二 横浜
占領下日本、神奈川県横浜市中区、横浜税関
部屋ではカシャカシャ、チーンと、タイプライターの音が響いていた。決してリズミカルでも喧噪でもない。タイプを専門としているわけではないし、それに今日は仕事も少なかった。日本側の窓口が、それまでの横浜終戦連絡委員会から横浜終戦連絡事務局に改編された。混乱して、こちらに出す書類が滞留しているのだろう。だが、提出を督促するのはうちの仕事ではない。
米太平洋陸軍総司令官総司令部参謀部第2部に属する通訳翻訳課には、ただの通訳兵はいない。全員が情報教育を受けているから、諜報や防諜、尋問や暗号解読の任務も遂行できた。その場合は、任務を遂行する別の課に出向する。通訳派遣や翻訳作業を行うだけではなく、情報員のプールでもあった。だから、次の任務を待つベテランもいるし、本国の軍事語学学校を出たばかりの新品もまずここに配属された。
今、配属されて間もない要員が二人いる。カタ、カタと、十本の指でゆっくり打っているカワノ軍曹だ。欧州戦線の第442連隊戦闘団にいたが、日本語が流暢だったので陸軍情報部に引き抜かれた。太平洋戦線に転属して、硫黄島の戦場にもいた。タイプライターは不慣れだ。もう一人のナカミネ伍長は人差し指二本だけでカチャチャチャと、そこそこの速さで打っている。沖縄戦が初陣だった。
タシロ中尉は、各員の勤務を確かめると、座った椅子を回した。通訳翻訳課が居る横浜税関新港倉庫は、赤レンガ造りでエレベーターもある立派な建物だったが、中からの景色はよくない。正面の山手の丘陵や左手の東京湾を見てる分にはそこそこだが、右を見ると無残な空襲の跡が目に入る。焼け跡だけで何もない。コンクリートのビルがまばらに残っているが、ほとんどが接収されて宿舎や売店や将校クラブになっていた。
タシロは椅子を戻して、煙草を咥える。PXで売っている国産ではなく、伊勢佐木町の露店で買った日本のもので、箱には朝日とあった。絵を見ると木々や朝霧を透して見る太陽で、たしかにモーニングサンだ。放射光を強調したライジングサンや、周囲も明るいサンライズではない。火を点ける。まあ煙草の味はするが、やはり敷島にすべきだった。
米軍御用達は緑のラッキーストライクで、戦場では全員に給与される。兵士にふさわしい名前だ。ラッキーは、日本兵がよく言うまぐれ当たりではなく、狙い通りの大当たりおめでとうである。日本なら箱には矢と的が描かれるのではないか。そうだ、土産は煙草の紙箱だ。全部集めてやる。タシロは煙草を揉み消すと作業に戻る。
カワノ軍曹はファイルを開いた。横浜警察署の捜査調書で、先週起きた殺人事件だ。調書は現場の状況から始まっていた。その電話交換所、横浜長者町交換局の玄関には警衛の死体が一体、中の受付所には局長と受付主任の死体があった。死因は撲殺である。三人の拳銃は五発全弾が撃たれてあって空。現場には乱闘の跡があり、三丁の拳銃は死体から離れたところにあった。交換室は無人だった。
そして、綺麗に片づけられた交換手休憩室に若い女性の遺体が二十体、定員十名の交換局はちょうど交替時間だった。死因はニコチン等の過剰摂取による中毒死。各自が持っていた小瓶の中身であるらしい。全員が化粧していたこと、揃えた膝を縛っていたこと等から覚悟の集団自決と断定してある。死後に乱暴されていた。
現場状況の次には、出動の経過と周辺捜査の結果があり、最後が推察された全体像だった。長者町交換局は小規模で、中央電話局や市外電話局などから離れている。分局に欠員が生じた場合は中央電話局から派遣された。数日前に、数人の交換手が化粧をして中央電話局に出勤している。
一人の大男がそこに若い女性が勤めていることを偶然に知った。他の大男たちと見張って、交替時には数十人もいることを確かめる。そして事件当日、大男たちはトラック三台に分乗して交換局を襲撃した。警衛は急報を入れた後、威嚇射撃を行って制止しようとする。自分の運命を知った交換手たちは最後の化粧をして毒を呷った。
カワノ軍曹は、大男が何を意味するかがわかった。若い女性が化粧を禁じられていること、小瓶を持つ理由もだ。なんてことだ。わが軍の兵たちは白昼堂々と女性を襲っている。カワノはそっと室内を見渡す。全員、自分の作業に没頭しているようだ。タシロ中尉と目が合った。にっこりと笑って頷く。どうやら珍しいことではないらしい。神様。
調書の後に続きがあった。新聞の切り抜きだ。事件の経緯を簡単に記述している。え、これだけか。
『横浜市の長者町交換局で大男の集団に職場を囲まれ、二十人の交換手が自決。化粧した顔を見られたことが原因』
切り抜きの次には、横浜電話局の用箋があった。二度読み返したが理解できない。タイプの紙を交換するが、興奮して破いてしまう。目を閉じて深呼吸をする。書かれた日本語をただ訳す。
『連合国軍最高司令部からの忠告により、責任者の国内交換課長を戒告、二週間の停職、主任に降格と処す。以上』
カワノはタイプした用紙とファイルを持って、タシロ中尉の机の前に立つ。中尉が顔を上げた。
「サー、異常です」
「そうか、軍曹。GSに移りたいか、それともMPか。転属願を出してくれ、MPは無理だがね。まさか、弓矢ができるのか」
ガバメントセクションは行政を担当する。警察業務も含むだろう。しかし、敗戦国の警察に占領軍の兵士を取り締まる権限はない。あたりまえだ。できるのはMPだ。すなわち、カワノにはなす術がなく、しかも配属されたばかりだ。
「ノーサー。サー、我が軍の装備に弓矢はありません」
その言葉に、部屋中がどっと沸いた。え、しくじったか。
「軍曹、最後まで終わっていないようだな」
「サー、イエスサー」
カワノは赤面して自分の机に戻った。最後に小さい切り抜きがあった。
『関内に建設中の占領軍兵舎に二人の暴漢が侵入。四人の米兵を射殺した後、割腹して果てた。凶器は弓矢。残された奉書には「交換局事件の犯人を誅す、三番隊」と書かれてあった』
殺人とはこの四人の兵隊のことだった。カワノはため息をついて、残りのファイルを見る。野下山公園、平沼病院、いずれも大男たちの暴行事件だ。最後は、警察署襲撃放火事件だった。どうやら、横浜の治安は相当に悪いらしい。
ナカミネ伍長のファイルも調書のようだったが、警察のものではない。どうやら、特定人物の行動記録らしい。ナカミネは日付の順に訳す。最初は、ラジオトーキョーの社員の聴取録だった。
『朝、突然二人の米国人記者がやって来ました。トーキョーローズはどこにいると尋ねられましたが、なんのことかわからない。それからやり取りがあって、番組ゼロアワーのアンのことだとわかりました。軍服を来た通訳と一緒でした。アンは五、六人が交替でやっていたと答えると、うそつきと言われました。だから答えるのをやめました。それだけです。罪になるのですか』
『ええ、二人の記者はすごい剣幕でした。社員名簿を出して、英語が話せる女性に印をつけました。警察の方が一緒で、そうするように言われたのです。持ち帰ろうとしたので、それは困ると言いました。その警察の人が写しました。それから凄い勢いで出て行きました』
コスモポリタン紙のブランディ記者とハースト誌のグラント記者は東京ローズを捜しているらしかったが、捜索は難航しているようだ。独占インタビューだったらスクープになるだろうと、ナカミネは思う。
『はい。その二人の記者が来ました。鍵を壊して勝手に入って、空き部屋とわかると、私を取り囲みました。それで言ってやりました。須藤さんは放送局を首になって出て行った。あんたたち占領軍が来るから、若い女性はみんな解雇になったんだよと』
次もやはり、記者らの取材行動だった。相手は、元首相の近衛文麿だ。
『突然でした。公は、ずっと内外の取材は快諾されてますから、ちゃんと連絡されたのなら会われたはずです。いきなり会わせろでは話になりませんから、追い返しました。その後に電話があって、十人ほどの記者団の取材に応じられました。その二人はいませんでした』
二人はあくまで独占スクープを狙ったらしく、近衛に断られた後は東條邸に回ったようだ。東條は取材に応じているが、やはり無礼があったらしく、拳銃を突きつけられて追い出されている。近衛と東條はその日の夕方、MPに逮捕令状を執行された。二人とも大人しく連行されているから、記者の態度はよほど悪かったのだろう。
最後は刑務所内の囚人に対しての取材だった。この日は参謀部第2部の将校が同行している。しかし、目的の人物はいなかったらしい。
『徳田を名指しで来られました。GHQの将校さんたちです。四人とも軍服でしたよ。通訳はいませんでした。ノーマン少佐は日本語が達者ですね。戦前は日本に住んでいたそうです。はい、刑は執行されて、もうこの世にはいないと答えました。驚いたというより不思議そうな顔でした。それから手帳を見ながら、長井と志賀を指名された。所長に許可を得て、今いる横浜の警察署を教えました』
長井と志賀の尋問調書があった。二人は政治犯として収監されていたが、別の刑事犯罪が発覚して取り調べを受けているらしい。
午後、タシロ中尉は課長室に行ってブラウン少佐に作業の結果を報告する。宇垣首相の身辺調査だった。経歴評価から始まったが、なにしろ陸軍大将で陸軍大臣の後に朝鮮総督である。帝国主義、植民地主義の権化であり、敗戦日本を民主化するのにふさわしいわけがない。しかし、課長の判断は違った。
「トージョーと反目していたんだろう。コノエやヨシダのグループに近い」
「はい。倒閣運動だけではなく、暗殺まで」
「外相時の実績を見ても、ファシズムに抵抗した平和主義者じゃないのかな」
「はあ。しかし、ヨハンセングループの近衛は逮捕されましたが」
「あれは違う。華族筆頭だ。プリンス逮捕のインパクトは大きい」
「そっちの理由ですか」
「銃声も流血もなく、だ。忘れては困るな」
「イエスサー。次は閣僚ですね」
「ちょっと待ってくれ。部長が軍人を調査してくれと言ってきた。これがリストだ」
ざっと見る。二枚あって、一枚目は将官、二枚目は佐官だった。降伏時の階級と所属もあるが、タシロの頭には浮かぶものがない。なんだろう。
「宇垣首相は有能で陸海軍の解体も速い。彼らはまもなく職を失う。それで雇おうと言われる」
タシロは目を瞬かせる。ブラウン少佐は面白そうに見ていたが、やがて言う。
「聞いてくれ、部長の考えはこうだ」
日本占領が始まってから一ヶ月が経ち、上陸した連合軍は四十万人を超えた。各地への進駐と占領は順調であり、銃声も流血もなかった。東京への進駐に伴い、連合国最高司令官の宿舎も赤坂の米国大使館となって、その総司令部も設立する。日本占領は米国主導だから、米太平洋陸軍総司令部が母体となる。占領方式は間接統治となったから、直接軍政で準備していた参謀部第5部を解体して再編成する。
まず経済科学局と民間情報教育局の二つが設置された。今、民政局など七局を開設中であり、それに伴っておよそ千名の軍事語学要員も再配置となる。さらに千名近くが増員されることになっているが十分ではない。なにしろ、日本語という特異な言語を使用する八千万人を統治するのだ。部長は、日本人を有効に活用したいらしい。
「承知しました。書類選考後、インタビューして評価します」
「OK。ケン、コーヒーはどうだ」
ブラウン少佐は従兵を呼んだ。
「いただくよ、ジョン」
カルフォルニアに生まれたタシロは、真珠湾の時、すでに兵隊だった。所属の第53歩兵連隊はサンフランシスコの警備に出動した。ジョー・ディマジオのレストランの前で立哨していたタシロは、ジャップが上陸したと通報された。志願して陸軍情報局の語学学校に入校した。NISEIが全員日本語を話せるわけではないが、タシロは八歳から五年間を日本で過ごしたKIBEIだった。
成績優秀者十人の一人として教官となった。一年近く教官をやった後、卒業生と共にテキサスの第124騎兵連隊に配属された。連隊はインドからビルマに入って日本軍と戦った。ミチナーが落ちてインドと中国との連絡路が再開されると、タシロはインドに呼び戻され、ニューデリーで別の任務についた。
ジョンも成績優秀者の一人で、白人のクラスの教官となった。やはりチームを率いて、ずっと太平洋の戦場にいたらしい。語学学校で日本語教育を受けたものはざっと六千人で、そのうち日系二世は五千人だ。つまり、日本語を理解する白人兵も千人いて、女性兵士もいる。日本で暮らしたことのある米国人は多く、ジョンは八年いた。
「部長が宇垣首相との会談に同席したんだが、ノーマン少佐の通訳が気にくわないらしい。次は君だ」
タシロが驚くと、ブラウン少佐は片目を瞑ってみせた。
伊勢佐木町は、夕方から大勢の兵隊たちで賑わっていた。今、横浜を占領する連合国軍は十万人らしい。あちこちに英語の看板や垂れ幕があって、映画館やレストラン、バザール、PX、将校クラブの所在を示していた。日本人が開いたバーや料理屋もある。ナカミネ伍長はカワノ軍曹を案内して、YOKOHAMA PXと縦に書かれた看板の六階建てのビルに入る。NISEIが行くレストランは決まっているらしい。
二人が適当なテーブルに座ると、少年が飛んで来た。まさにボーイだ。飲み物は注文通りに来たが、お釣りは戻ってこない。カワノはすぐに酔っぱらった。
「日本兵は強かった。そうだろう、ナカミネ」
「ああ」
「ドイツ兵も勇敢で強かったが、それ以上だ。武器がなくても戦う」
カワノは三月の戦闘終結宣言の後も、掃討作戦の部隊に同行して投降を呼びかけていたらしい。ナカミネも同じだった。
「442は勲章を一万個もらったが、硫黄島の日本兵は全員が勲章に値する」
「彼らに勝利した海兵隊にはもっと勲章をあげないとな」
カワノが睨みつけてきた。
「その勇敢な兵隊の妻や妹を凌辱しているんだぞ。なんてこった」
ナカミネが黙ると、カワノはしばらく考えていた。
「あ、お前は沖縄にいたのか」
カワノは理解したようだ。硫黄島と違って、沖縄には一般住民がいた。ほとんどが女子供と老人だった。ナカミネは知っているのだ。
「そうか、オキナワにいた、んだな」
カワノはテーブルに突っ伏した。
眠りこけたカワノを見つめながら、ナカミネは呟く。
「守りに入った日本兵は強いさ。思わぬ反撃もある」