新天地へ
ゆるゆると書いてます。
変なところがあれば都度ストーリーに関わらない程度に直しております。
意識を取り戻してから、半年が過ぎた。
窓の外の景色は移ろい、厳しい冬を越えて、世界は瑞々しい初夏の色彩に包まれていた。
隼人の体は、驚異的な回復を見せていた。
一時は寝返りすら打てなかった状態から、今では杖を使わずとも、自分の足でしっかりと地面を踏みしめて歩けるまでになっていた。
「……よかった。本当に、よかった」
左手足の親指と人差し指には、今も僅かに痺れるような麻痺が残っている。
けれど、隼人はその不自由さを呪うのではなく、生かされたこと、そしてここまで戻れたことに心から感謝していた。
8か月の昏睡から、これほどの短期間で日常生活に支障がないレベルまで快復するのは、医学の常識を越えた「奇跡」なのだと何度も聞かされていたからだ。
リハビリの間、隼人は莉奈に頼んで持ってきてもらったボールを、一日も欠かさず右手で扱っていた。
ベッドの上で、あるいはリハビリの合間に。右手に馴染ませるように宙に投げ、掴む。
スナップを利かせ、リリースする。
かつて左腕で無意識にやっていた感覚を、今度は右腕の神経に一から、泥臭く叩き込み続けてきた。
退院を数日後に控えたある日、莉奈が隼人の枕元に腰を下ろし、静かに切り出した。
「――隼人、少し大事な話があるの。……退院したら、今の家を引き払って、長野のおじいちゃんとおばあちゃんのところに住もうかと思っているんだけど、どうかしら?」
隼人は驚く風もなく、窓の外を見つめながらゆっくりと考えた。
「……うん。わかったよ。お母さんも、いろいろ考えがあってのことだよね。俺もこんな体になっちゃったし……。迷惑かけて、ごめんね」
「違うのよ! 隼人のせいなんかじゃないわ」
莉奈は慌てて否定し、隼人の手を包み込むように握った。
「お父さんがいなくなって、お母さんも少し……あの家にいるのが、辛くなってしまってね。あなたのことを振り回す形になってしまって、本当にごめんね」
その言葉の裏にある、母の孤独な戦いと悲しみを、隼人は痛いほど理解していた。
お父さんを亡くし、息子は目覚めない。その絶望の中で、母がどれほどあの家で耐えてきたのか。
「いいんだよ、お母さん。退院したら、荷造り頑張らなきゃね」
隼人は莉奈を安心させるように、努めて明るい笑顔を返した。
――そして、退院の日。
晴れ渡った空の下、病院の玄関前には主治医の医師や、リハビリを支えてくれた看護師たちが集まっていた。
「隼人くん。何かあれば、いつでもすぐに連絡してくるんだよ。僕は君の不屈の努力をずっと見てきた。これからも、君のことを応援し続けるし、力になるからね」
「先生……ありがとうございます」
隼人と莉奈は深く頭を下げた。
多くの人たちの想いに支えられ、ようやく一歩を踏み出す。
乗り込んだタクシーの窓から、遠ざかっていく病院を眺めながら、隼人は右手の掌を静かに握り締めた。
………
引っ越し当日。
長野へ向かう前に、隼人と莉奈は『瀬田シニア』の練習場がある多摩川の土手に立ち寄っていた。
眼下に広がるグラウンド。
事故前、必死にその背中を追いかけていた3年生たちはすでに卒業し、今は新しい代の選手たちが声を張り上げている。
その中に、ハイジ、一樹、拓人の姿があった。
8か月の空白を経て再会したかつてのチームメイトたちは、遠目からでもわかるほど体格が良くなり、顔つきも精悍な「野球人の顔」になっていた。
それに引き換え、病着から着替えたばかりの自分はあまりに細く、頼りない。
(……みんな、あんなに凄くなってたんだな)
情けなさと、眩しさが混ざり合った感情が隼人の胸を突く。
こちらに気づいた父兄が伝えたのだろう。
練習を止めることなく、高杉監督が一人、土手の上へと歩み寄ってきた。
隼人と莉奈は、静かに頭を下げた。
「隼人……。よかった、本当によかった……!」
サングラスを外した高杉監督の瞳が、僅かに潤んでいるのを隼人は見逃さなかった。
「監督さん。せっかくお誘いをいただきながら、このような形になってしまい、本当に申し訳ありません」
莉奈が深く一礼し、言葉を継ぐ。
「息子はここまで回復できましたが、これからは私の地元、長野で育てようと思います」
「いえ、私どもの方こそ……。ひたすら隼人の回復を願うことしかできず、心苦しいばかりでした。隼人、体調はどうだ?」
「最初は寝返りすら打てなかったんですけど、今ではこの通り、歩けるようになりました!」
隼人は努めて明るく、監督の目を真っ直ぐに見返した。
「……まあ、少し麻痺は残ってしまったんですけど。でも、鍛え直して野球は続けるつもりです。いつか、監督にいい報告ができるように頑張ってきます」
「……そうか。そうだな」
監督は何度も頷き、力強く隼人の肩に手を置いた。
「またこちらに来ることがあれば、いつでも遊びに来い。隼人なら大歓迎だ。……あいつらに、会わなくていいのか?」
グラウンドで汗を流す親友たちに視線をやり、高杉監督が問いかける。
隼人は一瞬、ハイジたちのいる方向を見つめ、静かに首を振った。
「いえ、練習の邪魔をしたくないので。……でも、いつかまた、あいつらと一緒にプレーできる気がするんです。そのために、俺、頑張ります」
死に物狂いで練習している彼らの足を止めたくない。
そして何より、今のこの「やせ細った姿」を、かつてのライバルたちに見せたくないという、隼人の中に残った最後のプライドが、足を止めさせた。
二人はもう一度深く頭を下げ、思い出の詰まった土手を後にした。
向かう先は、母の地元・長野県。
山々に囲まれた新しい場所で、左腕を失った天才は、右腕一本で再び頂点を目指す。
初夏の風に吹かれながら、隼人は二度と振り返ることなく、前だけを見つめていた。
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