ハンケチ
「あ、落としましたよ。ハンカチ」
僕の目の前を歩く、日傘をさした若い女性がハンカチを落とした。それはピンク色の、美しい桜の花の刺繍。僕は何の気なしにそれを拾い、直ぐに女性に差し出した。
「あら、ありがとうございます。わたくしのハンケチを拾っていただいて。それでは失礼します」
いつもの僕なら、このまま何もせずにいただろう。でも、今日の僕は何故か、彼女の”ハンケチ”という言葉が引っかかってしょうがなかった。何故、”ハンカチ”ではなく、”ハンケチ”と言ったのだろう? それが変に気になってしまい、僕は思わず、彼女を呼び止めた。
「あ、あの……」
「はい?」
「いや、その……今日は日差しが強いですね」
「そうですね」
「あは、あはは……」
振り向いた彼女は、とても美しい人だった。瞳はクリクリとしていて、若干たれ目であった。鼻筋はキレイに通っていて、唇はキレイな富士山型をしていた。頬には少し丸みがあり、その流線型の横には若干小さめの耳たぶが黒髪の影に見え隠れしていた。
「いや、その……あ、暑いですね」
「そうですね」
僕はあまりの彼女の美しさに気が動転してしまい、大量の冷や汗をかいた。僕は少しでも間を埋めようと思い、ハンカチを取り出して額の汗を拭いた。
「あら? 素敵な柄のハンケチですわね」
彼女の”ハンケチ”という聞きなれない言葉が再び僕の脳髄を揺さぶった。これはもう、あれだ、なんだ、これは、あれか、恋か? 恋なのか? このとき、暑さと動揺で僕の頭はいよいよおかしくなり始めていた。
「ふふふ、もしよろしければそのハンケチ、手にとって見せていただけませんか?」
「あ、え、ええ? いや、その、これぼ、僕の汗を拭ったやつですから……その、き、汚いですよ」
「殿方の汗は美しい。汚いのはその汗をほったらかしにしてしまう心ですよ」
彼女は凛とした強い声でそう言うと、ニコッと微笑んだ。
『ズキューン! ビュリュウウウウドーン!!』
その瞬間、僕の心臓は完全にスナイパー『恋のきゅーびっと』の矢に打ち抜かれ、爆発してくだけちった。
「素敵なハンケチをどうもありがとう。それではまた」
そう言うと、彼女は再び前を向き、どこかへと消えていった。僕はその美しい後姿を呆然と見送った。
「またどこかで、会えたらいいな……」
僕はそんな小言を呟きながら、ハンケチを再びポケットにしまおうとした。
「あれ? あれ、ない! 財布がない!!」
そのとき、ポケットに先ほどまであった財布がなくなっていることに気がついた。あの財布の中にはおろしたての5万円が入っていたのに……。そう思うと急に血の気が引いて、冷や汗が出てきた。僕はとりあえず冷静になろうと思い、手に持っていたハンケチで額の汗を拭いた。
「ん? 何だこれは?」
そのとき、ハンケチの隙間から紙切れがヒラヒラと、まるで春に舞い散る桜のように落ちてきた。僕はその紙を拾った。そこには、こう書いてあった。
【銭袋、ごちそうさまでした】
本来ならば、僕はここで怒りを感じていたことだろう。でも、”財布”のことを”銭袋”と書く彼女のことを思うと、なんだか滑稽で、怒りは失せた。
「あぁ、今頃彼女は僕のお金でおいしいごはんでもたべているのかな?」
そう思うと、なんだか粋な5万円の使い道だったと思えて、僕はクククと思わず笑った。