【28 】MOTHER
「佐藤渚くん」
「はい」
自分の名前を呼ばれたのがわかったのだろう。
篤子が返事をすると同時に渚はおぼつかない足でトタトタ、と呼ばれた方へ歩き出した。
「待って。渚」
椅子に置いていた大きなバッグを掴んだ篤子が慌てて後を追いかける。
後ろからひょい、と抱き上げると渚は放してほしそうにジタバタした。
「なにか心配ごとはありますか?」
一歳児検診でジタバタしている渚を膝に乗せた篤子が言葉が遅いことを相談した。
「まだちゃんとした言葉を話さないんです。
あー、とか、うー、とかは言うんですけど」
「耳はちゃんと聞こえてますので様子を見ましょう。
遅い子は本当に遅いのであまり気にしないように」
初めての育児なので、気になることを調べてはさらに心配になる。
枝折は大丈夫よ、としか言わない。
そう言われると篤子も考えすぎかな、と思うのだが、こうして検診で気にしないように、と言われると安心した。
「さて。帰ろうか」
ベビーカーに無理やり乗せると渚は諦めたのかすぐにぐーぐーと眠り始める。
一歳になった渚はますます枝折にそっくりになっていた。
“コナが南風、四季が四つの季節でしょ。
南風が吹く季節は夏よね。だから夏っぽい名前にしたのよ”
センスのない枝折にしてはいい名前だ。
自分たち両親をさておき、コナと四季から考えたところも枝折らしい。
渚を保育所に預けることも考えた。
しかしこんなに可愛い時期は一瞬で過ぎ去る。
枝折と篤子は話し合って、枝折が休みの日にだけ、篤子は店に顔を出すことにした。
歌舞伎町のホストクラブには店長を置き、篤子がしていた経理のことは四季に任せていた。
銀座のクラブにもママを置いて店を任せることにした。
枝折は今のところ落ち着いていたが、無理をしないようにbranchは週休二日にして営業していた。
枝折がいなくてもコナがひとりでなんとか回せるので、枝折ものんびり働けていた。
「準備は…これでOKね。後は、渚の支度ね」
明後日は篤子と枝折の高校の同級生、銀座の
寿司屋のオーナーの結婚パーティーだった。
結婚パーティーといっても呼ばれているのは
枝折、篤子、コナ、四季そして渚だけだった。
「私たち三人とも晩婚だわ」
店から帰ってきた枝折が起きてきた篤子と軽く食事をする。
枝折がそういうと篤子が笑った。
「おかしいわよね。三人ともモテてたのに」
「モテるヤツほど遅いのかもよ?」
渚はベッドですやすやと眠っている。
最近になって朝まで起きずに眠ってくれることがたまにあり、ほんの少しだが篤子もまとめて眠れるようになった。
「四季とコナにも、なんかお祝いしてあげたいわ」
四季とコナは一緒に暮らし始めていた。
branchの奥の部屋からコナが引っ越して篤子が所有するマンションで四季と共に生活をしていた。
お互いを励まし合い、支え合って暮らしている二人は籍を入れることは叶わなくても将来を誓いあった仲だ。
親である枝折と篤子は二人がこれからも一緒に歩んでくれることを心から喜んでいた。
「そうね。オーナーのパーティーが終わったら考えましょ」
「私、ひとついい案があるのよ」
枝折が頬杖をついて微笑む。篤子はそれがなんなのか全く見当がつかなかったが、楽しそうな枝折を見て楽しくなってきた。
「なあに?」
「branchをプレゼントしたい」
「…」
「今すぐってわけじゃないわ。四季がホストとして働けなくなってからでもいい。
コナと二人でbranchに立ってほしいのよ」
枝折が大切にしてきた店だ。客もたくさんついている。
枝折は、自分がいなくなった後もbranchをなくしたくないのだろう。
しかしそれは自分のためではなく、コナと四季の居場所として、だった。
「いいプレゼントね」
「ありがとう」
枝折の命を繋ぐ。それは渚だけではなく、枝折が大切にしてきたbranchをなくさないということだ。
継いでくれる子がいることが枝折にとって幸せだった。
パーティー会場は寿司屋の近くの可愛いレストランだった。
小さな店を貸し切って行われた結婚パーティー。
新郎新婦もみんなと同じ席で食事をした。
「可愛い店ね。あんたに似合わないけど素敵」
「ひとこと多いんだよ篤子は」
「お嫁さんのリクエストでしょ?
それぐらいわかるわ。何年の付き合いだと思ってるのよ。ね?せりなちゃん」
枝折がそう言うとせりなが恥ずかしそうに笑った。
せりなが寿司屋で働き始めて一年半が過ぎた。
オーナーがせりなに好意を持っていることは
枝折と篤子にはわかっていたのだが、なかなか進まずにヤキモキしていた。
なんとか付き合い始めた時は胸を撫で下ろしたものだ。
そんなオーナーが先月やっとせりなにプロポーズしたのだった。
「ホント、可愛いお店」
「料理もおいしいね」
コナがベビーチェアに座っている渚にスプーンで食べさせる。口を縦に開けている渚がエサを待つひな鳥に見えてみんなで笑った。
「ねえ。せりなちゃんはもう四季のことはいいの?」
「いえ、」
「え?いえ、って、え?え?」
オーナーが持っていたフォークを落とす。
カチャン、と皿にぶつかってしまった。
「動揺し過ぎ。落ち着け」
「いやでも、」
「四季は、アイドルみたいな感じかな。
推し!」
「うわーうれしい。せりなちゃんありがとう」
篤子のおかげで、せりなは今も毎月借金を返している。
結婚が決まった時、オーナーが借金を全額返すと言ったのをせりなは断った。
辛いことや苦しいことを乗り越えて人は大きくなる。
置いてきた過去を振り返って成長する。
人の暖かさに触れて、せりなも成長した。
オーナーの愛に包まれて、これからも成長していくだろう。
貸し切った店が用意してくれたウェディング
ケーキ。
真っ白で大きな丸いケーキにオーナーとせりなが二人でナイフを入れる。
ケーキを触りたくてぐずり出した渚を、枝折が抱っこした。
「渚。いい子ね。後でお腹いっぱい食べさせてあげるからもう少し待ってね」
枝折がゆらゆらと渚を揺らす。眠くなってきた渚は枝折の髪を触りながら目を閉じた。
結婚式が終わり、branchに戻ってきた。
枝折が淹れた温かいお茶を飲んで篤子もコナも四季もホッとひと息ついた。
「素敵なパーティーだったね」
「お似合いだな」
四季とコナはさっき撮った写真を見返して微笑む。
お腹いっぱいになった渚はベビーカーの中で眠っていた。
「篤子とも話してたんだけど、四季とコナも
お祝いしたいのよ」
「俺ら?」
携帯をポケットに入れた四季が驚いた顔をする。
隣に座っているコナも同じ表情をしていた。
「あなたたちは結婚はできないけど、一緒に生きていくと誓ったんなら同じことでしょ」
「俺はコナしかいないから」
篤子に連れてきてもらったこの店で四季は初めてコナに出会った。
なまりが可愛くて素直な人だと思った。
兄弟かもしれないとわかった時は本当に苦しくて、同時にコナに対する想いに気付かされた。
「俺もだよ」
四季はいつもそばにいてくれた。枝折のことで苦しかった日々も四季がいてくれたからがんばれた。
そして四季の力になりたいと思った。
人と支えて、支え合いたいと思えたのは四季が初めてだった。
「あなたたちは本当にいい子よ。
私も枝折もあなたたちに出会えて親になれたこと、誇りに思ってるわ」
「俺たちも篤子さんと枝折さんが大好きだよ」
四人並んだカウンターで、顔を見合わせて微笑む。
血は繋がらないが、そんなことは大切なことではない。
それはここにいる四人が一番わかっていた。
「四季。コナ。あなたたちにここ、branchを任せたいの」
「でも枝折さん、」
「わかってるわよ。今すぐじゃなくて、たとえば四季がホストを上がってからとか、ね」
コナは複雑な心境だった。枝折とずっと一緒にやっていきたいと願っていたからだ。
しかしそれは現実的に難しい。
枝折が病気うんぬんよりも年齢が自分よりも20歳上だということだ。
いずれはそうなる。四季はどう思っているのかわからないが将来は自分が継ぐことになるのをコナは悟った。
それならば枝折が辞めたからといってbranchを閉めることにならないようにしなくては。
枝折の愛したbranchを継続させていかなければ、ということに気づいた。
「四季」
「うん」
四季も同じことを考えていたのだろう。コナの目を見て力強く頷いた。
「ありがとう枝折さん。
俺、自信ないけどありがたく受け取るよ」
「ありがとうコナ」
「俺は枝折さんが引退したらその時ここで働かせてもらう。
だから枝折さん。できるだけ長くここにいてね」
「四季。ありがとう」
これでbranchは自分がいなくなっても消えない。
枝折はやはり自分のことよりも、コナの居場所を残してやりたいという思いの方が強かった。
落ち着いた内装にしたのは、客が家のように楽に過ごせるように。
遅い時間まで開けているのは、夜の仕事をしている人が帰りに寄って疲れを癒せるように。
願いや思いを込めて作ったこの場所。
コナにとっても我が家のようなものなのだ。
「ここに来られて…本当に良かった」
山形からたった一人であてもなく出てきた
東京。
いくつかあった住み込みのバイトの中からコナがbranchを選んだのは縁だったのだ。
「これからもよろしくね。枝折さん」
「こちらこそ。
コナと四季がbranchを受け取ると言ったことに安心した枝折と篤子は優しい笑みを浮かべる。
そして枝折は愛おしい店をゆっくりと見回した。
「枝折さん。来たよー」
一面にコスモスが咲き乱れている丘。
遠くに海が見える。
コスモスたちが秋の柔らかい日差しに光りながら揺れていた。
「篤子さん。これ枝折さんにあげてもいい?」
「いいわよ。渚からならなんでも喜ぶわ」
渚が家で作ったクッキーをバッグから取り出す。
可愛い小袋に入ったクッキーを枝折の墓の前に置いた。
「最近渚はお菓子作りにハマっててね。しかも上手なのよ。食べてやって」
篤子が渚の横にしゃがんで手を合わせて笑った。
枝折は45歳でこの世を去った。
渚が産まれてから5年間、闘病しながらbranchに出ていたが、とうとう力尽きた。
当時5歳だった渚は枝折を覚えている。
それだけが篤子にとって救いだった。
四季とコナが枝折さん、篤子さんと呼んでいたのを聞いて渚もそう呼んでいる。
11月なのに春のような暖かいこの日、10歳になった渚と篤子は枝折に会いに来ていた。
「枝折さん。渚ね、お菓子作る人になりたい」
「パティシエ?いいわねえ」
「…」
柔らかい風に乗って枝折の声が聞こえる。
篤子は空に向かって微笑んだ。
「篤子さーん。渚ー!」
「あっ!」
四季とコナが花を持って丘を登ってくるのを見つけた渚が走り出した。
「来ると思ってたわ」
「篤子さんこそ。枝折さんの命日だもんね」
渚と手を繋いでコナと四季が枝折の墓の前まできた。
花を墓に供えて手を合わせる。
四季が置いてある小さな可愛い袋を手に取った。
「それ渚が作ったんだ」
「マジ?めっちゃ上手」
「味もいいのよ。渚、四季とコナの分も持ってきてるんでしょ?」
渚がまたバッグから小さな袋を二つ取り出して四季とコナに渡した。
「はい。これ四季とコナに」
「ありがとう。すごいな渚」
「今枝折にも言ってたんだけど、渚、パティシエになりたいそうよ」
「パティシエ?いいねえ」
さっき聞こえた枝折の声と、コナが同じことを言った。
篤子は、やっぱり親子だと心の中でひとり笑った。
「じゃあさ、branchをお菓子とケーキの店にしちゃえばいいよ」
コナがそう言うと渚は枝折にそっくりな顔をぶんぶん、と横に振った。
「ダメ!branchは四季とコナのお店だもん」
バッ!と立ち上がった渚の腕に手を添えて、
四季が渚を見上げて微笑んだ。
「枝折さんから俺たちがもらったんだ。
俺たちが店をできなくなったら今度は渚がbranchでケーキ屋さんをやってよ」
32歳になっていた四季とコナは、branchの他に銀座でBARを二軒出していた。
普段はbranchにいるので、あくまで経営者として他店舗は
店長を置いて任せていた。
「渚が大人になる頃には俺らおっさんだしな」
「あら。四季とコナがおっさんなら私どうなるのよ」
四人の笑い声がコスモスのように揺れる。
その中に枝折の笑顔も混じっていた。
コナが墓の前でもう一度手を合わせる。
供えた花が南風のように暖かい風に吹かれていた。
「なんとか毎日お店に立ってるよ。
枝折さんのおかげ。
いつも見守ってくれてありがとう」
田舎から出てきたわけのわからない18歳の子を、住み込みさせてくれた枝折。
それからの12年間。コナは息子として枝折に大切にしてもらっている。
枝折がこの世を去ってから、今も。
「ありがとう…お母さん」
枝折の暖かい手のような日差しが、手を合わせたコナの頬をそっと撫でていった。
完




