僕一人で十分ですし、そもそも一人なら問題だってないのですから」
冷静に口に出しているつもりだが、これでは責めていると思われても仕方がないな。
…その誤解が嫌で、今まで口にしなかったのに。
「私は不合格ってことなのかしらね…」
長い沈黙の後、椎名さんが小さく呟いた。
「…傲慢な言葉ですが、少なくとも今はそう言うことなのでしょうね…」
メインディッシュが届く前から、重い空気になってしまう。
椎名さんが望んだことだし、僕も想定の内であったこととは言え、この状況は挨拶に困るな…
…今日はとんだ厄日だ。
わざわざ仲違いをするために集まったようなものなのだから…
涙を拭く彼女の姿に、ただ申し訳なさが残った。
…椎名さんには恩がある。
そんな相手を傷付けているのだから…
椎名さんも落ち着いたようで、顔を上げて僕を見上げた。
「…あなた、きっと一生孤独ね」
少し腫れた目に小さな笑顔でそう言う。
その言葉は、出会って初めて、僕に向けられた否定の言葉だった。
…。
「ははっ。…そうかもしれませんね」
思いがけない言葉に笑ってしまう。
「妥協も必要よ」
その言い分も理解できる。
…だが。
納得は出来ない。
「それはどうしても欲しいものに手が届かない場合でしょう?僕には縁が遠いものです」
「不要だとは言わないの?」
「はい。…孤独は辛いですから」
「…えぇ。そうね…」
…。
沈黙が続く。
大分前に配膳されていた前菜はもう、湯気が立っていなかった。