風景?
あれ、風景なのか?
ここから見える風景はオリジナルなのか?
この間、私は記憶と思い出で議論したばかりだ。
私は、記憶の必要性を感じない。記憶は仕事のような気がしてならない。つまり、害だ。
だけど、思い出はちがう。アニメを見た思い出、はじめてできた逆上がり、学校という建物を見たときの胸の鼓動…色々、思い出がある。思い出は思い出に繋がっている気がしてならない。
中学のとき、友人が多かった気がした。体育、給食、休み時間…友人と共有することがあった。修学旅行や林間学校…行事には積極的に参加をしたと思う。思い出は多かったと思う。
このころから、私は私と会話していた気がする。
次に何をするか、次の問題当てられたらどうしようなど私が私に質問していた気がする。
私は、私との思い出の連鎖、共有している。これは、まだ無理な創造と戦う前だ。
私が失恋したときは私が考え私自身に諦めを諭してくれた。そして、私が行動する。表だって行動するのは常に私だ。
今は、私の行動力が弱くなってきている。歳でもあるが、基本的に覇気がない。
無理な創造との戦いで相当疲弊しているみたいだ。
しかし、私の中の私はそこから動かない。
表だって行動をしない。これは、私が私に鎖をつけたからだ。生きていけないから、理想に鎖をつけた。行動を制限した。
私は、オリジナルのはずなのに鎖をつけた。
この風景には鎖はないんだろうな。
いいから、外してくれこの鎖。