四 東京
占領下日本、東京都麹町区、首相公邸
宇垣が入った時、洋間の中は鬱屈とした雰囲気だった。スコッチは切れて国産となった。集まった閣僚らは憮然とした表情で、不味そうに飲んでいる。宇垣内閣はこれまで、国務省が六月に作成した日本人改造計画書をもとに準備してきた。占領軍の政策を分析し、先んじて改革することで内閣の信頼を得る。日本が非軍国化と民主化を自ら実行できるとなれば、占領期間の短縮を期待できるかもしれない。いや、これしかなかった。
非軍国化の手始めとして、まずは大東亜省と軍需省を廃止する。陸軍省と海軍省は規模を大きく縮小したうえで第一復員省、第二復員省と改称する。話を聞いた陸軍大臣は泣き出しそうな顔で許しを乞うた。海軍大臣は、陸軍とは違う名称の解員省にしてくれと言う。業を煮やして、ポツダム宣言通りの家庭復帰省にするぞと怒鳴りつけた。軍需省がなくなったので商工省を復活し、農商省も農林省に戻る。
ほかにも、大日本産業報国会や大日本翼賛会など、大日本や帝国がつく公設、公営の組織や団体には解散を指示した。民間会社や団体にも多かったが、これも大や帝を外すような改称を勧めている。学校教育では軍事教練を廃止し、行進や整列もそれぞれ歩行前進と整理行列に直した。外国では行進や整列は軍隊教育そのものであり、それだけできれば兵隊としてあつかわれる。
文部省は教科書を精査し、大日本や帝国はもとより、兵隊、軍、報国、忠義などを、文字だけでなく図絵も含めて、墨で塗り潰すように全学校へ通達した。御真影は校長の自宅で保管することになる。さらに、教室内に掲示する習字は『民主主義』と『自由』が必須となり、東京都下と神奈川県下の小学校には優先的に半紙が配給された。
世間からも新聞からも不評で非難囂々だった。米軍の犬と言われても宇垣首相は動じない。しかし、最初の会談で、連合国最高司令官からの評価はなかった。代わりに五項目の民主化を指令された。女性解放、労働者団結、教育民主化、秘密警察廃止、経済民主化である。宇垣は一言も反論せず、恐懼して受けた。強大な権力に恐怖し、怯えながら命令を拝受する敗戦国の代表を演じ切った。
その日の閣議は荒れた。一四年前に衆議院を通過した婦人参政権は貴族院の反対で廃案となったが、内閣で復活を決定してある。大日本産業報国会は解散し、全国労働組合同盟と日本労働総同盟が復活した。産業報国同盟も解散して、各工場ごとの労働組合に戻った。特別高等警察も廃止してある。これだけやったと自負していた閣僚らは大いに不満だった。
宇垣首相とマッカーサー最高司令官の会談が終わって間もなく、米国国務省により『降伏後に於ける米国初期の対日方針』が公表された。その内容は『日本人改造計画書』とはかなり違う。外務省はただちに分析に入った。その結果を重光外相が報告する。
「コード番号の末尾が追加されています。改訂版です」
「ひょっとして米国政府内の対立か」
占領軍は四国に英軍が進駐したほかは米軍だけであり、今のところ連合軍同士の不和は望めない。ソ連が来れば紛糾するだろうが、日本はソ連に降伏したつもりはないから、それはそれで面白くなかった。米国内の対立が大きくなれば、一貫した占領に乱れが生じて、過酷な政策も和らぐかも知れない。
「国務・陸軍・海軍の各省の間ではなく、国務省内と思われます」
「どういうことだろう」
「改造計画原案は、間違いなくグルー国務次官とスタッフが作成したものです。ポツダム宣言草稿もそうでした。親日派がいるのです」
嬉しそうに説明する重光外相の言葉に、鬱々とした面々の顔にも朱が差してくる。ジョセフ・グルーは開戦まで十年間も駐日大使だったから全員が見知っていた。前の鈴木内閣は黙殺してしまったが、ポツダム宣言は日本にとって絶好の機会だった。国務次官なら米国の外交政策を左右する立場だ。期待できるのではないか。
「しかし、それならどうして苛烈に改訂されているのですか」
内務大臣の山崎巌が指摘した。顔は赤いが表情は硬い。
「残念なことに国務長官が交代しました。グルー次官は辞職されたようです。彼の右腕のドーマン極東課長も」
山崎だけでなく全員が唖然とした。親日派は省内政争に敗れたらしい。今の国務省は、対日強硬派のバーンズ長官と親中派のヴィンセント極東局長が牛耳っているようだ。
「外務省の情報収集力は優秀ですな」
山崎は語気鋭く言った。部屋の中は再び陰鬱となった。その中で、さっきから腕を組んで考え込んでいた小畑国務大臣が顔を上げる。
「外務大臣、親中派とは反日派なのですか」
重光が振り向く。
「チャイナハンズと呼ばれています。精確には親中共です」
「日本か中国かでいうと、中国。国民党か中国共産党かでは、中共に付く。そうですね」
「はい。日中関係はだいぶ改善されたというのに、残念です」
宇垣が主導していた重慶工作は終戦直前に成功し、日本は中華民国と良好な関係を構築しつつあった。現地の軍官民は全力で中華民国の進駐と接収に協力している。東北の権益も侵攻してきたソ連軍から守り抜いた。日本人の居住は許可され、義勇日本兵は中国兵と肩を並べて中共掃討にあたっている。これを対米英関係の改善へと繋げたいのだが、なかなかそうはいかない。
「中国ロビーは使えないのですか」
小畑はいつになく執拗だが、重光は肩を落として言う。
「中立国での外交権も停止されたのです」
戦争中でも、中立国のスイス、スウェーデン、ポルトガル、バチカン、アフガニスタン、エールの各国とは外交・領事関係が維持されている。ポツダム宣言受諾後も活動を続けていた。ところが、米国は中立国の日本公館に対して財産・文書の引き渡しを要求して来た。それは宣言にも降伏文書にも規定されていないと、外務省は抗議した。最初は抗議自体が受け付けられなかったが、外務省は粘り強く折衝を続けた。
ようやく、『日本の外交活動は連合国軍の制限下に置かれる』との回答を得た。そんなことは百も承知だ。重光は、在中立国外交館に対して財産・文書の封印を命じると、次の抗議に入った。外交関係は相互主義であり、外交館の設置や外交使節の派遣は一方的に行うことはできない。米国の要求は日本の在中立国外交館の閉鎖であり、これは中立国の在日本外交館の閉鎖を意味する。
さすがにGHQは驚いたようだ。民政局長自ら、活動停止と公館閉鎖は必ずしも同一ではないと答える。重光は、文書で欲しいと応じた。これまで友好を保ってきた国との外交を一方的に停止するには、それ相応の理由が必要だからだ。
「そこまで拗れて、いや、進展していたのですか」
横から山崎が口を出す。なかなか痛快な切り返しではないか。内相は外務省の粘り腰に感心したのだ。
「それでどうなります」
重光は冷静だった。
「おそらくは、『この命令はGHQの本来機能となんら矛盾しない』とかなんとかでしょう」
「ははぁ、正面からの法律闘争は回避するのですな」
「むこうにはうちに付き合う義理はない訳でして。あ」
突如、怒号と喊声が外から沸いて、密議は中断された。ドアが開けられる。
「御前、たいへんです。官邸の外に示威行動です」
官邸の奥にある公邸まで喧噪が響くとは、相当の人数が集まっているのだろう。
「デモ隊か、ずいぶん遅いな」
宇垣の呟きに山崎内相が懐中時計を見る。
「時間通りです」
「内務大臣、だいぶ日が短くなった。暗いのはよくない」
「はっ、GHQの退庁時間に合わせたのですが、次からは朝にします」
「そうしてくれ」
それから宇垣は小畑に向き直った。
「小畑大臣、外務省は時間を稼いでいる。忘れては困る」
「あ、失念してました。いや、つい」
小畑は恐縮する。
「原文を比較すると、表現が簡明に、かつ具体的になりましたね」
小畑の言葉に、重光は頷く。
「はい。その結果、五割ほど大部になっています」
「この次は改訂ではなく軍命令、作戦指令書になると思う」
「これ以上は時間は稼げませんか」
「はい。そして指令なら公開はされない」
重光は宇垣を見る。
「うむ。閉鎖としてくれ」
これで在外公館はすべて業務停止となる。残った外務省の対外活動は国内にある米英軍を相手とするものだ。米軍の要求により、連絡の窓口として外務省の下に終戦処理会議と終戦連絡事務局が設けられた。GHQが東京に進駐すると、重光は占領連絡事務局と改称、改組した。事象としての終戦は終了し、占領はまだ続くからだ。
「はい。それから首相、これは閣議後に占領連絡事務局に・・・」
怒号と喊声がひと際高くなり、重光の言葉は聞き取れなかった。
「ずいぶん威勢が上がっていますね」
岩田司法大臣が感心したように言うと、内相が渋い顔で説明する。
「近頃は主義者や朝鮮人が混ざるようになりまして」
「ふうん。すると、今日はGHQ万歳のデモですか」
重光が立ち上がって、外に負けないように大声を出す。
「その朝鮮人に関してです。朝鮮を占領している英軍から要請があった模様です!」
全員が重光を注目する。
「モントゴメリー司令官が日本居住の朝鮮人を全員送還・・・」
部屋中に歓声が沸いて、今度も重光は言い終えることができなかった。
「なんだって!」
「ベリグッドニュースじゃありませんか!」
「山崎さん、好かったですねぇ」
「うん、うん」
岩田が立ち上がり、両手を振って叫ぶ。
「勲章ものです、首相」
呼ばれた宇垣も立ち上がり、グラスを掲げて呼応する。
「うむ。モントゴメリー元帥に勲一等だ!旭日桐花大綬章だ!」
「乾杯だ、乾杯!」
山崎はグラスを飲み干すと立ち上がった。
「善は急げです。わたしは本省に戻りますが、みなさんは遠慮はいりません。久しぶりのうまい酒です。がんがん飲んでください。総理、失礼します」
そう言って、山崎内務大臣は一礼すると出て行った。岩田司法大臣も後に続く。
進駐開始の日、厚木飛行場では憲兵隊と警官隊が出迎えた。赤絨毯での巡閲は拒否されたが、かまわず警察儀仗隊は礼砲として小銃を撃った。サイレンを鳴らす消防車の先導で移動する横浜までの沿道には着剣した完全武装の日本軍兵士が並び、進駐する建物も憲兵隊が取り囲んでいた。米兵の乱暴がなかったのはその日だけだ。占領軍は陸海軍の解体と復員を急ぐように指令した。
そして、憲兵がいなくなり、沿岸や水上の警備もなくなった。町内会の青年団や在郷軍人会も、会社や工場で持っていた自警組織も、国民義勇隊に連なるものとされ、解散が命じられた。それらの影響は大きい。秩序は乱れ、犯罪が増加した。大きな騒動や犯罪の大半が米兵によるものだ。国内は騒然とし、民心は荒んでいる。旧来の警察だけで一手に引き受けるというのは無理があった。しかし、内務省の警察増強、警官増員案は民政局に拒否された。水上警察もだめだった。
一方で、朝鮮人による警察署襲撃事件が各地で起きていた。摘発した警察官を襲うため、あるいは逮捕された仲間を奪還するためだった。それが全員いなくなるのは、内務省と司法省にとって大いなる朗報だ。是非とも完遂させなければならないが、大人しく送還されるかどうかは予断できない。警戒と警備は必須だろう。少ない警官を集中配備するには綿密な計画が必要だった。
(そう、重要なのは綿密な計画だ)
宇垣は思った。GHQに迎合するのは、それがポツダム宣言や降伏の条件だからだけではない。軍国主義をやめるのは当然だが、必ずしもGHQの指令がすべて正しいとは限らない。日本人の改造と日本の弱体化を実現するには国家の根本を破壊すれば足りるのだ。間接統治といって政府機構が保全されるわけでもない。占領が終わった後を見据えた計画が必要だった。指令の内容と関連を精査し、時には抵抗しなければならない。
すでに、組閣の時から閣僚候補には告げてあった。売国奴や卑怯者と非難されるだろう、戦時中の内閣より不遇かもしれない。占領軍の指令は過酷で非情でも従うしかない。厭われれば罷免、あるいは戦争犯罪者と指名されることもある。政府は抗うことはできないし、守ってもやれない。閣僚一人一人の去就より内閣の継続が優先される。いつ排除されてもいいように次の候補を考えておくようにと。
戦争犯罪者として逮捕されたのは開戦内閣の閣僚と重臣らだが、この先、開戦前後の要人にまで拡大されると思っておくべきだ。宇垣内閣にも関係する者は多い。重光は外務大臣であったし、山崎は内務次官だった。重光は、次は吉田と思っているようだ。吉田茂は米国には受けがいいらしいが、一貫して対中強硬派だった。今、中国を敵に回すわけにはいかない。そして自分、宇垣自身だ。GHQの不興を買って解職される可能性はやはりある。
宇垣は、小畑大将と田中少将が自分を見ているのに気づいた。笑って立ち上がり、執事を呼んだ。部屋の全員に聞こえる声で申しつける。
「官邸にある酒をここへ運ぶように」
「かしこまりました、御前」