これが私のバイト先。
派遣切りに失業リストラ、就職難。
とかく渡世は生き辛い。
世にブラック企業と呼ばれる存在は数あれど、就職できるだけまだマシだとすら言い出しかねない風潮。まったくやってられない。
骨身に沁みるのは、学生の立場故だろうか。
私は思わず遠い目になりつつ、自分の将来へと思いを馳せた。
どうか就職活動をする時期までに景気が上向きますように。
何とも自分本位な願いを誰にともなく祈りつつ、ため息交じりに急須を手にした。ポットのお湯は適温だ。すっかり見慣れた湯呑に茶を注ぎつつ、一体どうしてこうなったのか考えずにはいられない。
たとえそれが無駄だとしても。
「みっちゃん、ちょっとー」
やる気の欠片もない声が私を呼ぶ。振り返らなくても、声の主がどんな格好でどんな顔をして私を呼んでいるのか、予想は容易かった。どうせテレビから成人男子の足で五歩程度の距離にあるソファにでも寝転がって、眠たげな猫のような顔をしているに違いない。ついでに用件もくだらないだろう。
「何ですか」
「そこのリモコン取ってくれない?」
予想が的中した。嬉しくもない。
二十代半ばと言った本当にいい年した男が、死んだ魚のような目でソファから指示を飛ばしていた。元から癖のある黒髪は、今や寝癖で四方八方に好き勝手跳ね回っているし、不思議な金色の瞳も生気が感じられなければ魅力もへったくれもない。
そしてたとえ相手がそれなり以上の美形でも、見慣れてしまえばそんなに価値もない。美人は三日で飽きるって、昔の人も言ってたし。何より中身を知ってしまうと顔なんてものは二の次になるのだと、私はこの人に出会って思い知った。
またもやため息と共に、多分私の方が遠い場所にあるリモコンを求めて動こうとする。それを制するように、絶妙のタイミングでリモコンが視界から消え、光速で男の頭に命中した。
「リモコンくらい自分で取りなさい!」
リモコンの後を追いかけるようにして飛んでいく叱責に、後頭部を押さえて呻いていた男が叫び返した。
「ッテェ!ウメ!リモコンは投げるもんじゃねぇだろ!」
「みっちゃんさんはちゃんと仕事をしに来てるんです!あなたのお母さんじゃないんですよ!」
いやむしろウメちゃんの方がお母さんぽい。
常々思っているけど。そして言わないけれど。
ソファの男こと村正様を見下ろすように仁王立ちでぷりぷりと怒っているのも、外見はそれなり以上の長身の男である。長い髪は日本人ではまずお目に掛からないプラチナブロンドというやつで、癖のないそれを項の辺りで一つに束ねている。特に熱心に手入れをしているわけでもないらしいのにキューティクルが眩しすぎて、羨ましいを通り越して妬ましい。
ウメちゃんはまだぷりぷりと怒っている。形の良い唇からはひっきりなしに小言が飛び出しているが、それは恐らく殆どすべて対象者の耳を右から左へ駆け抜けていくに違いなかった。
要するにいつもの光景である。
「ウメも村正様もどっちもどっちだよなー。あ、みっちゃん饅頭食べる?」
けたけたと笑う声に振り返ると、三人の中で一際長身の男が温泉饅頭の箱を抱えてむしゃむしゃと貪っていた。この男は茶色の髪とこげ茶の瞳という割とオートドックスな外見をしており、たれ目が人の好さを感じさせるが、それに騙されてはならない。
饅頭の箱に残っていた二つのうち一つを私へ差し出したのは、彼の良心かそれとも。
「アセビ!テメェそれ俺のだろ!」
村正様はアセビと私の手にある饅頭を見るや、それまでのやる気のなさはどこへやらがばりと身体を起こす。しかし細い身体のどこにそんな力があるのか、ウメちゃんに問答無用でソファへと引き戻された。
「お待ちなさい村正様!話はまだ終わってませんよ!」
またアセビが笑う。やはり饅頭は良心からというより村正様をおちょくりたかっただけのようだ。頼むから私を巻き込まないでほしい。面倒くさいから。
「だから俺は明日から本気出すって言ってるだろ」
「明日から明日からって一体いつその明日が来るんですか。いい年して引きこもりとか、みっちゃんさんを御覧なさい。若いのにちゃんと働いてるでしょ!」
「あれはバイトだろ!」
「バイトでも仕事です!」
「仕事なんだからリモコン取らせてもいいじゃねぇかよ!」
「それは仕事じゃありません。強いて言うなら召使の仕事です」
え、召使は嫌なんですけど。というか、強いて言うならって何だ。強いて言うならって。
田舎の親が知ったら、せっかく街へ出した娘が召使のアルバイトをしているなどと聞いたら嘆くに違いない。
「でも似たようなもんじゃないー?」
間延びした声でアセビが余計な一言を挟む。ウメちゃんのフォローも一瞬で水の泡だ。
私の手から饅頭が消えて、アセビの口に吸い込まれていく様を見届けながら、私は思った。
どこで間違えたんだっけ?
どこって?最初からだなんて言わないで。
今時、学生のアルバイトで賄いつき時給千円有給制度あり各種保険完備で仕事内容が簡単な軽作業です、なんて求人に引っかかるなんてとんだ世間知らずのやることだと笑われそうだが、田舎から出てきたばかりの大学生には向こう見ずなところがあるのだ。許してほしい。
そりゃ私も都会は怖いとか、甘い話には裏しかないとか、危ないんじゃないかとか散々悩んだ。悩んだけど、親に学費を出してもらって、生活費までというのも悪い気がして、私はこの話に清水の舞台から飛び降りるつもりで手を出してしまったのだ。
あの時の私に言いたい。
堅実にスーパーのレジでもやっておけと。
確かに時給は千円だし、休みたいと言えば二つ返事で休ませてくれる。賄いもついているし、仕事内容もお茶くみだとか、さっきみたいにリモコンを取れだとか、雑務とか、来客対応とか、本当に軽作業である。
求人内容に偽りはない。それに対して文句はない。あるとすればただ一つ。
「村正様!貴方はもう少し魔王としての自覚を思い出して下さらないと困ります!」
「今時魔王の自覚ってなんだよ!魔王だって休みたくなる時があるんだよ!」
「何百年単位の話をしてるんですか、貴方は!一度の派遣切りくらいで心が折れるような子に育てた覚えはありませんよ!」
「俺もお前に育てられた覚えはない!」
田舎のお母さん。あなたの娘の上司と同僚は、魔王と愉快な仲間たちでした……。
「私も悪の組織の一員なのかな……」
「正規じゃないんだから別に深く考えなくてもいいんじゃない?仕事は仕事って割り切りなよー」
軽く言うアセビの言葉が遠くに聞こえた。