野球少年
ゆるゆると書いてます。
変なところがあれば都度ストーリーに関わらない程度に直しております。
翌日。
アパートの玄関で、隼人は新調したばかりの真っさらなジャージに袖を通す。
足元には、昨日祖父が「再起祝い」として買ってくれたトレーニングシューズ。
その白さが、今の隼人の決意を象徴しているようだった。
ジャージの裾に隠れた左足首には、スポーツメーカー『IZUMO』の宮澤さんから贈られた、サポーターが巻かれている。
隼人はバットケースを肩にかけ、グローブケースの中身を確認した。
手首用のサポーター、使い慣れたバッティンググローブ、そしてあの漆黒の『IZUMO』のグローブと、ボールが1球。
準備を整え、隼人は再び上田城跡公園へと向かった。
公園に到着した隼人は、まず芝生の上で入念なストレッチを始めた。
長い入院生活は、思っている以上に体を硬くさせている。
筋肉の一つひとつに語りかけるように、ゆっくりと時間をかけて解していく。
体が十分に温まったのを確認してから、次はランニングに移った。
「……ふぅ、落ち着け」
早歩き程度の、ゆっくりとしたペース。
それでも、左足の親指と人差し指に麻痺があるという事実は、一歩ごとに隼人のバランスを揺さぶる。
気を抜けば、今にも地面に膝をついてしまいそうな違和感。
それでも隼人はやめなかった。
砂利を噛む感触、足裏に伝わる衝撃を一つひとつ確かめるように、じっくりと、確実に、前へと進んだ。
今日の目的は、投球だけではない。
昨日、祖父に買ってもらったあの新しい軟式用バットを、どうしても振りたかったのだ。
隼人は壁当て用のスペースの隅で、両手にバッティンググローブをはめた。
さらにその上から、宮澤から預かっていた左手首用のサポーターを装着する。
これはインパクト時の強烈な衝撃を緩和し、スイングの際に手首が余計に「こねる」のを防ぐ効果があるものだ。
さらに、しっかりとインパクト時に力を伝えてくれる効果まである。
左手の指先に麻痺がある隼人にとって、この「押し手」のハンディをどう補うかは大きな課題だった。
このサポーターがあれば、物理的なサポートを得ながらスイングを安定させることができる。
バットケースから、金属特有の鈍い光を放つバットを取り出す。
「……よし」
ブンッ!
空を切る音が、静かな公園に響く。
やはり、左手の握力の弱さからくる違和感は拭えない。
だが、振れる。
サポーターが手首をがっしりと固定してくれているおかげで、スイングの軌道が大きくブレることはなかった。
問題があるとすれば、足だった。
事故前の隼人の打撃フォームは、大きく右足を上げてタイミングを取る、ダイナミックなスタイルだった。
だが、そのフォームでは、足を上げている間、ハンディのある左足1本で全体重を支えなければならない。
入院中から何度もイメージトレーニングを繰り返してきたが、現実の肉体は残酷だった。
片足立ちになった瞬間、左足の指先が地面を掴みきれず、軸がグラグラと揺れる。
(……やっぱり、これじゃダメだ)
そこで隼人が導き出した答えが、「すり足」へのフォーム改造だった。
軸がブレるなら、最初から両足を地面に密着させ、バランスを分散させればいい。重心を低く保ち、最小限の体重移動でボールを捉える。
身体に新しいリズムを刻み込ませるように、隼人は何度も、何度もバットを振り抜いた。
「おい」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには一昨日のあの不良少年が立っていた。
ポケットに手を突っ込み、少し意外そうな顔をして隼人を見ている。
「お前、昨日は来なかったな」
「……あぁ。昨日はちょっと、道具を買いに行ってたんだ」
隼人はそう言って、手元にある新しいバットに視線を送った。
「ふーん。ちょっと振ってみろよ」
「えっ……なんでだよ」
「いいから! 黙って振れよ」
強引な少年の言葉に、隼人は「はいはい」と苦笑しながら応じた。
改めてセットアップ。
右手のグリップを強めに意識し、低く構える。
すり足でタイミングを測り、一気に腰を回した。
ブンッ!!
鋭い風切り音が周囲の空気を震わせる。
それを見た少年――蓮司は、鋭い眼差しで隼人のスイングを凝視していた。
「……インパクトのポイントで、微妙にブレるのな。お前、リハビリって言ってたけど、本当は何なんだ? どこをケガしたんだよ」
隼人は、この少年がなぜこれほどまでに自分を観察してくるのか不思議に思った。
だが、その瞳に宿る熱は、単なる冷やかしではないことを物語っている。
隼人はスイングの動作を止めずに、淡々と答えた。
「左手と左足の、親指と人差し指の麻痺だよ。まあ、軽度だから全く動かないわけじゃない。ただ、いざという時に力が入りにくかったり、動作がワンテンポ遅れるような感覚があるんだ」
ブンッ! ブンッ!
何度もバットが空を切り、規則正しい音が響き渡る。
すると、蓮司がふいに手を差し出してきた。
「……ちょっと、そのバット貸してくれ」
「えっ……あぁ、いいけど」
持ち逃げされたら追いかけられないな、という不安が一瞬よぎったが、隼人は直感的にこの少年を信じてみようと思った。
「へぇ、いいバットじゃんか」
蓮司は手渡されたバットの重さを確かめると、ゆっくりとバッターボックスを想定した位置に構えた。
(……えっ?)
隼人の目が見開かれる。
蓮司の構えは、ただの不良のそれとは明らかに違っていた。
トップの位置が高く、グリップと胸の距離が絶妙に保たれている。
脇がしっかりと締まり、懐が深く、どんな球にも対応できそうな圧倒的な威圧感。
それは、間違いなく好打者のフォームだった。
ヴォンッ!!!
スイングの音が、隼人のものとは根本的に違った。
大気を引き裂くような、重く、鋭い破壊音。
隼人の脳内に、一瞬でイメージが浮かび上がる。
マウンドに立つ俺。
そして、打席に立つこの不良少年。
対峙した瞬間、どう抑えればいいのか分からない。
どこに投げても、最後にはボールをスタンドまで運ばれてしまうような――圧倒的な敗北の予感。
「……ねぇ、ちょっと時間ある?」
隼人は思わず、バットを返してくれた蓮司に問いかけていた。
「あるから、こんなところをぶらついてんだろ」
「よかったら、少し話さないかな。俺、本当に引っ越してきたばかりで、まだ知り合いが1人もいなくてさ」
蓮司は少し意外そうな顔をして隼人を見たが、やがてフイッと顔を背けて呟いた。
「……まあ、いいよ。少しだけな」
………
2人は広場の隅にあるベンチに腰を下ろした。
木漏れ日が揺れる中、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばよ……お前の投げ方、誰かに似てんだよな。ずっとモヤモヤしてたんだけど、誰か参考にしてる奴がいんのか?」
その問いに、隼人は隠すことなく答えた。
「元ファルコンズの、橘だよ」
「ああ! やっぱりな! 橘誠一郎だろ!」
蓮司の顔が、一瞬でパッと明るくなった。
パズルが完成した時の子供のような、純粋な笑顔。
隼人は「なんだ、こいつ……こんな顔で笑うのか」と、自分まで少し毒気を抜かれたような気分になった。
蓮司はポケットからタバコを取り出し、火をつけようとした。
だが、ライターを構えたところで隼人の姿が目に入り、ふと手を止める。
「……やめた。スポーツ少年が目の前にいるからな」
そう言って、蓮司はタバコをポケットに戻した。
「俺もよ、実は小学校までは本気で野球をやってたんだわ。全国大会にも出たことがあるんだよ」
「えっ? 全国大会……。もしかして、東京新宿フィールドで行われた、あの大会?」
「おお、お前も知ってんのか。俺は『上田ファイターズ』っていうチームにいたんだ」
隼人の記憶が呼び覚起される。
上田ファイターズ。確か、あの年のベスト8まで残っていた強豪チームだ。
「今はこんなんだけどよ……今でも野球は好きだし、ファルコンズのファンだったからな。お前が参考にしてる橘選手も、めちゃくちゃ好きだったんだわ」
「……そっか。そうなんだね」
「そういえば、まだ名前を言ってなかったな。俺は、櫻井蓮司だ。好きに呼んでくれ」
「俺は……」
隼人は、自分の名前を口にするのを一瞬ためらった。
その沈黙を不審に思ったのか、蓮司が真っ直ぐに隼人の瞳を覗き込んできた。
「なんだよ。俺だけ名乗らせて、お前は言えねぇのか?」
その純粋な眼差しに、隼人は逃げ隠れするのが申し訳ない気持ちになった。
「……橘、隼人だよ」
「橘? ああ、だから同じ苗字の橘選手の真似をしてんのか。でもよ、橘選手はサウスポーだったろ。お前は右投げだし……」
蓮司はそこまで言いかけて、先ほど隼人が話していた「麻痺」のことを思い出した。
「……もしかして、そのケガのせいか?」
「うん。俺は元々、サウスポーだったんだ。……それから、橘誠一郎は、俺の父さんなんだ」
蓮司の目が見開かれた。その衝撃は、先ほどのスイング音よりも大きく、彼を震わせたようだった。
「橘選手って……あの事故で亡くなった……。待て、お前、もしかしてあの『瀬田ドリームス』の橘隼人か!?」
「……よくわかったね」
隼人が苦笑いしながら答えると、蓮司はベンチから立ち上がらんばかりの勢いで叫んだ。
「当たり前だろ!! あの大会の優勝チームのエースで、MVPだぞ! 野球やってた奴なら、知らねぇはずがねぇ!」
一気にまくし立てた蓮司だったが、すぐにハッとしたように表情を曇らせた。
事故のニュース、亡くなった誠一郎のこと、そして行方不明同然だったエースのその後。
すべての点と線が、目の前の少年の「麻痺」という現実と繋がった。
「……悪かったな。色々と。知らなかったとは言え、きついこと言っちまった」
蓮司が珍しく、バツが悪そうに視線を逸らした。
隼人はその意外な素直さに、少し驚いた。
ただの荒っぽい不良だと思っていたが、根っこの部分は、かつて白球を追っていた頃のままなのだ。
「いいんだよ、本当に。ただの不良かと思ってたけど、父さんのことを好きだって言ってくれて、すごく嬉しかった。ありがとう、櫻井くん」
「……蓮司でいいよ、隼人。ったく、お前みたいな奴がここにいんのかよ……」
蓮司はそう呟くと、自嘲気味に笑った。
「俺も……もう1回、やってみっかなぁ」
「えっ?」
「いや、なんでもねぇ。隼人、来週から学校に行くって言ってたよな? それまではどうすんだ?」
「毎日、ここでリハビリとトレーニングをしてると思う。あとは、1年以上も学校に行けてなかったから、家で猛勉強かな」
「そっか。……わかった。邪魔して悪かったな、そろそろ行くわ」
「うん、またね。蓮司」
「おう」と短く応じ、蓮司は背を向けて歩き出した。
その途中、彼は公園の入り口近くにあるゴミ箱の前で立ち止まった。
そして、迷うことなくポケットからタバコの箱とライターを取り出し、そのままゴミ箱の中へと投げ捨てた。
その広い背中を、隼人は静かに見送っていた。
言葉には出さなかったが、隼人は確かな予感を感じていた。
止まっていた歯車が、この地で、大きな音を立てて回り始めたような――そんな予感を。
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