3.売られたケンカと通すべきスジ
あまりのことに京司が固まっていると、黒い霊は京司に向かってゆっくりと手を伸ばしてきた。
黒い指先が右の二の腕に触れる。瞬間、触れた部位から黒い霊の感情が伝わってきた。
どうして怒っているのか、理由がわからない怒り。
誰を恨んでいるのか、相手がわからない恨み。
何を悲しんでいるのか、正体のわからない悲しみ。
それらをごった煮にした感情が電流のように黒い霊から京司に伝わった。
泣き声や怒鳴り声、非難や罵声も同時に伝達してきた。
驚いた京司は灼熱した物に触ったときの脊髄反射のように手を引っ込める。
これは呪いの塊のようなものだと本能的に感じていた。
-う、うあぁああっ!なんだてめぇ!なんだてめぇは!
軽くパニックになり、憑依していた胡桃川の体を飛び出す。車のブレーキを踏んでいた右足から力が抜けた。
京司は黒い霊がさらに伸ばしてきた手を避け、黒い霊の頭に右足で突き蹴りを放った。
ゴムのかたまりを蹴ったような手ごたえ。黒い霊体の頭部が大きく仰け反る。
攻撃が通ったのを確認して、少し冷静になることができた。
突き蹴りで伸びた右足の裏に重心を置き、距離を詰めるようにして今度は左足の膝で頭部を蹴り上げる。
黒い霊の頭の一部が欠けた。
先ほどまで恐怖で固まっていた体はもういつものように動く。
間髪いれずに、伸ばしてきた手を右の手刀で叩き、左の拳を霊体の脇腹に突き込む。
さらにもう一撃顔面に突き蹴りを入れたところで、黒い霊体はうめき声をあげながら形を失って宙に溶けた。
-ふぅ…たいしたことないじゃねぇか。びっくりさせやがって…マジで寿命縮んだ…
京司が黒い霊を攻撃している間に車は惰性で20メートルほど進んでいた。
センターラインを大幅に越えて対向車線にはみ出て進んでいたが、幸運にも対向車どころか周囲には他の車は一台も見当たらず、事故には至らなかった。
-っと…やっべぇやべぇ、車停めないと…
再び胡桃川の体を操り、車を左に寄せて停車させてハザードを点灯させる。
二の腕を見ると黒い霊に触られた部分がうっすらと黒くなっていた。
それどころか殴った拳も靴の裏も黒く穢れている。
穢れた部分はチリチリとした感覚が残っていて不快に感じた。
ゴシゴシとこすっても黒い部分は取れず、仕方がないので放っておいた。
再び車を発進させ、今度こそ右折して山道に入る。
曲がりくねった坂道を慎重な運転で上って行き、20分程。
兄弟猫たちの待つ倉庫へたどり着いた。
倉庫前の駐車スペースに車を停め、エンジンを切る。
京司はゆっくりため息を一つ吐いて脱力し、運転席のシートに身を預ける。
-今日はいろいろあったわ…ありすぎたわ。
-おっかさんは殺されたし、人も殺したし、そいつの金も奪った。なんか悪霊にガンつけられて逃げて追っかけられて返り討ちにして。
-…なんかどっと疲れたぜ。
操っている胡桃川の死体は疲れたりしない。京司の霊体も疲れるなどということはない。猫の体は助手席で寝ころがっており殆ど動いていない。
しかし、やはり京司自身の心は疲れていた。
今日を振返り、もう一つため息を漏らして、しかし気を取り直す。
-兄弟たちだけは俺が真っ当に育て上げる。それがおっかさんに対する俺なりの通すべきスジだ。
保護者である母猫が死んでまだ一日も経っていない。これから京司は兄弟猫達を養っていかねばならないのだ。
これからは京司が保護者である。
気持ちを切り替えるようにシートで伸びをし、胡桃川の体で車のドアを開け、子猫は倉庫の中に入る。
-おーい、ただいま。いっぱいエサ持って帰ってきたぞ。
霊体で子猫達に触れながらそう伝える。
胡桃川の体を使って倉庫の床に皿を5つ置き、それぞれにレトルトパウチの子猫用のウェットフードをあけ、猫用虫下しを混ぜる。
子猫たちは今まで虫やネズミなど、京司の常識からすればロクでもないものばかり食べている。
子猫たちの体内にはおそらく寄生虫がいるだろう。その可能性を考え、ホームセンターで虫下しを買ってきたのだった。
兄弟猫たちは少し匂いを嗅ぐとものすごい勢いで食べ始めた。
-おいしい、おいしい。うれしい。おいしい。
京司が子猫に手を触れるとそういった思念が伝わってきた。子猫たちにはおおむね好評なようだった。
子猫たちが夢中で食事をしているスキにノミ取りスプレーを吹き付ける。
兄弟たちはスプレーを吹き付けられた瞬間、かなり嫌がったがすぐに目の前のごちそうに向き直った。
満足そうな子猫たちを見て笑みがこぼれるが、ふと思いなおす。
-俺もこの猫の餌食わないとイケねぇよな…仕方がない。ネズミやゴキブリよりマシだ…
母猫とネズミを食べると約束した京司だったが、正直もう二度と口にしたくなかった。この約束に限っては、サラサラ守る気もない。
むしろ進んで破る方向で考えていた。
ネズミの死体をそのまま生でかじると己の人間性が失われる気がしたのだ。
やけくそになって黒猫はウェットフードを食べ始める。
味がしない上に風味がやけに生臭い。
一口で限界だったが、無心で食べ続けた。
市販のウェットフードのほうがネズミより衛生的で、かつ子猫の体の発育にも良いし虫下しも入れている。
ネズミを食わぬならこれを食わねばならぬという義務感だけで努力して食べ続ける。
京司にとって、人間の時の味覚がそのまま残っていることはデメリット以外の何物でもなかった。
猫の体で食べても大丈夫な人間の食べ物について京司は詳しくない。
人間の食べ物を食べたいという気持ちはある。
だが、猫は食べ物に含まれる塩分が多かったりちょっとタマネギが混じっていただけで、体調を崩したり最悪死ぬということくらいは京司も知っていた。
人間の食べ物を食べるとなれば慎重に選定しなければならなかった。
この黒猫の生ある限り、末永く京司はこの食の問題に付き合っていかねばならない。味覚については早めに解決したいところであった。
京司が悩んでいる間に、子猫たちはすでに食事を終わらせて口周りをペロペロなめている。
-兄弟どもはどうやら食事には満足してくれたようだな。どれ、つぎは…。
買ってきた五つの猫ベットを持ってきて倉庫に置く。
お手本とばかりに黒猫京司がベットの中に入って横になると他の子猫たちもそれに続き、子猫たちは一匹また一匹と眠りについた。
寝る前に兄弟のうち一匹の茶トラが黒猫京司の毛づくろいをしてくれた。
外を見るともう完全に日が落ちている。
兄弟猫たちが眠りにつくと、京司はこれからのことを考え始めた。
京司は胡桃川の死体が腐り始める前に、この倉庫前で車ごと人間に発見させるつもりでいた。
しかし、死体が見つかれば警察が来るだろう。
病院以外で死体が出れば形式的にせよ捜査が開始される。
捜査が始まったところで、猫である自分が胡桃川を殺した犯人だという真相にたどり着くことはないだろうし、そもそも猫が追及されることはない。
死体には外傷もない。
最終的に警察たちは最も整合性のあるシナリオを勝手に作成し、それに飛びついて自分自身を納得させるだろう。
京司はそう考えていた。
しかしながら捜査中に兄弟猫達と自分の生活が脅かされてはならない。
一時的に兄弟猫達を買ってきた物資もろとも山の中に隠れさせるつもりだった。
時間が経つと胡桃川の死体の腐敗が進む。
できればそうなる前に死体を人間の手に渡したかった。
思い立ったが吉日、京司は明日の朝すぐに胡桃側の死体を発見させる計画を決行することにする。
いつしか霊体についていた黒い穢れはきれいさっぱり跡形もなくなっていた。
次の日の朝、京司は車の後部座席でレトルトパウチの子猫用ウエットフードを5つ皿にあけ、それをエサに兄弟猫達を車の中に誘導する。
-おーい、みんな、車に乗ってくれ。ほら、車の中においしいご飯があるぞ。
-またおいしいやつ?
-俺はあんまり好きじゃないけどたぶんおいしいから。ほら、早く。
-おいしそうなにおいがする
-いいにおいがする
そう言って兄弟猫たちは車の後部座席に乗りこみ、エサを食べ始めた。
-1、2…3、4…と俺。よし、全員いるな。
兄弟たちが全員いるのを確認して、胡桃川の体を操り、後部座席のドアを閉めて子猫たちを中に閉じ込める。
子猫たちはかまわずにウェットフードを食べていた。
-ちょっと動くけど、我慢してくれよ。
車を発進させて、砂利道をさらに上って送電塔のほうへ上っていく。
3分ほど砂利道を上ったところで車を停めて、茂みをかきわけて山中に入って行く。50メートルほど入ったところできれいな水の流れる沢を発見した。
沢の近くには傾斜がない地面もある。
-あの沢なら車道から見えることはないな…よし。
京司は胡桃川の体を使って、車に積んでいたファミリー向けテントを沢の傍の平地で組み立てて設置した。
実際に組み立てられたテントはパッケージの写真より大きく見える。中に持ってきた猫ベッドを置いた。
テントの説明書には組み立て10分!と書いてあったが、説明書を読みながら手順どおりにやったらたっぷり30分かかっていた。
続けて、買ってきた大量の猫エサや猫用品をテントまで運びこむ。
何往復もしてようやく運び終わり、さらに1時間以上の時間が経過していた。
全てを運び終わってから、京司は胡桃川の死体を放棄してしまうと猫のエサのパッケージを開封することが難しくなることに気が付いた。
ここには体長12、3センチの子猫しかいないのである。レトルトの封を開けるのも難しそうだ。
とりあえず開封後も日持ちしそうなドライフード2kg入りの封を二袋開けておいた。
しかし食べきりタイプのレトルトのキャットフードは胡桃川の死体を返した後、どうやって開封するか考えていなかった。
行き当たりばったりもいいところである。
だが、
-まぁいいか。いつまでもこいつの死体コキ使うのもかわいそうだしな。
-そのうち猿でもぶっ殺してその死体を使おう。最悪イノシシでも鹿でも野犬でもいいや。ぶっ殺して、死体を操って封を食いちぎらせよう。
-この山なら動物一匹くらいいるだろう。…たぶん。
そのあたりも京司は楽観的に考えていた。
黒猫京司は兄弟子猫達を車からテントまで引率し、今日からしばらくの間ここで暮らすことを告げる。
あわせて虫やネズミはやっつけても食べないように、大きな動物が近づいてきた場合はテントに逃げ込むように言い含めておいた。
子猫たちがどれほどそれを理解しているかは京司にはわからなかったが、兄弟達からは了解するような思念が伝わってきたので、
半分くらいは伝わった気がした。
伝え終わると、京司は車で倉庫前まで移動し、携帯で119番をかける。
電話は1コールもならないうちにつながった。
「はい、高知市消防局119番です。どうされました?」
「-具合が悪くて動けないんだ。急いで救急車を回してくれないか。場所は-」
読んでくださってありがとうございます。