偶然
ゆるゆると書いてます。
変なところがあれば都度ストーリーに関わらない程度に直しております。
隼人は、緊張した面持ちの蓮司を連れて自室のドアを開けた。
「……どうぞ。まあ、まだ片付けきれてないんだけど」
「お、おう……失礼しま……」
言葉の途中で、蓮司は息を呑んだ。
そこは、野球を愛する者にとっての聖域だった。
壁に飾られたポスター。
棚に整然と並べられた、数々の盾やトロフィー。
そして、ガラスケースの中に大切に保管された、橘誠一郎が現役時代に身に纏っていた東京ファルコンズのユニフォーム。
「うわぁ……」
蓮司の口から、感嘆の溜息が漏れる。
それが自分の声であることに、彼自身さえ気づいていないようだった。
「適当に座ってよ。今、飲み物持ってくるって言ってたから」
「……なあ、隼人。やっぱりすげぇな。なんていうか、言葉にならねぇわ。これ、全部本物なんだよな」
「あはは、本物だよ。本当に父さんのファンだったんだね」
蓮司は、ユニフォームの前で立ち尽くしたまま、噛み締めるように言った。
「なんだよ、信じてなかったのか? ……確かに俺はポジションも違うし、キャッチャーの下山選手が1番好きだったけどよ。橘と下山は、名バッテリーだろ。俺にとっての憧れなんだよ」
隼人は、引退試合の記憶を呼び起こした。
父の最後の球を、涙を浮かべながら受けていた下山選手の姿。
「引退試合でも、受けてくれていたもんね」
「ああ……。そういえばよ、動画かニュースで観たんだけど。引退試合のセレモニーピッチ、お前が投げてただろ」
蓮司がそこまで詳細に覚えていることに、隼人は驚きと、それ以上の深い感動を覚えた。
この少年は、不良として日々を過ごしながらも、心の底ではずっと橘誠一郎という投手を、野球というスポーツを愛し続けてきたのだ。
コンコン、とドアがノックされた。
「飲み物とお菓子を持ってきたよ。ごめんね、今はリンゴジュースしかなくて」
莉奈が、盆にグラスと皿を乗せて入ってきた。
「ありがとうございます!」
蓮司が慌てて立ち上がり、最敬礼に近い角度で頭を下げる。
「ねぇお母さん。蓮司、下山選手と父さんの大ファンなんだって。俺のセレモニーピッチも覚えててくれたんだよ」
「あら! 蓮司くん、本当にありがとう。お父さんのグッズ、まだまだたくさんあるから、ゆっくり見ていってね」
恐縮してペコペコと頭を下げる蓮司を見て、隼人はいたずらっぽく笑いながら莉奈に尋ねた。
「あ、お母さん。そういえば、俺が小学校の時の全国大会のDVDって、まだあったよね?」
「あるわよ。大切に保管してあるわ。……急にどうしたの?」
「蓮司さ、長野県代表で東京新宿フィールドにいたんだって。『上田ファイターズ』のキャッチャーだったらしいよ」
莉奈の目が、驚きで丸くなった。
「えっ! まぁ! すごいじゃない、蓮司くん! 覚えてるわよ、上田ファイターズ! だってお母さんの地元のチームが出場してるんだもの。DVDも、もちろんあるわよ。開会式の映像からバッチリ映ってるはず!」
「えっ、マジっすか……!?」
「蓮司くん、今日は夜ご飯も食べていける? 親御さんには連絡したほうがいいわよね。おばさん、腕によりをかけちゃうわ」
「は、はい! お願いします! 連絡は自分で入れておきます。……すいません、ありがとうございます!」
「よかった! おじいちゃんとおばあちゃんにも連絡しなきゃ。ご飯を食べながら、久しぶりにみんなでDVDを観ましょう!」
蓮司は恥ずかしそうに、「い、いや、さすがにそれは……」と顔を赤くした。
「いいじゃん! あの日、あの場所、同じ球場にいたなんて、今でも信じられないよ。それがこうして友達になって、俺の部屋にいるなんてさ。俺、すげぇ嬉しいんだ」
隼人の真っ直ぐな言葉に、蓮司はおう、と短く返すのが精一杯だった。
そのやり取りをニコニコと微笑みながら見ていた莉奈が、弾んだ足取りで部屋を出ていく。
「……隼人。本当によかったのか?」
「何がだよ」
「……だってよ、俺は、今はこんな感じで不良やってんだぞ。お前みたいな奴が、俺なんかを家に呼んでいいのかよ」
「そんなの関係ないよ。蓮司は友達で、父さんのファンなんだろ? それだけで十分だよ。……あ、そうだ。俺の1番の宝物を見せてなかったな」
隼人は机に向かい、棚の奥から1つのケースを取り出した。
その中には、使い込まれながらも完璧に手入れされた、黒いIZUMOのグローブが収められていた。
「……橘選手のグローブ……」
「そう。父さんが愛用していたグローブだよ。触ってみてよ。蓮司みたいに思ってくれるなら、父さんもきっと喜ぶから」
蓮司は震える手でグローブを受け取った。
重厚な革の匂い。数々の打者を打ち取ってきた魂が宿っているような、不思議な重み。
そして、蓮司は刺繍に目を留めた。
『隼人』――そして、『勇気』。
「……橘選手、投げる前のルーティンで、いつもここを撫でてたんだよな」
「よく知ってるね……」
「ファンだからな」
蓮司はそう言って、まるで少年のように無邪気に笑った。
その瞳は、純粋な憧れの色で満たされていた。
………
全国大会の思い出話や、当時のファルコンズの黄金時代の話で盛り上がっていると、玄関から賑やかな声が聞こえてきた。
「お、おじいちゃんとおばあちゃんが来たみたいだ」
「お、おい……。さすがに俺みたいなのがいたら不味いだろ」
「蓮司は本当に心配性だなぁ。不良ならもっとドンと落ち着いてなよ」
「お前が能天気すぎるんだよ! ファンだった選手の奥さんと、世代トッププレイヤーが目の前にいて、さらにその爺ちゃん婆ちゃんまで来るんだぞ? 不良とか関係なく、心臓が持たねぇわ!」
隼人があはは、と笑っていると、ガチャリとドアが開いた。
「おう、隼人。爺ちゃんたちが来たぞ!」
隆正と緑が、笑顔で部屋に入ってくる。
その瞬間、蓮司は弾かれたように立ち上がり、深々と頭を下げた。
「お邪魔しています! 」
「おうおう、元気があっていいな! 莉奈から隼人の友達が来てるって聞いたから、楽しみに来たんだ。ほう、いい体格をしてるな」
隆正が蓮司の肩をパンパンと叩く。
「おじいちゃん、友達の櫻井蓮司だよ。蓮司、俺のおじいちゃん」
「櫻井蓮司です。よろしくお願いします」
「櫻井……? どこに住んでるんだ?」
蓮司が「城西小学校の近くで……」と説明を始めると、隆正の眉がピクリと動いた。
「櫻井さんちの坊主の倅か! お前のおじいさん、大工だろう!」
「えっ、爺ちゃんを知ってるんですか?」
「当たり前だ、飲み仲間だよ。じゃあ、お前とは会ったことがあるな。『漁火』っていう居酒屋に、お前のおじいさんが孫を連れてきたことがあった。あの時のちび助か!」
「……ちょっと記憶になくて、すいません……」
世間の狭さに、その場が和やかな笑いに包まれた。
「邪魔したな。また晩飯の時にゆっくり話そう。しっかり食えよ!」
隆正たちが部屋を出ていくと、蓮司は力なく座り込んだ。
「……世界って、狭いんだな。びっくりしすぎて笑うしかねぇよ」
「あはは、本当にね」
しばらくして、莉奈の「ご飯だよー!」という声が響いた。
2人がリビングに向かうと、食卓には隼人の大好物である鶏の唐揚げが山のように盛られ、煮物、サラダ、味噌汁と、温かい家庭料理が並んでいた。
「蓮司くんが来たから、隼人の大好物を作っちゃった。大丈夫だったかしら?」
「唐揚げは大好物っす! ありがとうございます!」
莉奈は嬉しそうに微笑み、全員が席についた。
「よし、食べよう! いただきます!」
隼人に続いて、蓮司も背筋を伸ばして「いただきます!」と言った。
「いっぱい食べてね。もっと大きくならなきゃ」
緑がニコニコと2人を見つめ、莉奈も「おかわりもたくさんあるからね」と促す。
「……美味いっす。めちゃくちゃ美味いっす!」
蓮司は唐揚げを1口食べると、目を見開いて米をかき込んだ。
「いいねぇ。隼人も蓮司くんくらい食ってデカくなるんだぞ」
「身長は同じくらいなんだけどなぁ。あ、お母さん、DVDは?」
「セットしてあるわよ。再生するわね」
莉奈がリモコンのボタンを押すと、テレビ画面に数年前の映像が映し出された。
東京新宿フィールド。
青々とした芝生と、熱気に満ちたスタンド。
『さぁ、橘選手。今日は何の日ですか?』
カメラを回す莉奈の声。
『今日は、自慢の息子の全国大会、開会式の日です!』
画面の中には、今は亡き父・誠一郎が、とびきりの笑顔で映っていた。
「……橘選手……」
蓮司が箸を止め、画面を凝視する。
映像は、バックネットから各チームの入場行進を捉えるシーンへと移った。
『あっ! ほら誠一郎さん、あれ、うちの地元のチーム! 上田ファイターズだって!』
『へぇ……お、あの子。背番号2の子、いい体格してるな。あの子は打ちそうだ』
『どの子?』
『あの子だよ、たぶんキャッチャーの子。雰囲気がいい。いい選手になるぞ』
画面がズームされ、そこには今よりもずっと幼い、けれど凛々しい表情で行進する少年の姿があった。
「……お、俺だ……」
蓮司の声が震えていた。
「蓮司! 父さんに褒められてるじゃん!」
「あの時の背番号2の子が、蓮司くんだったのね!? すごい、なんて縁なのかしら……」
映像の中の誠一郎は、何度もその少年を指さして、「あの子はいい捕手になる」と繰り返していた。
隆正が深く頷く。
「不思議なもんだな。数年前、東京の球場で、名前も知らずに映像の隅に映っていた子が、今、俺たちの目の前で飯を食ってるんだからな」
「……可愛いじゃん、蓮司」
「……うるせぇ。今、それどころじゃねぇんだ……。橘選手に……見てもらえてたんだ……」
蓮司の瞳に、熱いものが溜まっていく。
莉奈はそれを優しく見守りながら、目を細めた。
「ありがとうね、蓮司くん。たぶん、あの人も今、空の上で喜んでるわ。あ、ごめんね、しみじみしちゃって! 食べよう食べよう!」
その後、隼人のチーム『瀬田ドリームス』の試合映像が流れると、今度は蓮司が解説役になった。
「お、隼人じゃん。……やっぱりお前の球、バケモンだったんだよな。捕手目線で見るとおかしいんだ」
結局、夕食が終わった後も、隼人の決勝戦の映像を最後まで観て、3人の男たちは野球論議に花を咲かせた。
「あっ、もうこんな時間! ごめんね蓮司くん、遅くなっちゃった。お父さん、送っていける?」
「もちろんだ。蓮司くん、乗っていきな」
蓮司は遠慮しようとしたが、隆正は「櫻井さんちの孫に何かあったら、あの爺さんがうるさいからな」
と豪快に笑い、蓮司もついに「ありがとうございます!」と頭を下げた。
「隼人、明日はどうする? 雨っぽいけど」
玄関先で、蓮司が尋ねた。
「……ショップに、新しいミットを観に行くよ。俺、もう1度ちゃんとやってみるわ。……お前の球を、本気で受けてぇんだ」
その言葉に、隼人の胸が激しく高鳴った。
「……ありがとう。明日のショップ、俺も行くよ。いっしょに選ぼう」
隼人が蓮司の肩を叩くと、蓮司は強く頷いた。
「ありがとうね。これからも隼人をよろしくね、蓮司くん」
莉奈の言葉に、蓮司は深々と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。……失礼します!」
隆正の運転する車が走り去るのを、隼人と莉奈はいつまでも手を振って見送っていた。
「お母さん、ありがとう」
「いいのよ。隼人、本当によかったわね。いいお友達ができて」
隼人は「うん」と笑顔で答え、自分の部屋へと戻った。
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