蓮司、橘家へ行く
ゆるゆると書いてます。
変なところがあれば都度ストーリーに関わらない程度に直しております。
翌朝。
窓の外に広がる空は、ここ数日の突き抜けるような青とは一転し、重くどんよりとした灰色に沈んでいた。
「ねぇ隼人、今日はこの後、雨が降るって予報だよ。練習、お休みにしたら?」
リビングで荷物をまとめる隼人に、莉奈が心配そうに声をかけた。
「いや、やれるだけやりたいんだ。天気が怪しくなったらすぐ帰ってくるから」
隼人はトレーニングシューズを履き、力強く答えた。
「行ってきます」という声と共にアパートを飛び出す。
その足取りは、昨日よりもさらに速く、力強い。左足の指先の麻痺を意識しつつも、新しい「目標」が彼を突き動かしていた。
いつもの上田城跡公園。
いつもの壁当てスペースへ辿り着くと、そこには先客がいた。
「……蓮司?」
そこに立っていたのは、いつもの不良じみた服装ではなく、動きやすそうな黒のジャージに身を包んだ蓮司だった。
「遅ぇよ、隼人。アップはもう済ませた。さっさと始めろ」
ぶっきらぼうに言い放つ蓮司。
けれど、その準備万端な姿からは、彼がいかに今日という日を心待ちにしていたかが透けて見えた。
(……練習仲間が、できたんだ)
その事実が、隼人の胸を熱く焦がす。
ただの「リハビリ」だった孤独な時間が、今、明確に「野球」へと昇華された瞬間だった。
「蓮司、ありがとう。……本当、すごい嬉しいよ」
「っ、そんなんいいから、早くやれっての!」
照れ隠しに声を荒らげる蓮司の耳が、少しだけ赤くなっている。
隼人はその不器用な優しさに微笑みながら、入念にストレッチを始めた。
「……手伝おうか?」
蓮司がボソッと呟く。
その言葉には、隼人の怪我を、そして麻痺の残る身体を気遣う繊細な響きがあった。
「大丈夫だよ、ありがとう」
その気遣いだけで十分だった。
身体を解し、ゆっくりとしたペースでランニングを行う。
土を蹴る感触が、昨日よりも鮮明に脳に伝わってくる。
「――キャッチボールするか」
ランニングを終え、呼吸を整えていた隼人の前に、蓮司が歩み寄ってきた。
その左手には、使い込まれ、美しく手入れされたキャッチャーミットが握られていた。
ステータスで見た通りの『捕手:S』。
それが単なる数値ではなく、長年積み重ねてきた努力の結晶であることを、そのミットの艶が証明していた。
「良いミットだね。……ずっと、手入れしてたんだろ?」
「……癖みたいなもんだ。軽くでいい、気をつけろよ」
蓮司が少し距離を取り、腰を下ろさずに構える。
隼人はまだ足を高く上げるフォームは使わず、立ち投げの状態で右腕を振った。
シュッ――スパンッ!!
静かな公園の空気を切り裂き、乾いた音が蓮司のミットに吸い込まれる。
「……ナイスボール」
蓮司が小さく、けれど重みのある声で呟いた。
「隼人、お前、こっちの球は捕れるのか?」
「……いや、グローブがうまく閉じられないんだ。手入れはしてるけど、まだ硬いし柔らかくしボールも受けてないし、指に麻痺があるから……」
正直に打ち明ける隼人に、蓮司は鼻で笑って見せた。
「なら、初心者みたいだけどよ、両手で捕ればいいじゃん。慣れるまではそれで凌いで、グローブが柔らかくなれば、指3本でも抑えられるようになるだろ」
そう言うと、蓮司は優しく、山なりのボールを投げ返した。
隼人は言われた通り、左手のグローブにボールが入る瞬間に、右手を添えて包み込んだ。
バフッ。
「……本当だ。捕れる。……なんで、思いつかなかったんだろう」
「慣れちまうと、そんなもんだ。片手で捕るのが当たり前になっちまってたからな」
蓮司はパンッ、と右手の拳をミットに叩きつけた。
「……俺のミットも、今のままじゃ小さすぎる。新しいの、買うかな」
「えっ! だったら、一緒に見に行こうよ!」
「……ああ、そうだな」
2人の間に、野球人としての自然な会話が流れる。
しばらくキャッチボールを続けていたが、ふいに蓮司がボールを握り直したまま、足を止めた。
「……お前、俺が野球を辞めた理由……聞かないのか?」
その問いに、隼人は迷うことなく首を振った。
「聞かないよ。蓮司には、蓮司の理由があったんだろ?」
「……俺は、お前に色々と聞いちまったんだけどな」
蓮司の表情が、一瞬だけ曇る。
後悔と、申し訳なさが入り混じったような、暗い影。
「蓮司が話せる時に、話してくれたらいいよ。俺は気長に待ってるから」
隼人がニコッと笑って答えると、蓮司は一瞬だけ目を見開き、それから小さく「……ありがとな」と呟いた。
その瞬間、2人の心の距離が、また一歩近づいたのを感じた。
「……よし、どうする? そろそろ座るか?」
蓮司の言葉に、隼人の背筋が伸びる。
キャッチャーを座らせて投げる。
それは、最後の練習以来だった。
マウンドからホームベースまでの距離、18.44メートル。
蓮司はそれよりも短い距離で、どっしりと腰を据えた。
「ほい、いいぞ! 来い!」
隼人は集中を高める。
転ばないための体重移動、そして踏み込みの強さ。
壁当てではセットポジションを意識していたが、蓮司のミットを見つめると、身体が自然とワインドアップの形をとっていた。
右腕をスッと上げ、大きく胸を張る。
左足を高く上げ、一点に力を溜める。
そこから、解放するように左足を踏み込んだ。
可動域を最大限に活かした右腕が、ムチのようにしなる。
スパンッ!!!
ミットの芯に収まる、気持ちのいい音が響き渡った。
「いいねぇ。その足でこれなら上出来だろ。……っていうか、マジで橘選手にそっくりだな。元サウスポーとか、言われなきゃ信じられねぇよ」
蓮司がミットからボールを取り出し、感心したように溜息をついた。
「……父さんのトレーニングメニューに、左右でシャドウとスローイングをするのがあったんだ。それをずっと、日課にしてたから」
「なるほどな……」
納得したように頷く蓮司。
その後、何球か続けていたが、空の厚い雲がさらに低く、黒く立ち込めてきた。
「蓮司、雨が降りそうだ。今日はここまでにしよう」
「それがいいな。明日はここも泥でぐちゃぐちゃだろうから、次は明後日か」
道具を片付け始めた蓮司を見て、隼人はふと思いついたことを口にした。
「あ、蓮司、今日この後、時間ある?」
「おう、あるからここに来たんだろ。どうした?」
「……うちに、来ない? 父さんのグッズとか、蓮司が見たことないようなものも、たぶんあると思うんだ」
「えっ、いいのか!? ……いや、でも、いいわ。俺みたいのが行ったら、お前の母ちゃんも迷惑だろ……」
一瞬だけ目を輝かせた蓮司だったが、すぐに自分の容姿に触れ、卑下するように表情を曇らせた。
「何言ってんだよ。友達だろ? それに、父さんのファンだって言ったら、お母さん、絶対に喜ぶよ。……だから、行こう?」
隼人の真っ直ぐな言葉に、蓮司は言葉を詰まらせた。
「……あ、ありがとな。……わかった、お邪魔するわ」
蓮司の顔に、いつもの不良のそれではない、年相応の少年の笑顔が戻った。
………
2人は並んで歩き始めた。
アパートへ向かう道すがら、話題は上田市の暮らしや学校のことへと移っていく。
「田舎だけどよ、意外と何でも揃ってんだぞ、上田は。ドンピもあるし、イヨンも、他にもデカいスーパーがいくつもある。飯も美味いしな」
蓮司が地元愛を滲ませながら教える。
隼人はそれを聞きながら、未来の自分たちを想像した。
「……これから、蓮司とか、他にも友達ができたら……みんなで行けたらいいな」
野球漬けの毎日と、その後の長い入院生活。隼人には、そういった「普通の放課後」の経験が圧倒的に欠落していた。
その言葉を聞いた蓮司は、ぶっきらぼうながらも力強く答えた。
「『いいな』じゃねぇよ。……やるんだよ。行くんだよ、みんなで」
出会ってからまだ3日。
けれど、蓮司の内に秘めた熱さと優しさに、隼人は心を許していた。
「……ありがとう」
笑顔で蓮司の肩に手を置くと、蓮司は「おう」とだけ短く返し、照れくさそうに前を向いた。
やがて、2人は隼人の住むアパートに到着した。
玄関の前で、蓮司が少しだけ緊張した面持ちで立ち止まる。
「……本当に、いいんだよな?」
「当たり前だろ!」
隼人は勢いよくドアを開けた。
「ただいま!」
「おかえり! やっぱり天気が怪しくなってきたね、間に合ってよかった……」
キッチンの奥から莉奈が顔を出す。
「お母さん、今日、友達を連れてきたんだけど、上がってもらってもいいよね?」
莉奈の動きが止まった。
上田に来て、まだ1週間も経っていない。
その息子が、もう「友達」を家に連れてきた。その驚きと喜びが、彼女の表情を明るくさせる。
「ほら、入ってよ! 蓮司!」
「……し、失礼します……!」
隼人の後ろから現れたのは、隼人と同等か、それ以上にがっしりとした体格の少年だった。
黒髪をサイドで短く刈り込んだフェードカットに、鋭い眼光。
一見すれば不良に見える強面の風貌。
けれど、莉奈は一瞬だけ驚いたものの、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「いらっしゃい! 隼人と友達になってくれて、本当にありがとう。隼人の母です」
「……あ、お、お邪魔します……」
緊張でカチコチになっている蓮司を、莉奈は温かく迎え入れた。
「さぁ上がって! 隼人、早くお部屋に案内してあげて」
隼人に促され、蓮司はどこか申し訳なさそうに、けれど好奇心を隠せない様子で隼人の自室へと足を踏み入れた。
その背中を、莉奈は優しい眼差しで見つめていた。
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