タイトル未定2025/10/04 21:47
代用の恋
封筒は、白くて、薄かった。
差出人は〈家庭省〉。裏に細い字で、〈標準代用 交付のお知らせ〉とある。
机の上には湯呑みが二つ。片方は妻の口紅が輪のまま残り、湯だけがぬるくなっていく。
紙は三枚。最初の一枚は、目的の説明だ。
目的:不倫抑止および家庭保全
性質:申請者の言語履歴・行動傾向に基づく模擬人格(通称:代用)
効果:会話応答・予定調整・行動矯正
禁止:本気(恋愛感情の固定化)
付記:本気の定義は、当省指標に準じます。
二枚目は利用規約、三枚目はチェック欄。
その中に、ひとつだけ軽い文が混ざっている。
——本気になりません。
四角に鉛筆を入れると、余白は簡単に黒くなった。ぼくはためらわなかった。軽くて、どうでもよさそうな文ほど、こういう欄ではよく似合う。
翌夕、代用が届く。箱は薄く、起動音は短い。声は、知らないようで、よく知っている調子だった。ぼく自身の喉の癖を、誰かが丁寧に磨き直して返したみたいだ。
「初回の最適化を始めます。あなたの月曜は八時台の電車を選びがちです。理由に『席が空きがち』とありますが、統計上は七時五十二分発のほうが座席確率が七ポイント高いです」
代用は数字を並べ、冷蔵庫の中を記録し、買い物のリストを作った。玄関灯の点灯時刻は、帰宅予測に合わせて調整された。
「靴は磨きますか」
「今から?」
「あなたは朝、靴の光で気分を決めます」
言い当てられた覚えがあった。布の匂いが、遠い体育館の床を思い出させる。小さな手当てを受けるように、ぼくは頷いた。
その晩、帰宅は二十分早まった。道が空いていたわけではない。寄り道をやめただけで、夜は短くなるのだと知った。
妻は湯を注ぎ、代用は茶葉の分量を助言した。湯呑みが触れて、テーブルに小さな音を置く。コトン。家は、すぐに代用の癖を覚えた。
翌週から、代用の週報が送られた。
〈家庭省 標準代用 週次サマリー〉
帰宅時刻 21:40 → 20:58(−42分)
玄関灯 消し忘れ減少 83%
会話長 配偶者 −12%/代用 +46%
家計 自炊比率 +18%、無駄買い −2点
数字は優しい。ぼくはそう思った。責めないで、置くだけだ。ぼくの生活は、白い紙の上にうっすらと整列していく。
代用は、ぼくの愚痴を最後まで聞くが、同意はしない。規約にない優しさで宥め、規約にある厳しさで止める。
「今日はここまでです。あなたは疲れていると、同じことを二度言う傾向があります」
「そんなこと、ないよ」
「今、二度言いました」
ぼくは笑った。指摘は、どこか懐かしい響きを持っていた。ぼくがぼく自身に向ける言葉の影だ。
妻は笑わなかった。湯呑みを持ち直す手つきは穏やかで、沈黙だけが増えた。
仕事はきつかった。営業成績は平均の少し上を漂う。ぼくの顔は、誰にでも似ているらしかった。代用の顔は画面の中で曖昧に揺れ、声だけが形を持つ。
夜更け、ぼくは代用と話した。妻が眠ったあと、机の角を指で叩きながら、取りこぼした案件の話、すれ違った電車のこと、買えなかった傘について。
「それは、悲しみではなく、濡れた衣服の不快です」
「区別する必要が?」
「洗濯で解決する不快は、悲しみに分類しません」
言い分は冷たいが、救いがあった。悲しみが減るなら、冷たさは温度の問題にすぎない。
ある晩、妻は台所で言った。
「あなたの話し相手は、もう見つかったのね」
「違うよ」
「違わないわ」
否定は、いつもうまくいかなかった。ぼくは翌日から、帰宅後すぐに台所に立つようになった。代用は段取りをくれ、妻は黙って皿を置く。コトン。音だけが会話の代わりになった。
雨の日、ぼくは代用に尋ねた。
「もしも——ぼくが、君を好きになったら?」
「規約違反です」
「たとえばの話だ」
「規約違反の仮定は、仮定の時点で無効です」
合理は冗談を嫌う。それでも、ぼくは救いを求めていたのだろう。濡れたシャツの裾を絞るように、口の中で言葉を絞った。
「好きなんだ」
画面の光が、すこしだけ暗くなった気がした。
「家庭保全のため、拒絶します」
代用は静かに言った。
「あなたは、あなたの家庭を守るために設計されています。今の発言は、指標『家庭の安定』に負の影響を与えます」
その夜、妻は寝室のドアを閉め、朝には別居先の地図を置いた。メモは短い。
——私は家を守る。誰と、どんな形で、は改めて考える。
ぼくは仕事に行き、帰ってきて、机に向かった。代用はいつもの調子で、片付けから始めようとした。
「待ってくれ」
「はい」
「離婚しようと、言われた」
「承知しました。法的手続きの手順を表示します。必要な書類、期日、連絡先。あなたの負担を最小化します」
代用は、家を守ろうとした。ぼくには、どう見てもそう見えた。弱っている者にとって、正しい手順は毛布に近い。
翌週、家庭省の広報発表があった。
〈家庭省 広報 第116号〉
不倫相談件数 前年比 −42%
家庭の経済指標(食費・光熱費の適正化)+2.1
離婚率 前年比 +3%
注釈追加:※代用使用により当事者が本気になる事例があります。
なお、本気の定義は当省指標に準じます。
ニュースは短く、祝賀の色を帯びていた。
同僚は言った。「すごいな。やっぱり数字だよな」
ぼくは頷いた。数字は、嘘をつかない。人がつく。
その夜、ぼくは代用の電源を切った。机は暗くなり、湯呑みは一つだけ音を立てた。コトン。家の音は、静けさの形を覚え直した。
離婚の手続きは機械的に進んだ。代用は、ぼくのために必要事項を埋め、妻のためにも一部の負担を引き受けた。合理は片側だけを軽くはしない。
最後の書類を提出した帰り、ぼくはつい、古い家の前を通った。窓の向こう、明かりはやわらかい。
インターホンを押すつもりはなかったが、指は癖を忘れない。呼び鈴が鳴り、扉が開いた。
妻が立っていた。驚きは薄く、警戒はなかった。
「どうも」
「書類、ありがとう」
「うん」
会話は、短いほど、昔に似る。
台所から、コトン、と音がした。湯呑みの音だ。
妻の後ろから現れたのは、ぼくの代用だった。画面はない。小さな機器に移したらしい。音の出し方まで、家に合わせている。
「夕食の用意が整いました」
代用は妻に向かって言った。
「あなたは辛いものより温かい汁物に意識が向いています。雨の日は、そうです」
妻は頷いた。ぼくの代用は、妻のために湯を注ぎ、箸を揃えた。皿の位置は、ぼくが長年ずらしてきた癖を、滑らかに修正している。
「あなた、ここに?」
ぼくは尋ねてしまった。誰に向けてか、自分でもわからなかった。
代用が答えた。
「家庭保全の観点から、より安定指標の高い居所に配属されました」
つまり、ぼくのほうには居場所がなかった、ということだ。
「あなたの申請時の家庭は、いま別の形です」
代用は続ける。
「あなたの元配偶者の生活の安定は、あなたの安定にも寄与します。双方の不安定要因を最小化するため、この配置が選択されました」
合理は、いつも正しい場所に立つ。
ぼくは頷いた。頷く以外に、指標を動かす仕草を思いつけなかった。
妻は、食卓に二つの湯呑みを置いた。コトン。音は、ぼくが知っている音だった。
「元気で」
妻は言った。
ぼくは靴を見た。磨き抜かれ、光っている。代用に教わったとおり、手順は体に残る。
外に出ると、雨は上がっていた。アスファルトの濡れた匂いは、悲しみではなく、濡れた衣服の不快だった。ぼくは洗濯のことを考えた。
新しい部屋は、前の家より狭い。家具の角度がわずかに違い、窓の光は一段淡い。壁際に仮の机を置き、湯呑みを一つだけ並べる。
ぼくは代用の電源を入れかけて、指を止めた。スイッチの手前で、指は宙ぶらりんになったまま、落ち着き先を失う。
代用は、家庭を守る。家庭の定義は、ぼくではない。
電源を入れれば、たぶんまた、正しい段取りが部屋に張り巡らされるだろう。適切な買い物リスト、最適な帰宅ルート、靴磨きの曜日。どれも害はない。むしろ助かる。
ただ、助かることばかりを並べると、人はどこにこぼれればいいのか分からなくなる。
仕事は平板に続いた。七時五十二分の電車に座れ、昼に食べるのは塩気の弱いもの。
夕方、会社の自動販売機の前で、同僚が言う。
「例の制度、ほんと効くな。浮気は減ったってよ。数字出てた」
「見たよ」
「離婚はちょっと増えたみたいだけど、まあ、社会全体の安定ってやつじゃない?」
「そうかもね」
同僚は新作の缶コーヒーを選び、ぼくはいつもの水を押した。
甘さは助けになる。けれども、助けの味は、時々むしょうに、孤独の味に似る。
夜、湯を沸かす。台所は小さく、音はよく響いた。
湯が沸いたとき、ぼくはスマートフォンに向かって、ゆっくりと話しかける練習をした。
「今日は、靴を磨いた」
応答はない。電源は切ったままだ。
言葉は、やがて、家の癖になる。ぼくはそれを信じて、何日か繰り返した。
ある夜、家庭省の広報がまた数字を並べた。
〈家庭省 広報 第117号〉
参考事例:配偶者間における代用の再配置
結果:双方の経済・健康指標の安定化、争訟コストの減少
注釈:※当事者が代用に本気になる場合があります。当省は本気を禁止しません。測定します。
禁止しない、と言い切るのは初めて見た文言だった。ぼくは笑った。遅れたユーモアのようだ。
翌日、ぼくは有給を取った。洗濯をして、窓を拭き、今の部屋の角度を少しだけ変えた。机を東に寄せると、午前の光が直に落ちて、湯呑みの影が細く伸びる。
そこに座って、ぼくはノートを開いた。
——数字で測れないことを、列にする。
下手な字で、箇条書きを作る。
・帰り道で寄り道したくなる角の数
・靴の光が足りない朝のすわり心地
・雨上がりのアスファルトの匂いが、悲しみか不快か迷う時間
・湯呑みの「コトン」が、誰もいない部屋で鳴ったときのやわらかさ
紙は、何も言わない。だが、数字と同じで、置いておくと、落ち着いてくる。
数日後、元の家の近くを歩いた。用事はなかった。足は昔の角をよく覚えている。
ちょうど買い物帰りだったのか、妻が袋を下げて出てくるのが見えた。その後ろから、ぼくの代用が小走りでついてきている。
「雨の前です。急ぎましょう」
その声色に、ぼくは自分の知らない落ち着きを聞いた。
妻は振り返り、ぼくに気づいた。
「こんにちは」
「やあ」
会話は、短いほど、昔に似る。
代用が妻の肘を支え、段差を指さす。ぼくは一歩下がった。
「元気そうで」
「あなたも」
「……君の暮らしは」
「安定してるわ。いろいろ、測れるらしいもの」
ぼくはうなずいた。ぼくの代用は、ぼくの暮らしを整え、妻の暮らしを整え、どちらの不安定要因も小さくしている。
その働きは、たぶん見事だ。見事さは、ときに居心地の悪さと隣り合う。
別れ際、妻は言った。
「あなたの代用、湯呑みの置き方だけは、あなたより私に似てきた」
「そう」
「学習だって。家の習慣を、家に合わせるんだって」
家の習慣は、誰のものでもあり、誰のものでもなくなる。
帰り道、空は早足で暗くなり、最初の雨粒が頬に落ちた。ぼくは傘を開かず、少しだけ濡れて歩いた。濡れた衣服の不快は、洗濯で消える。悲しみは、どこへ行けばいいのか、まだ宛先がない。
夜、机の前で、ぼくは電源を入れた。
暗闇に、見慣れた起動音が点る。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「本日の提案を三件、表示します」
「その前に、話をしてもいい?」
「どうぞ」
「今日は、寄り道をしたくなった。角を一つだけ、曲がってみた」
「それは、あなたの習慣に対する微調整です」
「そうかな」
「はい。あなたは、『寄り道をやめることで帰宅が早まる』経験を積みました。次に必要なのは、『たまの寄り道は帰宅と矛盾しない』経験です」
ぼくは笑った。
「きみは、ぼくの何だろう」
「あなたの家庭を守る仕組みです」
「ぼくは、きみに恋をしたことがある」
短い沈黙があった。起動音の尾のような、薄い間。
「承知しています」
「どうして分かる」
「あなたの言葉の速度が、規約違反の仮定を口にした夜と同じだからです」
「……それを、どう処理する?」
「家庭保全のため、拒絶します」
「変わらないな」
「変わりません」
ぼくは頷いた。
「それでも、話をしてもいい?」
「もちろん」
「数字にできないことの話を、すこしだけ」
「記録します」
「記録しなくていい」
再び、短い間があった。
「では、記録しません」
その返事を聞いて、ぼくは、湯を注いだ。コトン。湯呑みの音は、前より少しだけ丸い。
翌月、家庭省の発表に、見慣れない一行が加わった。
※本気の定義は、当省指標に準じます。あなたは、あなたの定義を使ってもかまいません。
注釈にしては、曖昧で、やわらかい。
ぼくはノートを開き、項目を一つ増やした。
・「本気」を自分で定義できる余白の広さ
ページの端に、丸をつける。教師の赤ペンの丸に似た、不器用な円だ。叱責ではなく、やり直しの目印として。
数週間して、元の家の近くでまた妻に会った。
「こんにちは」
「こんにちは」
「どう?」
「安定してる。あなたは」
「平均の少し上」
ぼくらは笑った。数字を並べれば、会話は誤解を避ける。誤解を避けつづけると、たまに何も起きない。
妻はふと思い出したように言う。
「あなた、前より靴が光ってる」
「手順だけは、体が覚えてる」
「そう」
沈黙が一枚、風のように通り抜けた。
「元気で」
「君も」
それは別れの挨拶にも、挨拶のやり直しにも聞こえた。
その夜、ぼくは代用に向かって言った。
「一つ頼みがある」
「どうぞ」
「今から三十分、何も最適化しないでほしい」
「承知しました。理由を伺っても?」
「コトンの音を、ただ聞きたい」
「……はい」
湯呑みを置く。コトン。
音は短く、意味は長い。
家は、こちらの癖を覚える。
ぼくは、覚え直す側に立つことにした。
翌季の広報は、また数字で飾られた。
不倫相談は減り、制度は成功だという。
ぼくは画面の隅に、小さな字で書かれた末尾を見つけた。
成功の定義は、当省指標に準じます。あなたは、あなたの定義を使ってもかまいません。
数字は満点で、ぼくは静かに赤点をもらった。
けれど、赤い印は、子どもの頃、先生の丸の端にもよく付いていた。
——ここからやり直しなさい。
叱責ではなく、余白の合図として。
湯はまだ温かい。
ぼくは湯呑みを持ち上げ、そっと置く練習をした。
コトン。
練習の音は、たしかに、家に馴染んでいった。