幸せな心地
愛理視点、本編後です。
たとえば、自分が十年――いや、五年ほど前にタイムスリップできたとして、過去の自分に「あなたは五年後には結婚して子供が産まれています」と予言者よろしくささやいてみたところで、きっと私は信じなかったと思う。
私の人生にそこまで驚きの急展開が訪れることなんて、カケラも想像していなかった。
人生初の彼氏がそのまま生涯の伴侶になるなんて。
うん、本当に、ちっとも考えたことがなかった。
今では夫となった田中和真さんは、本当によくできた人だ。
イケメンでイクメン。そんな上等な人が、女子力の低い私なんぞに惹かれてくれたのは今考えても奇跡的だ。
年の離れた妹さんが二人もいて、世話焼き体質だったからだろう――というのが私の思いつく限り、彼が私を気に入ってくれたはじめの理由。
それが深まった理由は、正直よくわからない。たで食う虫も好きずきってヤツではないかと思うとか前に言った時、和真さんは「愛理は変なところネガティブだよなあ」と笑っていた。
職場での出会いからお付き合いをはじめるまで一年と少し、それからプロポーズに至るまでになんと半年ほど。挙式までさらに半年、妊娠発覚するまでもかなり早かった。
電撃的な出来事が続いていたし、月のものが遅れていることに意識が向いていなかったからこそ、新婚気分も抜けないうちの妊娠発覚はより衝撃的だった。
お腹がシクシクするなあとか生理前にもありがちな違和感を感じてもなかなかはじまらなくて、和真さんに内緒で検査薬を購入しこっそりチェックした後の衝撃と言ったら!
何度見直しても変わらない陽性に、とても動揺した。
せっかく生涯の伴侶を得たのだから、一人くらいはこどもが欲しいなあと考えていた。考えるまでもなく和真さんは子育てに協力をしてくれるいいお父さんになるだろうから、経済的に許されれば二人でもいい。
自分が二人兄弟だから、三人は未知数だなあなんて、それくらいは考えたけど、それらはふわふわとした妄想のようなものであり、すぐに現実になるとは思ってもいなかった。
そんなわけで不安は山盛りだったけれど、経過はまあまあ順調だったと言える。
順調とは言っても、つわりをはじめつらいことや困ったことはたくさんあったんだけど――幸いにして、和真さんという人はフォローが手慣れていた。
なにせ、大学生の頃に末の妹が生まれた人だ。彼にはその時つわりがひどかったというお義母さんに料理に加えて様々な家事を教え込まれた経験が強く残っていた。
こんなに甘やかされていいのかと思うくらいに至れり尽くせりで、新婚早々おんぶにだっこでひどく申し訳ない気はしたけれど、つわりの時期は特に助かった。
私のつわりはさほどひどくはなかったようだけど、それでもどうしたってつらいものはつらかった。
なにせ、ご飯の炊けるにおいから、洗濯機の中のにおいまでダメになってしまったんだから。
ようやく楽になったかと思っても本調子とはほど遠くて、あまり上手じゃない料理を頑張ってみても自分が作ったものがおいしいとは思えない有様なのもつらかった。
和真さんは「大丈夫、おいしいから」となんて言ってくれたけど、自分で自分が信用できないんだから仕方ない。私より働いている人に家でもさらに動いてもらうなんて申し訳ないとは思ったけど、食事作りや洗濯物干し、掃除なんかもたくさん担ってもらった。
そんな和真さんは立ち会い出産を希望した。
私としては恥ずかしい思いもあったんだけど、初の我が子の誕生を楽しみにしている人を拒否するなんてとても出来なかった。
出産予定日の少し前から産休に入り、陣痛の時にすぐに対応できるようにと実家に里帰りした。
父は仕事だけど、初孫の誕生を楽しみにしている母は勤め先と交渉して私の産休に合わせてパートを休んでくれた。
陣痛らしきものを感じたのはその日の朝。しばらく本当にそうなのか悩んだけれどどうにもおなかが痛いので、連絡の上で母の運転で産院に向かった。
和真さんには「陣痛かも」とまずメールし、受診の上で本当に産まれそうだと判明してから陣痛の合間に電話で伝えて――その日とりあえず半休を取った彼は大急ぎで駆けつけてくれた。
陣痛は想像した以上につらかった。
渦中はとにかく痛かったし、どうなることかと思った。和真さんが痛む腰をさすってくれたのは最初は良かったけど、途中からそれも苦痛になってきて、「痛いからさすれ」だの「やっぱり気持ち悪いからやめて」だのみっともなくさんざん振り回した。
痛くてつらくて大変だったけど、どうやら安産ではあったらしい。
産んだ直後はもうつらくて、こどもは一人でいいとこっそり思ったくらいだけど――喉元をすぎれば何とやらで入院中に我が子と触れあう度に愛らしさを覚えて、兄弟はいた方がいいかもなあと考えを改めた。
産まれたのは男の子で、和真さんの名前から一文字とって優真と名付けた。
退院後、一ヶ月検診までの間、優真は初孫に湧く両親にかわいがられた。和真さんも週末となれば顔を出して、嬉々として世話を焼いてくれた。
我が子を育てた経験があるはずの母よりも、沐浴に手慣れていたのがさすがだった。
「頼りになる旦那さんで良かったねえ」
母はしみじみと言ったものだ。和真さんは一人で沐浴をこなすというのに、いつも新米母と祖母は二人がかりで優真を世話しているんだもの。
若い頃あまり積極的に育児を担っていなかったらしい父はどことなく肩身が狭そうな顔で、お湯やバスタオルを用意する係りをかって出てくれていた。
一ヶ月検診を無事に終え自宅に帰ってからが、私にとっての試練だった。
いくら和真さんが手伝ってくれるとは言っても、仕事をしている以上出来ないことはたくさんあった。だから、床上げ前の里帰り中に甘やかされていた私は慣れるのに四苦八苦した。
掃除はこれまで以上にきちんとしたかったし、きちんと食事をしなければ母乳が出ないと最低限何か作ることもしたかった。洗濯物を干してくれるところまでは和真さんがしていてくれても、日のあるうちに取り込んでたたむことも当然私の仕事だ。
なのに、夜は授乳で起こされ、昼も優真が頻繁に泣くので昼寝さえままならなかった。
あまりにうるさいから、ちょっと布団をかぶせたら静かになるかしらとふと思い立つくらいには、追いつめられたことがあった。ちょっとかぶせちゃったら息できなくて死んじゃうよともっともな事実にすぐに気付いて良かったと思う。
「あまり根を詰めなくていいと思うけどなー」
泣きそうになりながら和真さんに懺悔すると、ヨシヨシと頭をなでてくれた。
「愛理が真面目なのはわかるけど、こどもなんて教科書通りに育つもんじゃないからさ」
「でも、だからって」
「おっぱい飲んだあとの寝かしつけなら俺でも出来るから、気にせず起こすといいよ。本当は泣き声で起きれたらいいんだけど、父性本能にはそういうのは含まれてないんだよなあ」
「和真さん、仕事で疲れてるでしょ」
「八時間労働は、母の二十四時間労働より軽いと思うよ?」
軽い口振りで私の罪悪感を軽減しようとしてくれる辺り、相変わらず優しい人だった。
「どうしても眠かったら昼休みに仮眠するから、気にせずバンバン起こして愛理は寝るといいよ」
そうやって夜の負担を減らそうとしてくれるのだから、ありがたい。
さすがに毎回起こすのは申し訳ないけど、どうしてもつらい時は揺り起こしてお願いすることにした。
優真はけっこう大きな泣き声をあげるというのに、和真さんは面白いくらいにその声だけでは目覚めない。肩を揺すってはじめて気付くと眠そうながらむくりと起き上がり、心得たように息子を抱き上げて寝室を出ていくのが常だった。
「愛理はちゃんと寝るんだよ?」
「ありがと」
ぱたりと扉が閉まり、泣き声が遠ざかる。完全防音とはいかなくても、ホッと息を吐いて布団に横たわる。
電源を切るように意識がとぎれて――覚める。
「寝た?」
扉の開く音に気付いて目が開いてしまうのは、母性本能的な何かなのだろうか。
「ああ」
潜めた問いかけに和真さんは言葉少なくうなずいた。
赤ちゃん用の小さい布団の掛布をめくると、彼は慎重な手つきで優真をおろす。とりあえず腕は頭の下に残したままで、ぽんぽんとお腹を叩く。寝息を確認しながらゆっくりと腕を引き抜くまでが一連の流れだった。
ほっとした様子で目尻を下げると、和真さんはあくびを一つ。
じゃあおやすみと口にする眠そうな彼にもう一度「ありがとう」と伝える。それを聞いていないかのようにすぐに寝息をたてる彼は、本人は否定しているけど疲れをためているようでますます申し訳なさが募った。
だけど顔を赤くして泣いていたのが嘘みたいに静かな息子の寝顔がそんな彼によく似ていると感じると、それ以上に幸せな心地がする。
私はふわふわとした気持ちで再び目を閉じる。睡魔は再び訪れて、私に優しい眠りともたらしてくれた。




