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傷は抱えたままでいい  作者: ×丸
第1章 黄昏に染まる保健室で
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第8話「チサとルイ③」

2人きりの保健室はとても静かだった。


いや、目の前にいるこの人は先ほどから鼻唄混じりに私の指の処置をしていて、決して無言というわけではない。

ただ私の方はというと、今に至るまで何も話せていないし、相手の顔を見ることもできないでいた。



チラリと机に視線をやる。

プリントや本が整然と並べられており、とてもスッキリしている。見ていて気持ちのいいくらいだ。

隅には車のものだと思われるカギが置かれていて、そこには可愛らしいキャラクターのキーホルダーがついていた。

私が有希からもらったものと似ているがキャラが違う。きっとあれが、ここに来る前に彼女が言っていた、プレゼントしたというものだろう。


織部先生。男子からも女子からも人気の高い保健室の先生。


でもそれはきっと憧れとか尊敬といった感情だろう。

恋だとか愛だとか、そんなことを本気で思っている人なんていない。



……ただ一人を除いて。私の推測が正しければ。



「”チサちゃん”?」

処置もそろそろ終わるかという頃、包帯をハサミで切りながら織部先生は唐突に話しかけてきた。

再び、知らないはずの私の名前を口にして。


「……はい?」

身構えていたこともあってそれほど驚くこともなく、平常心で返事をすることができた。

しかし胸中は決して穏やかとはいえない。今まで口ずさんでいた唄をぴたりと止め、まっすぐに私の方を向いてきたからだ。


否が応にも正面を向いてしまう。

私を見る織部先生の瞳は深く包み込むようで、リコのそれとは正反対のようにも思えた。



手にしたハサミがキラリと光る。

冷たい光沢を放つそれを――――


――――特にどうするともなく机に置いて。

「チサちゃん」

「はい」

「チサちゃん」

「? はい」

「……チサちゃん?」

「…………」


何をしているのだろうこの人は。

まるで私が返事をすることそのものを楽しんでいるかのように、何度も名前を呼んでいる。


奇妙な雰囲気に緊張感も薄れてくる。

私の名前をどうして知っているのかという疑念も、こうも連呼されると始めからそう呼んでいたかと思いそうになる。



「ご、ごめんなさいね。……えーと、あなたがあのチサちゃん、で合ってるのよね?」

私が浮かべた訝しげな表情に、織部先生はすぐ気づいたらしい。

少し照れたように微笑みながら、そう聞いてきた。


「”あの”って……。はい、本名は千紗季ですけど……」

「あっそうなんだ! 里穂ちゃんや有希ちゃんがそう呼んでたからそれが名前だと思ってた」



なんだ、と一人で納得する。

あくまで名前を知っていただけで、私のことを知っていたわけじゃないのだ。


そうだ。私はともかく、里穂と有希は何度も織部先生と話をしているはずだ。

その中で私の話題が上がって、それを先生が聞くこともあっただろう。

決しておかしな話じゃない。



彼女はあくまで二人の友だちとして私を知っていただけなのだ――――



そう思い始めると、急に力が抜けてきた。

張り詰めていると思っていた空気はどうやら私の思い込みで、そしてそれは私が思っていた以上に心を圧迫していたらしい。

勘違いが解けてうんうん、と一人で頷いて笑う織部先生がどこか可笑しくて、自然と緊張が緩むような気持ちだった。



「そういう織部先生は、下の名前なんていうんですか?」

そう聞いてしまってから――――しまったと思う。



決して踏み込むまい、私から何もすまいと決めていたはずなのに。

抑えていたはずの感情が、わずかな油断の隙に言葉となって出てしまった。


織部。

オリベ。


その3文字には、私の知りたかった答えは存在しない。

あくまで3文字の中には、だ。ならば――――



「ミルイ、よ。美しい涙と書いて美涙。織部美涙おりべみるい、それが私の名前」




実際の時間にしてみればほんの数秒だったかもしれない。

でも長い時間反応することができなかったような、そんな感覚があった。


今、この胸を染める感情は一体なんなのだろう。


確かに、昨日北崎と一緒に保健室へ行ったきり放課後まで帰ってこなかったことも、それを担任が許していたことも説明がつく。

大人びた声がそのまま先生の声だったというなら、もうそれは推理ですらない。



間違いない、この人が――――


あの時、リコがキスをしていた相手。

保健室で、リコが縋るように甘えた声を伝えていた相手。


――――ルイ、だ。



「……変な名前でしょう? 美しい涙、なんて」

「いえ……素敵な名前……だと思います……とても……」


そう答えるのが精いっぱいだった。

織部先生の、ルイの声が頭の中をグラグラと揺さぶって、何も考えられない。



聞いたのは私なのに、次にどんな言葉を紡いでいいのか分からない。


謝る。

何を?

キスを見てしまったこと?

二人の会話を盗み聞きしてしまったこと?


……リコとの世界に踏み入ってしまったこと?



包み込むような、と表現した目の前の人の視線。

だけど今はむしろすべてを見透かされているようにさえ感じる。


今私がいるはずのこの空間が、どこか遠ざかっていくような気分で……。



「――――はい、終わったよ。……どうしたの?」

「……は、え……?」


不思議そうな顔をして、先生は私の方を見ていた。

ふと我に返り左手に視線を落とすと、怪我をした指にはきっちりと包帯が巻かれていた。


痛みはもうほとんど感じない。



「あんまり痛むようなら病院に行くのよ?」

「はい……ありがとうございます」

「それじゃあ、お大事に」

そう言うなり、後片付けを始めた。


「…………え?」

先生の視線は既に私ではなく整理棚へと向いていた。

先ほどまで口ずさんでいた鼻歌を交えながら、包帯やテープを棚に戻している。


もう私のことなど、まるで気にも留めていないよう……

治療という役目が終わった以上その反応は自然なのだが、どこか釈然としない。



「あ、あの……!」

「うん? なあに?」

「いえ……なんでも……ありがとうございました」



結局何も話すことなく、話すこともできず、私も保健室を後にすることになった。

それは確かに、私がここに来る前からそうであってほしいと望んだこと。


でもどうしてだろう、心に宿っているのは安心感ではなく違和感。

分かってて何も言わないのか、それとも知らないのか、先生の雰囲気からはどちらとも取れない。



「気を付けて帰るのよー」

扉の前でもう一度挨拶をしたあと、有希から荷物を受け取ってそのまま帰ることにした。

緊張から解放されたこと、昨日あまり眠れなかったこともあって、家に着くなりベッドに倒れこむように横になった。


すぐに訪れるまどろみの中で、保健室の空気、感触、指の痛み、そして先生の視線とリコの顔が頭を何度も巡っていた。

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