2月 バレンタインは動物園 2
大きな痛トートを持ち、まゆちゃんのリュックまで持つ羽目になった上、本日の入場料の負担は田中さんだ。
妹の我が儘に付き合わせて申し訳ないからと田中さんは私の分まで払うと譲らなかった。押し負けたのは代金がそう高くなかったことと、押し問答の間に北風が吹いて早く動きたくなったからだ。
チョコレートは場当たり的にコンビニで買うべきじゃなかったと後悔した。マメそうな人だから、今日の負担なんか気にせずお返ししてきそうだよね。チョコは渡さない方が正解かもしれない。
なんてことを考えていたら、不意に女子高生が――つまりは田中さんの上の妹であるほのちゃんが爆弾を投げ込んできた。
「ねえねえ、愛理ちゃん。さっきから気になってたんですけど、ここにいるのは全員田中ですよ?」
どういうことだときょとんとする私に向かって、
「私もまゆも、田中です」
当たり前の事実を口にしてほのちゃんはなぜだか胸を張る。
「おにーちゃんの名前は和真って言うんですよ。平和の和に真実の真で、かずま」
間の抜けた反応をする私に、ほのちゃんはとうとうと説明をくれた。
「いやその――それは知ってるけど」
同じ職場だし、フルネームを目にする機会なんていくらでもある。
「和真君とか、和君とかどーでしょう?」
華やいだ笑顔で目をきらっきらさせながら、職場の先輩の妹に無茶振りされた私はうっと言葉に詰まる。
お世話になっている先輩を本人の許可なく名前呼びとか恐れ多いよ。
田中さんも同意見なのか、空いた手でほのちゃんの頭を固めにかかっている。優しい田中さんは案外上の妹さんの扱いが雑だ。
「ちょっ、ギブ! おにーちゃん!」
「お前は突然なに言い出すんだよ!」
「愛理ちゃん呼びに匹敵するおにーちゃんの呼称についてだよー」
「無茶ぶりすんなよ。沢口さんだって困るだろ」
私の動揺をよくわかっている田中さんの乱暴なフォローに大いにうなずきたい私だった。
ただ。
「おにーちゃんとあいりちゃん、おともだちじゃなかったの?」
くいっとひときわ大きく私の服を引っ張ったまゆちゃんが上目遣いに不安そうな声を上げるのに、負けた。
まゆちゃんにとって私は――愛理ちゃんは、「おにーちゃんのおしごとのおともだち」なのだ。そのおにーちゃんである田中さんが一応は「愛理ちゃん」と日頃使わない呼称で私を呼ぶ以上、私もそれなりの呼び方をしなければまゆちゃんは納得いかないだろう。
「和真さんとお呼びしてもいいですか?」
後輩の遠慮がちな問いかけと、何よりも不安そうなまゆちゃんの様子に、
「あー、うん、何でもお好きに呼んでください」
ビミョーな笑顔で田中さんは応じてくれた。やけに丁寧な口振りな辺り、内心複雑ですよね。わかります、私もです。
「じゃあ、あの、和真さん、よろしくお願いします」
まゆちゃんの手前、田中さんの名前を呼びながら頭を下げてみたけど、出来るだけ名前は呼ばない方向で今日はがんばろうと思った。
そんなやりとりから始まった動物園探索は、思ったよりもずっと楽しかった。時期が時期なので寒いのを除けばだけど。
子持ちのいとこ曰く「冬場は案外動物が元気に動き回っていて楽しいよ」とか言ってたけど、本当にそうだった。もう長らく動物園になんか来ていないので、本当に動物たちが元気に動き回っていたかまでは判別できなかったのはご愛敬。
寝てる動物も結構いるしね。
ただ、楽しいけど田中さんには大変申し訳ない気がした。だって、田中さんはずっと荷物持ちだ。
私は、楽しそうなまゆちゃんと時々お話ししたり、不意に走り出す彼女を追いかけたりしながら、ずっとほのちゃんと隣あっている。
明るい女子高生の話題はいつまでも尽きない。十分もすれば元の内容を忘れるくらいに話があっちに行ったりこっちに行ったりするんだけど、そんなことはよくあることだ。とにかく話が巧いから、聞いていて苦痛じゃない。
ドラマの話から家族の話、それから学校の話。連想ゲームのように行ったり来たりしながらとにかく話す話す話す。
まゆちゃんもそうだけど、年頃のお嬢さんであるところのほのちゃんもやたらフレンドリーだなんて思う。
田中家は人なつこい家系なのだろうか……いや、一括りするわけにはいかないか。なんせ、田中さんは去年の春から一年近く指導している私に対してほとんど個人的なお誘いをすることがなかった人だ。
社会人になるとそういったおつきあいが月に数回くらいあると思ってたんだけど、ほぼなかったから拍子抜けしたくらいだった。
なんていうの? 職場を離れた交流も関係を円滑にするために多少は必要でないかなみたいな?
そんな必要もなく田中さんはおおらかでよくできた先輩だし、職場の雰囲気もごく一部を除いて大変円滑だし、職場だけのおつきあいで問題なかったわけだけど。
うちの部署の結束がかなり固いのは、そのごく一部こと自意識過剰先輩の存在あってこそってのが実にビミョーだけさ。
それはさておき、頑なにオンとオフを分けているように見えた田中さんが一足飛びに私と妹さんたちを会わせる機会を作ったことが不思議でたまらない。
きっかけはお正月の偶然で、二度目は――なんだろう。まゆちゃんのご希望が発端だそうだけど。
あの日、最初はどうしようかと思ったけど、終わってみると一日楽しかったからお誘いを受けたんだけど、田中さんは今頃後悔しているかもしれないな。
時々振り返ってみると、田中さんはあまり楽しそうな様子には見えない。
日頃はおにーちゃんになついているであろうまゆちゃんも今日は目新しい私と動物たちに釘付けだし、ほのちゃんは私の隣。大荷物を持った田中さんは一人でつまらなそうに見える。
チビッコも楽しそうだし、たまにはいいかなと思ったし、軽い気持ちで提案した動物園だけど、田中さんのお好みではなかったのかもしれない。
妹の我が儘に付き合わせているからって私の分まで入場料を払ってくれたのに、そんな田中さんが一番我が儘に付き合わされて割を食ってるんじゃないだろうか。
せめて私が話し相手にでもなれればいいんだけど。
仕事を離れて先輩と何を話していいかさっぱりわからないし、ほのちゃんのマシンガントークから逃れることが出来るとも思えない。彼女くらい話題が豊富でおしゃべり上手なら、さらっと田中さんを仲間に入れることも出来そうなんだけどなあ。
そんなスキルを持っていない私は、田中さんを気にかけつつもほのちゃんの話題に乗っかって相づちを打つしかなかった。




